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17.呼び止めないで

「矢内さんも怪我はない?」

「う……大丈夫です。少し、手をすりむいただけです」

「怪我をしたの? ユウちゃんは大丈夫そうだけど、矢内さん、血が出ているじゃないの。園に戻って手当てしましょう」

「い、い、いいえ! 大したことはありませんから。本当に」

 恵美は、そこで周りの人々に気がつき、慌てて立ちあがった。手のひらをすりむいてしまったが、傷よりも、捕まったことの方が痛い。人々の視線の先は、転んだ恵美ではなく、得意げに蛇を首にかけているナメ子だ。真っ黒な祐二の体を、マフラーのように首にかけ、にこにこしている。

「ユウちゃん、怖かったでちゅねぇ。ドジなお母さん、困りまちゅねぇ」

 祐二は、ナメ子の肉つきのいい手で、頭をなでられながら、顔をしかめていた。


(恵美……なんでころぶんだよ。俺は泣きたい。うぃぃ……)


「祐二、ごめん。さあ、ザックへ入って。すみません、奥様」

「ユウちゃん、今日は楽園へ行きまちょうね」

「は……」

「矢内さんにそれを言おうと思って、追いかけてきたのよ。『森神祐太』さんのところへ行くなら、私がこの子を預かってあげる。その方が、売買のお話をゆっくりしていただけるでしょう?」

「売買……いえ、その話をするためでなくて、今日は、祐二をシロに会わせてあげたくて、連れて行きたいんです」

「白蛇ちゃんは、シロって名前なの? 犬みたいだけど、かわいい名前ね」

 ナメ子の反応に、恵美は苦笑した。少々犬っぽい名前だと思ったが、今更変更できない。適当にシロと言っただけだ。

 恵美は、絶望の中でナメ子の顔を見つめた。ナメ子が、シロがここにいる恵美だと知ったらいったいどんな顔をするのだろう。そして、シロの飼い主は今首に巻いている黒蛇だと言ったら。ナメ子は初日を見ていないので、白蛇が恵美、と呼ばれていたことは知らない。

「矢内さん、今日は、ユウちゃんを預かってあげるからね。このまま園に戻るわ」

 ナメ子は、祐二を首に巻いたまま、さっさと帰ろうとした。

「いえ、ですから、祐二はシロと……あの、シロは今、発情期でして、祐二が必要なんです。えへへへ……」

「発情期? あらそうなの」

 帰りかけたナメ子の足は、『発情期』と言う言葉に、ぴたりと止まっている。発情期って、そういう時期はあるのだろうけど、犬じゃあるまいし……恵美はそう思いながら、とりつくろった。

「私はわからないのですが、『祐太』さんが、そう言っていましたので……そういうわけで、せっかくご好意で追いかけてきてくださったのに、今夜は、祐二をお預けすることはできないのです」

「そうなの……それなら、ユウちゃんをシロちゃんのところへ連れて行った方がいいわね。せっかく追いかけてきたけど、あきらめるわ。私も一緒に行きたいけど、森神祐太さん、キレるといけないものね」

「はい、奥様は行かない方がいいと思います。彼、怒るとどうなるかわかりませんから」

 恵美は、おびえた振りをして、わざとらしく身震いして見せた。だめ押しに、

「おお怖っ、あの人の怒り顔を思い出してしまいました」

と、背中を丸めた。

 ナメ子は、恵美の演技に心を動かされた様子はなかったが、幸いな事に、一緒に行くとは言わなかった。

「そうねぇ……まあ、今日押しかけなくても、シロちゃんが赤ちゃんを産んだら、それをうちへ売ってもらってもいいわよね。そういうお話もしておいてちょうだい。んふふ、楽しみだわ。シロちゃんと、黒色のユウちゃんの子だったら、白黒のシマになるかも……でも、買うなら、できれば、真っ白ちゃんと、真っ黒ちゃんがいいわ。シマ蛇なら、珍しくないものね」

 ナメ子は、うっとりと視線が舞っていた。かわいい子蛇たちにかこまれている夢でも空想しているらしい。

「まだ、産まれるとは決まっていません。祐二を返してください」

 恵美は、ナメ子がブチュウをする前に、手早く祐二をつかみ取り、ザックの中へ収めた。祐二が安堵のため息をもらしているのがわかる。祐二の頭に上着をかけると、見物人はバラバラと散って行った。

「それじゃあ、奥様、わざわざありがとうございました。さようなら」

「明日、またね」

 明日はないわよ、今度こそナメ子から離れてやる、心でそう言いながら、ナメ子に背を向け歩き出す。また転ばないように慎重に。

 ここの歩道は、幅は広いが、街路樹の根でところどころが持ち上げられ、アスファルトの表面はガタガタしていた。恵美は、そういう、少し盛り上がった部分につまずいたらしい。数メートル歩いたところで、また後ろからナメ子の声がした。

「ちょっと、矢内さん」

 恵美は、ビクリと首をすくめた。

「ひっ! あ、あの、なんの御用でしょう」

「矢内さん、それ――」

 ナメ子が指差したのは、恵美が手に提げている袋だった。スーパーの半透明なそれは、中に入れてあった生卵が粉砕し、黄身と白身がどろどろと出て来ているのがわかる。

「あーっ、祐二の卵がぁ!」

 あわてて中身を確認すると、五個残っていた生卵は全滅していた。卵の下に入れてあった祐二の新品のトランクスや、シャツなどは、じゅぶじゅぶと卵の液を吸い込んで黄色く染まっている。泥臭い生卵独特のにおいが、袋からヌワッと出る。

「あらぁ、ユウちゃんのごちそうがダメになって……矢内さん、これ、園の生ゴミ入れに捨てるから、持って行ってあげるわ」

 ナメ子の必要以上の親切は迷惑だが、この申し出はありがたい。こんなつぶれた卵を持ち歩きたくはなかった。

「助かります。では、着替えだけ出しますから、ちょっとお待ちください」

 恵美が、袋の中身を出しかかると、祐二が、やめろ、と念を送ってきた。

(祐二、なんで? 捨ててもらえばいいじゃないの。こんな完全に割れた卵なんか食べるところないよ。中身、全部出ちゃった)

(食べたいからやめろ、と言っているわけじゃない。あの袋の中身、俺の着替えだろう。おまえ、そんなの持っているって、知られてもいいのか)

(あぁ、そっか……女のあたしが、男の着替えを持って歩いているのはおかしいよね。ごめん、祐二。せっかくトランクス買ったけど、ここで出せないなら、捨てるしかないね)

 恵美は、袋から着替えを出すのをあきらめ、袋ごとナメ子に渡した。

「このまま捨ててください」

「卵の下に服が入っているじゃないの。いいの?」

「はい。もう卵くさいですから。そのまま中身を出さずに捨ててしまってかまいません」

「わかったわ。園で処分しておくわね」

「それでは、お世話になりました」

「矢内さん、いやだわ。もう会えないみたいじゃない」

 それでいい。あんたらになんか会いたくもない。

「あはは……明日も会えますよ。何かあったら連絡しますから」

「それなら、明日は、うちへ泊まってくださいな。いろいろ話があるでしょう。主人とも」

 いいえ、あの男もいやだ。話なんかしたくもない。話の内容なんてわかってる。

「はいはい。そうですね。考えておきます。都合が悪かったら、電話しますから」

 誰があんたなんかに電話するものか。

「じゃあね、ユウちゃん、明日会いましょう。子作りがんばるのよぉ。ぬふふ……」

 ナメ子は、目じりを下げたいやらしい笑いを浮かべ、祐二の入ったザックを見た。上着がかけられており、祐二の顔は見えない。しかし、恵美は、あっ、と慌てて上着をかけ直した。ザックの側面には、マジックで書かれた住所と名前が、今も消えずにある。『森神祐二』。目にとまったとしても、その『森神祐二』という名と、『森神祐太』、それに、ここにいる『ユウちゃん』を結びつけるところまでいかないだろう。しかし、用心するにこしたことはない。

 ナメ子は何も気がつかない様子だった。祐二の子を手に入れる夢に浮かれ、頭の中がはじけているらしい。全身微笑み状態で、得意のベロベロも忘れ、園へ向かって元気に両手を振りながら歩き出した。恵美は立ち止まったまま見送り、途中で一度だけ振り返ったナメ子に、笑顔で頭をさげた。



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