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三人がこの家に泊まってしばらく経った、薄曇りの朝だった。
うっすらと空にかかった雲の向こうに青空が見える。今日はこれから晴れるかもしれない。けれど、爽やかな快晴よりも、曇りというほど湿っぽくはない、この空の色をリアは気に入っていた。
二階の自室から空を見上げていたリアがなんとはなしに視線を下に向けると、ちょうどルーカスが出て行くところだった。
不意に、黒い頭が振り返ってこちらを見上げる。
「魔女さま」
リアを見つけたルーカスは、空とよく似た色の瞳で微笑み、丁寧に頭を下げた。
「おはようございます。今日は晴れそうですね」
「……おはよう。散歩に行くなら、足元がぬかるむから気をつけて」
ルーカスはリアの生活に自然に存在した。
彼らがこの家に来てからまだ一週間と経っていないというのに、ルーカスはあまりにも覚えが早かった。薬を煎じると言えば、当たり前のように瓶を煮沸して、休憩を挟もうと思ったときにはすでにお湯が沸いている。
『随分この家に馴染んだな、あいつ』
「……そうね」
貸したアルフレヒトの服も誂えたようにぴったりだった。あまりに違和感がなさすぎて、時折リアは息を詰めるほどだ。
『リア。あいつが気に入ったのか? アルフの部屋まで使わせてる』
「そんなんじゃないわよ。他に部屋がないのあなただって知ってるじゃない」
『けど、居間のソファに寝かせることだってできたろ?』
「……わたしを訪ねてきたって人を、ベットのない部屋に何日も寝かせるわけにはいかないでしょう」
『そもそも、ルーカスはどうしてここにきたんだ? ここは興味本位で来られるような気楽な場所じゃないだろ』
「それが……。はぐらかされてる気がするの。家族に病気の人もいないって言うし」
『ルーカスのやつ、餌台を直してたんだ』
「餌台って、アルフの家の?」
かつてアルフがカインに餌をやっていた餌台は、アルフが居なくなって何年目かに雪の重みに耐えられずに壊れてしまった。
直そうとしたリアに、カインはどうせまた壊れてしまうだろうから春が来るまで直さなくていいと言ったのだ。彼にとっても思い出のものだったろうに。
窓から、かつてアルフが暮らしていた家の方に視線を向けるが、庭の木に邪魔されていて餌台は見えなかった。
*
「そうね。じゃあ薬草の収穫を手伝ってくれる?」
その日、なにか手伝えることは、と二人に問われたリアは少し考えた末にそう返した。
「男手がいるのはなにかと便利だし、マニラ夫人も雑な仕事はしないでしょうし。乳母車でなら、エヴァも連れてきて大丈夫よ」
自由に歩き回るような歳であれば難しかったかもしれないが、エヴァはまだ掴まり立ちがやっとのところだ。
「森で収穫するのですか? 乳母車でも大丈夫でしょうか」
「温室があるの。台車が通れるようになってるから、乳母車でも大丈夫。でも、草木に手の届かないところに停めてね」
「温室が……」
「まあ、大したものじゃないけどね。じゃあカイン、お留守番お願いね」
『おうよ!』
温室はアルフレヒトが居なくなって数年後に造ったものだ。雪続きで食物や薬草の収穫が難しくなり、どうしようもなくなったからだ。
室内は魔法で温めていて、そのせいでリアはあまり他に魔力を費やすことができないので、どうにかならないものか思い続けて早数十年である。
カインに見送られて訪れた温室を、二人は物珍しそうに見渡している。
「いい香りがしますわ」
「ハーブの類ね。収穫が近いのはこっち」
「大したものじゃないと言っていましたが、小さな植物園くらいの大きさはあるのでは?」
「……そう? ほら、これよ」
立ち止まったのは、背の低い二本の木の前だった。青々と茂る葉に紛れて、同じような色をした丸い実が稔っている。
「お願いしたいのは、『冬籠りの実』の収穫と選別ね」
梅によく似たその実は、本来であれば秋半ばに稔るものだったが、魔女の温室に季節など些細なことだ。室内にはさまざまな季節の薬草が育てられていた。
「ルーカスには収穫を。軽く捻ればポロッと採れるわ。マニラ夫人は採った実をキズと綺麗なので分けてね」
収穫した実は、籠三つ分にもなった。
リアが持ち上げようとした籠が、するりと横から攫われた。驚いて見上げると、ルーカスは困ったように眉を下げた。
「魔女さま。男手はこういうところで使っていただかないと」
「あ、ありがとう。ついクセで」
「いつも一人でこの量を?」
「そうだけれど、持ち上げるときは風の魔法で軽くできるし、あとは台車で運べばいいわ。時間はかかるけど、わたしには有り余ってるもの」
「なるほど。でも今日は僕がいますから、どんどん使ってくださいね」
「そうね。ありがとう」
ずいぶんな重さのはずだが、彼は台車も使わずに軽々と夫人の方へと運んでいく。一足先に収穫を終えたので全員で選別を済ませてしまおうということになっていた。
退屈したのか、ぐずる声を上げたエヴァを時折三人であやしながら緩やかに作業は進められた。
「それにしてもすごいな」
そんな中、それぞれの籠にいっぱいの青い実を見て、ルーカスは感慨深げに呟いた。
「冬籠りの実は珍しいですか?」
「僕の住んでいた街では『冬籠りの実』は高価な品でしたから」
ルーカスの声に夫人が顔を上げる。彼女の問いに答えたルーカスは、もう帰れぬ故郷を懐かしむかのように微笑んだ。
「そういえば、ルーカスはどこから来たのか聞いてなかったわね」
「ああ。僕はずっと南の、港街から来たんです」
彼のその一言に、リアは思わず選別の手を止めたが、それを気取られぬように次の実に手を伸ばした。
港街なら商いは盛んだろうが、確かに豊かな森の中で育つ木の実を手に入れるのは難しいかもしれない。
「まあ。港街からなんて、よほど魔女さまに憧れがあったのですね。会いたい一心で雪の野を超えてくるなんて素敵ですわ」
ルーカスの答えを聞いて、夫人は目を輝かせた。おとなしい人だと思っていたが、案外ロマンチストでおしゃべり好きなのかもしれない。「素敵ね」とエヴァに話しかけているのをリアは目を細めて眺めていた。
「ほんとに、遠いところから来たのね」
そう噛み締めるように呟いた言葉は、この場にはなんの違和感もないはずだった。
*
「どうしよう、カイン」
温室から帰ってきたリアは、採取した実の下処理もほどほどに自室へと引っ込んだ。
そうして頭を抱えるリアをカインが心配そうにその黒い目でみつめている。
「わたし、期待していたのよ。もしかしたら、ルーカスはアルフレヒトと縁のある人なんじゃないかって。彼は親戚筋で、もしかしたらアルフは出て行った先で血の繋がった家族と偶然出会ったんじゃないかとか、そういうことを考えていたの。でも、港街の出身じゃあ、そんなことありえないものね。彼が向かったのは荒野を抜けた先の街で、引き取られたのもその隣街だもの」
『リア』
アルフレヒトが村の夫婦に引き取られてきたのは彼が七つ、リアが五つの歳の頃だった。
彼が孤児院にいつからいたのかははっきりしないが、彼が本当の両親を覚えていたとして、あの冬口の街で彼はその面影を見たのかもしれない。
いつだったか、アルフレヒトが帰ってこない理由をそう考えたことがあった。
その考えを口にしたのは初めてだった。
回らない頭で要領を得ないことを喋り続けて、リアが息を吐いたときそれまで黙っていたカインが強い口調で遮った。
それは彼の持ち前の美しい声で、囀りのようにも聞こえたけれど、彼女にはしっかりと嗜める響きが届いていた。
『仮にアルフがそういう奴らと会ったんだとしても、それがリアに何も言わずにいなくなる理由になるわけがないだろ。それに、アルフだってそんなことをするやつじゃない。なによりもリアがよく分かってるはずだ』
「うん。……うん。ダメね。アルフが居なくなったときと同じような歳の頃の人が来たものだから重ねちゃったんだわ」
ハーブティーを淹れるのが上手な人はこの世にごまんといるだろう。同じような背丈の青年も。それだけならよかったのに、すべてはあの色のせいだ。
彼の瞳は、かつて愛した、いや、未だ愛し続けている人と同じ色をしていた。
そのせいでリアは、「もう諦められるかもしれない」という淡い期待を抱いてしまった。
今も、アルフレヒトを待ち続ける時間を愛おしく思っている。
それなのにどうして、約束が破られてもいいからもう終わって欲しいだなんて思うのだろう。
二人の約束は、まだ破られてはいない。だって、この村にまだ『次の春』は訪れていないのだから。