二.MegaSource
九年後。2022年、夏。都内にある中型ビルの一角。無機質な廊下を抜けた先に広がるカフェのような空間。
ソフトウェアベンチャー MegaSource
暖色系のフロアに針葉樹が飾られ、ビンテージ風のソファと机が程よく点在。洗練された空間で、多くの若者が忙しそうに駆け回っていた。
「秋山く~ん、これなんだけどさ。見てもらいたいんだよねぇ~」
営業部と書かれたプレートの下。茶髪にピアスをした若者がくちゃくちゃとガムを噛みながらモバイルパソコンの向きを変えた。秋山と呼ばれた若い男は真剣な表情でモニタに目を向けた。二十代前半。さらりとした髪と色白の肌。真面目そうなその眼差しがきらりと光った。
「……えっと、そうですね。一つ無理な仕様があります。ここです。検討中のAIではPDFの読み込みには対応していないので難しいですね」
秋山は残念そうにモニターを男に向けなおした。「ホントに?」 営業は目を丸めてモニターに顔を近づけ、関心したようにうなずいた。
「ほんとだ。さすが秋山きゅん! 事前に聞いておいてホントよかった♪」
いや~、照れくさそうに頭を掻く秋山に営業は険しい表情を向けた。
「でも、なんとしないと、まずいよなあ~。でも、秋山きゅんなら、ちょちょっと手を加えれば、いけるんじゃない? 午後までにお願いできないかなぁ~♪」
「午後まで? あと二時間もないので……それはさすがに……」
すかさず営業は秋山の手を握って、うるわす眼差しをむけた。
「そういわないで……俺、これが取れねーとまじで、やばいのよ。一生のお願い!」
頭をさげる山下に、秋山は慌てて体を起こした。
「ちょ、山下さん。顔をあげてください。そこまで言われるのであれば、わかりました。なんとか頑張ってみますよ!」
「秋山きゅん……君ってやつは」 肩を震わす山下を、秋山は優しい眼差しで見つめた。
(よかった。困っている営業を助けるのも、開発の役目だ)
「……う……うう……うわ~い♪」
両手を上げて、まるで小さな子供のように笑顔で立ち上がった山下に、思わず秋山は席から転げ落ちそうになった。
「これで今月の目標が達成できるぞ! 秋山きゅん、ありがとう!」
目を輝かせて躍る山下を唖然と見つめる秋山。
(しまった、またこの人のペースに……)
不意に山下が、神妙な顔をして秋山に顔を近づけてきた。
「前から思ってたんだけど……きみって、もしかして、あの〝運び屋〟?」
ぎくりと肩をひそめた秋山は、首をふって強張りながらも笑顔を浮かべた。
「そ、そんなはずないじゃないですか~ 僕があの恐ろしい運び屋だなんて。山下さんも冗談がすぎますよ~ あは、ははは……」
引きつるように笑う秋山を、山下は訝しるように眺めた。
「ふ~ん。ま、いっか。君が誰であろうと、仕事ができることには変わらないし。たとえ〝運び屋〟だとしても、俺は仲良くしていく自信はあるぜ!」
ぐっと親指を立てて山下は笑顔で立ち去っていった。
(段々と怪しまれている……正直〝あの力〟は、あまり使いたくないんだけど……)
時計を見てため息をついた。残り1時間半、普通にやっていたら、とても間に合わない……
「しかたないか……」
秋山の瞳の奥に淡い緑の光がともった。あっ、ここじゃまずい。慌てて頭をふった秋山は、急いで席を立った。
*
「ご迷惑をおかけします。どのようなトラブルでしょうか?」
部署に戻る途中。きりっとした女性の声に秋山は足を止めた。フロアの一角。蛍光色で照らされたピリリとした空間。ヘッドセットをつけた社員たちが、忙しそうにモニターに向かって話し込んでいる。
(さっそく、客からのクレーム。保守も大変だなぁ)
秋山は同情するように眺めた。
「申し訳ございません!」
フロア全体に響く大きな声。体育会系特有の、少し暑苦しい声色。カスタマーサポートの一席。屈強な体躯をした大男がモニターに向かって、何度も頭を下げていた。
「容量オーバー……ですか? この岡本めにお任せください。ご希望に添えるよう心を込めて……え、能書きはいいから、はやく? 申し訳ございません」
岡本と名乗った社員は深々と頭を下げた。数十秒の静止……よし、と勢いよく顔を上げた。百九十はある身長。がっしりした体格。キリッとした眉と、見るものを惹きつける瞳。
(あれが噂の……)
秋山は立ち止まって様子を眺めた。岡本は慣れた手つきで鉛筆を握って、紙に勢いよく書きだした。
カタカタカタ……
場違いな音。隣の女性が苦々しく眺めている。
「よし、こんなもんかな。やっぱ手書きだと仕事がはかどるぜ。すまん、冬木。また、この入力と印刷をたのむ。ちょっと休憩してくるな」
冬木彩(二十五歳)は諦めたように紙を受け取った。ウェーブした髪、はっきりした目鼻立ち、小柄でほっそりとした体形。
(またか……)
「……はい。わかりました」
すこし口を膨らせながらも冬木は渋々受け取った。周囲の社員は二人の様子に失笑している。
(まったく、面倒なことはいつも人任せ。どうしてこんな人が上司に……)
冬木の苦々しい視線を尻目に、顔を上げた岡本は、ぼーと立つ秋山に気づいて、うれしそうに声をかけた。
「よう、おまえ開発の新人だな。ちょっとこれ、持ってってくんねーか。いやー助かったぜ」
「あ……はい」
どさりと、大量の資料を渡された秋山は、慌ててその場でふらついた。「んじゃな!」 手を挙げて戻っていく岡本を秋山は唖然と見つめた。
(今どき鉛筆、しかも印刷……〝使えない男 岡本〟 やっぱりちょっと変わってる……)
気を取り直して前を向き、気づいた時計に慌てた。しまった、あと1時間しかない。落ちそうになった書類を慌てて持ちなおし、秋山は自席に走った。
*
休憩室から戻った岡本はため息をついた。入社して三年。客の電話に謝罪して開発課に回す日々。なかなか精神的に……慌てて背筋を正した。
(何くだらねぇ事を……一度は人生を諦めた身。お世話になった人達もいる)
岡本はぼんやりと、つらく厳しかった三年前を思い出した。Jリーグでの悲劇的な敗戦。酔った勢いでサポーターと起こした暴力事件で、引退を余儀なくされた。糸が切れた凧のように、無気力にすごす日々。毎日、静かな海を港のベンチから眺めた。引き込まれるように穏やかに刻む波音。こんなことなら一層……濡れた足に気づいて絶望したこともあった。しかし……
机に飾った笑った女性の写真。
『ええ、もちろん。私は東京ヴァルディの永遠のサポーターよ。困っている選手は見過ごせないわ!』
彼女の明るい笑顔が俺に光を与えてくれた。そして……。隣で笑う幼い少女。
『おとーたん、おちごとがんばってね』
こちらを見るまっすぐな眼を思い出し、心がスーッと洗われたように感じて、思わず涙が溢れ出た。
「くそったれ! 泣き言、いってる場合じゃねーぜ。とにかく頑張らねぇと。えーっと、次は……」
手元に積み上がったクレーム報告書に慌てて手を伸ばした。