買いものカゴの中身について
僕は買いものに行く途中でした。鶏の手羽元が安くなっているらしいので、大根と一緒に甘辛く煮ようと思ったのです。夏が近いので、トマトやきゅうりもきっと安くなっていることでしょう。残りが少なくなっている牛乳も買っておかなくては。
そんなことを考えながら、ふと空を見上げました。
なにかが気になったわけではありません。強いて言えば「今日は暑いな」くらいは思ったかもしれませんが、特に意味があったわけではないのです。
それなのに――
「私はケイナ・トール。ケイって呼んでね!」
どうしてこんな人につかまってしまったのでしょう。
やたらと高いテンションで勝手に自己紹介を始めた人物を前に、僕は自分が取るべき行動を考えました。
一、一切を無視して買いものに向かう。
二、適当にあしらって買いものに向かう。
三、話を合わせるふりをしながら、隙を見て買いものに向かう。
……三が一番現実的でしょうか。一を実行しようにも、ケイナとかいう変な人が僕の自転車のカゴをつかんでいて、離してくれそうにありません。
二は、成功させる自信がありません。まだ出会って数分ですが、適当にあしらわれてくれそうな人物ではない気がします。
ちなみに、ちらりと“一緒に買いものに行って、荷物を持ってもらう”という選択肢も浮かびましたが、即座に投げ捨てました。持つのが大変なほど買う予定はありませんし、そもそも自転車なので、少々重くても問題ありません。荷物を持ってもらって自転車をひいて帰る方が、どう考えても手間です。
「君のことは、なんて呼んだらいい?」
必死に撒く方法を考える僕に向かって、変な人がにこにこと笑って言いました。この笑顔を騙すのは良心が痛みますが――仕方ありません。なにしろ僕は、こんな人とは関わりたくないのです。
「僕は須田竜馬です。竜馬って呼んでください」
作戦三を実行するため、僕はとりあえず自己紹介をしました。
「そっかそっか、竜馬くんか」
相手の様子を窺う僕に、変な人が続けます。
「それで、それは本名なの?」
「……どういう意味ですか?」
「え? そのままの意味だよ?」
傾げた首の上にある顔は無邪気そのもので、敵意があるようには見えません。いきなり名前を疑われたことは引っかかりますが――とりあえず、置いておきましょう。
「咄嗟にそんな偽名が浮かぶほど僕は賢くありません」
少々情けない事実を返事の代わりにすると、変な人は、
「そっか。じゃあ、そういうことにしておこう」
と、さらに色々と引っかかる物言いでその話を終わらせました。そして僕にこう訊いてきたのです。
「どこに行くの? ついていってもいい?」
いくら適当に話を合わせると言っても、撒こうとしてる人間にこんなことを言われて頷くわけにはいけません。
「いえ……大切な用事ですので」
「ついてっちゃダメ?」
「できたら遠慮していただきたいです」
「できなかったら?」
「……すみません、言い直します。できてもできなくても遠慮してください」
うっかり空を見上げてしまったことを激しく後悔しながら僕が言うと、変な人は「ちぇー」と言いながら僕から離れました。
「まぁいいや。急いでるみたいだし。また会おうね」
「えぇ」
思いがけなくあっさり引き下がってくれたことに安堵し、僕はそう応えました。
もちろん、この先会う気なんてありません。アドレスの交換もしていませんし、名前だけで僕の居場所を突きとめるのは不可能でしょう。念のため、しばらくはこの道を通らないようにしましょう。
遠回りにはなりますが、帰りさえも別の道を通ることを決意し、僕は買いものに向かいました。
◇―◇―◆―◇―◇
やはり野菜が色々と安くなっています。うっかり買い過ぎないように気をつけながら、僕は野菜売り場を進みました。
――よし、大根は忘れずに入れました。次は広告に載っていた手羽元です。
大パックには中パックのおよそ倍の量が入っています。百グラムあたりのお値段は同じなのでどちらが得ということはないのですが、どうしましょう。大を買って塩焼きも作りましょうか。いえいえ、味付けを変えてもさすがに飽きるかもしれません。どうせなら美味しくいただかないと鶏さんに失礼です。
逡巡の結果、僕は中パックを買うことにしました。
ドリップの出ていなさそうな手羽元を探し、よしこれだ、と思ったそのときです。
「大切な用事って買いもの? うん、確かに食べものの調達はとっても大切だね!」
突然聞こえた声に振り向くと、先ほどの変な人が立っているではありませんか。
「……な、なんでここに!?」
「うん? つけてきちゃった」
「何故!?」
「また会おうねって言ったじゃない」
確かに言われました。言われましたが、「また会おう」と言うからにはせめて一度きちんと別れるべきではないでしょうか。つけてきたということは、この人目線では別れてすらいないではないですか。
「それよりね、大きいパックを買ったほうがいいんじゃないかな。それだとすぐに無くなっちゃうよ」
あとから思えばどうでもいい僕の心のツッコミにはまったく気づかず、変な人は僕が取ろうとした手羽元に向けた指先を大パックの並んでいる棚へと移動させました。
「こっちのいっぱい入ってるやつ買おうよ」
「……なんで初対面のあなたが僕の買いものに口を出すんですか。一人暮らしなのでこちらで充分です」
改めて中パックの手羽元に伸ばした僕の手首を、変な人が途中で掴みます。
「だってぇ、それじゃ足りないよ。何度も買いものに来るのは嫌でしょう?」
「これだけあれば三日はもちます。一週間に二回買いものに来るのは、さほど大変なことではありません」
もちろん手羽元だけを食べるわけではありません。先ほどカゴに入れた野菜類や、まだ家に残っている食材を組み合わせれば、三日四日食べるくらいの量はあります。
「だからぁ、それは一人で食べる場合でしょ? 二人で食べたら、その半分しかもたないよ」
一人暮らしなんだから一人で食べるのは当然です。どうして二人で食べることを想定するんですか――という言葉が喉まで出かかりました。しかし……そうです。ここでそんなことを訊いてはいけません。
「なんで二人で食べることを想定するのかって訊いてよ」
嫌です。間違っても訊きません。訊いたら、大変なことになります。
僕は必死でこの状況を切り抜ける方法を考えましたが、無駄でした。
「私が君んちにお邪魔するから、って答えるから!」
勝手に高らかに宣言された内容は、僕の予想通りです。しかも宣言するなり、手羽元の大パックをカゴに入れてくるではありませんか。
「ちょっと! 勝手に入れないでください! きちんと新鮮なものを選んでからでないと――」
またしても僕は何を言っているのでしょう。すぐに後悔しましたが、言ってしまった言葉は戻りません。変な人がにこにこしながら僕の的はずれなツッコミに返します。
「大丈夫、だいじょーぶ。一番新鮮なの選んだよ」
「え……?」
あまりにも自信満々に言われ、思わずカゴに入れられた手羽元に視線を落としました。
確かに、傾けてもドリップは出てきません。肉の色も綺麗です。
「なんで……」
この人は僕の方を見て話していました。肉を見たのは、手を伸ばす直前だけです。その一瞬で、肉の良し悪しを見切ったと言うのでしょうか。
「私の世界の人はみんなできるよ。まぁ、私たちの世界ではどれが一番新鮮かなんて見る必要はないんだけどね。肉は自分たちで用意するものだから」
「世界って……」
普通“国”とか“地域”とか言うのではないでしょうか。私たちの“世界”だなんて、まるで他の世界から来たようなことを――
「私、この世界の人間じゃないんだよねー」
――あっさりと言ってくださりました、はい。
「あ、信じてないね? 信じてないねー?」
「……いえ、そんなことは……」
口ではそう言いましたが、即座に信じる気にはなりません。異世界人発言について僕の頭に浮かんだ可能性は三つ。
一、本当。
二、ただの電波な人。
三、何かを隠すために適当なことを言っている。
……いずれにしろ、やはりあまり関わりたくないと思うのは僕だけでしょうか。
三ならまだマシな気がしますが、適当に言う内容に「自分は異世界人」なんて選ぶ時点でどうかと思います。
ここは、適当に話を合わせて逃げる機会を窺う作戦を続行するべきでしょう。よし、まずは信じるふりです。
「異世界から、何をしに来たのですか?」
僕の質問に、変な人はにっこり笑って言いました。
「それは企業秘密だよ!」
……どこの企業ですか。
一にしろ二にしろ三にしろ、もう少しまともな回答を返して欲しいものです。これでは逃げる機会を窺うほど話が続きません。
「そんなことより、お肉が悪くなっちゃうから早く買いもの済ませようよ」
言いながらカゴを持ったのは、親切ではなく、捕縛のためでしょう。手羽元のパックを中サイズに変えさせてくれる気もなさそうです。
「お野菜ももう少し買っておいたほうがよさそうだね」
「いや、あの、あなたにご馳走する理由がないのですが」
引っ張られるカゴをしっかりと持って抗議したら、とても悲しそうな顔をされました。
「この世界に来てから何も口にしていないのに……」
「泣き落とすつもりなら、せめてこの世界に来た理由を教えて下さい」
「えぇーっ。だからそれは企業秘密でー」
「名前しかわからない初対面の人にご馳走する習慣はこの世界にはありません」
「うん。私の世界にもないよ」
……なら、自分がいかに非常識なことを言っているかわかるでしょう。
なんだかとても疲れるやりとりにくらくらしていたら、さらに疲れることを言われました。
「それよりさぁ、“この世界に来てから何も口にしていないのに……“って言ったんだから、“いつ来たの?”って訊いてよ。“君に会う少し前!”って答える予定だったんだから」
なるほどなるほど。そしてさらに僕が“一時間も経ってないじゃないですか!”とツッコミを入れる……と。
――知りませんよ、そんなの。