一.プロローグ
「これは……誰だ?」
2013年。深夜の救急医療センター。運び込まれた患者を一目見て医師は目を疑った。乱れた白髪、ガリガリにやせ細った体、深い皺と浅黒く変色した肌。心電図が示す無秩序な波形は、その機能が崩れ行くのを残酷にも示していた。
(十七の若者と聞いていたのに……これじゃあ、もう手の施しようがないじゃないか)
うろたえた医師はしばらく呆然と患者を眺めた後、首を振り、震える手でベッドに手を伸ばした。
「それ以上は手を出さないでもらおうか」
突然に背後から響いた声に、慌てて振り返った医師は見知らぬ男に目を丸めた。四、五十代。漆黒のスーツをまとった、氷のように冷たい眼差し。
「き、君は誰だ? 関係者以外立ち入り禁止……」
背後から現れた人影に唖然とした。
「訳は後で話す。今は時間が無い。まずは彼に任せてくれんかのぉ」
い、院長……それは一体、どういう……唖然とする医師を軽く制した謎の男は、ベッドにゆっくりと近づき、横たわる若者に目を細め、優しく語り掛けた。
「紬。お前は本当によくやった。私はとても誇らしいよ。だが、お前の力はこんなものじゃないだろう。私との約束を忘れたのかい? さあ、目を覚ますんだ。再び一緒に歩みだそう」
(約束?)
突然現れた謎の男の言葉に医師は眉をひそめた。どうやら知り合いのようだが……その後の男の行動に医師は唖然とした。ピクリとも動かない若者の胸倉をつかみ、謎の男は大声で唸った。
「〝運び屋〟としての誇りを忘れたのか? 紬、今すぐに目を覚ませ!!」
「ば、ばかやろう、よすんだ。今すぐ手を……」
医師は、男の腕を振りほどこうと駆け寄った。
「加地さん……」
ベッドから聞こえる微かな声に医師は足を止めた。まさか、そんな。若者の指がピクリと揺れ、震える手がたどたどしく、謎の男の袖をつかんだ。唖然とする医師の前で、黒ずんだ若者の瞳が弱々しく開き、あえぐように口が開いた。
「すいま……せん。僕は実験に失敗し……ました。もう、〝運び屋〟としての使命を果たすことは……できません」
乾いた若者の瞼から一滴の涙がこぼれた。加地と呼ばれた男は首を振って優しく微笑んだ。
「何を言っている……前にも言っただろう? 自分の能力を過小評価するなと。もっと自分を信じるんだ」
うう、ううう……むせび泣く若者の頬を優しく撫でる謎の男。医師は混乱した。一体この二人は先ほどから何を話している?
「そんな情けない姿でどうする? おまえに宿る彼女を……〝AI×OS〟を道ずれにする気か?」
謎の男の声に、若者の震える手がぴたりと止まった。
「ア……イ……コス」
その上げた顔に医師は目を丸めた。大きく見開いた瞳。わずかに灯る薄緑色の光。
「ああ……」
喘ぐような、絞り出されるような若者の声に医師は背筋が凍った。
「僕が死ねば、彼女も……それだけは絶対に……」
たどたどしく体を起こした若者は険しい表情を浮かべて前を見た。最後の灯、全身全霊をかけた、最後の命。
「力を振り絞れ……次のステージに……一歩でも前に……」
見上げた瞳から刺すような緑の閃光が辺りを照らし出した。加地は思わず目を背けながらも、ほくそ笑んだ。
(賢者の緑瞳……眠れる〝脳〟を呼び起こす力。ついに実験の最終段階に来た。さあ、悪魔の子よ。お前の能力を一滴残らず開放しろ!)
バチン
突然に照明が全て消え、暗闇が部屋全体を襲った。
ピーピーピー
医療機器が激しく点灯し、つんざく警報音が室内に鳴り響いた。
ブウォ――――
空調機が唸りだし、まるで熱帯のように室温が上昇した。院長と医師は青白い顔をして、まるで糸が切れた人形が砕け落ちるように座り込んだ。
「そうだ、紬! お前は〝運び屋〟 我々、愚かな人類を次のステージに導く、偉大なる先駆者なんだ!」
加地が声を荒げて、紬の肩を鷲掴かんだ。
「う……うう……うわぁぁぁぁあ」
天井を見上げて叫び声をあげた紬の体全体が、激しい緑の閃光で覆われた。
「おお、ついに……」
加地は立ち上がり、肩を震わせた。
(やっとだ、これであの長年の実験の苦労が……)
一瞬の静寂。紬を覆うオーラは揺らめきながら徐々に固まり、ぼんやりとした人の姿に変わった。金髪の少女。見る者は目を離すことができない、吸い込まれるような美しさ。
「ついに、ついに分離した……よくやった、よくやったぞ、紬!」
加地は目を輝かせて、浮かび上がる少女に目をやり、ゆっくりと語り掛けた。
「AI×OS、久しぶりだな。元気にしていたか? というのはちょっとおかしいかな」
おどけるように話しかけた加地に、少女は悲しく、冷たい眼差しを向けた。
「私は後悔している。あの時、紬にあの選択をさせるべきじゃなかった」
少女の言葉にキョトンとした加地が、やれやれとため息をついて、あきれたように首を振った。
「何を今更、お前もそれを望んでいたんだろ? 感謝しろよ。私の導きのおかげた」
「感謝ですって?」
少女の怒りの眼差しに、加地は息を飲んだ。
「加地……あなたは己の信念に飲み込まれた哀れな人……自らの欲を満たすために、他人の不幸の蜜をすう悪魔。地獄におちるわよ!」
ぽかんとした加地はおかしそうに腹を抱えた。
「ふ……はははは。AIごときに説教されるとはな。面白い。死んだら地獄でもどこでも行ってやろうじゃないか。ただし、今は進む手を止めない。紬は手始めだ。私はかならず、全人類を次のステージに導いて見せる!」
ふと、加地はAI×OSの姿がかすかにぼやけた事に気づき、眉をひそめた。
「まずいな、そろそろ命が尽きるか……AI×OS、さっさと紬から離れろ。今のお前ならできるはずだろ?」
黙ってこちらを見るAI×OSに、加地はわずかに焦りの表情を浮かべた。
「おい! 早くしろ。このままだと紬が」
「もう、あなたに彼は渡さない。でも、悲しくはないわ。私たちは永遠に一つになる。ありがとう紬……そして、長い間、お疲れ様でした」
少女は泣いていた。悲痛な表情で手を合わせて、祈り続けていた。
ぶん
突如、照明に光がともり、空調機の風がやんだ。電子機器は普段通り静かに計測を開始しだした。
どすんという音を立てて紬は床に崩れ落ち、見下ろす加地は、がっくりと力なく肩を落とした。
「死んだ……か。最後にAIに抵抗されるとは。私の夢が……あの長い実験もこれで終わりなのか……」
悲痛な表情を浮かべた加地は、何かに思いついたように顔を上げた。
「いや、まだだ。あいつが、〝秋山〟がいた……」
死んだ魚のような瞳でうつむく少年。その顔が徐々に上がり、憎しみの炎を上げてこちらを睨んだ。加地はごくりと唾を飲み込んだ。
(生まれながらに賢者の緑瞳をその体に宿した特異体質。危険だが、あいつならもしかしたら……)
厳しい表情を浮かべた加地は、座り込む二人に氷のような眼差しを向けた。
「今、見た事、知ったことは他言無用だ。彼は運び込まれた時には既に死んでいた。理解したかな?」
(まあ、こいつらの〝脳〟では、理解など到底、無理な話だろうが……)
震える二人に興味をなくしたように、加地は部屋を出て行った。