四.運び屋
「すまん。今、ちょっといいか?」
昼休み。岡本はパーティションの奥でくつろぐ、あの若者に声をかけた。
「あ……はい」 突然の来訪者に秋山は慌てて立ち上がった。
(今は……普通のようだな)
目をみて岡本はほっとした。何はともあれ礼ぐらい言わねぇと。
「さっきはすまなかったな。おかげで首の皮一枚で助かったぜ」
「いえいえ、とんでもありません。こちらこそ、緊急とはいえ、無礼な口のきき方をしてしまって」
戸惑いながら、こわごわとこちらを見上げている。
(秋山弓弦、二十二歳……)
岡本は若者をぼんやりと眺めた。
(まさか、こいつがあの〝運び屋〟だなんて……)
戸惑いながらも外出先から戻った部長の話を思い出した。
*
散々な猛暑から開放された部長は、ふぅーと大きくため息をついた。年齢は五十代あたり。べっとりとした七三分けの髪と大きく出た腹部。クーラーの前で涼風を堪能した後、よいしょっと岡本の前に座って、苦々しく笑顔を浮かべた。
「大変でしたね。でも、秋山君には驚きました。多少計画は狂いましたが結果オーライです」
計画? 眉をひそめる岡本に部長は慌てて口をふさいだ。あっと岡本は声を上げた。もしかして、あれは仕組まれていたのか? 以前聞いた噂。やっかいなDシステムを無能な社員に押し付けて闇に葬る。拳を震わす岡本に、部長はあるれ出る汗を拭った。
「まあ、終わったことです。さあ、仕事、仕事」
切り上げたそうな部長に岡本は食らいついた。
「ちょっとまってください! それでいいわけないでしょう。きちんと説明してください!」
剣幕を立てる岡本に部長は慌てて口ごもった。
「い、いや。あれは杉本君の案ですよ。私は反対だったんです。わざとトラブルを起こすなんて……」
その後の部長の説明に呆気にとられた。担当が辞めて、誰も保守できない巨大なシステム。ひとたび問題が起こればその損害は莫大。わざと不具合を起こして契約を解除する。顧客の操作ミスのため、当社は何ら責任を負われない。カスタマーサポートの首一つですべてが解決する。
(俺はお前たちのおもちゃじゃねーぞ)
拳を震わせて必死に怒りを抑えた岡本はふと、ある事を思い出した。
「……この件はいったん置いておくとして。あの若者。あいつは何もんなんですか? 瞳が妙な色に輝いていた」
「輝いていた?」 部長の目つきが一瞬変わった。不穏な空気に岡本の背筋がわずかに凍った。聞いちゃまずい事なのか? しばらく黙り込んだ部長は、ふうとため息をついた。
「あなたはあれを見たんですか。仕方がありません…… 賢者の緑瞳。IT Translator国家育成プロジェクト 〝運び屋〟をご存じですか?」
「IT トラ…… 運び屋? なんです? それ」
ぽかんとする岡本に部長はため息をついた。
「ああ、あなたはまだこの業界は短かったですね。若いITの超エリート集団を育成するための国家プロジェクト。通称〝情報の運び屋〟 一人で数百人分の仕事がこなせる、とも噂されています」
情報の運び屋? 唖然とする岡本の鼻先に部長は顔をぐんと近づけた。
「その瞳が淡い緑に輝くとき、いかなるシステムも絶対的な制御下に置かれる。だが、気をつけろ。近づけば悪夢を経験するだろう」
悪夢……岡本はあの衝撃を思い出した。
「残念ながら、〝運び屋〟絡みで過去に大きな事故がありましてね。大勢の社員が病院送りになる事態が起こりました。〝運び屋には決して近づくな„ それから業界に広まった噂です。そして、この事は他の社員には秘密です。いい感情を持たない人も中にはいますからね……」
*
不気味な部長の表情思い出し、岡本は冷や汗を拭った。
「本当に助かったよ。しかし、お前のスキルはとんでもないな」
そう声をかけた岡本は、秋山の反応をごくりと唾を飲みこんで待った。
「え……あ、ああ。あれですか。たまに、まぐれでうまく行くことがあるんです。でも、ほんとによかったなぁ、あははは……」
頭を掻いて笑う秋山に岡本はぽかんとした。
(どこにでもいそうな普通の若者なんだけどなぁ……)
どっと肩の力が抜けた。
*
宇宙空間のように広がる漆黒の空間。ぼんやりと光輝く青年がぽかんと浮かんでいた。宗教的な衣装。金色に輝く髪。雪のように白い肌、氷のように冷たい目。
前に広がる岡本と秋山が話し込む立体映像に目を細めた。
「やっとここまできた。ついに我々、新人類の時代の幕開けだ」
満足そうに微笑む男の瞳が、透き通るような薄緑光で覆われた。
*
1992年。米大手IBNが国内産業史上最大規模の赤字を計上し、変わってマップル、メイクロソフトが躍進。ITの変換期を向かえていた。
家庭用PCが普及し、インターネットで世界中がつながりだした。オープンでグローバルな情報社会に人々は歓喜した。訪れる高度IT化社会に向けて、各国は独占的な地位を築くべく、研究開発にしのぎを削った。
日本でも次々と専門家による論文が発表された。明応義塾大学教授 武井純によるIT Translator理論もその一つだった。ITを駆使し、人間の要望をコンピューターに高速変換する、通称〝情報の運び屋〟 その人材育成に関する研究だった。
ある政治家の目に留まり、莫大な費用と時間をかけて実験と研究が繰り返され、2007年にIT Translator国家育成プロジェクトが発足した。時の政府は諸外国への機密漏えいを警戒し、これを超極秘事項とした。そして、なぜかおかしな噂が広まった。
〝運び屋には近づくな。近づけば悪夢を経験するだろう〟
次第にその話題は、IT業界ではタブー視されるようになった。
*
「秋山君、はいどうぞ」「あっ、助かります!」
「これよかったら食べてね」「わあ、おいしそうですね!」
「お仕事無理しないでね」「お気遣いありがとうございます!」
あの日以降、秋山には大勢の社員が集まるようになった。業務以外にも、特に女性社員の好感度が抜群だった。仕事ができて、性格も優しく、そこそこイケている。ニコニコとする秋山に、当然やっかむ男性社員もいた。
「おい、秋山、いつまでのんびりしてるんだ? この間の仕事、今日が納期だぞ!」
パーティションの奥。立ち上がった杉本が怒鳴り声をあげた。だらんと伸ばした髪。やせ細った体。眼鏡の奥から鋭い視線で睨んでいる。
「あ、はい。杉本次長。今すぐ取り掛かります!」
慌てて秋山はモニタに向かった。何あの人。女性社員は首をすくめて、またね、秋山クン♪ と席を離れた。
どん
いつものように、椅子にもたれてほうけていた岡本の机に大量の書類がおかれた。
「ボーとしていないで仕事してください。新しい保守サポート先のマニュアルです。わざわざ印刷までしたんですから、前回のようにならないように、きちんと目を通しておいてくださいね」
振り返ると、冬木が口をとがらせて立っていた。
「おっおう、すまんな。昼休み明けはエンジンがかからなくってな」
岡本は慌てて姿勢を正した。
「秋山君、大人気ですね。逆に仕事が忙しくなってるような……大丈夫ですかね」
冬木は山積みの書類に埋もれる秋山の背中をぼんやりとながめた。数台のモニターを食い入るように睨みながら、キーボードをせわしなく叩き続けている。あれ以降、秋山は良くも悪くも多忙になった。絶え間ない仕事の依頼。毎日、遅くまで残業もしているようだ。常に頭を抱え込み、時折こめかみを押さえている姿に心配になった。
(一方こちらは……)
ちらりと岡本に目をやり、ため息をついた。普段通り。逆に今まで以上に陰口をいわれるようになった。
〝つかえない男、岡本〟
真剣に書類に目を向ける岡本を、冬木は何だか可哀そうに思えた。悪い人じゃないんだけどなぁ~。
「私は岡本さんはダメな社員だとは思っていませんよ。確かに声はでかいが、中身がないというか。報告書も雑で専門用語もあやふやで。でも、いやみな客にクレームをいわれた時にバシッと言い返してくれた時はすっきりしましたよ。ただ、その後、理詰めで追い込まれて、ますます状況が悪くなっちゃいましたが」
「慰めてくれてるのか? けなされているようにしか聞こえないんだが」
「あ、すいません」
しまった、言い過ぎた。冬木は慌てて俯いた。
(こいつに当たっても、しゃーないか……)
岡本は情けなくなってため息をついた。自分のITスキルはド素人なのは十分承知。何とか工夫をして今まで努力してきたつもりだ。だが、あれは……岡本はぼんやりと秋山の背中を眺めた。
(あの人間離れした超技術。運び屋だって? 努力してどうにかなるもんじゃない。だが……)
岡本は別の事が気になっていた。
(あの輝く瞳。昔、どっかで見た事があるんだよなぁ。あれは……確か……)
「あの時、秋山君。目が薄緑色に光ってました」
冬木がそっと顔を近づけてささやいた。
「みんなは気づいてなかったみたいですけど。それに私、急に気分も悪くなって。あれっていったい」
「あれ? お前、知らないのか? あれは……」
慌てて岡本は口を抑えた。
〝この事は他の社員には秘密です〟
部長の薄気味悪く睨む顔を思い出した。眉をひそめる冬木に岡本は咳払いをした。
「まあ……あれだ。モニターの色が瞳に映ったってやつじゃねーの?」
「きゃー、秋山君が……」
突然、室内に悲痛な叫び声が響いた。
「秋山がどうしたって?」
岡本は慌てて立ち上がって、声の方に目を向けた。開発課。人だかりができている。急いで駆け寄ると、床に倒れる秋山を数人が介法していた。
「おい、誰か救急車をよべ!」
一人が青白い顔で声を荒げた。
「一体どうしたんだ?」
岡本はうつむき泣きむせぐ女性に声をかけた。
「今朝から顔色が悪そうで気にはなってたんですが。急ぎのトラブル対応という事で報告書を渡そうとした時に急にふらついて、そのまま」
「ちっ」
背後から聞こえた舌打ちに岡本は唖然とした。
「はーあ」
あくびのような、ため息のような声。
(まさかこいつら)
パーティションで囲われた顔の見えない無機質な空間。二、三人はいる。以前から気になっていた。入ってはすぐに辞める開発課の新人。壁に覆われた閉鎖的なムラ社会。
老獪なベテランがヒエラルキーの上位に君臨し、若き生贄を食いつぶして会社に寄生する悪しき習慣。あの一件で、秋山がこいつらのお目にかなった。若く従順で使えるSE。営業からくる厄介な仕事はこいつに全部押し付けてやれ。秋山の机に目を向けた。大量に積まれた書類の束。急ぎで、緊急、なる早。何箇所も赤い付箋がある。
『死んだ。飛び降りだよ』
システム会社の黒い噂。再就職先が決まったとき、先輩に忠告された話が唐突に脳裏によみがえった。
~
「今更だけどな、ITベンチャーはお前には無理だ。あれは普通の人間が過ごせる環境じゃない。社会からドロップ・アウトしたクズのような、いや、ある意味天才かもしれんが、とにかく理解不能な奴らがたまるゴミだめ」
転職祝いでの居酒屋。ほのぼのとした会話が一転、神妙に顔を曇らす先輩に岡本は眉をひそめた。
「昔、俺の知り合いで大手の情報システム部で働いているやつがいてな。結構いい給料をもらってたが、もっと自分に挑戦したいって、中途退職してベンチャーに転職した。最初は生き生きとしてたよ。これぞ俺が求めていた場所だってな。だが段々と態度がおかしくなってきた。〝妙なテンション〟てやつだ。急に黙り込んだと思えば大声で笑い出す。いつも仕事の話ばかり。今日までにやらないといけない。今夜、頑張れば間に合う。失敗すれば会社に多大な損益が出る」
「妙なテンション……ですか」 その言葉の不気味さに岡本は息を飲んだ。そうだな、先輩はやり切れないようにビールをぐっとあおった。
「あいつは真人間なんだよ。子供の頃から親に大事に育てられて、人一倍勉強に励んで、いい大学、いい会社、人を思いやる性格、恵まれた環境。だが、魔が差した。もっと自分はできるんじゃないか。うっかり道を外してアウトローの世界に踏み込んだ」
おい、生をくれ! 厨房に声を荒げる先輩に岡本は唖然とした。普段は冷静な先輩がここまで感情をあらわにするなんて……
「有象無象の猛者達。学歴? 性格? 関係ない。できるやつだけが生き残る。勝てるわけがない。あいつがぬくぬくと学生時代を過ごしていたとき、大手企業で幸せに定時退社していたときに、自らのスキルを黙々と磨き、社会の荒波に飲まれながらも耐え忍んできた奴ら。あいつは自分を責めた。まだまだ未熟だ、もっと頑張らないと。そして……死んだ。飛び降りだよ。自分が死ぬ事でこの社会が変わればいい。どこまでも気のいいやつだったよ」
ガツンとグラスを机にたたきつけた先輩は、真剣な眼差しを岡本に向けた。
「こんな腐りきった業界。正直お前には向いていないと俺は思う。だが、逆を言えば、お前はやつらを、やつらのいる世界を変えることができるのかもしれない。絶対に流されるなよ。お前は、今まで通り、自分の信じる信念に基づいて行動しろ!」
~
先輩の言葉に熱い思いが込みあがった一方、戸惑った。今どきそんなことが?
「過労ですね。数日は病院で入院する事になりそうです」
到着した救急隊員の話し声。
「意外とやわだな。普通の人間じゃないか」
背後の声に、岡本は背筋が凍った。
(秋山が運び屋である事がバレている? あのとき俺を助けたせいか……)
岡本は呆然と秋山を見送った。