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荒野が果てないほどに続いた先にある村には、いつからか春が来なかった。
かつて豊かな自然とあたたかな心の村人たちの声で賑わっていた村は今、たった一人の魔女を残して春が来るのを待っている。
*
「次の春には帰ってくるよ」
あれは春が訪れなくなる最初の冬、雪が深くなる前にと村の若い衆と共に一番近い街に出稼ぎに行った青年は、それきり帰ってこなかった。
「だから、帰ってきたときには、この家で『おかえり』って迎えてくれる?」
「もちろんよ」って言って約束のキスをした。その約束のせいでこの村から出られずにあの人を探しに行けないなんて、いったいどんな皮肉だろうか。
魔女は約束を破れない。
約束をすれば、それに囚われてしまうから。
だから魔女や魔法使いはめったなことでは約束をしないものだが、リアは小さな頃から些細なことで彼と約束していた。次の日に一緒におやつを食べること、家の手伝いが終わったら一緒に遊ぶこと。そんな約束を積み重ねて、彼と夫婦になってからも同じようにしてきたのだ。そしてその日の約束も、二人の間ではかわいらしいほどの簡単な約束のはずだった。彼が帰ってこないことを不思議に思うまでは。
暦の上ではとっくに春が来ているはずの時期にまだ雪が積もっていることを村人たちは不安に思い始めた。
その不安と疑問がリアたち家族に向くのは自然なことだった。リアの家は、村に貢献してきた魔法使いの一家で、村の医者や相談役を代々担ってきた。
自然の力を借りた少しだけ便利な『魔法』と膨大な薬草の知識を持つ者、それが魔女と魔法使いという存在だった。村人たちにとって、自然の巡りを狂わすようなことができる存在は彼女の一家以外にはありえない。そしてリアと夫の些細な約束は明らかになるのだった。
リアとアルフレヒトはずっと一緒だった。
孤児だったアルフレヒトが村の夫婦に引き取られてからずっと。一緒にいるのが自然なことで、彼と繰り返す約束が大好きだったのだ。たとえ魔女にとっては不自然なことと言われても。
「でも、約束に囚われたせいで成長までしなくなるとは思わなかった」
長寿だ不老だと云われるのは伝説のように遠い先祖たちだけのはずで、時代を経るに連れてやがて魔女たちの力は弱まり、人間と同じように歳を取り死ぬようになった。
そのはずなのに、リアはある日自分の時間が止まっていることに気がついたのだ。
「約束のせいよ」
母は言った。
「あなたの時間は止まってしまった。髪や爪が伸びなくなったのも、この村の四季が巡らなくなったのも、みんな約束のせいだわ。きっとこれからあなたは歳を取ることなくアルフレヒトを待つことになる。こんなことになってしまうなんて。だから約束を交わすのはおやめなさいと言ったのよ。なのにあなたたちったら飽きもせずに……」
泣き崩れた母はそれでも、村人たちを村から逃すことに尽力した。自分の娘のせいで村人たちが住み慣れた故郷を離れなくてはいけないことを幾度も謝りながらその魔力の尽きるまで村のために働いて、空気に溶けた。自然に還っていくのが魔女たちの最期なのだと、リアは母が死んで初めて知った。
村人が去り、母親を亡くし、一人きりになった。
けれどもリアは今日もまた、アルフレヒトに「おかえり」を言うためだけにこの白い村で待っている。
そして、この長いながい冬が終わりを告げるとき、愛しい人がこの扉を開けるのだと信じていた。
* * *
『リア。いくら外を眺めて待っていたって無駄だろうよ。あれからもう百年以上経つんだぜ』
窓の外の銀世界を眺めるリアの頭上で白い小鳥が姦しく舞う。白くてふわふわでとても可愛らしい見た目なのに何故こんなにも姿に似つかわしくないガサツな言葉を使うようになってしまったのだろう。さえずりは歌姫もかくやといった透き通った声なのだから同じ声でそんな言葉を使わないでほしい。どうしてもっと可愛らしい性格にならなかったのかしら、とリアは小言を聞くたびにちょっとばかりがっかりしていた。
返事をせずにため息を吐いたリアにも小鳥は容赦なく言い放った。
『人間ならもうとっくにくたばってるところだ。それに戻ってこなかった時点で、リアを裏切ったようなもんだ。早くリアも新しい男でも捕まえて面白おかしく暮らしゃいい』
「うるさいわよカイン。だいたい、こんな寒いところに居ついてみたい人がいるなら私だってお会いしてみたいくらいよ。それに……」
こんなやりとりはもう何百何千と聞き飽きた。そしてリアはまた、いつもと同じように口を開く。村から出られなくなったリアが彼の言うように「新しい男を捕まえる」ならば、そのひとはこの村に住み着かなければいけないが、あいにくそんなことができる者はこれからも現れないだろう。その上、その現実的な問題よりもリアには大事なことがあった。
「こんなに時間が経ってしまったのに、彼が帰ってくるのがこんなにも待ち遠しいんだもの。まるで昨日のことみたいに、アルフと約束した日のことを愛おしく思い出せるんだもの。今さらほかの人を好きになるなんて考えるだけ無駄よ」
『……』
小鳥は押し黙った。このときの彼の反応は日によって様々で、今日のように口をつぐむときもあれば、なんやかやと言い返してくるときもある。彼なりに、リアとアルフレヒトの関係には思うところがあるのだろう。そして、それに関してはリアも彼も百年以上もの間はっきりと言葉にはできていないのだった。
このカインと呼ばれた喋る小鳥はかつて死にかけくたびれた小鳥だった。ある日彼を抱えて、アルフレヒトがリアの家に飛び込んできたのだ。
その日のことを、リアはとてもよく覚えている。
* * *
「リア!」
「アルフ、どうしたの?」
突然開け放たれたドアから入ってきた幼馴染を振り返り、リアは目を見開いた。その顔や腕が傷だらけで、おまけに手にした柔らかそうな布には赤い染みができている。
「血が出てる! 何があったの!?」
「リア! リア、助けて。この子を助けてあげて。家の裏でいじめられてたんだ。ねえ、リアならできるよね?」
広げられた布の中に包まれていたのは傷だらけの小鳥だった。
リアは怪我をしているのがアルフレヒトではなかったことにひとまず息を吐いたけれど、目の前の小鳥は決して安心できるような状態ではない。
羽はところどころ禿げ、真白だったはずの体は地面に転がされたせいなのかくすんだ灰色だった。その灰色にも赤が滲んでいる。ここに居たのがどんなに高名な獣医であっても小鳥を助けることはできなかっただろう。
「ねえ、死なないでカイン。大丈夫、きっとリアが助けてくれる。リアはね、とっても素敵な魔女なんだ。話したらカインも大好きになるよ」
必死になって死にかけの小鳥に話しかける幼馴染の姿を見て、彼女は小鳥の運命に逆らった。
小鳥はリアの使い魔になり、これからの生をリアと共にすることとなった。名前は今までアルフレヒトが呼んでいたという『カイン』をそのままリアも呼んだ。
カインはアルフレヒトの家の餌台によく訪れる小鳥で、その日家の裏でほかの鳥たちにいじめられているのを見つけたのだと、リアに傷の治療をされながらアルフレヒトは話し始めた。この傷はその鳥たちを慌てて追い払ったときのものだろう。
傷ついた小鳥を彼はどうすることもできずにリアの家に駆け込んだという。リアなら、リアがいなくても『村の魔女』のおばさんなら、どうにかしてくれるはずだと思って。
たしかに彼の考えは正しかった。結果として小鳥は死ななかったのだ。けれど、もし応対していたのが母だったらもっと別の方法で小鳥を助けたかもしれない。彼をただの鳥のまま、助けられたのかもしれなかった。
昔からリアは考えなしの愚かな魔女だ。
よく考えもせずに小鳥を使い魔にしてしまったし、簡単に約束も交わしてしまう。あの優しくて穏やかな母を泣かせてしまったのも死なせてしまったのも、全部リアのせいにほかならなかった。
あの日、灰色の今にも息絶えそうだった小鳥は、今がしあわせなのだろうか。こんな愚かな魔女に付き合って生き続けるよりも、あのままふつうの鳥として息を引き取ったほうがよかったなんて、思っていないだろうか。
* * *
不満げに部屋を飛び回る小鳥を見上げる。パタパタと鳴る羽音と暖炉の火がパチパチと爆ぜる音の交わりが今のリアの一番好きな音だった。
「ねえカイン。やっぱりあなた私を恨んでる? あなたに選択ができる状況じゃなかったとはいえ、こんな寒い村で代わり映えしない景色と顔を見続けることになるなんて」
『今更そんなバカいうなよ。オレはあんな無様に死にたくなかった。そりゃあ、こんなふうに生き長らえるなんて予想外だったけどさ。たまたま魔女に助けられて、その魔女がたまたま長生きになっちまったってだけの話だ』
カインは窓辺に留まって可愛らしい黒い瞳でリアを見上げた。その眼は艶やかで生気に溢れていて、あの日、一度死にかけた灰色の小鳥の面影はどこにもなかった。
『それに、リアみたいな気の強い魔女にはオレみたいな使い魔の話し相手がいないと、きっと今頃退屈で、気が狂ってたに違いないさ』
「ふふ、そうね。あなたみたいな生意気な小鳥のおかげで、私は退屈してないわ」
つん、と身体と同じように白い嘴を小突くと、カインはむず痒そうに羽をばたつかせた。
『……じゃあ、それだけでも生き返った価値があるってもんだな』
「……魔女だって死んでしまったものは取り返せないわよ。あなたは死んでなんかないわ」
『ともかく、オレは後悔なんぞしちゃいないし、リアにもアルフレヒトにも恩義を感じてる。今のところはオレの魔女サマが要らないって言ってもくたばる予定はないな』
「もう、カインったら……」
ふと柔らかい空気になった。こんなに掘り下げた話をしたのはいつぶりだろう。ひょっとしたら初めてのことかもしれない。
不安感から解放された安堵の息を笑いに変えて、リアはカインの前に指を差し出した。
「お願いです! この子を助けてください!」
カインがリアの人差し指に留まったそのときだ。黒髪の青年が、ひどく取り乱した様子で家に飛び込んできたのは。
ひゅう、と冷たい風が暖炉の火を揺らした。




