8.山田ナメ子の家(1)
ノックと同時に、休憩室の扉が開かれた。扉の向こうには制服を脱いで、カシミヤの黒いハーフコートをまとった山田ナメ子。もちろん、たぶん、いや、絶対にナメ子という本名ではないだろうが、恵美と祐二の間ではその名に決定していた。
「ユウちゃーん、お待たせ! ほらっ、ユウちゃんを運ぶ為のおうち、持ってきたわよぉ」
ナメ子は大きな金属製のケージを抱えていた。
「わざに迎えに来ていただき、ありがとうございます。ケージまでお借りして」
ありがたくもないが、愛想笑いを作ってそう言うしかない。
「そんな恐縮しなくてもいいのよぉ。こんなにかわいいユウちゃんとひと晩すごせるなんてうれしいわ。やっぱりユウちゃんとはご縁があるのよねぇ」
にこやかなナメ子に、恵美は心の中で強く否定していた。
(いや、それはない! 縁など絶対にあってはならないのよ! 祐二が泣きそうになっているじゃないの。このナメ子は本当にもう……どこまで晴天なんだか……)
恵美はあきれた細い目になりながら、ケージを受け取って畳の上に下ろした。
「祐二、入って」
祐二が、のそりとケージに自分から入って行くと、ナメ子は感嘆の声をあげた。
「あらぁ。ユウちゃんはちゃんと、おりこうに命令通りに動けるのね。さすが、スネークショーに出演できる蛇ちゃんね。いよいよ気に入ったわ」
ナメ子は笑顔を崩さない。恵美は硬い表情のまま祐二のはいったケージを持ち上げ、ナメ子とともに休憩室を出た。
「本当にいい子ね。こんなに簡単に入ってくれるなんて。ユウちゃん、ちょっとがまんしてね。そこに迎えの車をつけてあるの。お家に着いたら、すぐに出してあげるからね」
ケージから出さない方が幸せかも……そんなことを思いながらついて行く恵美に、ナメ子はにこやかに話しかけた。
「そうだ、あなたのお名前、まだ聞いていなかったわね」
「あっ、失礼しました。私は矢内恵美と申します。よろしくお願いします」
恵美は疲れた顔を隠し、ひくひくと笑いながら答えた。
事務所の建物を出たところに、黒塗のリムジンが止まっていた。ナメ子の姿を認めると、運転手が車のドアを開けてくれて、恵美は黙って乗り込んだ。
ナメ子の邸宅は本当にすぐそこだった。遊園地の柵の外だが、敷地に隣接し、歩いても五分もかからないと思われる距離。そんな短距離をわざわざ、運転手付きの大きな車を使って移動する意味がわからなかった。雪が降っている、という理由でそうしているのかもしれないが、ナメ子はいつも、通勤にこの車を使っているのかもしれなかった。
「着いたわよぉ。ここが私の家なの」
その家は、確かに社長の邸宅にふさわしい豪邸だった。頑丈な門を車ごとくぐると、中は、日本庭園になっており、その奥に鉄筋コンクリート造りの三階建の大きな本宅があった。雪がかかり白くなり始めた庭木は、すべてきちんと手入れされていることがわかる。庭木の間には、適度に大きなみかげ石が配置され、中ほどには石橋がかかる池もあった。
恵美たちが乗った車は、庭を突き抜け建物の正面玄関の前で停車した。運転手が、すかさず先に降りて、扉を開けてくれた。
「お帰りなさいませ、奥様」
メイドらしい若い女性が玄関に出てきて頭を下げると、恵美の心にまたたらりと汗が流れた。
(奥様か……この人、運転手だけじゃなくて、召使までいるんだ……)
「今日は、この方がお泊りされるから、お部屋にお通ししてちょうだい。お夕食も私一緒にとるから用意をお願い」
「かしこまりました」
ナメ子は、玄関にあがるのを躊躇している恵美に声をかけた。
「遠慮しないで上がって。こっちよ」
「あの……お邪魔いたします」
広い玄関には、大きな水晶玉が飾ってある。腰の高さほどの巨大な花瓶いっぱいに様々な花がいけられ、ほんのり甘い香りが立ち込めていた。旅館の入口のような雰囲気で、恵美が想像していたような蛇屋敷の雰囲気はどこにもない。恵美は、幅の広い廊下を、ナメ子とメイドに案内されるままついて行った。
ケージの中の祐二も落ち着かない様子で、もそもそ動いている。祐二もこの屋敷に驚いているらしい。恵美は、不安そうな祐二のなげき声を耳に入れながら、きょろきょろと室内を見回した。
(ねえ、祐二どう思う? こんなきれいな家、どこにも蛇なんていそうにないけどさ、部屋に入ったら、中が蛇だらけだったらどうしよう)
(心配するな恵美、俺は蛇だらけの檻に投げ込まれても耐えてみせる。俺が泊まろうって言いだしたんだからな。今夜一晩だけなら、どうにかなるだろう)
頭の中同士で言葉を交わしながら、やがて二階にある客用の部屋に着いた。メイドは、こちらへどうぞと案内を終わると下がって行った。ナメ子とその場に残された恵美は、案内された豪華な部屋に目をぱちくりさせるばかりだった。
室内は豪華な模様が入ったふかふかのじゅうたんが敷き詰められ、一流ホテルのスイートルームのように広い。見晴らしのいい広い窓からは遊園地の全体が見渡せる。天気が良ければ、きっと日が入って明るく暖かい部屋なのだろう。入ってすぐの部屋には応接セットが置かれ、そこから奥の扉を入るとベッドルームと風呂があるようだ。もちろん、そこには蛇などいなかった。
「こちらのお部屋に泊まってくださいな。お夕食はまた別のお部屋よ。ここへお荷物を置いたら、ユウちゃんを遊ばせてあげましょう」
ナメ子は恵美を促し、荷物を置かせると、また長い廊下を通ってさらに階段を上って行った。祐二の入ったケージが重く感じる。三階まで登らされ、息が切れてきたが、さらに上へと案内された。
「はぁい、お疲れ様。楽園についたわよぉ」
ガチャリと扉を開けた先は、この建物の屋上で、植物園の温室のようなガラスのつくりになっていた。天井を見上げれば、ガラスの向こうにボトリとついては重みで落ちて行く雪が見える。しかし、ここは完全に暖房が入っているようで、空気は暖かい。
「すごい……植物園のようですね」
恵美は思ったとおりの言葉を口にした。ガラスに覆われた広大な温室は、バナナの木やシダ類などの熱帯の植物が生い茂っている。緑の空間にほっと一息つきたい気分になり、表情が緩んだ。しかし、その木々の中にうごめく物を確認した時、恵美の出かかった笑顔は消えていた。
いるいる。上にも下にも。長いのやら、短いのやら。
ナメ子はご機嫌で、木の上から首を伸ばしてきたシマ蛇を慣れた手つきで捕まえた。
「矢内さん、ほら、みんなユウちゃんを歓迎しているわよ。ユウちゃんを出してあげて」
「あの、ここで、ですか?」
「ええ、そうよ。ここにはお仲間がいっぱいいるからね、ユウちゃんもさびしくないでしょう?」
「あの……小さな蛇もいるようですので……祐二が食べてしまうといけませんから、ここではちょっと……」
「餌をきちんと与えておけば、共食いなんかしないわ。餌は与えてあるんでしょう? かわいいユウちゃん、出ていらっしゃい」
ナメ子は先ほど捕まえたシマ蛇を首に巻いたまま、祐二のケージを開けた。ケージを開けると、祐二はケージから出て恵美の体を登って巻きつき、絶対に離れない、ここにはいたくないと必死で意思表示した。
「あら? ユウちゃんはお母さんから離れたくないの? んんー、いよいよ気に入ったわ。なんてかわいいんでしょう。ユウちゃん、ほら見て、この子はリリーちゃんよ。ユウちゃんにご挨拶にきたの」
ナメ子は首に巻いていた蛇の頭をつかむと、恵美に絡まっている祐二の顔先に突き出した。祐二はプイと顔をそむけた。
「ユウちゃんはリリーちゃんが好きじゃないみたいね。そうよね、リリーちゃんはユウちゃんのお相手にはちょっと小さすぎるものね。それなら……ローズちゃんはどこへ行ったかな? ちょっと待っていてね。ローズちゃんは……」
ナメ子は、リリーと呼んでいたシマ蛇を木に戻すと、しゃがみこんで茂みの中を探した。
「あの、山田さん、もういいです。祐二は私の部屋でいっしょに寝ますから。祐二もほら、このとおり、私から離れたくないって言っていますので」
祐二は、そうだ、そうだ、と必死で恵美にからみついてアピールしている。コクコクと首を縦にふっている祐二に、ナメ子は目を細めた。
「あらぁ、かわいい。お母さんにこんなに甘えるなんて。でもね、ユウちゃん。ユウちゃんにはお友達も必要よ。お嫁さんの白蛇ちゃんは今日はいないんでしょう? それなら、ちょっとぐらいここで遊んで行きなさいな。えっと、ローズちゃんは……ああ、いた。あそこだわ」
ナメ子は奥の隅でとぐろを巻いていた大きな蛇につかみかかった。
「ローズちゃん、お友達がきまちたよぉ。ローズちゃんのお婿さんになってくれるかもね。さあ、いらっしゃい」
ナメ子は、ほいと蛇の頭をつかんで、簡単に胴体を持ち上げて首からかけると、すぐに恵美の傍へ戻ってきた。
「ユウちゃん、紹介するわね。こちらはアミメニシキヘビのローズちゃんよ」
ナメ子の説明によれば、ローズちゃん、という蛇はこの温室の中では一番大きい蛇なのだという。ナメ子はローズの頭を、恵美にしがみついている祐二の目先に持っていった。
すると――
「キャー!」
悲鳴が声になって出たのは、恵美だった。いきなりローズ蛇が動き、祐二は胴体にかみつかれていた。ローズは祐二の体に口でぶら下がっているような形になった。祐二はうめきながら耐えている。
「山田さん、なっ、なにするんですか! かみつかせるなんて!」
「あら、ごめんなさい。ローズちゃんはこんな子じゃないのよ。本当はね、もっとおとなしくて優しい子なの。ローズちゃん、どうしたのぉ?」
(おとなしい蛇がいきなりかみつくかい! このナメ子、狂ってるよ……祐二が泣いてる……)
「山田さん、あの、もう祐二を放すようにその子に命令してくださいませんか? 見てください、祐二、嫌がっていますよ」
「残念ね、相性が悪かったのかしら。ユウちゃんならローズちゃんのお婿さんにぴったりと思ったのに……ローズちゃんだめよぉ。乱暴はいけないわよ」
ナメ子は反省する様子もなく、にこにこしたままローズの口をはずし、茂みの中へ逃がした。かみつかれた祐二の体からたらりと血が滴った。
(うう……いてぇよ、恵美ぃー、助けてくれー)
祐二の泣きそうな目が必死で恵美に訴える。祐二の体を支える恵美の手に力が入った。ナメ子は、恵美の険しくなった顔には全く気がついていない。
「ユウちゃん、お怪我しちゃったのね。痛かったわねー。きっとお母さんから離れなかったから、ローズちゃんが嫉妬したのね」
「ローズちゃんがあたしに嫉妬……ですか?」
恵美は眉を寄せたままひきつった笑いを浮かべた。
(違うって! そんなわけないでしょう。このナメ子はもう……もっとちゃんとあやまってよね。何で笑っているのよ)
(恵美、頼む。この変態ババア、なんとかしてくれ)
恵美は必死で怒りを押し殺し、声を震わせないように気をつかいながら言葉を選んだ。
「山田さん、祐二を、宿泊させていただくお部屋に連れて行ってはいけませんか? 排泄のしつけはできていますので、お部屋を汚すようなことはさせません。ほら、この通り、祐二はおびえていますし……」
祐二は、絶対にひきはがされるまいと、きゅっと、さらに恵美に強く巻きついた。
「ユウちゃんにここでゆっくりしてもらいたかったのよ。ねえ、ユウちゃん、ここがいいでちゅよねぇ」
ナメ子の手が祐二に伸びて来ると、祐二の、ひぃぃ! という悲鳴が恵美だけに聞こえ、恵美は思わず数歩下がっていた。
「あの、山田さん、祐二が怖がっているんで、もうここの部屋から出たいです」
ナメ子は祐二をつかみかけた手を止めた。
「そうねぇ……ローズちゃんにかみつかれちゃったからかわいそうかしら。本当は客室には蛇ちゃんは入れないことにしているんだけど、ま、ユウちゃんなら、いい子だから特別に認めるわ。ここの子たちと仲よくできないなら、あたしたちで今夜一晩たっぷりかわいがってあげる」
(今夜一晩たっぷりって……ゲェ〜……)
祐二のうめき声が聞こえた。恵美はできるだけにこやかに笑みを作りながら、ナメ子の顔色をうかがった。
「祐二はかみつかれて気が立っていますから、今夜は私と二人きりでゆっくりさせていただけませんか? 祐二が山田さんにかみつくといけませんので」
「あらぁ、ユウちゃんがかみつくの? そんなことないでしょう? 初対面の私にかみつかなかったもの」
「いえ、それはたまたまそうだっただけだと思います」
「ユウちゃんは人にはかみつけない蛇ちゃんだってこと、私にはわかるのよ。まあ、とりあえず、楽園を出ましょうか。ローズちゃんと気が合わなくて残念ねぇ」
恵美は、ナメ子の指示で、祐二をまたケージに戻すと、それを持って階段をおりた。恵美も、祐二も、深いため息を吐き出していた。