ケイナ・トールという人物について
なんとか撒こうと画策したことはことごとく空振りに終わり、結局アパートまでついてこられてしまいました。そして今、変な人は堂々と僕の部屋に居座っています。
「ねぇ、おなか空いたよ。早く早く」
「……だったら少しは手伝ってくれませんか」
見ず知らずの他人に一銭も貰わずに食事を振る舞う理不尽さを感じながら返すと、変な人は当然のように言いました。
「こっちの料理法、わかんないし」
あくまで自分は異世界人だという主張は、帰路の間も変わりませんでした。
どこかでボロを出すだろうと色々試してみましたが、常に辻褄は合っていて違和感も覚えません。あえて言うならば、話し方がやけに流暢なことが気になりますが、「勉強したし、私の世界の言葉に似てるからね」という回答を否定しきることもできません。
本当なのか、思い込んでいるだけなのか。
選択肢がその二つに変化したとき、僕は決定的なことに気づいてしまいました。
そう――はじめに会ったときに持っていたはずの身の丈ほどの棒が、なくなっていたのです。
代わりにあったのは、長さ二十センチほどの金属。
「好きな長さにできるんだよ、これ」
そう言って棒を伸ばそうとした瞬間、僕は「やめてください!」と叫んでいました。
この世界に、少なくとも今の時代の地球上に、自在に伸び縮みさせられる金属なんてありません。
だから本当に棒を伸ばせるのかやってもらえば、異世界人だという言葉が真実かどうかわかります。
ですが、そのとき僕らがいたのは公道で、車の通りも多い所でした。そんな場所で、そんな目立つ方法で異世界人だということを証明させたらどうなるでしょう。
脳裏に浮かんだのは、僕までもが仲間と間違えられて追われる未来です。その未来を避けるために、僕は叫びました。
――そうです。このとき僕はすでに、目の前にいる人がこの世界の人間ではないと信じていたのです。本当は棒を伸ばすことなんてできないなんて、これっぽっちも思わなかったのです。
そして部屋に着いて実際に棒が伸びるところを見た瞬間、僕は激しく後悔しました。
あのとき、あの場所で、空を見上げてしまったことを。
「あ、いい匂いしてきたねぇ。早く早く」
こっちの苦悩など気にもせず、当の異世界人はのんびりと手羽元が煮える匂いに鼻をひくつかせています。
「……食べたら帰ってくださいよ」
一刻も早く縁を切りたいという想いが強まる一方の僕がそう言うと、ひくついていた鼻が止まりました。
「えー!? 泊めてくれないの!?」
「そこ、驚いたように言われる覚えはありません。だいたいケイさん、女性でしょう?」
白シャツの上に黒のジレというユニセックスな格好で、シャツがゆったりしているため体型もわかりにくいですが、話し方や雰囲気その他を総合すると、この人はおそらく女です。実際に、本人も僕の言葉を「そうだよ」と肯定してきました。
「……いえ、“そうだよ”って肯定してないで、だから泊められないって理解してください」
「あぁ、間違いが起きるかもって?」
「……そうです」
僕の名誉のために言っておきますが、起こす気はありません。こんな一刻も早く縁を切りたい相手に手を出す趣味もありませんし、そういうことは恋人同士がやるものだと思っています。
ですが、ここはあえて否定をせずに、危機感を持っていただいてお帰り願いましょう。
そう思って肯定したのですが――なんということでしょう。またしても作戦は空振りに終わりました。
「大丈夫だよ」
異世界人が僕の言葉をその一言であっさりと流してくれたのです。
「……根拠はあるんですか?」
そんなに人畜無害に見えたでしょうか。それとも、この人は実はものすごく強くて、襲ってきたら返り討ちにしてやるとでも思っているのでしょうか。
「夜は私、男になるから」
あ、その選択肢は考えていませんでした。
「………………って…………え……?」
振り向いた瞬間、手羽元の鍋を勝手に開けられ、熱い蒸気が立ち昇りました。
異世界人が少し下がってその蒸気をやりすごし、再び近づいて鍋の中を覗きます。
「もうこれ、充分火が通ってると思うけど、まだ煮るの?」
「あ、じゃあ、止めてください…………って、違うでしょう! そんなことよりっ」
「おなかが空いているときにご飯より大切なことなんてないよ。それより、そっちはできた?」
コンロの火を消しながら僕の言葉をさえぎり、なんだか名言っぽく食欲丸出しの台詞を吐かれました。
「まだみたいだね。なら、これ二つくらい先にもらっちゃお」
「さりげなく三つも取っていかないでください! ――――っ、だから、そうじゃなくて!」
「うん、やっぱり味の染みがいまいちだね。煮汁は美味しいから、一度冷めたらぐっと美味しくなると思うよ」
「だから、そうじゃなくて!」
「あ、ごめん。いただきますって言ってなかった」
「だから……」
「いっただいてまーす」
……人とコミュニケーションを取るのはこんなにも難しいことだったでしょうか。
夜は男になるという意味不明の台詞から随分経っていると思うのですが、まったく話が進んでいません。進んだのは、その意味不明の言葉を吐いた人の食だけで、勝手に皿に盛られた手羽元はすでに一本が骨になっています。鍋から出したばかりですが、熱さに怯む様子もありません。
僕は諦めてとりあえず他の料理を進めることにしました。どうせ食べ終わるまで会話をするのは無理そうです。食べ終えたらまともに会話ができるのかという疑問は残りますが、今よりはきっとマシでしょう。
だから「これも美味しそうだね」とか言いながら勝手に大根も出してないで、さっさと食べ終わってください。
◇―◇―◆―◇―◇
結局、異世界人は手羽元三つと大根を四切れ食べ、味噌汁を飲み、野菜炒めの野菜を一つずつ口に入れ、今は料理が並べられるのを手伝いもせずに座って待っています。
「ちょっと、私のやつ量が少なくない?」
「……さっき食べてたじゃないですか」
「味見は別腹だよ」
そんな言葉は聞いたことがありません。味見で手羽元を三本も食べる必要があったのでしょうか。少しは遠慮してください。初対面なのに図々しい。一銭も払わないのに図々しい――
言いたいことがありすぎて、言うタイミングを逃してしまいました。かろうじて出せたのは溜め息だけです。
「幸せが逃げるよ」
――本当に、どうして僕はあのとき空を見上げてしまったのでしょう。
「……さっき言ってた"夜は男になる”って、どういう意味ですか?」
皿におかずを追加して並べ直し、飲みものも用意して、手を合わせて、ようやく、その話に戻ることができました。
「言葉通りの意味だよ。ここの時間だと……八時くらいかな。私の人格が切り替わるの」
「人格?」
「うん。私たちの世界は魂が溢れててね、一つの肉体に複数の魂を宿しているのが普通なの。それでその魂たちが仲良く一日を分け合いながら暮らしてるんだ。私は二つしかないから半日ずつ」
つまり……時間で切り替わる二重人格のようなものとでも思えばいいのでしょうか。
「いっぱい魂を持っている人は大変だよ。みんながそれぞれ食べたがるから太っちゃって」
「大変って、そこですか」
思わずツッコむと、手羽元を握りしめながら「なに言ってんの!」と返されました。
「ダイエットに協力しない魂がいると、減らしても減らしても増やされちゃうんだよ!」
……すみません。それは確かに大変そうです。
「だから食べるのをずっと我慢している魂もいて……あぁ、よかった。私は二人で」
先ほど握りしめていた手羽元の肉を歯でむしりながらなにかを想像したようですが――大丈夫です。あなたはダイエットに協力しない側の魂です、絶対。
「あ、そんでね。私の名前、“ケイナ・トール”って言ったでしょ? 本当はあれ、“ケイナ”だけが私の名前で、“トール”はもう一人の名前なの」
食べられない想像は一瞬で終えたらしく、今度は手羽元の軟骨部分をゴリゴリ噛み砕きながらケイナが言いました。
「はぁ。つまり、もう一人の方はトールさんとお呼びすればよろしいのですか?」
「うん、そう。あと二時間くらいで出てくると思うから、よろしくね」
「……いえ、その前に帰っていただきたいのですが」
うっかり「わかりました」と返しかけたのを飲み込んでそう言うと、やはり抗議されました。
「えー、どうして? 間違いが起こる心配はないってわかったでしょ? 君は同性愛者でも両性愛者でもなさそうだし」
「そんなことまでわかるんですか。――って、そうじゃなくて! そもそもあなたを泊める理由がどこにあるんですか!?」
「同じ釜の飯を食べた仲じゃない」
「それもあなたが強引についてきたからです。食べ終えたら帰ってください」
「行き場のない異世界人をこの寒空に放り出すつもり?」
「同情を誘っても無駄です。だいたい、もうすぐ夏です。寒くはありません」
「女の子を一人、夜に追い出すなんて……」
「八時になったら男に変わるんでしょう? 問題ありません」
「あ、じゃあ、変わるまでいさせて。ほら、八時前でも安全とは言い切れないし」
順調に言い返していた僕の言葉がここで止まりました。確かに、八時ならすでに陽は沈んでいます。安全とは言い切れません。
「……わかりました。変わるまでいていいです」
溜め息を交えながらそう言うと、「やった。ありがとー!」という嬉しそうな声が聞こえてきました。
そして二時間後――
「約束したのはケイであって、俺じゃねぇしなぁ」
さらに強引さの増した異世界人を前に、僕は激しく後悔しました。
あのとき、あの場所で、空を見上げてしまったことを。