侵入者──3
間違いない。あれは魔物の声だ。
見ると、女の子の前に見慣れない存在がいた。
トカゲのような顔に、だらりと垂れ下がった腕。二足歩行をするその足や全身には、鱗のようなものが光を反射していた。影だけなら人間のものと同じと言えなくもないその魔物は、人間には出来ないような表情をしていた。
まるで、美味そうな料理を食べる前のような。
獲物を見つけ、ご満悦のような。
「、んう? ああ? 人間かお前」
その魔物の声は、喉が濁っているんじゃないかと思わせるような声だった。
耳に入ってくるだけで、不快になる類の音。
トカゲ型の魔物。
ルークが以前言っていた、この森に住む魔物の一種。肉食で、人間を襲うこともたまにあるとか。全長は大体、大人の人間と変わらない。
「この森の人間は赤黄髪の化け物女の知り合いしかいねぇはずなんだが。お前からは何の匂いもしねぇな」
「……誰、ですか」
白髪のその少女が、消えいるような声で答えた。
やはり、俺と同じかそれ以下程の年齢であろうことが分かる、幼さを割合残したような声だった。
「んう? ああ? なんか言ったか?」
「…………」
会話なんてする気がないのだろう。トカゲは一人で喋り続ける。
「まぁいいか。こんな美味そうな人間見つけたのはいつぶりかなぁ。あの女の息が掛かった奴は襲うわけにいかねぇしよ」
「……なにを言ってるんですか」
「この辺も匂うが……お前の匂いじゃねぇのは間違いねぇな」
そうしている間にも、ジリジリと二人の距離が狭くなっていく。
なんのためか。
もちろん、食うためだ。
(──どうするか)。
どうする。俺がここで出て行いけば、この女の子がこの森に入ってきた目的を探るのは困難になる。けれど放っておくと、瞬く間にトカゲに食べられてしまうだろう。
トカゲ型が、上半身を前に屈ませる。それは、スタートダッシュの構えのようだった。
「じゃあ、食っていいな」
「…………え?」
と、その化け物は女の子に向かって走り出した──その顔はもう、本能のままに動いているのが誰でもわかるような顔になっていた。
視界の端で女の子を見ると、悲鳴を上げることなくその場に蹲まったようだった。
どんな手を使っても、女の子だけでは逃げられそうにない。
くそ、仕方ないか。こうなれば他に選択肢はない。
なにより、放っておけない。
「待て!」
俺は女の子とトカゲ型の間に滑り込み、睨んで足を踏ん張る。
そいつの鬼気迫る顔が見える。よだれがそこら中に飛び散っていた。
不快だったけれど──こいつから目を離すわけにはいかない。
大丈夫、俺は何もしなくていい。
「──っと。ん、んぅう? なんだてめぇは」
とそこで、トカゲは足を止めた。目を細め、俺を覗き見てくる。
「また人間かよ。食われに来たのか?」
「…………」
まだ、食欲が勝ってる──か。
ならば、こちらから近付いて気付かせるまでだ。
「ん? んんん?」
すると、何かに気付いたようだった。鼻を動かし、顔を歪ませる。
「……この匂いは……テメェまさか」
「…………」
「……あの女の知り合いか?」
「……どうかな」
俺は答えずに、また一歩近付く。
「……チッ」それで確信したようだった。
トカゲ型は踵を返し、森の奥へ消えていった。女の子に迫った時といい、足は早いんだろう。
「…………は」俺は後を目で追って、息を吐いた。
おそらく普通に戦えば、トカゲ型の方が強い。俺は今、武器も何もない丸腰の人間である。ただ殺されかねない。
けれど、俺にはあの人の匂いが染み付いているのだ。
師匠の匂い。
トカゲ型も何度か口に出していた、「女」という言葉。あれは多分、師匠のことだ──この森に住んでいて、師匠のことを知らない魔物などいないのだ。たとえ師匠のことを知らなくとも、本能に語り掛けてくる恐怖が、この匂いにはある。
ならば、俺から漂う師匠の匂いにも気付くだろう。俺が師匠の知り合いだと分かればあとは、寅の威を借るだけでいい。それが、この場を穏便に収める最良の手段だった。ルークの協力があれば戦うこともできただろうけど、周りに木が何本もあるここだと、ルークだってやっぱり本領は発揮できないだろう。一か八かのギャンブルになる。
よかった。それでもあいつが食欲に負けていてたら、ここで死んでいた。
最近、死の危険に晒されすぎだった。
「……あなたは」
後ろから、女の子の声が聞こえる。涙混じりのような声だった。
振り向き、女の子の近くまで歩く。手を差し出し、その手を取るように掌を開いた。
「大丈夫かな……? 怪我とかは」
「……うん」女の子は手を取って、麦わら帽子を傾けた。
多分涙を見られないような角度にしたんだろう。
それにしても──本当に普通の女の子だ。ルークが以前言っていた、この森に入ってくる人間の種類に少しも合致しない。手も細く、足もスラリと伸びていた。
かといって、不健康な印象は受けないし──子供にしては、だけれど。
「ソラ! 何があった!」
そこで、空から俺を呼ぶ声が聞こえた。おそらく異常事態を察知し、すぐに飛んで来たのだろう。
ルークだ。
「ルーク……もう少し早く来てくれれば」俺は欲を出すように言ってみた。
「なんじゃ……? なにがあったんじゃこれ」
「うーんと。もうちょっと待ってほしいかな」ルークの困惑顔から目を話して、視界を戻す。
女の子は既に泣き止んだようだった。足に付いた砂埃を払い、立ち上がる。
どうやら泣き止むを通り越して、普段の状態まで戻ったらしい。
早──いこともないか。あんなことがあったら、逆に現実味が無くてこうなるだろう。夢だったとでも思うかもしれない。
女の子がこちらを見る。
「…………」
「……ええと」状況が、一旦落ち着いた。
で。
なにから話すべきなのだろう。
まずはこの子の目的を聞くところからか──いや、この子が今知りたいのは俺達の正体だろう。なぜ助けてくれたのか、なぜこんなところに居たのか。
その辺りから切り込むのがいいか。
「ええと、俺達は──」
それを言うことは、しかし出来なかった。
抱きつかれたのだ。
「⁉」
「うぇええぇぇ……ひっく」
「…………」この子。
泣いているようだった。俺の服を掴み、溢れる涙を気にせずに大声で。
「うううぅぅぅううぅぅ」
「…………えーと」
「…………んんん? なんじゃ……?」
俺も、ルークも。
困惑に頭を支配される。
そんな中、俺はある既視感に襲われていた。
そうだ。
これ、ユメルに抱きつかれた時と同じ感覚だ──