老荘思想について それを言っちゃあおしまいよ
以前運営していたホームページに収載していた文章の転載です。
この「馬鹿」を見よ。及び「老荘思想」の私的解釈
04.8.10記
高校時代に哲学、思想に興味を持った。
だが高校時代に読んだ哲学書は、 新潮文庫の「ツァラトゥストラかく語りき」だけだった。
そのとき読んだのは、「超人」ということばに惹かれただけのことであり、またやはり高校時代にリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラかく語りき」を聴き(編曲されたものであったと思う)、えらく感激し、私が買った最初のレコードとなった。
「俺は、最も感激した本と音楽が同じだ」などと悦にも入っていた。
が、音楽はともかく、本については、その時点では「超人」ということばを カッコイイと思っていただけで、ニーチェの思想が理解できていたわけではない 。
(今も「超人」と「永劫回帰」以外はよく分からないし、この2つについても本当に 理解できているのかどうかは、専門家にこのホームページ上にある ニーチェに関して書いた文章を読んで判断してもらうしかないが・・・)
高校時代は、とにかく、
「宇宙という限界を超えたもの:「超宇宙」
と、
神を 超えたもの :「超神」
について思考をめぐらした。
そして「俺はすごいことを考えているんだ」と悦に入っていた。
このとき、さらにどういうことを考えていたかについては、 1996年に自費出版した 「緊褌巻:○○○○作品集」の「旅人」というタイトルの文章が、それに当たる。
一言でいえば「馬鹿」である。
誇大妄想の見本のような文章である。 その自費出版の際は
「まあ、人に読んでもらうという以上に、自分のために書き残す 本だから、少年時代はこんなことを考えていたという記念にこのまま残しておこう」
と思い、そのまま活字にした。
さすがにあまりに恥ずかしかったので、作中の人物が書いたことにして、さらに、大学を卒業したその人物が、その文章を書いた中学 ・高校時代 を振り返って
「考えてもどうしようもないことを考えていた」
と言及するという 体裁をとった。
(実際はその考えというものは30歳代までひきづっていた。せめて高校時代で卒業しておきたかったという後悔が、その作中人物を生んだのだ)。
だが、「記念」にしろ、そういう体裁をとったにしろ、今となっては、あんなことを 活字にすべきではなかったと思う。
生涯1度だけだから、という約束で自費出版 したので もうどうしようもないが、もし可能であれば、その作品集の10篇、ごく一部を除いて もう一度、現在の考えを元にして書き直したいものだ、と思う。
さて、大学に入学して初めてそういう関連の本で読んだのは「荘子」だった。そして、私の人生を振り返ってみたとき、このことは、さらに失敗を重ねることになったと思う。
荘子さらに老子を含めて、老荘思想のエッセンスとなる思想は 「万物斉同」と「無為自然」。
この世界には何の区別もない、優劣、美醜、善悪の別などは人間が 勝手に計らった相対的な価値観であり、絶対的なもの「道:タオ」においては、 そのような 相対的な価値観など何の意味もない。
人間が積極的に何かを成す、というのは無意味なこと。自らは何も成さずただ あるがままの 自然に任せよ。
たしかに、すごい思想と思う。だけど
「それを言っちゃあ、おしまいよ」という思想でもあろう。
さて、18歳でそういう思想にふれ、それにかぶれて仕舞ったら、どんな人間 が出来上がるだろうか。
もともと誇大妄想癖があった少年だ。
「この宇宙も、この世界もちっぽけなもの」
「これまでこの世界にあったどんな思想も、どんな出来事も それを超えたものの前ではくだらないこと」
こうして、今ここにある世界を、基本的には蔑視してみる、という馬鹿が出来上がってしまった。
馬鹿は死ななきゃ直らない。
初老とよばれる年齢(40歳)を前にして、やっとその馬鹿さ加減に気がついただけまだまし、
と自分をなぐさめたいが、いずれにしてもきちんとした思想が確立する前に「老荘」を読むのは危険なことだ。
若者は先ず、「論語」を読むべし。
・巧言令色少なし仁
・我、怪力乱神を語らず
・述べて作らず
・君子は窮すれども乱れず。
うーん、素敵だわ、孔子様。
「老荘」は、実生活に疲れたとき、宇宙や大自然のことを考えて 気分転換をはかる、それと同様な使い方をすれば有効であろう。