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ワンスアポンナタイム

作者: Tea_Cup

K


Kはある夜宿をとった。見知らぬ町だった。床をしくとKだけになった。

窓を開けるとKは横になった。遠くで狼の声がした。

Kは窓から外をのぞいてみようという気になった。向こう側は屋根だった。

狭い路地には何もなかった。Kは向こう側の屋根に移れそうな気になった。

Kはしきいの上に足をのせた。飛び移るとき下の道が流れるのを見た。

屋根の上は月が照って明るかった。Kは月を見上げた。月に飛びつこうと思った。

Kははずみをつけて飛んだ。月は差し上げたKの両手の中でだんだん大きくなった。

Kの息はしかし続かなかった。

肺をしぼめると共にKの月はまた小さくなっていった。

Kは海に落ちた。


Kは空から海に落ちた。きらきら月の光が波に輝く夜だった。

激しい波との衝突で鼻と顔が痛んだ。泡がぶくぶくと

吹きこぼれた。Kはゆっくりと沈んでいった。

水面の反射光がまばゆく美しい。魚がヒレひとつ動かさずに

やってきて、Kの周りをうかがい始めた。Kはゆっくり沈んでいく。

水面が遠くなる。Kはなおも沈む。きらきら月の光が波に輝く夜

だった。



教 室


昨夜私はよく眠れなかった。まるで頭の中に石が入っているような気がしていた。

深い霧が町を覆っていた。車の列がぼんやりした後部ライトをチカッと光らせては霧の中に消えていった。私の乗っているのは登校中の自転車。いやそうではない、登校しているのは私なのだがこの頃ではこういうこともよくある。私の自転車が明確な意思を持った馬のように学校に向かって突進していることももしかしたらありうる事なのだ。

 私はサドルの上にちょこんと乗ったただの人形かもしれなかった。町は不思議な光を放つ空の下に身をすくめ無残な瓦礫みたいに見えた。交差点の緑地帯に止まった。信号が赤だった。手袋をはめ忘れた私の手はハンドルを握りしめて白くなっていた。息を吹きかけると赤い血がゆっくり広がっていった。私は両手をポケットに突っ込んだ。襟の中に首を埋め、ついでに帽子の庇も下げると一時的な寝具の中に埋っている様な気がした。布団の中にいつまでもぐずる方法、こうやって自分と一緒に布団を移動させること。私は少しうとうとした。信号が青になって隣の車がエンジンを鳴らすのを待った。

 不安が帽子の庇の下から忍び込む。何かおかしいという感じ。あまりに意識を狭めすぎていたのだろうか。信号を見上げると相変わらず赤だった。こちらと向こう側で車の列が眼鏡をかけた痴呆みたいにいつまでも待っていた。永遠に赤色の信号?私は車の列を眺めた。なぜ音がしないのだろうかと思った。私はあたりを見回した。通行人がいた。しかし歩道に置かれたマネキン人形みたいに硬直していた。私は自転車を降りた。自転車がコンクリートの上に倒れる時すさまじい音をたてた。私は縮み上がった。厚いコートを着た中年の男がいた。口に手をあて今にもくしゃみをしそうな様子だった。私は彼の周りを一回りした後そこを離れた。どうしたんだ、私は叫びたくなった。歩道を歩いている男も女も誰も動こうとしない。車の自転車もみんな動かない。どうしたんだ。

 私は歩道を走った。車道に飛び出した。空を見上げた。おかしな空だと私は思った。得体のしれない光が霧の中をにぶく渦巻いていた。あの空がみんなをどうかしてしまったのだと思った。多分みんな病気にかかり私だけ取り残されたのだと思った。私はコンクリートの上を走った。

 霧は次第に濃くなっていくようだった。ほとんど夜といっていいほど暗くなった。私は走りながら自分の足音が聞こえないのに気がついた。私は立ち止まった。靴をコンクリートにぶつけたが音はしなかった。空は真暗だった。そばに水銀灯が輝いていた。私は何もかも夢だと思いコンクリートの上に横たわった。目の前に水銀灯がジワジワ輝いていた。眼を閉じると背中の下にごつごつしたコンクリートをはっきり感じた。夢ならばすぐに醒めてほしいと思った。そうでないとたまらないことが起こりそうな気がしていた。しかし一向に醒める気配はなかった。目を開けると相変わらず水銀灯が輝いていた。ふいに目まいがし、体が揺れるような気がした。水銀灯が近づいてきた。私はあお向けになったまま浮き上がっているのだった。水銀灯がどんどん近づいた。ぶつかると思った瞬間、服がかすって通りすぎた。私はなおも昇っていった。空に向かって落ちていくといった方がよかった。私は体をひねってうつぶせになった。灯に照らされた道がくっきり見えた。それもあっという間に一本の線になり霧に隠れて何も見えなくなった。

 私は落ちているのか止まっているのかもわからなくなった。私の周りは完全な闇だった。それも無限に遠い闇だった。宇宙に星がひとつもなければその宇宙の真ん中に私は浮かんでいるようにも思われた。それともすぐそこに出口があってただ私が気付かないでいるだけなのかもそれなかった。と、無限の果てに一本の細い光の筋が走った。それはすぐに消えた。うっすらと残像が残った。また次の光が走った。何かの形をたどっているようにも見えた。光の筋は次々に輝き始めた。その間隔が次第に短くなっていった。それらの残像の形づくる輪郭は何か見慣れたもののように思えた。それは教室だった。光が無限に早くまたたき始めた。

 私は教室にいた。私の教室だった。私の机がそこにあった。休み時間だった。みんなは席を立って騒いでいた。これも夢なのだろうかと思った。しかし机の手触りには夢とは思えない実感があった。私は席に座った。私は次第に落ち着いてきた。馬鹿騒ぎをやっている仲間を見ると何も不安に思うようなことはないように思えてきた。

 わたしはどうかしていたのだ。白昼夢でも見ていたのかもしれない。それで夢を見ていることを忘れていたのだ。夢を見る前の記憶は今はないがそのうち思い出すだろうと思った。私は深く考えることはやめた。次の授業が始まった。英語の先生が入ってきた。やせ型のハンサムな顔をしていてマダムキラーと自称していた。教科書にかがみこむと私はいつもの集中力をなくしているのに気付いた。教科書の上に天井の光がチラチラするようで何を読んでいるのかさっぱりわからなかった。先生が誰かに質問して誰かは何かを答えている、それがはるか遠くで行われているみたいな気がしていた。いつのまにか窓の外は夜になっていて天井の蛍光灯がまぶしく輝いていた。私があてられた。

『雨がやんだ、を英訳しなさい』

なんだか実に簡単な問題のように思った。そう思って立ち上がった途端、どうすればいいのかさっぱりわからなくなった。“なんだったっけ”、頭の中に何ひとつ単語が出てこなかった。私は絶句したまま、教壇の机に両手を広げてうつむいている先生の長い髪の毛を見つめていた。stopという単語が出てきた。stop,stop....

“それから何だ。雨が降りやんだんだ。それから何が起こったんだ。いいや何を言っているんだ。何も起こりはしない。何も起こりはしないんだ。”

 頭の上で蛍光灯がチリチリ音をたてているように思えた。私は急に息苦しくなった。

itという単語が出てきた。it,it,it.....

 私は襟に手をやってゆるめようとした。

“it,何だ、一体何だ。何もかもどうしたというんだ。”

 私はまるで蛍光灯の光の下で溺れているような気がした。先生は相変わらず机に両手を広げてうつむいたままの姿勢だった。長い髪がだらりと下がっていた。

 私はみんなの姿勢にそのとき気付いた。先生と同じように首を折れるほど曲げ、少しも動こうとしなかった。白い首筋が丸見えだった。その時みんなの首がコクリと上に動いた。まるでマネキン人形の首が動くみたいだった。少し間を置いてまたコクリと動いた。みんなの首は少しづつ上に向き始めているのだった。私は窓に映っている自分の姿を見た。それは何か奇妙なものに変わっていっているように見えた。また首が動いた。私は廊下に飛び出した。

 廊下の手すりのすぐそこまで濃密な物質みたいな闇が迫ってきていた。私は隣の教室に飛びこんだ。数学の授業中だった。みんな先生の指さした三角形を見つめたまま動かなくなっていた。私は後ろの壁に背をもたせた。天井の灯が頼りなげに輝いていた。眼を絶えずしばたたかせておかなければ消えてしまいそうな灯だった。私は両手で体をかき抱き、震えながらつぶやいた。

 『この光が消えてしまえばおしまいだ。』

それはすぐにやって来るはずだった。




寝ている男の話


私は病気で寝ている。ふすまを閉め切った部屋には家具もなく、夜を電燈が赤く照らしている。私は静かに目を開けているのだが何だか黒い人影みたいなものがむやみにあたりを忙しく駆け回っている。信号標識みたいにそこらに立っているかと思うとぶるぶる映画のコマみたいにふるえている。絶えずアメーバみたいに伸びたり縮んだりしている。それは昆虫みたいなききとれない音を出してさえいる。私にとってそれは邪魔とさえいえない存在である。時には夜の引き起こす幻影とも思ってみたりするのだ。昼間いい天気のおり、ふすまを引き払ってガラス窓から青い空が見える時など彼らの存在も私には好ましく思えたりする。大体あまり私のそばに長くいないし、入ってきても部屋の端から端を斜めにさっと1コマだけ私の目に残るような動きをする。昼はいい、夜は彼等はいつも私のそばに沈殿していやがる。顔のない彼等。高低様々の彼等が順序よく私の横に座ってぶるぶるふるえている時など私は少しおかしくなる。彼等は一体どんな表情を、どんな感情を持っているのだろう。彼等にもやはり規律はあるのだろう。だがその存在は影そのものの運命どおり、私の部屋、ないしはこの自然そのものに何の触れ合いももたらさないものだ。雲が地面に落とす影に似ている。

 たとえば目を閉じてしまうともう彼等の小さなうなり声も私をわずらわせなくなる。まぶたの裏に日の揺らめく影が映り、窓ガラスが風でバタンバタンこころよく私をなでる。幸福というものはおそらくこういうものかもしれない。ただ私は一人だから長持ちはしないだろう。私が死ねばそれでおしまいなのだから。そしてそれで私の幸福に陰がさすということもないのだ。なぜなら私にはそうした選択という余地がなかったのだろうから。

 

雲よ、何も考えるな。





夕 餉


みずやの夜はお空の中程に五角形の星が輝いていて、しんしん、しんしん、五筋のはけの光線をばらばらに、少し水面にたゆたせてはなでていた。みずやの空間の少し上がった所、古風なねずみの香りの四角い目と湿っぽい毛並みとがのぞくあたり、小さなお座敷に真ん丸な光があたっている。それはどうやら私の家族。母さんは白い湯気をぽっぽっとさせていて、洗濯のりにくしゃくしゃにされたみたいな顔は笑顔と一緒に出っ歯の先をのぞかせ、目をねずみの穴みたいにしばしばさせている。姉さんは優等生ぶりを顔にかぶり、自らの箸によっておぜんの活気をせっせとあおりたてている。父さんは相も変わらず、むっつり、乾いたすかすかの泥でできているかのような胸としわのよった腹、への字の唇はおかしいことがあるとせきのような息を吐いた。二列の歯を輝かせて悦にいっている兄貴。度のある眼鏡はどんな目か、中を隠していて、自慢の髪の毛、うしろの方を儀礼的になでてばかりいた。

 おしまいに向こうを向いて背中だけ見せているのは誰?黒い固まりのようにもっちゃり座っているのは。ごはん粒をここらあたりに、とひっつけておいたのがこいつなのか。お義理に少しばかり顔をふりあおいで、そしてひたすら口をもぐもぐさせているこいつ。芋虫。そいつの所だけ暗い。みんな身一杯に金色の光を広げているのに。

こんなやつどこかに行ってしまえばいいのだ。すると誰かが箸を持った手で何かを空に投げ上げた。速度が落ちると五角形の赤い星がツツツと止まり、もうもうと燃えるようなまだらな色に輝き始めた。





エチュード


Qが肘掛け椅子に座って本を読んでいるとSがコーヒーを持って現われた。『砂糖は入れたかい?』『2つ入れたわ。』Qは本を読みながら少しづつコーヒーを飲んだ。本を読み終えるとポケットから薬を取り出し、口の中に投げこむとベッドに入った。Qは目を閉じず、うす赤くちぢれるような明りに目をすえていた。うとうと長い時間がたったように思えた。耳の中に騒音が一杯つまっているような感じがしていた。その中でふと窓の戸を閉める音がしたのに気づいた。Sの着た赤い服が目の端を動いた。赤い色がQの額の奥にこたえた。Sはサンダルのたてるかん高い音をたててQの周りをぐるぐる回っているように思えた。Qの息は苦しくなった。Qは目を閉じていた。そうすると目を閉じているのにはるか遠くから、気の遠くなるほど遠くからもっと手ごわそうな赤い服を着たSがまっすぐこっちへ歩いてくるのだ。一方のSがQの額に冷たい手をやっていた。一方のSは目を細め大声で笑っている。はははははは........はははははは.........。ねえどうしたの。ねえ。Q。何がおかしいの。ねえ............ Qは眠っていた。


夜、工場跡の白いコンクリート畳の上でMたち3人はゴムボールでテニスをしていた。Mにボールがはねかえってきた。手の平にあたるとボールはにぶい音をたてた。Aは観戦していた。ボールをたたいている2人は白い息を吐いていた。崩れかけた家があって、壊れた窓からもう一人の少年がテニスを見ていた。床にはほこりや機械の壊れたのがちらかり、以前物置に使われていたのが誰も使わなくなった建物だ。屋根の上に猫が一匹いた。金色の月光が降り注ぎ猫は丸くうずくまっている。細くとがった毛が透き通り、きらきらと輝いている。猫はときどき三角の頭を動かした。そしてうつらうつらした。風が吹いて綿毛は吹き上がり、月はしゅんしゅんと夜空を照らしていた。


自転車に乗っていた少年が自転車を止め、博物館を眺めている。博物館の日だまりに男の子と女の子が腰をかけている。にこにこ笑って足をぶらぶらさせている。大人が2人、男の大人と女の大人がカメラをかまえて苦心している。薄茶の大きな壁と青空とはためく旗が二人の背景となった。


月の光がさらさのように照っている。子供が一人、工作室で冷たい床にしゃがみこんで何かせっせと作っている。にび色の工具。見上げる目には遠い月が窓ガラス越しに春の風のようにうずまいているのだが、子供が目を細めると音もたしかに聞こえてくる。子供は眠そうに自分のやわらかい手とそれがいつまでも動くのを見る。

 奥深い黒い戸が開いた。もう一人の子供のシルエットが銀色の空に立っている。すその太いズボン、背中にぶら下げたギター。子供はゆっくり階段を降りてきてびっくりしてちぢこまっている子供に声をかける。『いかないか、時間だよ』『もうすむよ、待って』『いこうよ』子供はそこを元に戻し、立ち上がる。部屋の外は銀色の森。二人の子供は森の中を走り続ける。


夕日の山脈の影、青空に 天女の衣がひるがえる。


俺たちは黒いステージの上に立っていた。光があるのだが円錐の光のそのもとを探ってみても皆目見当がつかない。俺たちは5人だ。一体どういう不思議が起きたのか。俺たちは口がきけない。お互いがお互いの顔を見つめ合うばかり。Uが肩をすくめた。どこかで見た身振りだ。おそろしく思ったのは口もとに笑みを浮かべたまま、その格好で氷のように動かなくなってしまったことだ。Nが驚いた格好をして一歩後ろへ下がった。そして彼も口を大きくあけたまま魚のような顔をして氷の人形になってしまった。Oが不審そうに目をきょろきょろさせている。時計が止まるように彼もそのままの格好で動かなくなった。まるで写真でも見ているようだ。Hは俺と顔を合わせた。にやっと笑いかけた。そして2人とも一緒にそのまま人形たちの仲間入りをした。人形らしく随分時間がたったように思う。頭の中で惑星が回転していき、そいつらだって俺たちのことを別に不思議に思っているわけではない。俺は物の持つ奇妙な幸福感に少しづつ妥協を感じるようになっていった。




夕 陽


Mの平面は無限に広がる夕陽で織られた平面。地面すれすれに淡く輝くピンクの光。MとMの机はその上に乗っかっている。Mは机に顎肘をつき、スタンドの灯でぼんやり本を読んでいる。

 Mの平面には何でもある。遊園地一式。小学校の校庭の跳び箱。置き去りにされた乳母車。茶色にさびた線路。店を閉じたオモチャ屋。暗く湿った森……

 Mのいる平面はどんどん居場所を変える。Mが本を読んでいる間にいつのまにか町は消え、あたりは深い森の中。Mはやっと本から目を離し、あたりを見回した。夕陽は葉っぱにさえぎられ熱線を吸収された光は冷え冷えとした木立の空間をさまよっていた。黒い茂みの陰から海が見えた。Mは本を閉じた。風が本のページを吹き上げた。Mはあくびをして目を閉じた。

 突然大地がMのまわりで一回転し、Mは椅子から転げ落ちた。Mは四つんばいになってあたりをきょろきょろ見回した。金色に輝くMの平面が夕日に向かって引いていっていた。Mは夢中になって追いかけた。平面はどんどん引いていった。町を越え、また次の町を越え、Mはどこまでも追いかけていった............


 気がつくとあたりに何もなく、真黒な空間に星が輝き、上の方に青い地球が小さく輝いていた。そばにスタンドの灯をつけっぱなしにしたMの机があった。Mはため息をつき、再び机に顎肘をついて本を読み始めた。Mはうたた寝を始めた。人工衛星がいくつも通りすぎていった。


 Mは青い星の夢を見ていた。

 

 

 


インディアン


いつの間にか眠ってしまっていたM。重い頭を持ち上げあたりを見回した。黒い大きなテーブルが1つ、あたりに雑誌が散らばっていた。理学部の学生準備室。開け放った窓から月の光が洩れていた。しばらくぼんやりした後、Mは立ち上がった。闇の中なので体がふわふわしていた。廊下に出た。天井に赤い灯が点々と続いていた。どの部屋も真暗。Mはぼんやり廊下を歩いていった。遠くの部屋に灯が見えた。ガラス戸にゆらゆら赤い灯が映っていた。コンパでもやっているのかなと思いながらMはその戸をゆっくり開けた。中は思ったより広い部屋。机が壁際に押しやられ、真ん中で赤々と火が燃えていた。それを取り囲んでいるのは半裸のインディアンたち。一勢にMの方に顔が向けられた。どの顔も指で塗りたくったような化粧。Mは素早く戸を閉めた。M、廊下を走り抜け、階段を駆け降りた。駆け降りるというより空中をゆっくり飛んで降りているような気がした。理学部の中でなぜインディアンが酒盛りをしてたのかMには理解できなかった。やっとMは一階に降りた。見上げるとインディアンたちがドカドカとやってきていた。Mは外に飛び出た。町はどこかに行ってしまっていた。あるのは見渡す限りの荒地。なだらかな丘がいくつも連なり、黒い影のようなかん木が所々生えているだけ。

 Mにはどうしても理解できなかった。しかし、後ろから押しかけてくる気配を感じたのでまた走り始めた。丘を上り切ったところで、何か飛んできた。Mは丘を転げ落ちた。倒れたままよく調べるとMの左足の太腿にヤリが刺さり、先の方が突き出ていた。血が流れ続けていた。では、やつらはオレを殺すつもりなのでとMは理解した。Mはあたりを見回し、小さな茂みを見つけるとそっちの方へ這いづって行った。

 インディアンたちがドヤドヤと押しかけて来た。Mは木の陰に隠れて彼らには見えない。彼ら、Mのそばまで来て立ち止まり額に手をかざしてはるか遠くを見つめていた。先頭の男が振り向いて近くの男を手でどついた。何かをなじっている様子。どつかれた男は胸に組んでいた腕をほどくとおもむろにさっきの男の顔を張り飛ばした。すぐ近くに転がっているMをそっちのけにしてけんかが始まった。他の男たちは周りで見物。しかし、Mは傷の痛みにうなり声を上げたのですぐ見つかってしまった。

 M、地面に投げ出され、生きているかどうか調べられた。Mの左足の傷を見て、男が首を左右に振った。別のがMの足にささった槍に手をやり『オレノヤリ、モッタイナイ』と一気に引っこ抜いた。Mは『ギュッ』と言って気を失った。

 気がつくとMは一本の棒に両手両足をくくりつけられ二人のインディアンの肩の間にぶら下げられて運ばれていた。

まだ生きていた、とMは思った。Mの目の前に毛むくじゃらのすねが歩いていた。頭が下だと苦しいのでMは頭を持ち上げ、棒の上に這い上がろうともがいた。後ろの男が舌打ちした。

 『助けて。』

 『.........』

 『ぼ、ぼくのいた所は、こ、こんなんじゃなかった。み、みんなやさしくて親切だった。なぜ、なぜ』

 後ろの男が大声で笑った。前の男が首をひねって振り返った。M、地面に放り出された。先の方に歩いているインディアンたちに二人が合図した。

 『チョット休ンデクカラヨー』

 M、地面の上でほっと息をついていた。二人のインディアン、ヒソヒソと耳打ちするとMを見下ろした。そして一方のが指をポキポキ鳴らすとMの首をガッチリ両手でつかんだ。

 『いい握力してるねあんた』

 『ソウ?』

 Mの首をつかんだ両手にゆっくり力が込められた。

 『グエ!!グエ!!』

 『コッチノ方ガ運ビヤスインダ』.................


丘を越え、また丘と越えてインディアンたちは進んでいった。少し高い丘の頂上でインディアンたちは少休止した。眼下の平地に古い町が広がっていた。一面に低くて平らな白っぽいビルの町。Mは薄目を開けてこっそり眺めていた。Mは地面に放り出された。

 『ギュ!』

 『アッ、コイツマダイキテル。』

 『ホットケ』

 インディアンたちは戦さの支度を始めていた。そして順序よく整列すると素早く丘を駆け下り、地面に腹ばいになって進んでいった。M、必死になって手足を縛っているヒモをほどいた。インディアンが一人残って町を見下ろしていた。やっと立ち上がったM。ビッコをひきながら彼に近づいた。

 『あの町はどこ?』

Mを見るとインディアンは顔を引きつらせた。

 『シ、シラナイ、マダ生キテル。オレシーラナイ』

インディアンは逃げ出した。びっこをひきながらMは後を追った。丘の尾根をMはどこまでも追いかけた。そのうちに黒い柱の列に出会った。黒い十字架の列だった。Mは予感にかられ近寄った。十字架に人がはりつけにされていた。 

一番手前のが動物生理の教授、無残にもダラリと顎を垂れ、うらめしげな最後をとげていた。次のは植物生理の教授、これでも人の顔かと思うような顔。次のは動物形態の教授の屍、きちんと白衣を着て、まじめに死んでいた。植物形態の教授のはふまじめに顔をひきつらせて死んでいた。M、一人一人の屍をゆっくり眺めながら歩いていった。

 『みんなここにいたのか。』

 十字架はえんえんと続いていた。昔の教授、今の教授、そして生物学科の同窓生全員、はりつけになってこと切れていた。かっての同僚の十字架の所までやって来るとMはそっとハンカチで涙をふいた。十字架の列の端っこでさっきのインディアンが待っていた。端っこの十字架だけ空いていた。彼はMに目で十字架の方を示した。

 『ここがオレの席なんだね。』

 インディアンはうなづいた。Mは十字架を破壊しにかかった。インディアンは町の方を見つめていた。

 『オレタチ、砂漠ノ掃除屋、ソレガ使命。汚ナイ所ヲキレイニスル。』

 インディアンは一人でつぶやいていた。

 『コノ砂漠ニドンドン町ガ現ワレル。オレタチノ仕事ドンドン増エル。仲間ガドンドン死ンデイク。』

M、棒の切れはしを片手にインディアンの背後に忍び寄った。インディアン、振り向きもせずに拳骨を振り回した。顔にげんこつをあてられたM、また地面に転がった。

 『仕事ニトリカカルカ。コイツダケイヤニ執念深カッタガ。』

 インディアン、十字架を組みなおし、Mをその上に広げた。釘をとんとんとMの手首にうちつけながら彼は言った。

 『アンタガラスト、気分ハ?』

 『痛いよ!』

 できあがったMのはりつけを見てインディアンはつぶやいた。

 『コレデ砂漠モキレイニナル。』

 インディアン、再び腕を組み、町を見つめた。Mは体中がしくしく痛み始めた。

 『痛いよ!』

 インディアンは耳を貸さずに町の方に降りて行った。Mの見ているうちに町は様子を変えていった。一枚の平面のようだった町は、あちこちに深い亀裂が生じ、黒い路が縦横に幾筋も現われた。ひとつひとつの区画が巨大な岩の柱になり、その基部もえぐられて細っていった。Mの方はそれどころではなかった。体中に何本もの棒を突き刺されたような痛み。十字架の上でMはもがいた。

町はすっかり蝕まれ、突然遠くに巨大なたき火が燃え上がった。その周りをインディアンたちがエイホエイホと踊り狂っていた。

 『痛いよ!』

 Mは彼等に向かって叫ぶ。少なくとも同じ人間ではないか、死にかかった人間が生きることを望んでいる以上、彼等は手を差し伸べる義務があるのだ。しかし、彼等はあまりに遠かった。Mはようやく落胆し、自から目を閉じ、首を垂れた。


インディアンたちの踊り。






 ある夜、妹尾はビルの屋上から落ちた。人通りのない道の上に妹尾は長い間横たわっていた。

 気がつくと彼は石畳の歩道に倒れていた。足の感覚も体の感覚もなく、どこかで神経がぷっつり途切れているような気がした。寒さの感覚だけは働いているらしく、彼の顎は絶えず震えていた。彼の目の前に灰色の所々はげた壁があって、どこからかやってくる水銀灯の光が妹尾の横たわった影を映していた。

『やれやれ』と彼はつぶやいた。

『こんなところでくたばるなんていやなこった。早く誰か助けに来て欲しいもんだ。』

 彼は口をつぐんだ。口を動かすと体の下の方から変な苦痛がやってくるのだ。彼は頭の中でつぶやいた。

『助けてくれ、助けてくれ。』

 妹尾は意識を失った。

 再び意識が戻った時、彼がうすら目を開けると目の前に何かいた。

それは壁の中のただの影だった。そいつは腰をかがめ、妹尾の方をうかがっていた。

『こんばんわ』

『‥‥‥』

『こんばんわ』

『‥‥‥』

『こんばんわ』

『おれが怪我をして口もきけないよいのがてめえわかんねえのかよ!』

妹尾は思わず大声で叫んだが何ともなかったので不思議に思った。

『お願い、おこらないで。僕はただの影だよ。僕にはたてと横があるだけ。厚みもなければ体重もない。肥りすぎに注意しなくてもいいし、勉強して脳みそを重くする必要もない。僕にあるのは影のような喜びと影のような哀しみ。』

妹尾はうさんくさげに影を眺めた。影は判然としない事をしゃべりまくりながら調子に乗って壁の中でモダンバレーを踊始めた。妹尾は気にかかる事を質問した。

『おまえ誰の影だ。』

影は肩をすくめた。

『もしやおれのでは。』

妹尾はがばっと上半身を起こした。そしてはっと思いながら自分の上半身と下半身を眺めた。

『ねえおじさん。石の上に寝てると体に良くないよ。ほら起き上がって体操、体操。』

『しかし体があちこち痛む。おれの足が動くかどうかわからん。』

『それは何もしないで結局何もしない人の口ぐせだよ。さあ立って。』

妹尾は横目で影をにらみながらゆっくり立ち上がった。

『ほら出来た!』

影だ叫んだ。次の瞬間、壁の方に倒れかかってきた妹尾をよけるため影はあわてて逃げた。妹尾はびっこを引きながら影を追いかけた。

『おれの影、返せ!』

『あんたの影じゃないやい。』

『じゃ、おれの分はどこいった。』

妹尾は自分の足もとを指さした。

『あんたの分は、ほら、あそこにじっとしたまんまだよ。』

『なに!けしからん。あれでも影か。』

妹尾は壁の中に横たわったまま動かない自分の影を眺めた。妹尾は変な気分になった。

『君、なんだかおれ憂鬱になってきた。教えてくれ。一体どうすれば人は陽気になれるんだ。』

『その気持ちよーくわかるよ。そうだ、公園に行こうよ。ここから遠くない所にあんたも気に入るような公園があるんだよ。先に行って待ってるからね。』

影は行ってしまった。

 ただっ広い公園。地面は黒く金属的な光沢をしていて鈍く光っていた。町は遠くに光り、黒々とした森が遠く取り巻いていた。奇怪な格好をしたジャングルジムの頂上に一人の子供がいてどこか遠くを眺めていた。黒っぽい服を着ていたので妹尾はすぐ近くに来るまで気がつかなかった。子供はゆっくり妹尾を見下ろした。

『ここにおいでよ。』

妹尾は身振りで断わった。

『たのむから冗談はやめてくれ。おれは疲れてる。子供はこんな所にいてはいけない。早く帰るんだ。』

少年は一本の鉄棒の上に立った。微妙な平衡が彼の軽い体重を支えていた。微風がやってきて彼の体の周りにかすかにゆらめいていた。妹尾は目をそらし、地面に落ちた黒い格子模様を見つめた。

『やれやれ、何か肝心な事をおれは忘れているような気がするのだが一体何なのか。おれの脳みそがマヒでもしてるみたいな気がする。あまりに物を見つめすぎるとかえってボンヤリしてしまう。』

妹尾はジムの鉄棒に額を押しあてると目を閉じた。まぶたの裏に灯がゆらゆら映っていた。急にめまいがして巨大な水車が周り始めた。その水車のゆっくりした動きを妹尾はうっとりと目で追った。子供の頃の寝入り鼻の儀式。

水車の陰に誰かいて、妹尾に背中を向けたまま向こうへてくてく歩いていった。『誰?』妹尾は手をさし延ばした。『誰だ?』

妹尾ははっと目を開けた。子供はどこかへ消えていた。

妹尾の足元の地面に影がいた。後ろに何か丸い物を引きずっていた。

『それは何だ?』

影は振り向くとあわててそれを自分のポケットの中にひきずりこんだ。

『何でもないよ。ところでお元気?』

『少なくとも陽気ではない。』

『あそう。でも、もうどうでもいいでしょ。』

妹尾は鉄棒に体をもたせながら言った。『きいてくれ。オレが若かりし頃、始めてコンパに出た。当然の事ながら酔いつぶれて廊下にオレは倒れた。誰かがおれの両脇をかかえ、階段近くの長椅子にオレは寝させられた。おれは足の先から頭の先にじわじわと快感が広がっていってそれから全く意識が失くなったのを覚えている。しかし、あれは夢だったのだろうか、それとも単なる空想だったのだろうか、廊下に倒れていたおれがむっくり起き上がるとあたりを眺めてたんだ。誰もいない廊下を一人ぽつんと眺めてた。おれは今でも気になってしようがない。』

影はうとうとしていた。急にけたたましいベルの音がなり始め、影は飛び上がった。

彼のポケットの中から先ほどの丸い物が飛び出し、ジリジリ鳴りながらフラフラ飛び始めた。影は大あわてでそいつをとっつかまえようと飛びはねた。

『ちくしょ、こんちくしょ、つかまえた。ふー、このやろう時々とんでもない時に鳴り出しやがる。』

影はコチコチと時計のネジを巻いた。

『これでよし、ふー一息。』

そしてまたあわててポケットの中に突っ込んだ。

森の陰に水銀灯は一本立っていてブランコを照らしていた。さっきの子供がブランコに乗ったまま眠っていた。微かな呼吸のたびに子供のからだが小さく揺れていた。

『この子はいつ目をさますんだい?』

『あんたがいなっくなってから。』

『じゃ、さよならだ。』

『待ちなよ。おとぎ話をきかせてやるくらいなら、あんたにも出来るだろ。』

妹尾を地面の上の影に顔を寄せてささやいた。

『どうしておれがおとぎ話なんかやらなくちゃならないんだ。』

影は妹尾を耳に口を寄せてささやいた。

『この子のお目々に涙がたまってるんだよ。』

妹尾はぼんやりと夜空を眺め、子供の隣のブランコに腰を降ろした。

『昔々ある所に‥‥、始めに光ありき、ビッグバンありき‥‥、どうでもいいや、いいかい、おれの事を話そう。誰かが人はおのれの事しか語れぬとたしか言ってなかったっけ。とにかく昔のこと。ある日白いガラス戸の内側でおれは外で空っ風が吹く音を耳そばだてて聞いていた。白い淡い光が差し込んでいておれは風が立てる音をきいていてえらく胸が騒いでいたのを思い出す。なぜかいても立ってもいられないような気持ちで、それでいてだるくて何もできない。あれはいつの事だったのだろうか。おれは妙な事も憶えている。こっちに自分がいて向こうに母がいて、その間に水がチョロチョロ流れていてやっぱりだるい気持ちで眺めてた。考えてみれば少年時代おれはずっと同じ気持ちのままだった。月並な感情は理解できなかった。愛ってなんだ。今でもわからない。人はお互いあたうる限り離れている。白けたテレビの画面の中に演技している人々のように。おれはテレビの中の人物にさよならし、一人空き地で両手で脚を組み、ぼんやり空を眺めてた。流れる空の白い雲を、何の感情も感動もなく、白っぽい光があたりを吹き荒れていた。』

影はポケットから懐中時計を取り出しちらっと眺めた。

『何で時計を見てるんだ?』

影は急いで時計をしまった。

『いや、ナニ、何でもない。続けてくれ。』

影は小さな砂時計を地面に立て、砂が落ちるのを熱心に見つめていた。


『人間って何なのかと思う。おれは特別に人間に愛着を持っているわけではない。人間について考えること自体、意味があるとも思ってない。電車の中でお互いこづき合ってるうちにおれは自己防衛をおぼえた。こづかれたらこづき返せ。それができなくなったら多分おれは死ぬ。おれは透明な無数のチューブがクモの巣のように交差し、どこまでも続いているのが見える。その中で人々が押し合いへしあいしながら、ある目的地に向かって整然と行進しているのが見える。おれもそのひとつのチューブの中にいて壁に窒息するくらい押し付けられているのだが、あたりには目をくれず、ひたすら他のチューブを眺めてる。人々はわっと進んだかと思うと、渋滞し、そしてまたわっと進む。時々小さな子供が人々の足に踏みにじられチューブの外に捨てられる。そのリズミカルな行進は芋虫がくねって進んでるようだ。みんなの目的地はどこか。チューブの彼方は永遠にまで続いているのか。それともすぐそこの横町の曲がり角で終わっているのか。おれには見えない。急に人々がわっと走り出し、おれは踏み倒され、踏みつぶされ、みんながおれを踏み越えていくのを眺めながら意識を失う。』


 木の横の影が地面の上で揺れていた。枝が静止した。妹尾ははっと起き上がった。影も少年もいつのまにかいなくなっていた。

『おれはどうすればいいんだ。』

やみくもに走りたい衝動にかられ妹尾はただっ広い広場を走った。茂みを通りすぎようとした時、小さな声が妹尾を呼び止めた。

『おじさん。』

妹尾は立ち止まり振り向いた。枝の茂みの間から灯が洩れていた。

『電車が待ってるよ。』

『何だって?』

くすくす笑う声が聞こえた。

『電車が待ってるんだよ。』

その時どこかのホームに入った電車が発車の合図をするのが妹尾の耳に聞こえた。灯に照らされた電車の姿が妹尾の目にくっきりと見えた。妹尾は急に何もかも納得がいったように思えた。

『そうだった。電車に乗るのをすっかり忘れてた。そのためにここに来たのだ。そのために今までやってきたんじゃないか。』

妹尾は全速力で走り始めた。遠くのホームにそこだけくっきり照らされて電車は彼を待っていた。走りながら一瞬妹尾はいぶかった。

『なぜ今まで忘れてたんだろう。』

同時に痛烈な悲しみがまたたき、消えた。……


石畳の歩道に足音が近づいてきた。足音が止まった。

『おい、あんた。』男は何かを揺すった。

『こんな所で寝てちゃいけないじゃないか。』

男は急に手を止めた。ゆっくり後ろに退くと血のついた自分の手を見つめた。





次元映写装置


夜、古い街の石畳をMはやって来た。街灯が一本立っているのを見上げるM。人通りはなく、見捨てられたような静かな街。壊れかけた映画館が一軒、看板のネオンが途切れ途切れにまたたいていた。Mはしばらくためらった後中に入った。

 暗闇の中から切符売りが無愛想に切符をMに放り投げた。

『今夜はお客はあんた一人だ。商売上がったりだ。』

『じゃ、なぜ上映するのやめないんだ?』

『そりゃあんた……』

切符売りは声を落とした。言うべきかどうか迷っている様子だった。

『あんた‥‥が来たからだよ。来るのを待ってたんだ。』

今度はMはとまどった。

『前に会ったことがあったかね。』

『いいや。』

M、扉を押し開けて中に入った。狭い観客室、客は一人もいない。映写機が汚れた映写幕にガラガラ音をたてながら白井画像を空回りさせていた。Mが見ていると空回りをやめ、少しぎくしゃくした後、映像を映し始めた。

Mは席に座った。画面は電車の中。満員電車内に客が混み合って揺られている。中の一人はまだ高校生らしき青年。片手につり皮を持ち、慣れない車内の熱気に幾分頬を上気させ、眠り足りないのか目を閉じてうとうとしている。やがて電車はどこか広い構内にすべり込み、人ごみと一緒に青年も放り出された。そしてあっちこっちうろうろしながら人の流れに流されていく彼。やっと人影まばらな広場にやってきて広場のコンクリート床の模様に足をうちつけていたが、ふと背後の巨大な像を見上げた。花王石鹸のマークみたいな人の顔の描かれた塔‥‥。


 Mはくしゃみをして目をさました。いつの間にか眠り込んでいたM。寒さに身を震わせ、服の襟を合わせながら画面を見ると、映っているのは白い丘とその上の目を見張るような青空。映写機がカタカタカタカタ同じ画面を映し続けていた。画面の端に何か見慣れぬ建物が見えていた。

『お客さん。故障です。ちょっと待ってて下さい。』

切符売りの声がした。Mは気になった。席を立って映写幕に近づいた。

『お客さん。席についてて下さい。』

Mは無視してもっと良く見ようと台の上に上がった。切符売りが何か叫ぶのが聞こえた。映写機の強烈な光を浴びてMは手で顔をおさえた。そして幕の方に目をやったMははっとした。Mの作った影に映っているのはM自身、いやさっきの青年の姿だった。

向こうもMを見つめていた。彼、目を伏せ横を向いた。Mは台から飛び降りた。観席を大またに息せき切って飛び越え、扉を開けて外に飛び出した。Mはまぶしさに目がくらみ、顔を両手でおおった。


 ゆっくり手を離すとMはあたりを眺めた。さっきの町はどこにもなく、Mのいるのはさっき見た小さな丘の上。近くに巨大なパビリオンがあった。あたりは原色で彩色されたパビリオンで一杯。Mは自分の体を眺めた。いつの間にかさっきの青年の姿になっていた。

『どういうことだ、これは。』さっきまでいた映画館はどこにもない。

『どういうことだ、これは。』

Mはもう一度つぶやいた。そして丘を降り、ゆっくりパビリオンの間を歩いていった。どこもかしこも人で一杯。人の列。うだるような日差し。Mは出口を見つけようとあせった。焼けつくような喉の乾き。しかし、売店は人で一杯だった。Mは日陰を求めて休憩場所を捜した。歩いて行く人の流れ。一体、どこに向かってるんだ。日陰に折り重なるように群がり動こうとしない人々。あちこちから音楽が聞こえた。人々の騒音と混じり、Mは気が遠くなるような気がした。無意識に足を動かし夢遊病者のように人々についていくM。巨大なテントのようなパビリオンの中に入り込み、薄暗がりの中のベンチに腰を降ろした。

暗闇の中央で得体のしれない巨大な機械が動いていた。Mは頭を振った。頭を振れば何もかも良くなる、そんな気がした。

『出口を見つけなければ、その前に喉の乾きをなんとかしなけらばならない。』

頭が冷えて少し気分が良くなったMは外に出た。


 人ごみから離れた所に小さな池があった。Mはそこに腰を降ろした。絵の具のような青い池。Mは水面に体を乗り出し、そこに映っている自分の姿を眺めた。すると向こう側から誰かがのぞき込んでいるのに気がついた。顔を上げると小さな男の子がMを見つめていた。どこかで見たような少年だとMは思ったが思い出せなかった。

『ねえ、僕と遊ばない?』

『え?』

『僕一人なんだよ。みんな僕一人残してどこかへ行っちゃたの。ねえ、パビリオンなんか面白くないよ。遊ぼうよ。僕のこと厚かましいと思わないで。僕たち思った以上に親密なんだよ。』

『どうして?』

少年はMの耳もとに口を寄せてささやいた。

『それは…それはねえ…言えないよ。』

Nは少年を見つめ、急に彼を抱きしめたくなるほど愛くるしく思った。少年は含め笑いをしながらMから身を離した。

『ねえ、僕をつかまえてごらん。』

そう言いながら、少年は走って行った。あっという間に人ごみの中に消えてしまった。Mは人ごみをかきわけながらゆっくり走った。本能的な方向感覚に身をまかせ、走り続けるM。いつの間にか大会場の薄暗い中にいた。息を切らしてあえぎながらMは手すりにもたれた。はるか下に円形の会場があり、何か催し物が始まる様子だった。観客席は満員。ロボットが一台シューシュー微かな音をたてていた。

 Mは手で汗をふいた。体中からどっと冷や汗が流れてくる感じ。何か聞き慣れた声がしたように思ったのでそこの喫茶店に入った。薄暗がりの奥の方に入っていった。声の主がそこで背を向けテレビの修理をせっせとやっていた。

『ちきしょう、なかなかうまくいかねえ。……よけいな邪魔が入りやがって……』

Mが背中をつつくと修理人はゆっくり振り向いた。切符売りだった。

『てめえ、人の背中を押しボタン式公衆電話とでも思ってんのかよ。かってにつっつくない。』

『いつになったら修理できるんだ?』

切符売りは斜めに被った帽子のふちを指で押し上げた。

『あと少しだ。それでダメなら永遠にだめだ。あっちに行ってな。人の事に首突っ込むな。』

Mは店を出た。自動販売機があった。コインを入れてオレンジジュースが紙コップに注がれるのを見つめていると誰かがMの背中をつっついた。

『てめえ、人の背中を押ボタン式……なんだ、おまえか。』

さっきの少年が立っていた。当然の権利のようにMから紙コップを両手で受け取ると乳房に吸い付くように飲み始めた。Mが自分の分を出そうとしたが機械が壊れていた。

『ねえ、そんなに顔をしかめないでよ。ジュースがないのがそんなに悲しい事なの?また飲めるじゃない。』

『いや、多分、永遠に飲めない。そんな気がする。』

M、急に体中の力が脱けるのを感じた。

『水が必要だ。』

Mはつぶやく。少年はけげんそうな顔をしてMを見上げていた。

『ここには水がない。』

Mはあたりを行きかう人々に目を走らせる。体の中が暗い空間になったような気がした。Mは足早に歩き始め、走り出した。薄暗い会場の通路を飛ぶように走った。

少年の呼ぶ声。Mは無視する。流れる人々の顔、表情のない幾百、幾千もの顔。着地と着地の間の感覚が長いので空に浮いているような感じ。Mは目を閉じるとどこかから淡いぼんやりした光がまぶたの上に広がるのを感じた。あんまり心地良いのでMはそのままいつまでも目を閉じていようという欲望にかられた。

 ふたたび目を開けるとそこはどこかのパビリオンの中らしかった。いつの間にやってきたのか、Mはいぶかる。暗い通路にヒッピーたちがごろごろ転がっていて身動きひとつしなかった。

『M』

誰かがMを呼んだ。ささやくような低い声。Mは左右を見回し、壁を見上げた。白い人のマスクがあって、それがMを見下ろしていた。口元にかすかに浮かんだ笑み。

『M、おまえを待っていた。』

『なぜ?』

Mは思わず問い返した。マスクを照らしていた光が消え、ただの石膏になった。しばらくして再び光が照らし、顔が口を開いた。

『私は昔、貞節だった。』

『ウソおいい』

隣の女の顔が口をはさんだ。

『この女ったらしが。』

男の顔はビクビクと女の顔に目を流した。

『……私は謹厳実直な人生を送っていた。』

『自分の父親を去勢して殺したり、自分の娘とセックスしたりするのがあなたの謹厳実直な人生というものなのね。』

『……私は理想を信じていた。』

『男の子をさらって犯した事もあったっけ。』

『…私は言葉に表わせぬ究極の真理というものの存在を信じていた。』

『毎日ネクター飲んでいろんな国に戦争けしかけて楽しんでたわ。』

『ものには限度というものがあるのだ。』

男の顔はワナワナと震えながら女の顔をにらみつけた。

『あら、なあに、うれしそうな顔して、何かくれるの?それとも私に手を出そうというの?ただの石膏のかたまりになって、今のあなたに何が出来るというのよ。』

男の顔は目をそむけた。

『M。』

顔はそっと目配せした。Mは背を伸ばして彼の口もとに耳を寄せた。

『お願いだ。私をここから出してくれ。日のあたる所に出してくれ。みんなの前に出してくれ。波の砕ける岩の上へ、帆に風をはらんだヨットを見下ろす海上へ、島を渡る鳥たちが夕日に向かってはばたくように、おれを乗せて連れてってくれ。それがだめなら殺してくれ。殺してくれ、殺してくれ、ころ……』

光が消え、顔はただの石膏に戻った。頬に一本の光る筋。Mは再び歩き始めた。

 振り向くと少年がいた。手に紙コップを持っていた。

『M、飲んで。』

Mはコップを受け取った。二人が歩いていくと巨大な壁に映像が目まぐるしく踊り狂っている所にやってきた。原始的な音楽がボリューム一杯に流れていた。Mは椅子に腰を降ろした。少年が横に座った。そしてMに体を預けた。

『眠いよM。』

Mは少年を胸の中に抱いた。少年の体重を体に感じMはとまどった。少年は急に目を開けるとMの首にしがみつきキスした。Mは少年を突き放した。少年は走って行ってしまった。Mは紙コップを手に取り、青い泡立つ液体を見つめた。やりきれないものうさ。Mはコップを手から放した。青い液体がしぶきを立てて床に散った。急に音楽がやんだ。壁の映像も消えた。見渡すとあたりには誰もいない。Mはゆっくり立ち上がった。どこからか光がやってきてMの周辺だけ照らしていた。

裸体像があった。黒く光る大理石の像。通路の両側にえんえんと続いていた。

『どうすればいいんだ。』

Mは走り始めた。無数に続く像。Mはその間を走った。

 急に広々とした空間にMは飛び出した。大会場の広場だった。満員の館客席から一斉に拍手が起こった。誰に?Mに。Mは引き返そうとしたがさっきの出口はどこにもない。広場の反対側に巨大なロボットがいた。高さ10Mばかり、巨大な腕が一本。体中のランプがネオンサインのように点滅を繰り返していた。マイクの音が聞こえてきた。

『ただ今より本日のメーンエベント』

『わーわー拍手!』

マイクを握っているのは黒いスーツに赤い蝶ネクタイをしめた切符売りだった。

『巨大ロボット”ノボ”対M。』

『わーわー拍手、拍手!』

『無制限一本勝負。死んだ方、又は壊れた方が負け。なお、”ノボ”は現在に至るまで60勝0負。身長10M、体重100トン。対するM、身長169cm、体重48kg、リスト15cm、戦績ゼロ。繰り返し申し上げますがザブトン等は投げないようお願します。』

『わーわーわー拍手拍手拍手!!!』

どこかでカネの音がした。

一段と盛り上がる歓声。あれは”ノボ”に向けられたものか、Mに向けられたものなのか、Mは思案にふけった。ノボはシューシュー音をたてながら進んできた。そうだ、そんな事は言ってられないのだ、とMは気付いた。逃げ出すべし。Mは必死に出口を探す。しかし館客席との間にしきられた高い塀は越えられない。一本の腕がゆっくり降りてきた。”ノボ”の腕は体長の数倍にも伸びるのだ。巨大な風車といったところ。Mは塀に沿って走って逃げる。ぶざま、Mはそう思う。Mは地面に伏せた。その上を通りすぎるノボの腕。ノボの攻撃が腕を振り回すだけなのならチャンスはある、とMは思う。飛び起きてノボの本体にMは走って行った。ノボは腕を止め、静止した。そしてブブブと震えながら物凄い突風を体の中から噴き出した。Mは空中高く吹き飛ばされた。地面に広がったままMはしばらく動かなかった。ノボの腕が近づいた。Mが飛び起きてよけた所の地面をガリガリと引っ掻いた。

『あんまりだー!!』

Mは逃げながら叫んだ。

『出してくれー!!ここから出してくれー!!おれは死にたくない!!』

再びマイクの声。

『あー、ひとつ忘れてました。Mには槍が一本与えられます。ハンデイキャップと申しましょうか。槍は一本きり。これ以上は何も与えられません。』

塀の外から槍が一本投げ込まれ、Mの目の前の地面に突き刺さった。Mは抜き取って手に取った。刃の先がキラッと光る。Mは思う、これじゃ自殺しろというようなもの。

ノボの腕が又やってきた。頭の上までやってきたそれをMは見上げ、槍でぶったたいた。よく響く音。当然中身は空。ノボの指がMをつまみ上げた。そのまま空中高く持ち上げるノボ。Mはせっせと槍でノボの指先のカバーをめくった。中から色とりどりのケーブルが無数に現われた。Mはそいつをむき出しにして先端をくっつける。小学生の頃よくやったなと思いだす。どこかでブシュという音がして腕が止まった。ノボの本体が煙を吐いていた。あっけない臨終。観客席は水をうったように静まり返った。今世紀最大の番狂わせを目の前にして信じられぬ彼等。そして除々に拍手がわきおこる。

われるような歓声。Mは地面に飛び降り、両手を広げて喝采に応じた。塀から誰かが降りた。さっきの少年だ。Mに駆け寄ると飛びついた。急に歓声が静まったのでMは少年をかかえたままあたりを見回した。ノボがまた身動きを始めていた。ぎごちなく巨大な腕を持ち上げると見境なしに観客席を破壊し始めていた。悲鳴。逃げまどう人々。狂ったノボ。シューシューを音をたてながら何もかも壊していく。Mは少年を抱きしめながら見つめていた。大会場の屋根が傾き始めた。Mはなおも見つめていた。激しい音響。全て粉々になってつぶれていった。暗闇がおおった。


切符売りが忙しく映写機を修理していた。

『フー』と息をつくとドライバーを持った手で顔をぬぐった。

『やっとなおったぜ。』

彼、観客席をのぞくと、たった一人の客は席にもたれて眠っていた。

『やれやれ、寝てやがる。起こさなきゃ。』

彼、近づくとMの体を揺すった。Mの体がゆっくりと床に倒れた。切符売りは彼の胸に

手をあて口もとに耳を近づけた。そしてゆっくり体を離し、Mを眺めた。

『脳内出血か心臓発作でも起こしよったな。なにしろよぼよぼのじいさんだからな。

仕方ないわ。』

切符売りは電話をかけると口早に何かしゃべった。そして陽気に口笛を吹きながら後片付けを始めた。

 外に出た。切符売りは立ち止まり、そこにある街灯を見上げた。そして肩をすくめ

石畳の道を歩いていった。





アディユー

En partant,il n'a pas dit <Au revoir> mais <Adieu>


さようなら、みなさん。私はこれを遺書のつもりで書きます。読み返さないでもよい

ように最後まで私の字が読み取れますよう祈ってます。

私の頭に浮かんだままを書きます。私は人間が嫌いなのです。なぜなのか私にはわかりません。いつの頃からか殺してやりたい程憎い、そんな事を感じたことが何度もあります。私の憎しみの記録.......


私の部屋に置かれた暗い鏡、深い霧を呼吸している。大きな柱時計が勉強机にいる私の

頭の上で時を刻んでいます。窓が自然に開き、真黒の夜を導き入れます。町は極度に静まっています。一心不乱に計算していた私は顔を上げ、部屋の隅に飼っているハツカネズミに餌をやるために立ち上がります。箱の板を指で引っ掻くとネズミが穴から顔を出すのです。しかしネズミは現われませんでした。穴の奥でネズミは真っ赤な血を流して小さくなっていました。私は頭を傾けました。

物事は不条理なものです。私の家族は口がきけないのです。ママもパパも私が帰ると

部屋の中央の椅子に静かに腰をかけたまま頭を傾けてまるで瞑想でもしてるかのように目を閉じたままなのです。私の兄は背を向けて立っていてついぞその顔を見た事はありません。私は小さい頃から一人で遊ぶ事に慣れていました。ですからそうした事も気にはなりませんでした。

 私が学校に入れられた時は最悪でした。しかし、現在はなんともありません。ただ昔からずっと疑問に思っているのは授業中あたりを見回すとどこにも仲間はおらず、ただみんなの座っていた席にただのマネキンが鎮座していたという事でした。そのマネキン人形は灯に照らされ、薄化粧され、本物より魅惑的に見えました。さらに言えば一種の性的魅力とも思えるのでした。時としてそうした最中、どこか遠くから自分の名前を呼ばれ、それがまた雷みたいな声なので椅子から落っこちたものでした。

 私の初恋は........私にも初恋はあったのです。その相手はたいてい一人で窓の所に立っていました。じっと立ちつくしていました。一体、誰を待っているのか、私にはわかりませんでした。私は時々彼女の方に目をやりました。見つめることは出来ませんでした。彼女と私の間に何か透明で強力な壁があって、近づくどころか身動きも出来なくなるのでした。時々彼女はあくびをしました。そして口を閉じるとえくぼが出来ました。

私は彼女の周りをぐるぐる歩き回っていました。

 私は学校は好きでも嫌いでもありませんでした。そもそも好きとか嫌いとか言う以前の問題でした。私にはそれしかなかったから、結局学校の囲いの中が私の全世界とでも言ってよかった。その中に住んでいるのはやはり鬼でも悪魔でもなく、人間でした。

もっともその人間というものが今にいたるまでよくわからないもですけど。ある日、

廊下を歩いていると私の前を一人の先生が歩いていました。背が高く、頭の上は赤くはげていて、白い髪がもやのように漂っていました。その後ろ頭を見上げながらついて歩いていると先生は急に低い声でドレミファ.......と歌い始めました。ドレミファぐらいなら

私も知っていると思ったのでっすがその先生のメロディーを聞いていると私は頭を傾け、自分でもなぜかわからずえらく感動しました。私はその時、先生の前に飛び出してこう叫んでやりたくなりました。

『あなたはえらい!』

しかし、実際はそんなことはせず、いつまでもチンコロのように感動しながらついて行ったものでした。今にして思えばだまされたような気もしますが。

 と、こんな事ばかり書き連ねていると、どこからか文句の出そうな気配です。

『おまえ、これでもSFか?』

 いいえ、SFではありません。全然。ここはSF同人誌です。だからこそ私はSFでないのを書くのです。つまみ出される?ネコみたいに?どうぞ。また、すき間からノコノコ入ってきてやります。

 私は嫌われるのが好きなのです。砂漠のなかの”嫌われオアシス”に私はあえぎながら這いよっているのです。私のモットーなのです。私は徹底的に無視され、そして忘れさられたいのです。私は極力証拠を残さないように努めています。卒業アルバムというものがあります。多分どこにも私の姿は載ってないでしょう。私の所だけ黒い穴がポッカリあいてるはずです。風が吹いてみんなどこかに行き、私の表情のない黒い影だけがいつまでも残っている、そういうふうなのかもしれません。

 死んだネズミを眺めながら私は考えます。私は今までの生活で何を得、何を失ったのだろうか、と。私が得た物といえばわりあい簡単に数え上げることが出来ます。宿題、算数、英語、なぐるとなぐりかえされるという教訓、適当な時に笑顔を作ると何とかなるという苦い経験、悲しくない時でも悲しい顔をしていると威厳が保てるという生活の知恵、人はサルだという厳然たる事実、年をとるにつれますますアホになるという不思議な真理、等々。

では失ったものは........それは数えるべきものではないのです。

...................大時計が時間を告げて鳴り始めました。私の大時計です。しかし、そのうちあなた方の時計も鳴り始めるのです。それは本当です。


 私は椅子に座っています。椅子を英語で何というか知ってますか?Chairというのです。仏語でどういうか知ってまっすか?Chaiseというのですよ。勉強になりましたね。いいえ、少しふざけてみただけです。私の座っているのは木の椅子です。私の周りを影がいくつもまわっています。私はもしかしたら生まれてからずっとこうしていたのかもしれません。心の底に重い物がべったりくっついています。それが何か、私は申しません。


 そうです。チビを紹介しましょう。私の飼い猫です。現在この家の屋根の上を歩いているはずです。猫は身軽なのでもちろん物音ひとつたてずに歩けるのです。チビは事のほか夜歩きが好きなのです。といっても彼の発情期は年に一回なので別に何もあるわけではありません。窓をカリカリ引っ掻く音がします。チビのご帰宅です。彼は礼儀正しいので部屋にお入りになる時、このようにノックして下さるのです。(窓から猫がポトリと床に降りた)これがチビです。名前のわりに大きい。そう、大きいからチビと私がわざわざ命名したのです。私はチビを抱き上げます。実にきれいな猫です。私を信頼しきって私の腕の中でノドをゴロゴロ鳴らしています。ですから私は…こうして…しめ殺すのです。

  

そうです、チビはきちんと埋葬してあげなければなりません。隣にさっき死んだ

ネズミも一緒に埋葬してあげましょう。


さようなら、みなさん。







夕食会


楽しい夕食会。テーブルについているのはアインシュタイン、エジソン、爬虫類

そしてドラキュラ。

 大きな銀色のコインがやって来ました。彼が給仕。バケツみたいな物を下げてます。

オタマジャクシをその中に突っ込んで一人一人の前の皿に分けていきます。今夜は楽しい夕食会のはずなのでみんな文句は言わない事にしてます。エジソンの皿にはドカッと掛時計が置かれました。アインシュタインの皿にはブラックホールが恐る恐る置かれました。爬虫類の皿には歴史の本が置かれました。そして最後にドラキュラの皿にはかわいい男の子が一人置かれました。みんな困っているようでした。エジソンは強力入歯の発明に取り掛かかっています。アインシュタインはブラックホールの料理法の理論に頭を悩ませています。爬虫類は歴史の本をパラパラとめくって瞑想にふけっています。

一人だけ困ってないのがいました。ドラキュラは神妙な顔で仰向けに眠っている子供の体に胡椒を振りかけています。ナイフとフォークを両手に持ってどこから食べようかとあちこち突っついています。

 と、これはどうした事でしょう。子供は目を開き、むっくり体を起こしてしまいました。せっかくの夕食をふいにしてドラキュラは目をぬぐっています。人はこれを

”そら涙”と呼んでいます。なぜならその証拠にドラキュラはハンカチで顔をおおいながら、なおもフォークで少年の体を突っついているからです。

 ふいにエジゾンの掛時計が鳴り始めました。あわてたアインシュタインがブラックホールに手を突っこんでもがいてます。少年はそれを見てはしゃいでます。爬虫類は依然本を前に考えにふけってます。ドラキュラは少年をおっかけて未練がましくなめまわしています。アインシュタイン博士はとうとうブラックホールの中に飲みこまれてしまいました。他の者はせっせと博士をひっぱっていましたが………


 給仕のコインが戻ってきました。と、残っているのは爬虫類だけ。相変わらず顎に手をあて考えこんでいました。爬虫類とコインの目が合いました。そして爬虫類は悟りました。自分がとっくの昔に絶滅していることを。爬虫類は素早く絶滅しました。あとに残ったのはコイン。後片付けをすると行ってしまいました。今夜の夕食会はだからこれで終わりです。                              

                  

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― 新着の感想 ―
[一言] once upon a time [童話の最初に用いて] 昔々 (⇒→EVER after 【成句】). ということで、童謡の短編集だとおもうのですが、童謡としては難しい言葉が多く、テーマが…
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