File:003 ”名言”や”迷言” 印象に残った台詞たち
①『人間以上に人間らしい』ロボット
”当たり前のことだけど、感激するなあ。”
【ドラえもん】における、ご存じ猫型ロボットの
ドラえもんの台詞で、『ラジコン大海戦』というお話の
中に登場するものです。
のび太がお金を貯めて、やっとの思いで購入した
ラジコンボート。 それが発進したとき、その場に
居合わせたドラえもんが言い放ったのが、
上記の台詞となるわけですが…。
このお話は、数あるドラえもんの短編の中でも有名で、
再現度が異様に高い零戦や戦艦大和、そして『戦闘』
のリアルな描写などで知られているのですが…正直な
ところ、上記の台詞をピックアップしているような方は
少ないのかもしれません。
ドラえもんは昔から大好きなキャラクターなのですが、
彼のどんなところが好きか? …と問われた場合、
一言でいうなれば、”人間以上に人間らしい”ところです。
四次元ポケットや数々の秘密道具などはとりあえず
置いておくとして、ロボットやAIを開発するにあたって
もっとも難しいことの一つが、”人間らしさ”の再現では
ないかと思われます。
そして、”それ”は同時に、古くから人々がロボットに
対してずっと追い求めてきた『理想』の一つ。
――話を戻しますが、台詞の中にある『当たり前』と
『感激』という言葉。 これは正直言って、互いに相容れない
もののようにも思えます。
『当たり前』ではない――『特別』なものだからこそ、
人は大抵、『感激』するのではないでしょうか。
それでも、これと似たようなニュアンスの言葉は
昔から幾つも存在しているし、それをきちんと『実践』
できている人も、大勢いるように感じます。
恐らく、その人たちがしていることは、きっと『当たり前』だと
思うことを、『当たり前』の枠から外す作業――
あるいは、『特別』へと変換する作業ではないでしょうか。
『当たり前』と『特別』は、極めて主観的なものです。
”誰かにとっての当たり前”は、必ずと言っていいほど、
他の誰かにとっての”特別なこと”に当てはまります。
ですから、自分の思う『当たり前』を、一旦その枠から
外して考えてみることは、偏った価値観に捉われず
物事を判別したいとき、非常に重要なプロセスとなるわけです。
②『適当』がベスト…?
”適当でええんじゃ、適当で。 ――土壇場こそな。”
”結果は変わらん。 それがベストなんじゃ。”
【ワンパンマン】におけるバングの台詞で、目前に迫る
強大な『災厄』を前に、どうすべきか葛藤する
若きサイボーグ戦士、ジェノスに対して放ったものです。
バングは、作品の中でもかなりの高齢者なため、
こういった『人生の先駆者』ならではとも思える言動を
よくしている印象があります。
そして、図らずとも今回の場合においては、『適当』
という言葉から連想される人物が、ジェノスにはありました。
その人物を『先生』と崇める彼からすれば、今の自分に
欠けているものが、正に”それ”なのでは? ――と
考えるのは、ごく自然なことだったのかもしれません。
その前にある、”お主は、失敗を考えるには若すぎる。”も、
とても印象的な台詞。
”もし、失敗すれば…”を考えるのは、人として当然の
心理かもしれませんが、『成功率100%』のことなんて
そうそうあるものではありません。
そして多くの場合、”今すべきこと”に適している人間と、
”事後の対応”に適している人間は、同一ではありません。
どれだけ最悪な事態が発生しようとも、それに対処できる
『プロフェッショナル』が、世界のどこかに一人ぐらいは
存在するものなのです。
ですから、今まさに『現場』に立っているような者は、
”後のことは任せておけ”なんて言う、『その後』に適した
人物に、色んなものを託してしまえばいいのです。
そうしなければ踏み出せない『一歩』が、あるのであれば――。
この台詞を聞いて思い出したのが、【ファイナルファンタジー8】
においてスコールが言い放っていた、”後悔するかどうかなんて、
後になってみないとわからない。”という台詞。
”後悔のないように生きなさい”なんて言葉は、誰しもが
一度くらいは聞いたことがあるでしょうが…”そのために
どうすべきか?”を考えた場合、大抵思いつくのが、
『時間をかけて、ゆっくり考えてから決める』という方法。
しかしながら、この”ゆっくり考える”という方法が、必ずしも
『ベストな選択』に結び付くかどうかは、甚だ疑問である――
ということは、多くの人が、その人生の中で既に
実感してきたことでしょう。
人にとって”考える”ということは、一つの『手段』に
過ぎないことを忘れないでください。
③未熟”だからこそ”、あるもの
”若いなら若いまま――未熟なら未熟なまま――
501年目をぶつけたい。”
【範馬刃牙】における空手家、愚地克己の台詞で、
その才能を見抜き、更なる高みへと進ませるために
助力を申し出た、烈海王に対して言い放たれたものです。
”今の自分の力では、勝算がない”ことを悟りながらも、
空手家であることに誇りを持つ彼が、中国拳法の技巧を
施そうとする烈に対し、その気持ちに感謝をしつつも、
毅然とした態度でそれを拒否する――
という場面で遣われた台詞。
ちなみに、この台詞の『501年目』という部分については、
烈海王が言い放った”たかだか500年の歴史しかない
空手では勝てない。 4000年の歴史を誇る中国拳法の
力が必要なのだ”――といったニュアンスの発言に対するもの。
『4000年』と比較しての”若さや未熟”を象徴する
言葉として、『501年目』という年数が遣われたわけです。
”勝ち負けよりも大事なものがある”という考え方は
古くから人の思想にあるものですが――それに多少の
共感をしつつも、”でもやっぱり、勝った方がいいよなぁ”
とついつい思ってしまうのが、人間というものです。
時と場合によって様々にはなるかと思いますが、
『勝利』という結果がもたらす恩恵、その誘惑に抗うことは、
そう簡単なものではありません。
負けず嫌いの人間はいくらでも存在しますが、
『勝利』というものに全く執着しない人間というのは、
それこそ、悟りの境地に達しているようなレベルの
人のように思えます。
そして『未熟』であることを恥と考え、それをどうにか
塗り替える、もしくは誤魔化そうとするのが、人の性という
ものですが……その『未熟』に何故か惹かれてしまうのも
また、人の性の一つのようにも思えるのです。
長期の連載をしている漫画などを見てみれば、大抵の場合、
初期の頃と、それからしばらく経った頃のものとでは、
画のタッチや作品の雰囲気などに少なからずの
変化があるものですが――
綺麗で読みやすく、”洗練されている”と感じる後期の作品の
ものよりも、未熟さが隠しきれていない、『荒削り』な風体をした
初期の作品の、”そういった部分”に心惹かれてしまう
という人が大勢いることも、また事実です。
『未熟』という言葉から私がついつい連想してしまうのが
【半熟英雄】というゲームで、特に印象に残っているのが、
終盤で見られる、とある敵と主人公が対峙する場面。
自らの存在を『完全』と称し、それを良しとする敵に
対して、主人公はこんな風に語り掛けます。
”完全なお前にも、たった一つ欠けているものがある。”
”それは『可能性』だ。 全てが完成されているお前に、
それ以上はない!”
…ちょっと記憶が曖昧なのですが、こんな感じの台詞です。
このゲーム自体に、”完璧、完全”を良しとする『完熟軍』と
それに相対する『半熟軍』というコンセプトががあるため、
それに対しての一つの結論というか、決着というか…
そういったものを感じさせる、とても好きな台詞ですね。
”未熟である”ということは、時と場合によって、欠点にも
成り得るし、魅力にも成り得るということなのでしょう。
何にしても、”未熟であること”を、ただただ恥だと考えて
しまうのは、個人的にとても勿体ないことのように思えます。