三.絶体絶命
ピーピーピー……
おっときたか。顧客からの着信に岡本は意気揚々とヘッドセットを付けた。
「はい、メガソースです。ええ……え?」
大声を上げた岡本に周りの社員が驚いて目を向けた。わかりました……岡本は震える手でヘッドセットを外した。
「岡本さん……どうしました?」
冬木は心配にそうに尋ねた。岡本は呆然とした表情で答えた。
「システムトラブルが起きた。電力市場の相場が荒れているようだ。十二時までに対応しないと十億の損害がでるらしい」
そんな……冬木の顔色がさっと青ざめた。なんだ、どうした? がやがやと騒ぎ出す周りの社員。岡本はちらりと時計を見た。残り十五分。
(しかし、十億だと? いったい何桁のゼロが……いや、余計なこと考えてる場合じゃねぇ。とりあえず、開発課に……)
勢いよく席を飛び出した岡本は、ふと足を止めた。
(いや、まて、あの案件は確か……)
慌てて机に戻り、引き出しを漁って取り出した資料に背筋が凍った。〝D〟と書きなぐられた付箋。
「岡本さん、それってまさか、Dシステム?」
一目見て冬木が青ざめた。「くそったれが!」 岡本は拳を握り締めて声を荒げた。既に開発者は退職。社内で誰も保守できない〝死に案件〟 適当な対応でいけると高をくくっていた。まさかこんな被害がでるなんて。冬木が悲痛な表情を浮かべた。
「Dシステムはカスタマーサポートが対応する規則です。でも、こんな大型案件がどうして?」
岡本は震える手を握り締め、椅子を蹴り飛ばして遠隔室に走った。ちらりと見た時計。後十分。間に合うのか? 勢いよく部屋に飛び込んだ岡本は、恐る恐るモニターの電源を入れた。
〈致命的なエラーが発生しました。エラーコード:120132〉
慌てて手順書を震える指で追った。
(違う、違う、これじゃーね……あった!)
書かれたページを開いて、顔が固まった。
<エラーコード:120132。イレギュラーバリューによりシステムレンジをオーバーフローしています。メモリクラッシュを防ぐためにも、プロセスが一時的にアボートされます。フォーススタートするにはコンフィグファイルのIGNORE-OVER-FLOWをTRUEに設定後、システム、またはサービスをルート権限でリブートしてください>
「イ、イレギュラーバリューに、より、システム、レンジ? を、オーバーフロー……?」
(だめだ。全く頭に入ってこねぇ……)
岡本は唖然とたたずんだ。
「岡本さん。残り五分です!」
背後の冬木の声。岡本は、はっと我に返った。
やばい、ボケてる場合じゃ……突然、怒り狂う客と、冷ややかな眼差しの社員に取り囲まれる映像が浮かんだ。多額の借金を負わされた日々。妻と娘の涙を浮かべる姿。岡本は振り切るように頭を振った。
(あきらめるな。とにかく冷静にもう一度……)
部屋の入り口には、いつも間にか大勢の人が集まっていた。秋山も固唾を飲んで見守っていた。
「なんでも十億の被害がでるみたいよ」
背後から聞こえた声に秋山は目を丸めた。
「ふ~ん。まあ、〝あの使えない男〟じゃあ、無理だな。ご愁傷様」
けらけらと笑う声に唖然とした。「ちくしょう!」 大声に慌てて秋山は遠隔室に目を向けた。岡本が険しい表情でモニターを睨んでいる。秋山は手を握り締めた。
(あと二分もない、このままじゃ……まずい!)
秋山は人だかりをかき分けて部屋に飛び込んだ。
「私に見せてください。ちょっとその手順書いいですか?」
岡本は慌てて振り返った。どこかで見た顔。今朝のあの新人か?
「時間がありません。そこをどいて!」
「あ……ああ」
その勢いに圧倒されて、岡本は席を譲った。しばらくモニタを凝視していた秋山が、ほっと表情を緩めた。
「なんだ、そういう事か。とりあえず、設定を変えて、管理者権限で再起動っと」
秋山はキーボードに両手を掲げた。まるで今からピアノの協奏曲でも始めるかのようなピンとした背筋。
タタタタ……
そのしなやかな指が滑らかにキーの上を踊った。時間にして数秒。
ピ――――
「あれ、おかしい」 眉をひそめた秋山に、岡本は青ざめた。
「おい! どういう意味だ!?」
不意に秋山が岡本に顔を向けた。何かを心配するような、迷うような眼差し。
(今やれば、この人たちに影響が……でも、他には方法が……)
「岡本さん、あと一分です!」
冬木の叫ぶ声に青ざめる岡本。秋山の瞳が決心したように輝いた。
(迷っている場合じゃない……やるんだ!)
モニターに向かい、大きく息を整えた。
ガガガガ……
唸り声のような音が室内に響いた。なんだ? 岡本は不穏な雰囲気にあたりを見回した。見守る社員たちも、何かを感じた様に戸惑った顔をうかべている。
チ……チチチ
照明の光がわずかにチラついた。
ピ――ピ――ピ――
周囲の機器のつんざく電子音。
がさり
突然、冬木が真っ青な顔をして座り込んだ。
(なに、このへんな感じ、何かが私の中に入ってくるような……)
青ざめ、助けるように冬木は岡本に目を向けた。
「おい! どうした?」
駆け寄ろうとした岡本も、視界がぐらつき、その場に膝まづいた。頭の中が渦巻き、吐くような不快感と背筋に流れる冷たい汗。真っ白になった目の前に、慌てて首を振って、持ちこたえた。
不意に、背後に異様な気配を感じた岡本は恐る恐る振り返り、目を丸めた。蜃気楼のように歪む男の周辺の空間。
(まさか……こいつが、やっているのか?)
その顔を見て唖然とした。透き通ったガラスのように輝く薄緑色の瞳。
ブ――ン
男の足元のサーバが激しい唸り声をあげ、モニターに映る真っ黒な画面に大量の英数字が流れた。鋭い眼差しでじっとその様子を眺めていた男の口がわずかに開いた。
「if ignore flg is ……」
「なんだって?」 突然の言葉に岡本は眉をひそめた。男は微動だにせずモニターを見つめたまま、口を動かしている。
「true then five thousand assign to sum_value else one thousand assign to sum_value……」
呪文のように囁く声は、次第に熱を帯び、怒涛に流れ出す滝のように部屋中に響いた。
(こいつ、いったい何を言ってるんだ?)
呆気にとられた岡本は、男の見つめる先のモニターに目を向けた。
0a 23 69 6e 63 6c 75 64 65 20 3c 73 74 64 69 6f 2e 68 3e 0a 23 69 6e 63 6c ……
真っ黒な画面にびっしりと羅列されている意味不明な文字。機械音声のように正確に、無機質に話し続ける男の声に岡本は背筋がぞっと凍った。
*
「馬鹿な……」
社員で溢れかえった遠隔室入り口。目を見開いて唖然とする、四十代の男性社員が狼狽して声を漏らした。隣に立つ若い社員が不安そうにつぶやいた。
「杉本次長。まさか、あいつ実行コードを逆解析をしてるんじゃ。でも、逆コンパイラも無しでそんなことできるわけ……」
杉本と呼ばれた男は苦々しくうなずいた。
「信じられんが、あいつが呟いているのは、俺が手を加えたコード。という事は……まずい!」
*
「if debug flg is」
不意に、秋山の声がピタリと止まった。
「あった……な~るほどね! 杉本次長も人が悪い。でも残念♪」
秋山は、にこりと微笑んで、愛おしそうに足元のサーバーに目をやった。
「さあ、君たち、ちょっときついけど我慢してね。すぐに、元の綺麗な状態に戻してあげるよ」
秋山の瞳が、眩い緑の閃光で覆われた。突然の光に慌てて目を伏せた岡本は、異様な感覚に、いいようのない恐怖を感じた。
(なんだ……何かが自分に迫ってくるような……ここにいたら……まずい!)
直観的に感じ、体を振り絞って立ち上がった。
ガツン!
突然、頭に走った衝撃。岡本は、腰から砕け落ちるように、その場に倒れ込んだ。
ブォォーーン ガリガリガリ……
サーバーが苦しむような唸り声をあげ、まるで断末魔のようにガタガタと震えた。
「もう少し……罠コードを削除して、注釈を解除。正常コードを復元させて、不要なリターンを消去……変換、タスク削除、実行……よし!」
秋山はじっとサーバー見つめた。その声が終わるや否やに、サーバーの激しい震えが、何事もなかったかのように、ぴたりと停止した。
〈ピ―――復旧しました。エラーは解消されました〉
十一時五十九分。真っ赤な警告メッセージは消え失せ、普段通りの、穏やかな淡い青色のモニターに変わった。おおぉと周りの人だかりから声が上がった。
秋山はふうと息をついて肩を降ろし、慌てて倒れこむ岡本に駆け寄った。
「あの……大丈夫ですか?」
ううっと声を漏らした岡本に秋山はほっとした表情を浮かべた。
(よかった、意識はあるようだ。女性のほうも問題ないようだし……)
床に座り込む冬木に目を向けた秋山は、安心したように立ち上がり、ぼんやりと部屋の外を眺めた。窓から大勢の人たちが目を丸めてこちら見ている。秋山は諦めたようにため息をついた。
(やっちゃったかな……この会社は、結構気に入ってたんだけど)
視線を避けるようにうつむき、出口に向かった。
「おい、お前!」
人込み溢れる廊下に出た直後、かけられた声に、秋山はびくりと肩を震わせた。
「お前、もしかして……」
秋山は恐る恐る顔を上げた。険しい顔でこちらを見つめる社員達。やっぱ……ばれてる?
「あ……いや、あれは、その、たまたま、お二人の調子が……」
「お前、もしかして、天才か?」
どっと、破顔した社員の顔に秋山は呆気にとられた。
「秋山きゅ~ん♪ やっぱ君はサイコーだよ!」
山下が飛び跳ねて踊りだした。
「キャー 君、名前は? どこであんなすごいスキル身に着けたの?」
女性社員達が目を輝かせて秋山に駆け寄った。
「え、えーっと」
頭を掻く秋山を取り囲んで大騒ぎする社員達。ぽつんと離れた場所で、その様子を杉本は苦々しく見ていた。
「信じられん……まさかあれを回避するとは。だが、あの瞳の色……どこかで……あ!」
何かを思い出した杉本は思わず声をあげた。
(九年前のあの百億のトラブル。〝あいつ〟も同じ目をしていた。ということは、こいつも……〝運び屋〝か?……)
杉本は目を閉じてあの頃を思い返した。
(あの時、〝あの男〟のせいで、何十人もの社員が犠牲になった……こいつも同じ……この緑目の悪魔め……)
怒りの表情で秋山を睨み続けていた杉本は、ふと、思いついたように、ニヤリと口元を緩め、つぶやいた。
「上等だ。お前のその能力。あいつ同様、骨の髄まで搾り取ってやる」