戦い
奈緒は窓の外に広がる光景に息を呑んだ。黒雲が空を覆い、遠くの山々から不気味な音が轟いてくる。地面が振動し、人々の悲鳴がかすかに聞こえた。魔物が迫っている――奈緒の体は恐怖で固まりそうだった。
「奈緒様、避難を――」
侍女が震える声で言う。しかし奈緒は首を振った。
「私が行かなきゃ、もっと多くの人が傷つくわ。」
心の中では逃げ出したい気持ちが渦巻いていた。それでも、この異世界で聖女として選ばれた自分には、逃げる道はないと知っていた。
奈緒は震える手で聖杖を握りしめ、戦装束に身を包んだ。鏡に映る自分の姿を見つめると、決意を込めて小さく息を吐く。
「怖くても、大丈夫。私は…私ができることをするだけ。」
その言葉を自分に言い聞かせると、奈緒は震える足を一歩前に進めた。
城門前――
外では騎士たちが隊列を組み、魔物の進軍を待ち構えていた。闇の中に浮かぶ無数の赤い目が、彼らを飲み込もうとしているかのようだった。
奈緒が姿を現すと、ざわめきが広がった。聖女の到来に兵士たちの士気が上がる一方で、奈緒は自分を支える膝が今にも崩れそうな感覚を覚えていた。
「奈緒様。」
目の前に立ちはだかったのは、甲冑を纏ったルシアン王だった。剣を握る彼の顔は険しく、それでいて冷静さを失っていない。
「お前が出陣することを許すのは、決して死ぬためではない。分かっているな?」
奈緒はルシアンの瞳を見つめ、小さく頷いた。その視線には、深い恐れと、それを超えようとする強い意志が宿っていた。
「分かっています。私は…命を無駄にするためにここにいるわけじゃない。」
ルシアンは彼女を見つめ、短く息を吐いた。そして、自らのマントを外すと奈緒の肩にそっとかけた。
「お前の力を過信するな。だが、恐れることもない。俺が後ろにいる。」
その一言が、奈緒の心を少しだけ軽くした。
暗闇が支配する大地の上、奈緒は聖杖を握りしめ、立ち尽くしていた。息を切らし、ふらつく足を踏みしめるたびに、彼女の周囲を覆う闇がじりじりと侵食してくるのがわかる。それでも彼女の目は怯えることなく、聖杖の先に僅かに灯る光に焦点を当てていた。
「この力で…みんなを守らなきゃ。」
奈緒の声は震えていたが、決意に満ちていた。命を燃やすようにして作り出した浄化の光が膨張し、彼女の身体をじわじわと蝕んでいく。それを奈緒は感じながらも、立ち止まることはできなかった。
「奈緒様、それ以上は無理です!」
騎士たちが声を上げる。しかし、奈緒は首を横に振った。
「ありがとう。でも…もう私にしかできない。」
その時だった。地響きとともに現れたのは、空を覆うほどの巨大な魔物。禍々しい闇を撒き散らしながら、奈緒に向かって咆哮する。その咆哮は、まるで彼女の決意を嘲笑うかのようだった。
奈緒は聖杖を掲げ直し、体内に残る力の全てを注ぎ込もうとした。しかし、力を解放する瞬間、彼女は強い衝撃を受け、地面に倒れ込んだ。
「危ない!」
彼女を抱き止めたのは、血と傷で満身創痍のルシアン王だった。彼の甲冑は剥がれ落ち、荒い息をつきながらも、その腕は奈緒をしっかりと抱きしめている。
「ルシアン王…なぜここに…!」
「馬鹿者。お前を放っておけるわけがないだろう。」
低く鋭い声に、奈緒はハッとする。彼の瞳には怒りと焦り、そして悲しみが渦巻いていた。
「お前は自分を犠牲にして国を救うつもりだったのか?」
「それしか方法がないんです…!皆を守るためには…」
奈緒の言葉を遮るように、ルシアンは鋭い声で叫んだ。
「そんなものは正しい選択じゃない!」
彼の言葉に、奈緒は動揺を隠せなかった。冷酷な王だと感じていたルシアンの態度が、ここで初めて揺らぎを見せたのだ。
「私がここで死ねば、この国は…」
「奈緒!」
ルシアンは彼女の肩を強く掴んだ。その目には深い悲しみと決意が込められている。
「お前がいなくなれば、この国を救う意味などない。お前を失うくらいなら、国など滅んでもいい。」
その言葉に奈緒は目を見開いた。冷静で合理的な王として見てきたルシアンの言葉は、彼女の予想を超えたものだった。
「なぜ…そんなことを…」
奈緒の声が震える。ルシアンは、少しだけ苦笑しながら答えた。
「俺は王だ。それが何だ?お前がこの世界にいる、それだけでいい。それ以外のものは…どうでもいい。」
その一言に、奈緒の心の奥底にあった氷が溶けるような感覚を覚えた。これまで使命に縛られ、自分の存在意義を疑っていた彼女にとって、その言葉は救いだった。
「ルシアン王、私…」
彼女が何かを言おうとした時、彼は彼女の手を取り、力強く握りしめた。
「奈緒、お前一人に全てを背負わせはしない。共に戦おう。この国の未来を、俺たちの手で守るんだ。」
奈緒の目から一筋の涙がこぼれる。その涙は、悲しみではなく、確かな信頼と希望の証だった。
「はい…私も、あなたと共にいたい。」
奈緒の言葉を聞いたルシアンは微笑み、二人は共に立ち上がった。奈緒の聖杖が眩い光を放ち、それを合図にルシアンの剣が闇を切り裂く。
「行こう、奈緒。この闇を終わらせる。」
二人が放つ力が融合し、圧倒的な光が辺りを包み込む。その光は闇を塵へと還し、魔物たちを浄化していった。最後の一撃が放たれた瞬間、世界は静寂に包まれた。