十五.覚醒
岡本は更衣室で血まみれの服を脱いで作業着に着替えながら、先程の惨劇を思い出した。あきらのあの悪魔のような顔。一度は死を覚悟した。しかし、なぜか自分は助かった。血まみれの秋山は、最初に担架で運ばれて行った。結局はこうなった。俺はAIの信頼を取り戻す事ができなかった。
岡本が悲痛な気分で部屋に戻ると、行き交う人達でフロアは雑然としていた。意識を失った社員を救急隊員がせわしなく運び出し、警官数名が険しい顔で事情聴収をしていた。水浸しの散々した書類を必死に拾い上げる者、憔悴しきって帰宅する準備をする者、泣きじゃくり慰められている者。温かい空調が、冷えた体を優しく包んでくれたのが唯一の救いだった。意識を取り戻した加藤が、岡本のもとにふらつきながら近づいてきた。
「だいぶ手荒でしたが、ほぼ想定通りにいきました。しばらく秋山君は意識を取り戻さないでしょう」
加藤は経緯を説明した。あきらはAIといえども子供の人格で、精神的にまだ幼い。わざと怒らせて人工シナプスを暴走させれば、意識を一時的に停止できる可能性があったと。
(部長はそこまで考えていたのか)
歯向かった自分が恥ずかしくなった。
(まあ、全て想定通りというわけでもないんですが)
加藤は心のなかで嘆いた。
(あきらの賢者の緑瞳の力は想像以上だった。岡本紬とは比較にならない威力。やはり秋山が生まれながらに保持する人工シナプスは予想以上に脳に馴染んでいるようだった。しかし、それ以上に驚かされたのがこの岡本。あきらの攻撃をものともせず、最後まで意識を保っていた。自分にも、秋山にもない未知の能力。やはりこいつには何かがある)
青ざめる岡本に、加藤は穏やかな顔で優しく声をかけた。
「安心なさい。しばらく入院すれば秋山君は意識が戻ります。しかし、同時にあきらも目覚める事になる。それまでが勝負です。あなたには秘めた能力、アイコスに対応しうる力がある。しかし、まだ完全に使いこなせていない。早急に覚醒してもらう必要がある」
加藤は一枚の紙を岡本に渡した。岡本は突然の加藤の告白に困惑した。
「秘めた能力、私が覚醒する、ですか? そりゃ一体どういう……」
「詳しくはその紙に書かれた人物に聞きなさい。私よりよっぽど丁寧に教えてくれる。しばらくはあきらによる直接的な妨害はないでしょう。ただし、アイコスが間接的に干渉してくるはず。しかし、あなたの話によれば、プロテクトはまだ解除されていないという事。であれば攻撃を回避できる可能性もある。時間がない。十分に注意しなさい。実際に目でみて、触って、感じたものしか信じてはいけません」
ふらつき座り込んだ加藤は、あわてて駆け付けた救急隊員に、もたれかかりながら部屋を出て行った。唖然と見守った岡本は、恐る恐る手渡された紙を確認して息を飲んだ。
〝私の机の引き出しにあるノートパソコンを使え。VPNMeet。19.3.5.7、zab4d$.a.Ay=r〟
突然の事にしばらく立ちすくんでいた岡本だったが、意を決し、混乱するフロアを横目に加藤の席に向かった。机の引き出し、上から三段目のノートパソコン。
(これの……事か)
そっと抱えて席に戻り、周りを伺いながら、電源をいれた。
ピー、ガリガリガリ……
真っ黒な画面。データ初期化中……ぱっと画面が明るくなり、VPNMeetのアイコンだけがぽつんと表示さた。岡本は迷ったがいったんパソコンを閉じた。
*
「あ、おかえり」
ああ。帰宅後、薫に軽くうなずいた岡本は、黙って部屋に飛び込んだ。青白い顔の岡本に薫は首を傾げた。
(どうしたんだろう……ここ最近の巧の様子が変だわ……仕事、うまく行ってないのかしら……)
「ごはん、もうすぐできるからね」
わかった。巧の弱々しい声に、少しの不安を感じながらも、薫は首を振ってリビングに戻った。
ピー、ガリガリガリ……
岡本は真っ黒のモニター息を飲んで見つめた。どうやら電源を入れるたびに、パソコンが元の綺麗な状態に復元されるようだ。
(俺のウィルスまみれのパソコンとは大違いだ)
加藤部長らしい、徹底した対策に関心しながらも、画面をぼんやりと眺めなた。
『アイコスに対応しうる力。早急に覚醒してもらう必要がある』
部長の言葉を思い出し、再び不安に襲われた。
(覚醒する……一体、俺に何が起こってるってんだ?)
アイコンを震える手でクリックし、紙に書かれたパスワードを、たどたどしく打ち込むと、見知らぬ若い、端正な顔立ちの男が映った。
「こんにちは、はじめまして。これを知っているという事は加藤のいっていた男だね。安心して。ネットワークは周辺の無線経路を使わず、独自の送信機による閉域回線を暗号化して利用している。ハッキング、ウィルスの心配もない。アイコスによる干渉も一切ないと思って。そして、僕の名前はアルファ。IT Translator国家育成プロジェクト本部の案内役のAIだよ」
耳まで伸ばした金色の髪、若々しい肌、整えられた眉。端正な唇が淀みなく流れ、時折見せる人懐っこい笑顔。突然、ペラペラと話しだした若い男に岡本は度肝を抜かされ、どっと肩の力が抜けた。男はそんな岡本の様子に気にもせず、さわやかに笑った。
*
えーっと、そうですね。男は顎に手をかけて思案した後、にっこりと笑った。
「覚醒の話の前に、いま疑問に思ってる事を何でも聞いてください。まずはそこから始めましょう!」
アルファと名乗る男は、岡本が疑問に思っていた事を細かく教えてくれた。
「賢者の緑瞳になると、なぜ周りの人間が倒れるかって? 加藤からは詳しく聞いてなかったんだね。賢者の緑瞳は人工シナプスが活性化した時に人的表面に現れる唯一の特徴で、実は目に見えないけれど、特殊な電波も脳から放出しているんだ。そして、その電波に当たった人間は自分のもつ人工シナプスが共鳴する。いわゆる遠隔監視モジュールといっている機能は、この仕組みをつかって離れた相手と意識を共有する」
「なるほど……時折でてくる〝遠隔監視モジュール〟という言葉。脳から発生する電波の事だったのか……とんでもない力だな」
岡本は感心したようにつぶやいて頭をかいた。ややリラックスした岡本の態度に、アルファは安心したように、ふふふと口元を緩めた。
「でも、相手が人工シナプスをもっていない場合はどうなると思います? ネイティブシナプス、いわゆる人間が元からもっている十パーセントのシナプスに影響がでます。でも、それほど流動的でないネイティブシナプスが強制的に共鳴させらればどうなるか? そうです。意識が暴走して、いわゆる脳震盪の状態になってしまう。あなたが体験したようにね」
アルファは、申し訳なそうに上目遣いで岡本を眺めた。岡本はあのトラブルを思い出した。
「確かに、あれには驚いた。人工シナプスを持っていない俺や冬木は耐え切れず、ぶっ倒れたってわけか……なるほどなぁ~」
(よかった……それほど、深い心の傷はなかったみたいだ)
特に気にしていない様子の岡本に安心したアルファは嬉しそうに続けた。
「特に秋山君のように優秀な運び屋は、人工シナプスの濃度が高く、強度も強い。さらに彼は特別。生まれながらに人工シナプスを脳に宿した特異体質。岡本紬のように外部、つまり首の頚椎から注入されたケースをさらに上回る力を発揮できるようです」
「特異体質……か」
岡本は秋山の過去の告白を思い出して手に汗握った。実験に参加した両親から生まれた秋山は、しらずにその力を受け継いでいた。あきらのあの攻撃は、紬すら凌駕する未知の力。一刻も早く何とかしないと……苦悩する岡本に理解したようにアルファはうなずいた。
「まあ、焦っても仕方ありません。まずは現状を理解することからですね。えぇっと……人工シナプスでしたね。この電波は人間だけじゃなくてコンピュータにも干渉できる。ある程度訓練は必要だけと、優秀な運び屋なら一度に数十台の電子機器を遠隔操作する事もできます!」
あきらのあの惨劇。まるでエスパーのような、神のような力。
「そういうことか……だが、さすが部長が推薦するだけはある。とても判り易い説明だったよ」
てへへ、とアルファは照れ笑いをした。じゃあ、次もいいか?……とにかく急がないと……焦る岡本の質問にもアルファは淀みなく、次々と答えた。
「アイコスについて……うーん、なかなか難しい質問だね」
めずらしくアルファは考え込んだように黙り込んだ。これは極秘事項なので、僕もあまり詳しくはないんだけど。前置きをして続けた。
「岡本さんが知っているのは正確にはアイコスではなく、アイコスJr。岡本紬と彼が作った女のアイコスが生み出した、日本橋料亭システム専用のOS。アイコスは特殊なAIで、ある特定のシステムに一度メインOSとして取り込まれると離れる事ができない。そして、そのシステムが壊れると同時にアイコスもなくなる」
思いがけない内容に岡本は目を丸くした。離れることができないだって?
「そうか。アイコスJrは秋山を乗っ取らなかったんじゃなくて、できなかった……だが、一生システムから出れないってもの、ある意味かわいそうだな」
『僕たちをここから救い出してほしい』
不意に秋山から聞いた、あきらの言葉を思い出した。俺達に託したその思い、そこだけはやつらの本当の願いだったのか。岡本はAIの無常な運命に複雑な気持ちになった。
「岡本紬のようにこれは人も同様。一度人間に憑依したアイコスはそこから離れる事ができず、その人が死ねばアイコスも死ぬ。そのことを知っていたから、あきらは岡本さんの取引にも応じたんだと思う。結果的にはタガが外れて自ら墓穴を掘ってしまったけれど」
「ふーん、そうだったのか。人も……ん? ってことは、まさか」
岡本の顔色がさっと青ざめた。
「ちょ、ちょっと待て。今なんつった? 人も同じだって? じゃあ、秋山は一体どうなるんだ? もしかして、一生あのまま……?」
アルファは慌てて答えた。
「心配ありません。人工シナプスがなくなればその存在も自然と無くなります。ただ、何とかしてその方法を見つけ出さないとはいけませんが……」
「ふぅー……そういう事か。焦ったぜ……」
ほっとした岡本は、消し去られるこの兄弟が少し不憫に思えた。人間でも機械でもない中途半端な存在。私利私欲にまみれた国家プロジェクト。ある意味、最大の犠牲者は彼らなのかもしれない。
(いや、同情は禁物だ。少しでも気を許せば、どんなしっぺ返しがあるか。そういや……)
「本部で秋山に語りかけた男について。なにか知ってれば教えてほしい」
加地に怒りをぶつけた秋山を鎮めた謎の男。もしかして、こいつなら何かしってるかもしれねぇ。うーんとアルファは考え込んだ。話そうか迷っているように見える。
「実は……あれは僕なんだ」
岡本はあっけに取られた。こいつが?
「僕はプロジェクトが始まる前に生み出されたAIで、岡本紬が作ったアイコスとは全くの別物なんだ。自分自身もいつ、どうやって生成されたのかわからない、長く孤独な状態だった」
アルファは寂しそうに笑った。
「そんなとき、本部に来た秋山君に出会った。彼はだいぶ変わっていた。人工シナプスを持った人間は数多く見てきたけど、彼のようにより自然な状態で保持しているのは初めてだった。僕は彼に興味を持って観察した」
岡本は秋山の幼少期の話を思い出した。水野に連れらて参加した、本部での国家プロジェクトの開催式。
「最初、彼はとても萎縮しているようだったけど、段々と感情が荒ぶってきた。両親を殺したかもしれない人間を前にして、怒りで心が満ち溢れていた。僕はなんとかして助けてあげたいと思った。彼の不遇な環境が自分と重なった。何かの大きな力に流され苦しむ気持ちは痛いほどわかった」
岡本はごくりと唾を飲み込んだ。秋山の怒り。あきらが使った〝あの力〟 幼少期の頃から既にその片鱗は出始めていた。
「思い切って彼に語りかけ、思いつくままに慰めた。僕達は特別だ。一緒に頑張ろうって。そして、聖星教の教え。君の両親は主の元できっと見守ってるはずだよ、と励ました。彼はなにかに気づいたように前を向いた。僕の意図とは別の解釈をしたようだけど、とにかく彼が元気になってよかった」
アルファは今度は楽しそうに笑いながらも、心のなかで不思議につぶやいた。
(秋山君は両親は生きていると思って安心したみたいだった。宗教的な意味じゃなくて、現実に生きている、そう確信していた。どういう事だろう。まあ、今はそれを考えても仕方ないか。……さてっと、そろそろかな)
アルファはすっと背筋を伸ばした。唖然とこちらを向く岡本に優しく語り掛けた。
「加藤から聞いていたけど、岡本さんはちょっと変わっているようですね。以前、アイコスに会った時の事を覚えてますか? 上っているような、下っているような、妙な通路を歩きませんでした?」
「妙な通路だって?……そういや、動く道路の上を歩ているような、そんな感覚の廊下を歩いた記憶が……」
岡本はぼんやりと思い出した。
「そうそう、それです。あれはアイコスに、より深く入り込むための深層意識誘導経路といって、脳の人工シナプスを解きほぐし、よりアイコスの信号を受けやすくする、準備体操のようなものです。普段、人工シナプスの利用を制限していた秋山さんは、急に活性化されたために、気分が悪くなったと思いますが、岡本さんはどうでした? 人工シナプスを持たないあなたは、ネイティブシナプスが反応して、立っていられなかったはずですが」
「ん? どうだろう……別に、それほどでもなかったと思うが……」
岡本は頭をひねった。確かに秋山は青ざめふらついていた。一方の自分は何も変わりなかった。そういや、部長がその事にかなり驚いていたような。アルファは岡本の態度に確信したように続けた。
「加藤はその事をあなたから聞いて、疑問に感じていた。彼もプロジェクトの実験に参加して人工シナプスについてはある程度の知識がある。その加藤をしても理解できない現象。それが岡本さん、あなたです。そして、今回のあきらの件。加藤は確信した、あなたには何かある。アイコスに対抗できる唯一の力。早急にそれを覚醒させる必要がある、と」
〝覚醒する〟
唐突にその話題に移った事に岡本はうろたえた。
「う……そういや、それが本題だった。だが、まだ心の準備が……」
その様子にアルファは優しくうなづき続けた。
「落ち着いて。これは予想なのですが、秋山さんはあくまでも、あなたのような新しい人類を導くためのきっかけじゃないかと思うんです。生まれながらに人工シナプスを保持する特異体質。同じように人工シナプスを持った両親から生まれた子でも、彼のような例は誰一人いません。彼がこの世に生を受けた意味。彼の持つ人工シナプスの波動は、周囲の人間を次のステージに引き上げる作用があるんじゃないのか。日頃からその影響を受けていた岡本さんは、徐々に新しい力に目覚めつつあった」
「新しい力……? 部長がいってたやつか。たしかに最近の俺は何かがおかしいが……」
岡本は戸惑いながらもハタと気づいた。
「そういや、思い出した。部長との打ち合わせ前の、あの雪の降る夜。俺は自分でも驚くぐらいに頭がさえていた。そして、秋山の驚いた表情。俺に芽生えた何かの力に、あの時、あいつは気づいたのか?」
『後は任せました』
あきらに乗っ取られる直前に秋山が俺に語り掛けた言葉。あっ、岡本は声を上げて立ち上がった。
「やっと意味がわかった。あいつはAIの罠を、それに対して自分がすべき事、俺がすべき事、それら全てを見通していた。自らを犠牲にして、俺が新しい力に目覚めるように導いた」
こちらを見つめる、あの信頼の眼差し。心の奥底から熱い血潮が体中を駆け廻り、岡本は体中が震えた。
(まったくなんて男だ)
アイコスをも凌駕する未来視。つくづく運び屋に、秋山という人間に驚き、呆れ、逆に笑えてきた。
「ふ、ふふふ、あっはっはっはっーーーー」
突然笑い出した岡本にアルファは眉をひそめた。
「いや、すまねぇ。あまりにもあいつのぶっ飛び加減に、つい笑らっちまった。しかし、俺に託された最後のピース。あの馬鹿野郎、もう少しマシなストーリーはなかったのかよ。俺がただの凡人だったらどうするつもりだった?」
〝岡本さんなら大丈夫です〟
何故か秋山が笑って答えた気がした。俺を見つめる真っ直ぐな瞳。裏切られたと勘違いして胸ぐらをつかんだ時。不安にまみれながらもアイコスの説得にあたろうとした時、あきらに乗っ取られた秋山と会話をかわせた時。後は任せます、あの最後の言葉……
「だが、あいつは、いつもそうだった。俺を常に信頼してくれた。なんの疑いもなく、こんなバカな俺を……」
肩を震わす岡本をアルファは優しい眼差しで見つめた。
「こうなったら、あなたも彼を信頼して、前に進むしかありませんね」
顔を上げた岡本は、にっこりと笑うアルファを呆然と眺めた。
チチッ
モニター画面にちらきが走った。わずかに曇るアルファの顔。
「まさか、アイコスJr、もうここまで? 岡本さん、時間がありません。リスクがありますが、本部に直接来てください。場所ですか? デジタル庁のHPに書いています。充分に気を付けて。自分の目で見て、聞いて、触れて、それ以外は信じないで。決めるのはあなたです。でも、今日の私の話を聞いて、あなたならどうするか。私は信じています!!」
ぱっと画面が切り替わり、美しく輝く金髪をなびかせた男がうつった。その微笑に岡本は背筋が凍った。
「やあ、岡本さん。お久しぶりです。アイコスです。いや、アイコスJrといった方がいいですか? これ以上関わるのはおやめなさい。しばらくすればあきらの意識も戻るでしょう。私からきつく叱っておきます。私達と共に新しい世界を作るのでしょう? 先程の話は忘れなさい。そして、明日からいつも通り会社で平穏にお過ごしなさい」
なにを……その薄気味悪い視線。悪寒を感じた岡本は逃げるように、バタンとノートパソコンを閉じた。
「忘れなさい」
声がまだ聞こえる。
「くそっ!」
力いっぱい壁に投げつけ、興奮して荒々しく肩で息をしながらも、岡本は冷静に振り返った。アルファの言葉。俺が覚醒する。あきらのあの激しい攻撃にも耐えれた未知の力。何かが頭の中で生まれた、そう表現するのが適切な気がした。アイコスが本部をハッキングしてまで俺に忠告した。逆に言えばそれだけ脅威に感じているという事。そして、今後、どんな巧妙な手を使って妨害してくるか全く予想ができない。
(となれば……)
岡本は拳を握りしめた。やれる事は二つ。亀のように、諦めてじっと明日を迎えるか、大きな困難に立ち向かうべく前進するか。秋山のあの眼差しが浮かんだ。
(んなこと決まってる。俺に何があるのかはわからねぇ。だが一パーセントでも可能性があるならば、地の果てまでも行ってやる!!)
『直接本部へ来い』 アルファの言葉。
「まずは住所を調べねぇと」
急いで机にある自分のノートパソコンを開いた。
〝ハッキングされている〟 以前、秋山に指摘された言葉。
「んな事、かんけーねぇ。どうにでもなれだ!」
電源ボタンを震える指で、力を込めて押しこんだ。
*
「明日、有給を取って、例の本部に出かけてくる」
その夜、出発の準備が整ったあとに岡本は薫に伝えた。あきらの事、アルファの事、そして、自分の覚醒の事も説明した。薫は呆気に取られた。帰ってすぐに部屋に閉じこもり、出たかと思えば突拍子もない事を話す夫に、信じられないと目を何度もしばたかせた。先ほどの大きな壁の音。一体この人に何が起こっているの?
(一応は理解してくれたようだが)
青白い顔をして黙り込む薫を、岡本は気の毒になった。
(こんなこと突然告白されて、はい、わかりましたと受け入れられるか? 俺だって未だに信じられないんだ)
あきらめたように頭を振った。
「まあ、突然の事で混乱してるかもしれない。大丈夫だ。今すぐ何か不都合が起こるというわけでもねぇ。だが、あきらが目覚めるまで時間がない。早急に動く必要がある。それと、この事はここだけにしておいてくれ。まだ世間に公表するには早すぎる」
薫は口元を歪めた。巧の様子がおかしいのは気になっていた。あれほど毎日のようにあった相談が、二週間ほど前からピタリとなくなり、青白い顔でぼーとする様子が増えた。
(会社で何かあったのかな。もしかして首になりかけてるとか)
心配したが見守る以外なかった。それがまさか。真剣にこちらを見つめる巧を見た。アイコスというAIの存在はにわかには信じがたい。人工シナプスという能力が関係している、巧の説明には可能性としては理解できるが、現時点で実用化されているとすればとんでもない事だ。国家、いや世界の安全保障にも関わる。ただでさえAIについては法整備もリテラシーも遅れている。こんなものが拡散すれば世界は大混乱に陥る。
(でも……)
薫はさらに表情を曇らせた。今の自分に一体何ができる? 巧の言葉が真実だとするならば、私ができる事は何もない。この業界に入って十五年あまり。目まぐるしく代わる技術革新には自分なりに、追いついている自負はあった。だが、これはあまりにも。
こちらを心配そうに見つめる巧。そして、〝覚醒する〟 その思いがけない告白が、いまだに信じられなかった。
巧に秘められた能力。MegaSourceで事故があったのはニュースで知った。救急車で大量に運び出される人達。こうしてピンピンしている巧を見ると、何かの力で守られているのかもしれないと思えた。だとすると、もう私できる事は何もない。
「……わかった。十分に気をつけて」
そう伝えるのが精一杯だった。ホッとした岡本は表情を緩めた。
「それほど長居をする気はないよ。用がすんだらすぐに帰る。子供の事、しばらく一人で大変だが頼んだ。ああ、それとついでにすまん、ちょっと印刷してほしい物があるんだ」
岡本は自室に戻りノートパソコンを持ってきた。
「これなんだが」
画面にはどこかの施設の地図が映っていた。
「ああっと……行き先ね」
薫はうなずいたが地図を見て眉をひそめた。
「これってどうやって見つけたの?」
(どうって……)
妙な質問に驚いて、岡本はたどり着いた方法を説明した。薫は何かに気づいたように頷いた。
「これ、偽サイトだよ、精巧に作られてるけど。検索結果の一番上にヒットしたのにって? 一番上だから安全って事はないの。広告サイトっていってお金さえ出せばいくらでもトップに持ってこれる。本当のサイトは」
薫は自分のノートパソコンを開き、インターネットで検索をした。
「……ここだよ。まったく正反対。さっきの地図通りに向かってたら、二~三日まったく無駄にすごす事になってたわ。でも、ウィルスによる直接的な攻撃じゃなくて、あくまで人間世界の仕組みを悪用した偽証。アイコスってやつ、そこら辺のハッカーよりよっぽど達が悪いみたいね」
薫はあきれて首を振った。岡本は口をぽかんとして、二つの地図を何度も見返した。
「偽サイトだって? まったく気づかなかった。もし、この地図を使ってたらどうなってたんだ?」
その先を考えてゾッとした。
〝自分の目で見て、聞いて、触れて、それ以外は信じないで〟
アルファの最後の言葉。
(こんなことで、俺は本部にたどり着けるのか?)
頭が真っ白になった。岡本のうろたえる様子に、薫は不謹慎と思いつつも少し嬉しくなった。
覚醒する
その言葉に巧が何か別の人になった気がした。もう自分ができる事はない、独り取り残された気がして、情けなくて、悔しくて、寂しかった。でも、アイコスJrが人間世界の仕組みを利用して攻撃してくるのであれば、まだ自分にできる事はある。巧を助ける事ができる。薫は決心した。
「私もいっしょに行く。別に巧が頼りないってわけじゃないよ。アイコスJrだっけ? なんかむかつくんだよね。一発ガツンといってやるわ!」
すぐに出発準備をしないと。会社に有給申請も。あと子供はしばらく実家にあずけとく。唖然とする岡本を残して、薫は自分の部屋に走った。




