もしくは悲しい熊
「見たでしょ、学校に迷い込んできたあの熊。あれ、スズキさんよ。そして死んじゃったヒトとは、いえ、死んじゃった熊とは、もうお話が出来ないのよ」
「ごめん、そういう冗談は、とてもじゃないけど笑えないよ」
「『恋の病』ってね、ウイルス性の病気なの」
僕の拒絶など意に介さず、アサツキさんは突飛な戯言を続ける。
彼女は今までに見たこともないくらいに真剣だった。
「人間は誰もがクマウイルスのキャリアなの。誰もが熊になる可能性を持っているのよ」
「馬鹿じゃないの。だったら、世の中は熊だらけじゃないとおかしいだろ」
「トリガーよ」
「トリガー?」
「そう。発症にはトリガーが必要なの」
本当に馬鹿みたいだ。
さらには不躾だ。
アサツキさんは全てを知っていて、当然僕の気持ちも知っている筈なのに、どうしてこんなことが言えるのだろう。理解できない。
スズキさんと仲良しで、彼女を傷付けた報いを僕に受けさせるため?
そんな訳はない。
アサツキさんには友達なんていないことは、普段の様子から知っている。
それならどうして。
僕はだんだん怖くもなってきた。
「ササキ君は、どうしてヒトは熊になってしまうと思う?」
「知らない。ヒトは熊になったりなんかしない」
「過度なストレスよ。それがトリガー。ヒトが大きなストレスを感じると、体内のコルチゾール濃度が上昇して、クマウイルスが活性化するの」
「やめてよ。訳が分からない」
「分かるでしょう? スズキさんはササキ君に振られて、とんでもないストレスを受けたの。そして熊になったのよ。最初は体温の上昇、食欲不振や睡眠障害などの兆候から始まり、今言ったように、トリガーが引かれると一気に熊化が進行するの。クマウイルスの恐ろしいところはね、細胞内に侵入してヒトの塩基配列そのものを……」
「だったら僕だって熊になってるだろ!!」
思わず叫んでしまいはっとするもアサツキさんは驚く様子もなく、かと思えば覗かせた片目を細め、おもむろに窓を開け放つのだった。
冷たい風が室内に吹き込み、鳥肌立った肌がざらざらとした嫌な感触を伝える。
「閉めてよ。普通に寒い」
「ササキ君はなんで熊にならないの?」
「知るわけない。明日にはなっているかもしれない」
「私は知ってるよ」
そう答えたアサツキさんの髪を風が吹き上げ、彼女の顔全体を露わにした。
額にはニキビが一つあり、その下にははっきりとした二つの眼が、僕を見つめている。
アサツキさん、もっとちゃんとすれば良いのに、なんてことを考えてしまってから、僕はすぐに外の景色へと目を向けた。
「ササキ君、そんなにスズキさんのこと好きじゃなかったんだよね。だからヒトのままなんだよ」
「……僕は酷いことを言ってしまったんだ」
「そんなの、誰でもやっちゃうことだと思うよ」
「特に酷いことを言った」
「うん。でもね、一番は感受性の問題なんだよ」
「また訳の分からないことを言うんだろ」
僕は背中を壁に滑らせ、そのまま床にお尻を付けた。
もう、理解をしようとするだけ無駄だと分かったから。
ただなんとなく、アサツキさんは僕を慰めてくれようとしていることだけは感じられたのだ。
それなら彼女の気が済むまで、彼女なりの方法で僕を慰めさせてやることに決めたのだった。
「ヒトは大人になると、熊にはならないの」
「そっか」
「どうしてだと思う?」
「知らない」
「私たち未成年は感受性がとても高くて、そして失恋が最も大きなストレスとなるからよ。あとは骨端線が関係しているのだけど……」
「もっと端的に、感覚的にお願い」
彼女の話を聞いてやると言っても、こちらにもキャパシティというものがある。
それに受け入れるものが薬とならないことが分かっているのなら、せめて毒でないほうが良い。
「私たちはたくさんのことに慣れることができるの。たくさんのことに慣れて、ヒトのまま大人にならなくてはいけないのよ。辛いことがあっても、負けちゃいけないの」
「スズキさんは、挫けてしまったの?」
「そう。でもそれは、大人になるためには乗り越えなくてはいけないことだったの。さっきはササキ君はスズキさんのことをあまり好きじゃないなんて意地悪なことを言ったけど、ササキ君が熊にならないのは、きっと今あなたが必死に戦っているからなのね」
「僕は何と戦っているんだろう。何を乗り越えなくてはいけないんだろう」
「ササキ君」
不意に呼ばれ、僕は見上げた。
アサツキさんはやはり微笑み、こちらを見下ろしている。
彼女の行動は常に不意だった。
だから特別驚くとか、そういうことはなかった。これが慣れというものなのだろうか。
「クリスマスは特に予定は無いんだよね」
「うん」
「私もそうだよ」
「……うん。でも僕は……」
「私、ササキ君の気持ち知ってるよ」
アサツキさんの顔は、あの時のスズキさんに似ていた。
「もしも私が熊になってしまったら、誰か悲しんでくれるかしら」
ただあの時と違うのは、何かを期待するように、熱く輝く瞳がはじめから真っ直ぐに僕へ向けられていることだ。
その輝きが失われたとき、途方もない絶望が彼女に訪れ、あの悲痛な遠吠えのように言葉にならない叫びとして吐き出されるのだろうか。
「……僕に聞いてどうするんだよ。そんなこと」
僕は膝を抱え、顔を伏せた。
何もかもが馬鹿らしいと思いたかった。
一人でも、彼女の言うことを信じてあげてください。
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