宇宙
海野一二三は卓球部に所属している。文化祭には関係のない肩書だ。運動系の部には体育祭があるのだからいいだろうと言われるが、卓球部はそこでもさほど活躍できない。全国大会にも出場しているのだが、横断幕も校舎に飾られたのだが、応援に来るのは各部員の親族くらいだ。
「卓球は宇宙だ」
海野はこの言葉を何度か部員たちにクラスメイトに語ったが、大抵微妙な愛想笑いか頭のおかしな者を見るような目で見られてしまう。
卓球は魅力的なスポーツだ。両手を広げた程度の台の上で繰り広げられる高速展開。発生する周期性。まさに宇宙。あきらかに野球よりバレーよりなにより魅力的だ。
「卓球は宇宙なんだ」
クラスの出し物の準備を一区切りして、自分の席で弁当のアジフライを齧って呟く。食べてる最中に独り言をいうのはやめろと母親からも叱られたが、どうしても呟いてしまっていた。
そんな海野に話しかける人間がいた。
「はたして、そうかな?」
女子だった。それだけはわかる。鳶色の髪をポニーテールに結んだいかにも快活そうな女子だった。気難しく鬱屈した海野とは気が合わなそうだ。
「私、女子バレー部の灰来。いつもおいしそうだよね、それ」
灰来が指さしたのは海野の母が作った弁当だった。海野は、サッ、と弁当を身体で隠す。
「卓球は宇宙だ。それに異議を唱えたな。理由を言ってみろ。この世で最も美しい競技、卓球が宇宙ではない理由を示せ」
「バレーこそが宇宙だから」
海野はしばらく考えて、それから額を抑えた。
とんでもない馬鹿と話してしまった。
「人と人の間をボールが行きかうでしょ。つまり、バレーこそが宇宙」
「ならばあらゆる球技が宇宙になるだろ」
「なら、全部宇宙でいいんじゃない」
灰来が、にかっ、と笑った。右の前歯が短くて隙間が空いている。
「馬鹿と話してる時間はない」
海野は席を立った。弁当を食べる場所を探して教室を出る。
翌日、海野がイカリングを齧っていると灰来がやってきた。
「おいしそうだね、それ」
「馬鹿と話してる時間はない」
「人のこと馬鹿っていうのよくないよ」
灰来が、にかっ、と笑った。前歯の隙間が空いている。
「いいや、お前は馬鹿だ。見た目も中身も完全な馬鹿だ。馬鹿を馬鹿と言って何が悪い」
「昨日すこし話しただけじゃん。それだけで人を知った気になるの?」
「卓球を否定したからだ」
「否定はしてないよ」
灰来は椅子に後ろ向きに座って、海野の正面に落ち着いた。
「卓球が宇宙であることがそんなに大事?」
「そうだ。この宇宙のように規則的で美しい。それを表した言葉だ」
「私はそうは思わないな。ああ、規則的ってところね」
灰来の言葉に海野は首をひねった。
「宇宙には混沌としている部分もある。人間の視野では辿り着けないような遠い世界もある。それらが全て、規則的だと思える?」
海野はひねった首を元に戻した。
たしかに、規則的ではない部分も卓球にはある。ラケットやピンポン玉のわずかなへこみから生じる混沌。定石を崩した一手が勝敗を左右することも。
「規則的じゃなくても美しいものはある」
海野は納得しそうになった。しかし頭を振った。
「そんな卓球は認めない」
海野は席を立った。教室を出る。
翌日、海野がちくわ天を齧ろうとした瞬間、灰来がそれを奪い取った。
「いっただきい」
海野は不機嫌になったが、もう一本のちくわ天を箸で摘まんだ。
「昨日の弁論に免じて許してやる。なかなか面白かったからな」
「お、認めてくれた? 私が天才だって」
「天才ではない。馬鹿だ、お前は」
海野はちくわ天を一口齧って、何度か噛んで、飲み込んだ。
「お前も卓球をやればわかる。卓球に広がる宇宙がな」
「君がバレーをやってくれたら考えてあげてもいいな」
海野はますます不機嫌になって、弁当の中身を一緒くたにかき込んだ。
「卓球は哲学だ」
「新たな定義を出してきたね」
「哲学だ。お前のような門外漢に理解はできない」
「哲学は広く人々にひらかれているべきじゃない? あらゆる人間が哲学に触れてもいい」
海野は席を立つ。教室を出る前に、灰来を睨みつける。
「やってやろうじゃないか。バレーを」
そう宣言して、体育館へと歩いた。
海野はバレーが下手だった。
「大丈夫大丈夫!」
「フォローするから!」
女子たちに励まされながら海野はコートを七転八倒した。
海野はこれでも卓球部のエースだった。練習もせず女子に交じってボールを追いかける姿を卓球部の部員が見ていたが、彼らは格好悪いとは思わなかった。海野が本気だったからだ。
「これが宇宙なものか!」
「大丈夫、痛いのはそのうち慣れる!」
海野は全身痣だらけになってもボールを追いかける。
「宇宙遊泳はつらいものだな……」
思わず呟いていた。ハッ、として振り返る。灰来がにやにやと笑っていた。
「これは、私も卓球をやらなきゃだね」
「勝手にしろ」
灰来はにやついたまま、卓球台が並んだスペースへと歩いて行った。
わかり切ったことだが、灰来も卓球が下手だった。
二人は体育館の隅に倒れ込んで休憩していた。
「わかっただろう。卓球が宇宙だと」
「そっちこそ、バレーが宇宙だって認めたんじゃない?」
お互いに呼び掛けて、同時に水筒の中身を煽る。
灰来が、にかっ、と笑った。
「楽しかった。またやろう」
海野は前歯の隙間を見つめて、その暗がりに宇宙を幻視した。
思わずつぶやいていた。
「付き合ってください」
灰来は水筒に口をつけたままそれを聴いていたが、やがて口を離して、首を傾げた。
「はい?」
頭を振る。
「冗談だ。なんでもない。気にするな」
海野は立ち上がって、右手と右足を、左手と左足を同時に出してぎくしゃく歩いた。卓球台へと戻った。
「………」
灰来はぽかんとしていたが、もう一度水を飲んで、休憩を終えて女子バレーのコートに戻った。
「灰来ー、告白されたん?」
先輩が灰来に言った。灰来の頬が、赤く染まった。
「されてません!」
「はいはい、じゃあ練習続けるよー」
二人はそれぞれの練習へと戻った。
文化祭当日、互いの宇宙論をぶつけ合う二人を目撃したものが、いたとかいないとか。
了