六.岡本巧の青年時代
「見ろ、巧! プロはやっぱかっこいいなぁ~」
父親に連れられて初めて訪れたサッカースタジアム。何万人もの観客で埋もれた熱気あふれる歓声の中、華麗な技でかわしてゴールを決める選手たち。
(すげぇ……)
すぐに、巧はクラブチームに入団し、恵まれた体格もあってすぐに頭角を現した。ゴールを量産し、強豪高への推薦も決まった。
「へっ、俺って天才かも?」
浮かれ喜んでいたが、プロからのスカウトはなく、泣く泣く、スポーツ系の強豪大学へ進んだ。
*
「巧、サッカーもいいけど、ちょっとくらい学業の方もやっときな」
「わかってるって、食べたらやるよ」
帰宅するなり鞄を放り投げて夕食をがっつく巧に、母親があきれて、新聞を読む夫に目を向けた。
「あんたもなんか言ってやってよ。今のままじゃプロなんて難しいって」
父親は新聞を降ろして、巧に真剣な目を向けた。
「ん……まあそうだな。巧、母さんの言う事をしっかり聞くんだぞ」
ビールをぐっと飲んだ後、ぶはーと息を吐いた。
「……とはいえ、やり過ぎはいかん。何事もほどほどにな。あっはっはっはっはっー」
真剣な眼差しが一転、最後はいつも通り大笑いして、美味しそうに刺し身を口に放り込んだ。ガツガツとかきこむ息子と、我関せずと新聞を見る父親……母親はため息をついた。
(まったく二人そろって能天気で……)
体格に恵まれたこの子は確かにサッカーの才能はあるんだろう。だが、悪い事に私に似て短絡的で、夫に似て楽天的。すぐカッとなって、けろっと忘れる性格。思い通りにいかず、我を忘れて暴走した試合でも、特に反省もなく、翌日から能天気に仲間と談笑する。
(今はまだ、いいかもしれない。でも、そのうち、きっと大きな失敗を起こすことになる。サッカー以外も経験して、人間として成長してもらわないと……)
「兄ちゃん、おかえり。ああ、いい匂いがする」
二階から栗色の髪をした小柄な男の子が降りてきた。
「つむぐ。スープがまだ熱いぞ。飲むときは充分気をつけろ」
皿に手をつけようとした少年を巧が慌てて制した。
「えへへ。そうだね、兄ちゃん。つい美味しそうで」
照れくさそうに笑う弟を心配そうに眺める巧。その様子を母は微笑ましく眺めた。
(でも、この子は弟思いの優しい子だわ……)
弟の紬(七歳)は幼い頃から病弱で部屋にこもりっきりだったが、今年から小学校に本人もやる気を出して通い始めた。だが、まだ慣れないせいか少し疲れているようにも見える。巧はそんな紬をいつも気にしていた。
ふと真っ赤にはらした目でこちらを見つめる幼少期の巧を思い出した。
~
巧は子供の頃から人一倍元気な子だった。弟の紬が生まれ時はとても喜んでかわいがっていたが、自分はハラハラしていた。紬は特に体が弱い。間違って怪我をさせないか、それが心配だった。
紬が三歳の頃、巧が黙って弟を外につれだし水遊びをした事があった。寒空の中、びっしょりと濡れて遊ぶ二人。紬は笑っていたが慌てて部屋に連れ戻した。その夜、紬は熱を出し寝込んだ。苦しそうな弟を見て巧は混乱した様子だった。体が痙攣し、うーと悲痛な声を上げた。救急に電話を、父親が声を荒げた。
ぐったりとした紬を抱えて私は車に駆け込んだ。あなたは留守番をしてなさい。苛ついていた私は巧にきつくあたった。幸い大事には至らず、翌日には紬と一緒に家に戻った。目を真っ赤にはらした巧を見て、一人家に残した事を後悔した。
~
(あれから五年。この子たちも随分と成長したわ)
あの出来事以降、巧は弟を誰よりも気にかけるようになった。紬に何かが起こった時、いつも真っ先に駆け寄るのは巧だった。この子に芽生えた弟をいたわる優しい気持ち。自分より弱いものを助ける、今も常に心の真ん中にそれがある、でも……母親はため息をついて首を振った。
(それが長所であり短所……)
真剣に弟を見つめる巧を心配そうにながめた。弱者をかばい大きな壁に立ち向かう。子供の世界ではそれは正しい事。でも、大人はそう単純じゃない。時には妥協して大きな力に巻かれ、耐え忍ぶ事も重要。厳しいようだけど早くそれに気づいてほしい……そういえば。
「巧、あんた、また大学の課題をつむぐちゃんに押し付けてるんじゃないでしょうね?」
巧は吹き出しそうになった。
「小学生の弟に、んなもん頼むわけないだろ」
慌てて食事をかきこみ、二階に駆け込んでいった巧を、母親は呆れて眺めた。
*
自室に戻った巧は、鞄から数冊のノートを取り出し、頭を抱えながらも机に向かった。
(今日は確か、応用数学の統計問題だったような……あれ苦手なんだよな。今日も来てくれたら……いや、今回こそは自分で)
「兄ちゃん、いい?」
扉の向こうから紬の声がして、巧は複雑な思いで、ああ、と声を返した。
「今日は確か、統計問題だよね。僕に任せて、兄ちゃんは練習に行ってきて!!」
にこりと笑って手を差し出す紬。
「あ、いや……今日はさすがに……」
戸惑う巧に、紬は腰に手を当て頬を膨らませた。
「遠慮しない!! さあ、練習の時間がなくなっちゃうよ」
有無を言わさない眼差を向ける弟に、巧は諦めてノートを渡した。
「じゃあ、兄ちゃん。練習頑張ってね!!」
「ああ……すまん」
(本当は良くねぇことなんだけど……)
意気揚々と部屋に戻る弟を巧はぼんやりと眺めた。入学して、サッカー付けの日々。しかし、教養も身につけろとうるさくせがまれる両親に、渋々、勉学にも励んだ。頭を抱える自分の姿に、心配して声をかけてくれた弟に何気に渡した宿題。完璧な回答に唖然とした。少しぐらいなら……わずかな罪悪感を胸に、その後も数回くり返し、今ではほぼ毎日、宿題を手渡していた。
部屋の隅に転がるボールに目を向けた。病弱な弟は、サッカーをする自分を、いつもまぶしそうに見ていた。高校卒業でプロになる。その願いが経たれ、うなだれていた自分を励ましてくれたのは弟だった。
『兄ちゃんは、プロになるのが夢なんでしょ? じゃあ、僕はそれを手伝う。少しでも兄ちゃんの夢を助けたいんだ!!』
あの頃を思い出し暖かい気持ちに包まれたが、先ほどのほほを膨らませる弟を思い出して苦笑した。一度言い出したら頑として曲げない弟。いったい誰に似たんだか……。気を取り直し、ボールを手に取って、両親に悟られないようにこっそり家を抜け出した。まだ肌寒い夜。いつもの鉄橋下に向かう途中で、巧はぼんやりと不思議な弟を思った。
天才、それはまさに紬のためにある言葉だった。病弱だった弟は、いつも本やTVばかり見ている子だった。一緒に外で遊べない歯がゆさはあったが、できるだけ負荷がかからないように気を付けて遊んだ。
自分が中学の頃、忘れていた宿題に、いつも間にか答えが書かれていたことがあった。たどたどしい字。弟ははまだ三歳になったばかり。まさか……。
「にーたん、おべんきょう、おてつだい、したったよ」
にこにこと笑う紬を唖然と眺めた。その後、同じような出来事が何度も続いた。ふと、どこかで聞いた言葉を思い出した。ギフテット、授かった能力を持つ子供。まさか弟は……相談した両親は大喜びして、すぐに高価なパソコンを購入して、弟に自由に使わせた。ネットから驚異的なスピードで知識を吸収する紬。巧は目を丸めてその様子を見守った。
「ワット ドゥ ユー シンク アバウト ディス セオリー?」
見知らぬ外人とやりとりしている姿に度肝を抜かされ、意味不明な文章を涼し気にモニターに打ち込む姿に呆気にとられた。
体が弱かった紬は仮想空間をのびのびと駆け回り、目を輝かせて、複雑で無限に広がる知的空間を堪能していた。
「やった!! 兄ちゃん、学会へ論文が通ったよ!!」
(論文?)
珍しく興奮しているその姿に首をかしげて、両親から詳細を聞いて驚いた。〝ディープラーニングにおける学習パラメータの最適化手法〟 若干五歳でかき上げた論文の審査通過。息つく間もなく、立て続けに論文を発表し、若干七歳で史実最年少の論文博士として学位を授与された。
「まあ、紬ちゃん。お利口ですね~」
「さすが、わしの息子。将来が楽しみだ~ あっはっはっ~」
その驚異的な成長に両親は大喜びをし、巧も、大いに関心して誇らしげに感じた。俺も負けちゃいられねぇぜ。弟に触発されて、ますますサッカーにのめりこんだ。
〝兄ちゃんの夢を助けたいんだ〟
あの日の思わぬ弟の言葉に、悪いと思えながらも甘え続けた結果が……ノートに向かう弟の姿を想像して、再び罪悪感に襲われた巧は首を振った。
(そのために、俺は必ずJリーグで成功してみせる!)
薄暗い中、全力でいつもの鉄橋下の練習場に向かった。
*
巧は大学生活を順風満帆に過ごし、卒業論文では〝近代的な科学的トレーニングに関する考察〟というテーマを書き上げた。両親も納得した上で、晴れて憧れの東京ヴァルディへの内定を受け取った。
(やっとここまでこれた……)
苦しかった今までの練習。そして、両親や弟、周りの仲間たちには多くの心配と迷惑をかけ続けてきた。すべての思いがこみ上げ、卒業式では、人目もはばからず男泣きをした。
(俺は皆の恩に、きっと報いて見せる!)
校門を抜け、澄み切った空を遠い目で見上げた。
しかし、絶望は突然に訪れた。
*
「あの体力バカの兄貴がこんなに立派になって」
卒業式から帰った母親は、感慨深く成長した巧を見上げて涙を拭いた。
(本当に良かった……)
高校卒業時、黙ってJリーグからの内定を断ったのは本当に正しかったのか……私は息子の人生を台無しにしたのではないのか……自問自答を繰り返し、不安に満ちて過ごした四年間。でも、この子はしっかりと自分のなすべきことをしてくれた……
「ちぇっ、馬鹿は余計だよ」
いつもと勝手が違う母に巧は照れくさくなり、バツが悪そうに頭をかいた。
「兄ちゃん、ヴァルディ内定、ホントおめでとう!」
嬉しそうに笑う紬に、申し訳なくて頭をかいた。弟には本当に世話になった。卒論は自力で書き上げた事が僅かな慰めか。
「ありがとな、おまえのおかげで四年間サッカーに集中できたよ)
耳元でそっと感謝を伝えた。父親は喜ぶ子供達を眺めながら満足そうにうんうんと頷いた。
「お前も春から晴れて社会人だ。まあ、大人の世界ってのは色々あるからな。特にお前の目差す世界は厳しいだろう。無茶しろとは言わん。ほどほどにがんばれ」
父親が珍しく最後まで真剣な顔をして話し終えた。母親が目を丸くして感心したようにつぶやいた。
「ちったあ、あんたも良い事いう。でも、結局はほどほどだもんねぇ。もうちょっと締まった言葉はないのかねぇ」
「……そうだな。まあそこそこ頑張って、年棒一億ぐらい稼げる男になるか~。だとしたら父さんも老後が安泰だなぁ。あっはっはっはっー」
いつものパターンで大笑いする父親に弟といっしょに苦笑いした。
「あーわかった、わかった。まあ頑張るよ。あんま期待しないで見守ってて」
ピンポーン
「あら、こんな時間にだれかしら?」
母親が慌てて玄関に向かい、程なくして青白い顔で戻ってきた。
「巧、あんたに警察が用があるって」
(警察? なんだろう、こんな時間に……)
何か不穏な気配を感じながらも、玄関に向かうと、警帽をかぶった二人の警官が何やら話し込んで立っていた。
「あっどうも、こんばんわ!」
ひょろりとした若い警官が巧に気づいて、警帽を取ってにこやかに頭を下げた。
軽く会釈した巧は、隣りの上司らしい警官が差し出した握手に、慌てて駆け寄った。
「やあ、岡本巧さんですか? 初めまして。私は千葉県警の高橋というものです。最近は暖かくなって運動にもいい季節になりましたね」
はあ、突然のことに戸惑った巧は、頭をかきながらも頭をかきながら、手を握った。
(いてっ)
不意に力強く握り返されて、ぎくりと警官を眺めた。四十代あたり。巧より頭ひとつ小柄だが、ガッシリとした体型。のっぺりとした、能面のような顔から差す、氷のような冷たい視線に背筋が凍った。
「不躾な質問で申し訳ないのですが……昨夜はどちらにいました?」
(さ……昨夜?)
昨日はいつものとおり、帰ってから鉄橋の下でサッカーの練習をしていた。いぶかしがる母親を横目で敬遠しつつ、巧はしどろもどろに説明した。
「ん……そうですか」
ゆっくりと手を放した警官は、顎に手をかけて黙り込んだ。しんと静まり返る玄関。
コツ……コツ……
規則正しく鳴らす警官の足音。巧はしびれた手をさすりながら、何か暗い闇に引きずり込まれるような感覚を覚えた。
「巧! もしかしてあんた、毎晩そんなとこにいってたんじゃないでしょうね?」
沈黙にしびれを切らした母親に詰め寄られた巧は、狼狽えて俯き、黙り込んだ。若い警官が慌てて間に割り込んだ。
「まあ、お母さん。隠れて努力するなんて見上げた息子さんじゃないですか。夢のJリーグ、めざすぐらいなんですから」
(Jリーグ?)
思わぬ言葉に巧は背筋がひやりとした。なぜ、そんなことまで知っている? 唖然とする巧に若い警官は一枚の写真を差し出した。
「巧さん、この人を知っていますか?」
唐突に出された写真に巧は恐る恐る目を向けた。七十歳ぐらい、白髪の、とろんとした目の老人に、巧は息を飲んだ。
(この人……確かいつもあの場所にいた……)
「あ、いえ……知りません」
なぜか悪い予感がして、小さく咳払いをして、歯切れ悪く答えた。
「そうです……か……」
困った風に頭をかく若い警官。その隣では、あの鋭い目をした警官が、じっとこちらを見据えている。
(どういうことだ? 俺は何かを疑われている、のか?)
たまらず巧は口を開いた。
「この人……どうかしたんでしょうか?」
俺が説明する……高橋が若い警官を制して前に出た。
「ここだけの話にしてください。この男は近くの鉄橋下でテントを張って寝泊りしていまして、いわゆるホームレスなのですが、今朝、遺体で発見されたんですよ」
(死んだ?)
「ある人から夜にあなたをよくそこで見かける、という話を聞きまして。昨夜はどういった様子だったのかな、と。頭に何か硬いものが当たったような傷があって。例えばそうですね、そこにあるサッカーボールのようなものなど」
岡本は床に転がるボールにゆっくり目を向け、背筋が凍った。黒いしみ。あれは……なんだ?
ガタガタガ……強風にあおられたドアがわずかに鳴り響いだ。チクタク……時計の秒針が刻む音が静かに玄関に響いた。背筋に冷たい汗が流れ、胸の鼓動が高まった。巧はうつむきながらも、動揺を悟られないように必死に平静を装った。目の前の警官から、こちらの様子をねっとりと観察する視線を感じる。
「……いえ、特に変わった事はありませんでした」
「そうですか……何か思い出したら県警の高橋まで連絡ください。あとJリーグ内定したんですって。おめでとうございます。何事もなければいいんですけどね」
心配の言葉とは裏腹にいやらしい笑みを高橋は浮かべ、ではこの辺りでと、ぷぃと出て行った。
「夜分お邪魔しました」
若い警官が申し訳無さそうに笑顔をうかべ、頭を下げて高橋に続いた。残された巧は頭が真っ白になり呆然と立ち尽くした。
「あんた、かってに家を抜け出して何してんのさ」
ぱたんと扉が閉まった瞬間、母親が涙声で巧を責めたてた。父親は険しい表情でうーんと唸った。兄ちゃん、紬は心配そうに巧に寄り添った。先ほどまでの祝福とは一転した疑惑の視線。痛々しい沈黙で満ちたその空気。
(どうして……こうなった……? 何が……俺に起こった?)
突然に襲われたこの状況を受け入れることができないまま、巧はただ唖然と立ち尽くした。
*
「あの感じは黒だな。フダ請求しとけ!」
高橋はぶっきらぼうにつぶやいて、後部座席にふんぞり返った。
「まだそうと決まったわけじゃあないでしょう 。そうだとしても本人にその意志はないわけですから刑事責任は問われないんじゃないですか?」
若い警官が運転席に乗り込み、少し眉を寄せてエンジンをかけた。
「甘いな。プロのボールのトップスピードを知ってるか。時速百キロだ。あいつはガタイもでかく相当鍛えてやがったからさらに速いだろう。そして老人の事を知った風だった。自分が蹴るボールが直撃すればどうなるか十分予見できたはず。過失致死で起訴、罰金前科持ちで夢のJリーグもパーだな」
高橋は上げた手をぱっと開き、ヒューと楽しそうに口笛を吹いた。
*
巧は問い詰める両親を振り切って二階に逃げ込み、部屋に閉じこもった。手の震えが止まらず、目の前が歪み、暴れる胃痛に激しくえずいた。
(俺は人を殺したのか?)
あの老人が鉄橋のテントに出入りしている事は知っていた。怪我でもさせたら取り返しがつかない、普段は離れた場所で練習した。
しかし、昨夜は違った。卒業式を翌日に迎えて、感傷的になり、春からの新生活に胸踊り、ハイになっていた。ゴールポストに見立てた薄汚れた壁。上下右左、いつも以上に広範囲に狙いを定めてボールを蹴り込んだ。
軽く左に体重を流し、逆に切れ込むと見せかけてダブルシザーズ。相手を交わして、美しい弧を描いて右隅へドライブシュート。渾身の力を込めて打ち込んだボールは、思いとは裏腹に一直線にテントを直撃した。ガラガラと激しい金属音とドサリと何かが落ちる音。体中を駆け巡っていたアドレナリンが一気に消し飛び、頭が真っ白になったが、慌てて駆け寄った。
鼻をつく生臭い匂いと、薄暗い街灯に冷たく照らされるボロボロのブルーシート。目を凝らして様子を伺い、誰もいない事を確認してほっとした。すいません、静寂の空間にひとまず頭を下げて、散らかる道具を整頓し、テントを立て直した。
がさり
帰り際、奥の茂みのおかしな音に気づいた。猫か? 気にはなったが一刻も早く立ち去りたかった。軽く見回し、何も聞こえない事から切り上げた。
(あの音はもしかしたら……)
ついさっきまで感じていた幸福と希望は完全に消えうせていた。今まで生きてきた二十二年。その先に続く道の先に、ぼんやりと薄暗い牢獄が浮かび上がり恐怖した。
青白い顔で立ちすくむ巧の様子を、ドアの外から紬がじっと見ていた。
*
世間は春休みに入り、新生活に向けて希望に満ちた雰囲気の中、巧の心はどんよりと寒空のよう暗澹としていた。母親はすれ違うたびしくしくと泣き、父親はいつも苦虫を噛んだように黙り込んでいた。紬は部屋に閉じこもり、ほとんど顔を見せなかった。
(俺の人生も……これで終わりか……)
半ば自暴自棄になっていた頃、ひょんとあの若い警察が訪れた。
「お母さん、この間はどうも。やあ巧君、元気にしてたかい?」
若い警官はなぜか嬉しそうに笑った。あの老人の死因が判明したという事だった。鉄橋近くの監視カメラ。あの夜、巧が帰ったあとに、老人が足を滑らせて壁に頭を打ち付けた様子が偶然映っていた、巧の練習風景にも特に問題なかった、という事だった。
「Jリーグがんばって、応援してるよ!」
若い警官は朗らかに巧の肩をぽんと叩いて出て行った。
(自分で転んだだって?)
急な展開に巧は戸惑いながら、警官の後ろ姿を追った。ふと、その先の車に人の気配を感じた。あの目つき鋭い警官。心を射るような、見透かすような視線を向けている。慌ててバタンと扉を閉めた。
*
「白でしたね」
運転席に戻った若い警官はため息をついたが、その顔はうれしそうだった。高橋は不服そうに軽く頷いた。
「だな。ああもはっきりと映ってるとな。だが何か気になる。あいつは何かを隠している。俺の長年の経験と直感が……」
「あーそうっすね。その二つ、とっても大事っすよね。でも今回はもういいでしょう。映像っていう決定的な証拠があるんですし」
若い警官はムッとした表情を浮かべて、ギアを力強く入れた。
(さっきの青ざめた若者。自分とそれほど歳も変わらない。これからが人生って時に逮捕だなんてかわいそうすぎる)
高橋はしかめっ面を浮かべて舌打ちし、運転席の背もたれをゴツンと蹴飛ばした。
「何偉そうにいってんだ、ひよっこが。お前は私情を挟みすぎなんだよ。あいつは人を殺してるかもしれないんだ。だとするとどんな理由があろうと罪は償わなくちゃいけねえ。それがあいつの為になる。こういうときの違和感ってのは特に重要だ。映像だか音声だか、そんなもんは絶対じゃねえ。もっと人間の奥底に潜む何か、その現場でしか見えないものから答えを探り出す。俺達がやらなくて誰がやる? これからがサイコーに楽しいところだろ」
高橋はニヤリと口を歪め、ぺろりとヘビのように舌なめずりをした。その様子に若い警官ははぶるりと震えた。
(獲物をいたぶり、じわじわとなぶり殺す。この人にとって捜査はゲーム感覚)
自分とは全く異なる価値観。しかし、どうする事もできない己の未熟さに諦めてあっさり白旗を上げた。そして、ある事を思い出した。
「すいません、調子にのりました。我々が諦めちゃあ、国民の公序良俗は守れませんしね。それと、本庁から妙な情報が来てました。この家に十一歳の小学生の男の子がいて、なんでも大学の博士号を取得したようで。超天才児がいるという事です」
「ふーん、で、それが?」
高橋はあまり興味がなさげに窓の外を見ている。強がっても、やはり映像という証拠は動かしがたい。やや諦めた風にも見える。
「いや、それだけで他は特に。まあ本庁もピントが外れてるというか、突然これだけの情報って何なんでしょうね?」
不意に高橋の表情が変わった。緩んでいた両眉が徐々につり上がった。
(超天才児…か。何かが引っかかるな)
黙って考え込む高橋に若い警官は首をすくめた。
(今の情報で再び火がついてしまったらしい。今まで何度もこの人が犯人を追いつめる所を見てきた。本当の悪人もいたのかもしれない。でも、どうしようもなく追いつめられた末の犯行がほとんど……)
高橋がぶっきらぼうに毒づいていたのを思い出した。
『動機なんてものは重要じゃない。起訴するかどうかは検察に任せておけばいいんだよ。犯罪を犯したという事実。それを世に暴くのが俺達の仕事だ。気にするな。じゃがいも、かぼちゃを相手にしてると思っておけ』
若い警官はエンジンをかけ、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
(あの若者。あの態度は確かに怪しい。監視カメラの件は本人も信じられないといった顔だった)
バックミラーの高橋を横目で見た。黙って顎に手を乗せて何かを思案している。
(先ほどの情報で何か糸口をつかむかもしれない。だが、なんとかならないだろうか。言い方は悪いが、年老いた浮浪者と未来ある若者。もし神様がいるのなら、今回ばかりはその過ちを覆い隠してくれないだろうか)
*
巧は頭が混乱していた。何も問題がなかった? 立ち尽くす巧に紬がそっと近づいた。
「兄ちゃん、何事もなくて本当によかったね」
久しぶりに見る弟は顔が青白く目にクマができ、ふらついて今にも倒れそうだった。まさか。その姿にはっと気付いた。紬がパソコンが得意な事は知っていた。以前、知らない国を歩く弟の映像を見せられ仰天した事があった。
「フェイクだよ、フェイク。まるで本物みたいでしょ。徹夜明けで作ったんだ」
眠そうに目をこすりながらも楽しそうに笑っていた。
(監視カメラに何かの細工をした? しかし、そんな事が可能なのか)
「紬……お前、もしかして……」
紬は首を振って、にこりと微笑んだ。
「もうこの件は終わり!! しっかり、春からの準備、やっていこうね!!」
いつものように、力強い眼差しの後、紬は軽くあくびをして部屋に戻って行った。母親は感極まって座り込みワーワーと泣き出した。父親も目頭を押さえながらうんうんと何度もうなずいた。
*
騒ぎから数日後、巧は二階の自室の窓を全開にして、爽やかな空と心地よい春風、遠くに見える色づく桜を眺めながら、ようやく落ち着いたあの出来事をぼんやりと振り返っていた。
(監視カメラの映像。弟が何かをしたかと勘ぐったが、普通に考えて小学生にできるわけがない。前日に徹夜でもして寝不足だったんだろう。テントを壊した様子も運良く映らなかった。あのボールのシミも前日の雨で地面もぬかるんでいたし、去り際の音も猫を見た気がする。という事は俺は殺していない。何も問題はないぜ!!)
温かな陽日に目を細めつつ、うんと背伸びをした。
(ごちゃごちゃ考えていてもしょうがねぇ。春からJリーグだ、見てろ!)
力強く青空に向かって拳を掲げ、来たる希望に満ちた未来に心馳せた。
バタン
窓下から車のドアを閉める低い音がした。見下ろすと四十代半ばあたりの大柄の男がこちらを伺っていた。アイロンをあてた直後のような皺一つない真っ黒のスーツ。やや白くなった髪を後ろに流し、外国人のように彫が深い顔。
堂々と歩むその姿は、なにかの映画でみたギャングのボスの登場シーンのような威厳さを感じたが、同時にひどく不吉な胸騒ぎに襲われた。両親が慌てた様子で紬を呼び出す声が階下から聞こえた。不審に感じ、こっそりと一階に降りて様子を伺った。
「やあ、紬くん。こんにちは。ご両親にはすでに紹介をさせてもらったが、改めて説明させてもらうよ。私は国会議員の加地というものだ。そう固くならなくても大丈夫。リラックスして」
ゆっくりと落ちついた様子で黒服の男は微笑えみ両親に向き直した。
「さて、本題ですが。この家からある施設のカメラに不正侵入したという記録が警察庁で見つかりました。日付は二週間前の夜、場所はこの近くの鉄橋横の駐車場です」
(何を話してるんだ……)
ドアをそっと開けて巧は中を覗き込んだ。うつむき黙り込む紬の表情は、ここからは見ることができない。
「そして、録画データにわずかですが改ざんの痕跡を認めました。非常に微々たるノイズ、本庁の特殊処理班でないとわからない、高度なディープラーニングによるマスキング。改ざんされた映像は一見すると本物と同じ。現時点でここまで精巧なフェイクを作る技術を持つ機関は世界中でも指を数えるしか存在しない。それがまさかこんな所で!」
加地は信じられないと大げさに首をすくめた。紬は微動だにせず口を閉じたまま。
沈黙
両親はあたふたして二人を交互に見まわした。加地はわずかに眉を上げ、ゆっくりと両手を前で組み、うつむく紬の耳元に顔を近づけ囁いた。地の底から響く地鳴りのような低く暗い声。
「今、県警の高橋という男が執拗にある事故を嗅ぎまわっている。私も何とかしてブロックしているが、そろそろ監視カメラの件も把握する頃かもしれない。悲しいな。あんなに一生懸命お兄さんは夢に向かって努力していたのに」
飛び起きるように紬が顔を上げた。肩は震え口元は歪み、真っ赤な目は溢れ出る涙で淀んでいた。加地は満面の笑みで紬の両肩を抱きかかえ、包み込むような囁き声で優しく語りかけた。
「大丈夫、安心しなさい。お兄さんのような未来ある若者をこんな男に腐らせるわけにもいかない。だが、一つお願いがある。もちろん聞いてくれるね」
(俺を助けたせいだ)
声が小さく詳しい状況はわからない。ただ、自分の起こした事件のせいで弟があの悪魔のような不気味な男に取り込まれようとしている事はわかった。
(どうしたらいい?)
しかし、男の異様な雰囲気に圧倒され、巧はなすすべなくその場に座り込んだ。
*
千葉県警 刑事課。雑然とした室内で屈強な男達が話し込んでいる。積み上がった書類の束に埋もれた机で高橋はじっと考え事をしていた。
(超天才児、カメラの映像。ありえないが可能性はゼロではない。あれからすぐに本庁に問い合わせた。そろそろか)
若い警官が慌てた様子で部屋に飛び込み、高橋の元に駆け寄ってきた。
「高橋さん、大変っす。本件、本庁から手を引けって」
高橋が青ざめた顔で立ち上がった。
「なんだと? どういう事だ。今日、詳細が開示される約束だったはずだ」
「それが急遽方針が変わって、担当者も困惑していて」
何だ、何だと周りはガヤガヤと二人に目を向けた。高橋は唇を噛み締め、奥の席に駆け寄り、力いっぱい机を叩いた。新聞で顔を覆い隠すように座っていた男の肩がビクリと震えた。
「どういう事です? 許可は得られたはずですよね。今更、不開示なんて承諾しかねます」
男は新聞をゆっくり下ろし、わざとらしく空咳して首をかしげた。
「言ってなかったか、ちょっと事情が変わってな。あの映像のノイズの件、どうも本庁の勘違いらしくてな。俺も去年までいたが、まあそういう事もある。忘れろ。意味はわかるよな。俺にも立場ってもんがある。これ以上は深追いするな」
上司は高橋に目も合わせず、我関せずと再び新聞に顔を埋めた。高橋はその様子に唖然とした。
(何か大きな圧力がかかった? これはそれほどやばいヤマなのか。浮浪者を殺したあの若い男をかばう事になんの意味がある? いや違う、不自然に県警に情報を流し、男に圧力をかけ、ギリギリでなかった事にした。その間にいったい何があった? 俺はまんまと何かに利用されたのか? だとしたら……)
「くそったが!!」
高橋は激しく髪をかきむしり、怒り狂って椅子を蹴り飛ばした。
*
玄関で加地はうつむく紬の手を取り、両親に向き合って春空のように穏やな微笑を浮かべた。
「お父さん、お母さん。紬君の事は私にお任せください。これは彼の将来の為にもいい選択です。しばらくはお会いできませんが、本部での成長を暖かく見守ってください。それでは」
黙り込む両親の瞳には薄っすらと涙がうかんでいた。加地は特段気にしない様子で軽く会釈して玄関の扉を開けた。巧は焦った。俺のせいで弟が。
「だめだ、紬。行くな」
勇気を振り絞って声を上げた。加地はあきれたようにため息を付き口を開きかけたが、紬が制すように前に一歩出た。
「大丈夫。この人は信頼できる人だよ。僕の才能を認めてくれた。兄ちゃんは何も気にする事はない。僕自身が望んだ事。当分会えなくなるのは寂しけど、必ず帰って来る。それまでに、兄ちゃんも大活躍するぐらいの立派な選手になって!! 約束だよ」
その力強い言葉とは裏腹に、少し憂いを帯びた表情で紬はほほえみ、踵を返してさっと家を出た。
「ま、まて……」
手を伸ばした巧の前に加地が立ちはだかった。ニヤリと微笑むその悪魔のような顔。背筋がぞっと凍った巧はその場に力なく座り込んだ。その様子に満足したようにうなずいた加地は、再び両親に軽く頭を下げて出て行った。
「巧、紬ちゃんも言ってたでしょ。あなたはやる事がある。しっかり準備しときなさい」
真っ赤にはらした目を向けた母親に、いたたまれなくなった巧は、うつむき階段に駆け込んだ。
(俺のせいで、弟が……)
力なく二階に上がり、弟の部屋の扉が開きっぱなしの事に気づいて、そっと覗き込んだ。小学生にしては簡素で落ち着いた部屋。何かを調べていたのか、英文が表示されているモニターがぼんやりと光っている。
(もうここに弟はいない)
楽しそう語る弟が脳裏に浮かび、心にぽっかりと穴が空いた気がした。両親がいて、自分がいて、紬がいて。そんな当たり前の日常がまたたくまに崩れ去った。そして、予定通り四月からヴァルディに入団した。両親も大学の友人達も暖かく祝福してくれた。すべてが順調だった、弟がいないこと以外は。
*
瞬く間に五年が経過した。巧はスターターに名を連ねる事は叶わなかったが、状況に応じてピンポイントで投入されるなど、少なからず活躍をするまでなっていた。母親は家にいてもしかたないからとパートに出かけるようになった。父親は定年まであと五年かとぼやきつつ会社に通っていた。三人での生活にも慣れてきた頃、不意に紬が家に戻ってくると母親に告げられた。鼻歌まじりの母と大笑いする父。弟の笑顔が思い出され、巧の目の前もぱっと明るくなった。
「ただいま」
玄関に立つ紬に巧は目を細めた。
(ちょっと見ない間に、随分成長したな……)
身長も伸び、相変わらずほっそりとしているが、病弱な面影もなく立派な青年に成長していた。
母親はこぼれる涙を必死にこらえ、あふれる笑顔で弟を優しく招き入れた。父親と巧はそっと目を拭ってその様子を見守った。紬は春からIT企業に勤務する為に東京で一人暮らしをする、という事だった。巧は少し心配になったが、本人の希望という事もあり、それ以上は何も聞かなかった。寮生活の事、巧の事、両親の事。今までの隙間を埋めるようにその日は遅くまで家族水入らずで過ごした。
「久しぶりの実家だろ、一緒に散歩でもしないか? ずいぶんとこの辺も変わったぜ」
翌朝、巧はリビングでくつろぐ紬を外に誘った。珍しい誘いに驚いた紬だったが、快くうなずいた。子供の頃の紬はいつも部屋に閉じこもっていて、一緒に外で遊んだ記憶がほとんどなかった。一度、こっそり連れ出してその夜に高熱で寝込み、母親にひどく叱られた事があった。今の姿を見るとその心配はなさそうだ。家を出るとき、その大きく成長した背中を見て、誇らしげに感じた。
ここにあった空き地は住宅街になったんだぜ、車が多くなってこの辺も危なくなったよな、そういや近所の木村、結婚して二人の子供ができたんだ。
歩きながらあれ以降の出来事をとりとめとなく話したが、そうなんだ、と何処か上の空の弟の様子に巧は、はたと言葉を止めた。
(そっか、あまり外出してなかったもんな)
ふと遠くの古びた鉄橋が目に入った。あれは……。
「あの鉄橋の件は迷惑をかけて、本当にごめんな」
ずっと心の奥底で引っかかっていた言葉が自然と胸から溢れ出た。自分のせいで弟はあの不気味な黒服の男に連れて行かれた。あのとき隣で黙ってうつむく弟を見て、自分はやはり老人を殺したのだと確信した。薄れていた当時の記憶が鮮明によみがえった。ボロボロのブルーシート、白髪の老人、薄汚れたボール、鋭い目をした威圧的な警官。鼓動が早やまり足が震え、その場に立ち止まった。青ざめる巧に紬はぴたりと足を止め、すっと巧を見上げた。力強い眼差し。
「まだ気にしてたの? 大丈夫。兄ちゃんは何も悪い事はしていない。カメラには確かに細工をした。でも、あの人は本当に自分で転んだんだ。だから、安心して。そんな調子じゃ、試合にも影響でちゃうよ」
少し怒った様子で話した紬を巧は唖然と見つめた。
(自分で転んだ……本当に俺は殺していなかったのか……)
巧の狼狽える様子に、少し噴き出した紬は、以前のように、にこりと笑った。巧は心の中に、昔のようにじんわりと暖かい気持ちが沸き上がるのを感じた。あの出来事以降、常に自責の念にさいなまれていた。目を閉じればいつも、背後から恨めしそうにこちらを睨らむ老人を感じ恐怖した。シュートを打つ際、白髪の老人がコースに立ちふさがった。ビビりの岡本、周りから陰口をたたかれ苦しんだ。
弟は嘘をついている。俺が殺したから五年もの間、紬はあの黒服の男に拘束される事になった。しかし、その偽りの言葉を信じたかった。無事に帰ってきた。すべてが元通りに戻った。もう苦しまなくていいんだ。
「わあ、ほら見て。きれいな桜だよ」
不意に紬が顔を輝かせて前方を指さした。目を向けると小さな公園に見渡す限り満開の桜があった。
「近くで見てみようよ。はやくこっちに来て」
紬はひときわ大きな桜の元に駆け寄った。元気に走る姿に巧は驚きつつ、何年かぶりに来た公園に懐かしさを覚えながら続いた。
「初めて来たけどこんなきれいな公園が近くにあったんだね。すごいや」
紬は目を丸くして、咲き誇る桜を見上げていた。子供の頃はよくここで友達と遊んだ。そっか、紬は初めてか。
ガサガサ
桜の葉がかすかにざわついた次の瞬間、地面から渦巻くような突風が吹き上げた。複雑に入り組んだ枝木が激しく震え踊り、無数の花びら一斉に空に放たれた。時間にして三十秒程。数万もの花弁が縦横無人に舞い踊り、見回す全てが柔らかに流れる薄紅色の桜花に満たされた。
「桜吹雪……」
子供の頃に見た事があったが今回のは桁違いだった。紬は花びらの滝に埋もれながら口を開けて見とれていた。今まで見れなかった分、一気に神様がプレゼントしてくれた。巧は思いがけない幸運に感謝した。
桜を満喫した後の帰り道、巧は東京での仕事について弟に尋ねた。
「ん……と、まあ運び屋として……いや……普通のサラリーマンだよ」
まごつく様子を不思議に思いながらも、楽しそうな弟にそれ以上は聞かなかった。
数日後、弟が東京へ出発する日が来た。
「体には気を付けろよ」
「兄ちゃんもサッカーの試合あんまり無理しないで」
希望に満ち溢れたその笑顔を巧はまぶしく思えて目を細めた。しかし、その一年後、体調不良による自宅療養という理由で、急遽、弟は実家に戻ってきた。
*
(これは……誰だ?)
その一変した姿に巧は目を疑った。頬はげっそりとそげ、目をどす黒い隈が覆い、白髪まじりの髪はボサボサで肩までだらしなく伸び、浅黒い肌は細かい皺で覆われていた。その悲痛な姿に、巧は思わず目をそらしそうになったのを必死にこらえた。
(本当に、あの、弟なのか……)
紬は両親と軽く会話をしてフラフラと二階に上がり部屋に閉じこもった。
「こんな事は聞いていない!!」
電話口で叫ぶ母親の悲痛な声が家中に響いた。父親はそわそわと落ち着かない様子でリビングを歩き回っている。巧は心配になって紬の部屋に向かった。
「紬、入るぞ」
返事はない。焦って入ろうとした時、わずかな囁き声が聞こえ、そっと耳をそばだてた。
「アイ……コ……ス、ありがとう。やっとやり遂げた。大丈夫、あの子達ならきっとうまくやる。僕達が最後じゃない。これからはきっと……」
(アイコス?)
消え入りそうな声にひやりと背筋が凍り思わず飛び込んだ。薄暗い部屋で紬が目を閉じ一人つぶやいていた。
「つ……むぐ?」
独り言がとまり、ゆっくりと顔を向けた弟の姿に巧は唖然とした。ほほ笑むその瞳は薄緑色にまばゆく輝いていた。
「はじめまして、岡本巧さん」
ぼやりと何かが重なった。誰だ? 女性……いや、少女か?
巧は慌てて目をこすった。紬が虚ろに笑っていた。
「やあ、兄ちゃん。ひさしぶりだね」
かつてと同じ、その暖かい眼差しを岡本は呆然と見つめた。
夕食、時折笑顔も見せた紬に、巧は少し安堵したが、母親から明日、精密検査を受けるといういわれ、再び不安に襲われた。その夜、巧は紬と同じ部屋で寝る事にした。Jリーグでの活躍、給料も結構もらえる事、ファンクラブなんてのもあるんだぜ、おどける巧に、紬は笑って頷いていたが、自分の事は何も話そうとしなかった。
(もうそろそろ寝るか……)
段々と元気を取り戻しつつある弟に安心して欠伸をした巧に、紬が顔を向けた。
「兄ちゃんは相変わらず元気だね……」
唐突な弟の言葉に困惑した巧は、戸惑いながら頭をかいた。
「な、なんだよ、急に。お前も、昔に比べたら全然、元気になったと思うぜ。まあ、今は体調をくずしちまったが、すぐに良くなるよ」
ニヤリと笑って、ごろんと天井を見上げた。ぐすん……鼻をすする声に慌てて巧は紬に目を向けた。ぽろぽろと涙を流してむせび泣く弟に唖然とした。
「今日、兄ちゃんと話せてホント楽しかった。こんな姿になった僕を、変わらず受け入れてくれて、本当にうれしかった……」
「な……なんだ急に。こんな話でもよければ、これから何度でもしてやるぜ。それに、お前の姿。ちょっとビックしたけど、それだけ仕事が忙しかったて事だろ。充分やすめば、すぐによくなるって」
思いつめた態度に戸惑った巧は、元気づけようと軽口をたたいた後、心配になって弟をじっと見つめた。
(いったい、何があったんだ? ここまで追い詰められるなんて、異常だ)
「紬……お前、一体何があった?」
それは……黙り込む弟に、巧は手に汗を握った。チクタクチクタク……静かに刻む時計の音。しんと静まり返る部屋で、高まる動悸をこらえながら、巧はじっと弟の答えを待った。不意に紬はゆっくりと起き上がり、首に手をやり、何かを取り外した。
「これを……兄ちゃんに……」
これは? 眉をひそめた巧は小さな黒いペンダントのようなものを受け取った。なめらかに輝くその漆黒の表面には、美しい桜の花びらが舞い散る様子が刻まれている。
「また、しばらく会えなくなると思うから、これを僕だと思って……」
その言葉に巧は背筋がぞっと凍った。
「ば……いつだって会えるだろ。東京なんてすぐそこだぜ」
慌ててペンダントを突き返した巧に、紬は首を振った。
「兄ちゃんに持っていてほしいんだ。でも、絶対に無くさないでね!」
有無も言わせぬ力強い眼差し。巧は戸惑いながらもふっと笑った。昔からそうだった。一度言い出したら、頑として曲げない所はかわってねぇな。あきらめて手を引っ込めた。
「あの〝桜吹雪〟 覚えてる? あれがとってもきれいで、ずっと覚えていたいって思って……」
桜……吹雪? ペンダントに刻まれた桜をぼんやりと眺めながら、あの記憶をさかのぼった。滝のように空から舞い降りる桜の花びら。確かにあれはすごかった……
「そうだった……な……あれより、もっとでかい木があるところ、知ってるぞ。元気になったらまた行こうぜ!」
うん。にっこりと笑った弟に巧は、ほっと肩の力を落とした。さっきの表情、二度と会えなくな気がしたが、まだまだ、元気そうだ。ふと顔を上げた巧は目を丸めた。時計の針は十時をすでに回っている。
「おっと、こんな時間だ。もう寝るか。明日は病院だろ。しっかり先生にみてもらって、体を直さないとな。後、仕事は無理すんな。親父もよくいってだろ。人生、ほどほどってな」
にやりと笑った岡本は、優しく弟の布団をかけ直した。ありがとう、安心したように紬は目を閉じ、うっすらと瞼を開いた。心配そうにこちらを眺める兄。
(兄ちゃん、今日は本当に楽しかった……あとはお願いします。彼らを、AI×OSを、秋山君と共に暗闇から救い出して……)
「おやすみ、兄ちゃん」
「ああ、お休み、紬」
(よっぽど疲れていたんだな)
すーすーと寝息を立て始めた弟に、遅くまでつき合わせたことにを少し後悔をした。
(さて、俺も寝るか……)
手にもつペンダントを枕の上に置いた。わずかな月明かりに照らされて、惑わすように輝いている。
(こんな珍しいもの、どこで買ったのか、明日聞いてみよう……)
ごろんと布団に寝転がった巧は、すぐに深い眠りに襲われた。その夜、紬は突然、容体が悪化し、緊急搬送され、そのまま帰らぬ人となった。