食べものの重要性について
幸い、高い教科書だったので紙も丈夫でした。サンドイッチを買ったときに頂いたお手拭きできれいに拭き取れば、ほぼ元通りです。一部、紙の光沢とは違うテカり方をしていますが、いいことにしましょう。ケイナも少しは反省したようですし。
「あ、ケイナさん。奇遇ですね」
ふいに聞こえてきた声に顔を上げると、友人の永岡友樹が来ていました。
でも、どうしてでしょう。呼ばれたのはケイナで、友樹は今も僕の方を見ようともしません。そもそも友樹は昼休みのあとにこの教室で行われる講義をとってはいないはずなのに、何故ここに来たのでしょう。
マヨネーズの光沢がかすかに残る高価な教科書を熱心に読んでいたケイナは友樹の声に顔を上げ、しばらく考えていました。
「――あ、朝会った人」
「覚えていてくださいましたか!?」
「うん。顔は」
名前は忘れたと言外にはっきりきっぱりおっしゃいましたが、友樹はそれでもよかったようで、
「いやぁ、嬉しいなぁ。――あ、これ、よかったらどうそ。ちょっと買いすぎてしまったんです」
と笑って、ケイナにシュークリームを渡しました。
「いいの? ありがとう!」
ケイナの顔が、ぱっと明るく輝きます。
きっとケイナの頭の中で友樹は、“朝会った人”から“シュークリームをくれた人”に昇格されたことでしょう。
「そういえば、友樹。この講義とってなかったと思うけど、どうしたの?」
シュークリームを頬張るケイナを見つめる友樹に問いかけると、友樹はようやく僕の方を向きました。
「……察しろよ。っつーか、邪魔すんな」
意味がわかりません。ケイナが食欲魔人だということを今朝のやりとりだけで見破って、デザートを持ってきてくれたのでしょうか。でも、食べものの話は一切出ていないのにどうやって?
不思議に思っていると、シュークリームを食べ終えたケイナが「ごちそうさまー」と手を合わせました。しかし視線は先ほどシュークリームが出てきた袋に注がれています。
「ねぇ、その袋の中のものは食べないの?」
やはり、狙っていましたか。さすがにそれは友樹の分でしょうと思ったのですが、友樹はあっさりと袋をケイナに渡しました。
「よかったら、どうぞ。僕はなんだか食欲がなくって」
「へぇ、それは大変だね」
袋の中をごそごそと探りながらケイナが返します。「大変だね」と言ってはいましたが、心配しているようにはとても見えません。
それにしても友樹は本当にどうしたのでしょう。
とってもいない講義の教室にきて、朝会ったばかりのケイナにシュークリームを渡し、さらに自分用に買ったであろうおにぎりも提供するなんて。
そんなことをしても、きっとケイナの中で“食べものを沢山くれた人”に昇格するだけ――と思った瞬間、気づきました。友樹の行動の意味に。
そして、可哀想になりました。
だってそんなことをしても、ケイナの中では“食べものを沢山くれた人”に昇格するだけなんですから。
その証拠に、三つのおにぎりをぺろりと食べ終わったケイナは友樹におざなりにお礼を言っただけで、また教科書を読み始めました。
袋に入っていた新しいお手拭きできちんと手を拭いてから読み始めてくれたので、僕としては文句はないのですが、ケイナが食べ終えたあとのゴミを入れた袋を無言で縛る友樹にかける言葉が見つかりません。
かといって、僕が仲を取り持つ気もありません。友樹とケイナが接触する機会を増やせば、それだけ異世界人だとバレる危険性が高まります。
結果として僕はなにもせず、すごすごと教室を出て行く友樹を静かに見送りました。
異世界人云々さえなければ僕もなにかしら協力したいところなのですが――仕方ありません。どのみち、叶わぬ恋なのです。
(それにしても……)
友樹の姿が見えなくなってから、僕は食べ終わるやいなや本読みを再開した異世界人に視線を戻しました。
この人は本当に、なにをしにこの世界に来たのでしょう。
◇―◇―◆―◇―◇
「それは企業秘密だなぁ」
バイトを終えて帰ったときにはもうトールの時間で、昨日のケイナと同じ答えを返されました。
「……だから、どこの企業ですか」
「それも秘密だ」
にやりと笑う顔を見て、僕は溜め息をつきました。これは、答えてくれそうな気がしません。
「それより、明日からなんか食うもん置いてってくれよ。ケイがうるさくてかなわん」
「まだ食べるんですか……」
サンドイッチを二パック食べたあとにシュークリームとおにぎりまで平らげたくせに、夕飯を食べるのがトールであることが不満なようです。
「この魚、まだあるか? あったら明日の朝、出してやってくれ」
「あ、すみません。これで終わりです」
答えた瞬間、トールの頭がなにかに殴られたかのように傾きました。
「うるせー。俺に怒鳴ったってしょうがねぇだろ」
どうやらケイナに怒鳴られたようです。誰もいないのにトールが右耳を押さえて、そちらの方向に文句を言っています。
「えっと、じゃあ、今度買ってきますから」
僕が慌てて言うと、少しして傾いていたトールの頭が戻ってきました。
「恩に着る……」
「いえ……」
ケイナの時間は終わっているはずなのに、なんでしょうこの存在感。
僕とトールは互いの顔を見て、同時に溜め息を落としました。
◇―◇―◆―◇―◇
ものすごく適当なあしらいを受けたにも関わらず、友樹はその後も頻繁にケイナに食べものを貢ぎにきました。
おかげでケイナは最近、友樹の顔を見ると嬉しそうに顔を輝かせます。
ええ、もちろん、貰うものを貰ったら友樹に用はありません。
食べて手を拭いて、大学の図書館から借りてきた本に視線を戻し、その態度に友樹ががっかりしながら去っていく――というのがいつものパターンなのですが、友樹も考えたようです。
「あ、あの、ケイナさん。よかったら今晩、一緒に飲みに行きませんか?」
食べものにありつけそうな台詞をケイナが無視するわけがありません。すぐさま顔を上げ、しかし答える前に、彼女にとって最大の問題を口にしました。
「……今晩って、何時?」
八時以降ならアウトです。時間を気にせずに食べるのなら、リミットは七時でしょうか。
「あ、えっと……六時とかどうでしょう」
リミットより一時間も早い回答にケイナの顔が輝きました。
「いいよ!」
「本当ですか!? やった!」
「……盛り上がっているところ申し訳ないのですが、僕はお金出しませんよ」
二人の接点をあまり増やしたくないのもあって言いましたが、ケイナには伝わらなかったようです。
「大丈夫、だいじょーぶ。この人が出してくれるから」
……そうですか。友樹はいまだに“この人”扱いなんですか。
とても可哀想な扱いの友樹は、しかし嬉しそうに言いました。
「もちろんです。僕が払いますので、ケイナさんは遠慮なく好きなものを召し上がってください」
なんて心の広い人なのでしょう。僕は君のような友人を持って幸せです。是非とも明日の朝食がいらなくなるくらい食べさせてください。
心の中で“できたら昼食も”と高望みしていたら、友樹が僕に訊いてきました。
「――っつーか、なんで竜馬が金出すと思ったんだ?」
それはケイナの食事の世話を僕がしているからです。
「彼女じゃないんだよな?」
違います。
「親戚とかでもないんだよな?」
違います。
「じゃあ、なんで?」
僕が教えて欲しいです。
あのときうっかり空を見上げてしまったせいでこの人たちにつきまとわれて三週間。切り詰めてはみましたが、赤字は避けられません。トールが見るDVDのレンタル料も馬鹿になりませんし、来月くる光熱費の請求もいまから恐怖です。
貯金がそれなりにはあるので、すぐに生活に困るわけではありませんが……。
「そんなことより、竜馬。今日の夕飯はなに?」
溜め息をつきかけた瞬間、ケイナに訊かれました。
「今日はアジの開きと高野豆腐……って、ケイさん、友樹と飲みに行くんでしょう?」
「うん。もちろん帰ってきてからの話だよ」
楽しみだという顔で言われ、唖然としました。
貯金があるので、すぐに生活に困るわけではありません。ありませんが――
本当に、どうして僕がこの人たちの世話をしているのでしょう。