迷い
泣き疲れた奈緒が目を覚ます頃には、辺りはすっかり夜の帳に包まれていた。窓の外には満天の星空が広がり、ひんやりとした風がカーテンを揺らしている。ルシアンからのプロポーズを受けた日から、奈緒の心にはずっと答えの出ない問いが渦巻いていた。「私は本当にルシアンの隣にいていいのだろうか――」
そんな時、ふと浮かぶのはカインの存在だった。
カインは奈緒の努力を誰よりも近くで見てきた。貴族社会に馴染むために必死でマナーや言葉遣いを学ぶ奈緒の姿を、彼はいつも陰からそっと見守り続けていた。奈緒が無理をして笑顔を作り、陰で一人涙をこぼす瞬間さえも、カインは気づいていた。
「奈緒、君は君のままでいいんだよ」
ある日の夕暮れ、二人きりで話をしていた時、カインは静かにそう言った。
奈緒はその言葉に救われる思いがした。カインの優しい声に胸が熱くなり、思わず涙があふれる。
「ありがとう、カイン。あなたの言葉にどれだけ助けられているか、わからないくらい……」
その涙を見たカインの胸には、奈緒への想いがますます募っていった。彼は自分が奈緒に惹かれていることを自覚していたが、奈緒がルシアンに思いを寄せているのも知っていた。だからこそ、彼女が心を楽にできるようそっと寄り添うだけに留めていたのだ。
しかし、そんな二人の親しげな様子を目にしたルシアンは、複雑な思いを抱えていた。彼は奈緒の努力を認めていながらも、不器用な性格が災いし、素直に優しい言葉をかけられないでいた。
「どうしてカインとばかり話しているんだ?」
そう問い詰めたい気持ちはあったが、プライドがそれを許さない。代わりに冷たく突き放すような態度を取ってしまう自分に、ルシアン自身も苛立ちを隠せなかった。
奈緒もまた、ルシアンの冷たい態度に戸惑いを感じていた。彼の心の中には何があるのか、彼女には分からなかった。彼女を本当に愛しているのか、それとも形だけの婚約者として扱っているのか――奈緒の心は次第に迷いを深めていく。
そんな中、ある日の庭園での出来事が奈緒の心をさらに揺さぶることになる。
奈緒は風に当たりながら考え事をしていた。そこにカインが現れた。彼は奈緒に紅茶を差し出しながら、自然な笑みを浮かべて言った。
「こうやって少しずつ肩の力を抜いていけばいい。君が頑張っていること、ちゃんとわかっているから」
その言葉に、奈緒はまたしても胸を締めつけられるような気持ちになった。カインの温かさが、ルシアンとのすれ違いで傷ついた心に染み渡るようだった。
「カインといたほうが幸せなのかも……」
そんな考えが奈緒の頭をよぎるのを、自分で止めることができなかった。
一方、ルシアンはそんな奈緒の気持ちの変化を薄々感じ取っていた。彼女が自分から距離を置いているのは明らかであり、カインと過ごす時間が増えていることも知っていた。それでも、どうすることもできなかった。彼は自分の不器用さを呪うように机を叩き、心の中で叫ぶ。
「奈緒を愛しているのに、どうしてそれを伝えられないんだ……」
ルシアンにとって、奈緒は特別な存在だった。だが、その想いをどう表現すればいいのかが分からず、彼女を傷つける結果ばかりを招いていた。
奈緒もまた、ルシアンに対してどう接すればいいのか分からないまま、カインとの会話の中に逃げ場を見つけていた。そして、ルシアンからのプロポーズに対する返事をどうするべきか、答えを出せずにいた。
そんな三人のすれ違いが続く中、次第に彼らを取り巻く状況は、恋愛感情だけでは解決できない複雑なものへと変わっていこうとしていた。