16.逃げろ!
恵美は、ノックせずに静かに事務所の扉を開いた。ナメ子と社長が、今、この中にいるとは限らないが、奥の方を見て恐怖の存在を確かめる気にはならない。祐二の入っていた甕を事務所の隅に置くと、そこに置かせてもらってあったザックの前へしゃがみこんだ。入口近くの机に座っている男性が、一瞬顔をあげたが、ああ、スネークショーの人だ、と気にも留めず、また机上に視線を戻した。
人はいるが静かな事務所。ナメ子夫婦の目にとまることのないように、と祈りながら、できるだけ音をたてずに、作業を行う。体の大きい祐二の為に、ザックの中身が空なのを確認して、祐二を甕から移し換えた。今度は祐二が窒息しないように、ザックのファスナーの口は開けたままで、首を出している祐二の頭に、恵美の上着をやさしくかけた。
静かに、素早く……ナメ子たちに見つかったら終わりだ。うっかり顔をあげて、そこにいるかもしれないナメ子と目が合ったら――。後ろから背中をたたかれるのではないかと、首や肩に力がはいる。幸いなことに、誰も話しかけてこない。恵美は無事に作業を終えた。
これで逃亡の準備完了。スネークショーは今日でやめます、と心のなかでつぶやき、恵美はザックを背負い、卵パックと祐二の着替えの入った袋をさげて、事務所を後にした。甕とケージを置いたままだ。誰も、明日は来ない、とは思わないだろう。
事務所の建物から外へ出ると、冷たい風でもほっとする。どうやら、ナメ子夫婦はどちらも事務所内にいなかったようだ。「運が良かったな」と祐二がつぶやく声が聞こえた。遊園地の客は、この時間になると帰るものばかりだ。人の流れは、出口のゲートの方へ向かって行く。恵美はそれにまぎれて出口を抜けて――いや、抜けるはずだったが。
「あら、矢内さん、どうしたの? 」
(うおぁ! 見つかった……)
祐二の嘆き声と共に、恵美の口からも同じ絶望のうめき声が漏れた。ナメ子は、今日は、事務所内ではなく、出口ゲートの所にずっといたらしい。ナメ子は人手の足らない場所へ入っているらしいので、事務所内ばかりにいるとは限らないのだったと思いだした。
「奥様……」
「矢内さん、待っていて、ってお願いしたじゃないの。冷たいわねぇ。事務所へ戻ってちょうだい。一緒に帰りましょうね。もう少しで閉園の時間だから」
「あ、あ、あ、あの……今日は、やっぱり泊めていただくことはできなくなりました。連絡しようと思ったんですけど、お見えにならなかったので、勝手してすみませんでした」
「あら、帰るの? どうしてうちへ泊まらないの?」
「えっとですね、その、あの、今夜は、白蛇の飼い主の家へ行くことになりましたので」
「連絡をとってくれたのね? それでどうって? 売ってくださるっておっしゃった? そうだわ、私、白蛇の飼い主さんの名前をまだ聞いていなかったわよね。男の人だったわね。お名前と電話番号を教えてくださらないかしら」
ナメ子の手には、すでに事務服のポケットから取り出したメモ帳とボールぺンが握られている。
「電話番号ですが、それが……私、うっかり携帯を失くしてしまいまして、わかりません」
「それで、連絡するために、白ちゃんのおうちへ行こうとしていたのね。それじゃあ、お名前だけうかがっておくわね。電話番号がわかったら、教えてちょうだい。お名前は?」
「……森神……うにゅにゅ……」
祐二と同じ名前にするのはまずい気がした。とっさにうまい名前を思いつかず、口の中で舌が空回りする。ナメ子は、確かめるように復唱した。
「森神うにゅにゅさん? 変わったお名前ね。どんな字を書くの?」
「いえ、そうでなく森神……」
「森神?」
「森神ゆ……祐太です!」
祐太? どこの誰だそれは、と恵美は自分で思わず突っ込んでしまった。でも、何でもいい。ザックの中の祐二が、ブッと吹き出して笑っているのがわかった。
「森神祐太さんは、どちらにお住まいなの? 私も一緒にお邪魔して、白ちゃんを見せてもらうわ」
「いえ、それはちょっと無理です」
「どうしてぇ? その人も蛇好きなんでしょう?」
「その、えーっと、ちょっと変わった人で……」
それ以上言葉が出てこない。『祐太』という突然作った架空の人物のことは、なんの設定も考えていない。
ナメ子は、白蛇の飼い主が“変わった人”と聞いて、目を輝かせた。
「それじゃあ、その森神さんって、もしかして、主人と同じかしら」
主人と同じ――ナメ子の言っている、それは“あの趣味”のことだ。恵美は即座に声を大にして否定した。
「いいえ! それはたぶん、絶対に、違うと思います。先方は、少し話が通じないところがありまして、急に知らない人を連れて行くと、怒ってしまうんです」
必死で口から出まかせ。思いつきのこじつけの言いわけ。とにかく、ナメ子をこの場から切り離せば、脱出は成功するのだ。
「あらぁん、あの男の人、そんな恐ろしい人なの? 初日に来ていた時は、遠目に見ただけだったから、よくわからなかった。それじゃあ、押しかけても迷惑よね。白ちゃんを売ってもらう交渉は、矢内さんにおまかせするから、よく話をつけてきてね」
ナメ子があっさり見送ってくれそうな様子に、恵美は息を吐き出した。
「それではまた明日に……」
恵美は、走り去りたい衝動を抑えながら、必死で普通の顔をしてナメ子に背を向けた。
(やったぁ、恵美、脱出できる。これで安心だ)
ザックの中の祐二の声は明るい。恵美も自然と笑顔になって歩き出した。金稼ぎもいいが、恐怖と背中合わせはごめんだ。何よりも平穏な暮らしがいい。
(ねえ、祐二、あたし、北海道へ帰省するのはあきらめるから、手紙を書いて近況を――)
そう言っていた時、遠くの後ろの方から、パタパタと、何かが、道路をたたきつける音が近づいてきた。何だろう……恵美は、フッ、と振り返った。
「キャアーッ!」
恵美は、その音の正体を確認すると、思わず大声を出して、目玉が飛び出すほど、まぶたを見開いた。呼吸が無意識に止められる。血が上から下まで爆走する。恐怖映画の一シーンを見る顔と同じになってしまった。
目に映ったのは、丸まるとした体が身につけている遊園地の事務服。履いているパンプスが、カツカツとせわしげに、幅の広い歩道の上で音をたてている。いのししのように、全速前進。園から帰る人の間を縫って、どんどん距離と詰めて来るそれは、おでこを全開にして突進して来るナメ子だった。目標は言うまでもなく。
恵美の突然の悲鳴に、何も見えない祐二は驚いた。
(恵美? どうした)
(ああ! 祐二、ナメ子が!)
(追って来たか! 逃げろ!)
その距離、約百メートル。もちろん、どんどん縮まっている。
(逃げるの? でも……)
(さっさと逃げろ。ブッちぎれ!)
遠くの方から、「矢内さ〜ん、待ってえー」とナメ子の声が聞こえる。恵美は、その声が聞こえないふりをして、園と反対方向へ、ダッ、と走り出した。
――つもりだった。
「キャッ!」
(わあぁー!)
恵美が、とっさに閉じたまぶたを開けると、すぐ目の前に、冷たいアスファルトの地面があった。慌てすぎてつまずいて転び、街路樹の植わる歩道上で、無様に手足を広げて、うつぶせで倒れる形になっていた。はずみでザックに掛けてあった上着は吹っ飛び、ファスナーを開けて顔だけ出していた祐二は、上着と一緒に歩道のど真ん中に放り出されていた。祐二が抜けて、軽くなったザックが、恵美の背でへこんだ。
「きゃあ、ユウちゃん大丈夫?」
追いついたナメ子は、むんずと祐二をつかんで、首にかけた。
(ぐぇー、捕まっちまった……あぁ……恵美ぃー……)