はじめに
近年、「松尾芭蕉は狐娘だったのではないか?」という説がSNSを中心に囁かれている。
これは、一見すると馬鹿馬鹿しい与太話に思える。否定することは容易い。
しかし、偶然にも松尾芭蕉と狐とを結びつけるものが複数見つかっていることはたいへん興味深い。
一つ、松尾芭蕉は『おくのほそ道』の旅の途中、那須の『殺生石』に立ち寄って、一句を詠んでいるということ。
一つ、松尾芭蕉が住んでいた『芭蕉庵』の跡地には、現在、芭蕉の名を冠した『稲荷神社』が実在しているということ。
一つ、松尾芭蕉が『月澄や 狐こはがる 児の供』『初午に 狐の剃りし 頭かな』といった、狐をテーマにした句を詠んでいるということ。
一つ、松尾芭蕉は狐娘ではなかった、と書かれた文献が存在しないこと。
以上のような事実を踏まえ、「松尾芭蕉が狐娘だった可能性もあるんじゃね?」などと考える不埒な輩が出てきても致し方ない。
もちろん、聡明な読者の皆さんは、冷静にこう考えるだろう。
「本当に松尾芭蕉が狐娘だったとすれば、狐娘の姿が描かれた肖像画の一つや二つ発見されていてもおかしくはない。それが無いということは、やはり松尾芭蕉は人間である」と。
そのとおりである。
私も松尾芭蕉が人間だったことは疑いようのない事実だと考えている。
ただ、敢えてここで、松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅の道中で殺生石に立ち寄った際に九尾の狐の力の一端に触れ「狐娘になってしまった」と仮定してみよう。
元人間であったのならば、狐娘になってしまった後も「せめて肖像画は人間の姿で描いてほしい」と希望したかもしれない。
写真や映像による記録がない以上、松尾芭蕉が『おくのほそ道』の旅の途中で狐娘にならなかったと証明することは難しいのである。
『おくのほそ道』は、元禄二年(一六八九年)三月二十七日から九月三日までの旅を元に書かれた紀行文であるが、推敲に推敲を重ねて執筆されており、大幅に脚色して書かれた部分もあるということが近年の研究で明らかになった。
松尾芭蕉は、なぜ旅先の出来事をありのままに書かなかったのか。
その旅で起きたことを、ありのままに書くことができない理由が何かあったのではないだろうか。
松尾芭蕉は、なぜ殺生石で詠んだ句を『おくのほそ道』本文に載せなかったのか。
載せたくない理由が何かあったのではないだろうか。
皆さんも「松尾芭蕉が狐娘になっている」と仮定して『おくのほそ道』の現代語訳を読んでみてほしい。
行間に、狐娘になった松尾芭蕉の様々な微笑ましいエピソードが浮かび上がってくることに気付くはずだ。
これから始まる物語は、フィクションであり、実在する人物名、作品名、地名とは一切関係がない怪文書である。真面目に読むことは推奨しない。
しかしながら、『おくのほそ道』では描かれなかった旅の裏側に「実はこんなことがあったのではないか」などと想像を膨らませながら読むことの楽しさは、ぜひ皆さんとも共有しておきたいと思い、不肖ながら筆を取ることとした。
さて、前書きが長くなってしまって申し訳ない。
ここは芭蕉先生にならって、こんな風に書き出してみよう。
九尾は百代の過客にして、行きかふ芭蕉もまた狐娘なり。