15.お金なんかいらない
「矢内さん、お金を受け取って、ユウちゃんを渡してちょうだい」
「あ、あたしは、どうしても祐二を売ることなんてできません」
恵美は大声になっていた。事務所にいた他の人たちが、何事かと驚いて見ている。ナメ子は動じない様子で、「ほらぁ、ほらぁ」と札をちらつかせる。不快指数はとっくに百パーセントを超えた。遠目に見ている社長のうれしげな視線が、さらに不快さを押し上げる。むかついて吐きそうになる。
恵美は、顔を真っ赤にして、目をつりあげ、早口になった。
「ナメ子さん、あたしは、お金なんかいりません。祐二は売らないので、お金はしまってください」
「はぁ? ナメ子?」
ナメ子、いや、山田清良は、突然出たおかしな名前に、札を持ったまま目をぱちくりさせている。甕のふちから首を出して覗いている祐二は、あわてて恵美に思念を送った。
(おい、恵美! 言い間違えてるって! ナメ子じゃないだろう!)
(えっ? あたし、今、ナメ子って言っちゃった? ありゃ、間違えちゃった。つい……)
恵美は深く頭を下げた。
「す、すみません、奥様。お名前を間違えてしまいました! と、と、とにかく、あたし、いえ、私は、祐二とは離れません」
「どうしてぇ? お金がほしいでしょう? んふふ、そんなことわかっているわ。さあ、ユウちゃん、いらっしゃいな」
ナメ子は、祐二が入っている甕に近づき、心配そうに首を出していた祐二に、片手を伸ばした。
(うわー、来るな〜! いやだぁ!)
祐二は、サッと頭をひっこめ、甕の底へはりついた。ナメ子が上から覗くと、中で祐二が、頭を胴の下に隠して震えていた。
「あらぁ、ユウちゃん寒そうね。やっぱりお外は辛いわよね。きのう雪が降ったばかりですものねぇ。うちの楽園なら、温度なんか気にせずに暮らせるわよぉ。ユウちゃん、その方がいいでちゅよねぇ……」
「いえ、祐二は――」
恵美が反論しようとした時、奥から社長がやってきた。社長はすっかりビジネススマイルで、気色悪さは全く感じられない。
「セーラ、残念だが、後にしなさい。そろそろ就業の時間だし、矢内さんもまだ迷っておられる。矢内さん、今朝も申しましたが、売らなくてもいいのですよ。その代わり、今夜も私の家へ泊まってください。その時によく話し合いましょう。昼間のうちに、白蛇の飼い主さんと連絡をとっておいていただけませんか? 夜にその飼い主さんが、白ちゃんを売ってくださるかどうかの返事を聞きたいです。今夜も、楽しい夜になりそうですね。期待しております。ここではできないような、『いろいろなお話』ができそうで、わくわくしますよ。それでは……」
社長は、『いろいろなお話』とそこだけ言葉に力を入れ、怪しげな微笑みを浮かべると、事務所から出て行った。開園前に、園内を見回って、いろいろチェックする仕事がある、とはきのうから聞いていた。事務所の中でいつまでもゆっくりはしていられないのだろう。ナメ子は、社長の言葉に、「残念ね」と言いながら、しぶしぶ札を引っ込めた。
「矢内さん、スネークショーは夕方に終わるんでしょう? 帰るなら、私の仕事が終わるまでここで待っていてね。一緒に帰りましょう。ふふふ……」
ナメ子は、祐二の入っている甕からようやく離れてくれた。ナメ子の姿が、事務所の奥の更衣室へ消えて行くと、恵美はこめかみに流れる汗を袖でぬぐった。
(ああ、助かった……祐二、ナメ子があっちへ行ったよ。どうする?)
(どうって、とりあえず、仕事の準備だ。俺を売ることにする案はボツだ。金だけもらおうなんて甘かったな。スネークショーで地味に稼ごう)
(でもさ、今夜はどうするの? なんだか、のがれられそうにないよね。はぁ……)
(うう……それがネックだよなぁ……でも、仕方がないから、俺、がまんするよ。売らないことにして、あの家へ住まわせてもらう話にしろ。金がたまった段階で逃げればいい。おとついくらい稼ぎがあるなら、春休み中がんばれば、旅費ができるだろう)
(祐二、いいの?)
(……よくはないけど、他に名案でもあるのか?)
(名案ね……ない……なんにも思いつかない)
二人同時にため息が出た。
(ねえ、お金をためるまでに、何日かかるかなあ。だってさ、旅費だけじゃなくて、ナメ子の治療費もあるでしょう? 祐二に何日もがまんさせるなんて、いやだよ)
(おとついは、四千円以上稼げただろう? 今日は客が少なそうだから、もっと少ないと思うが、片道分の旅費が一人分でもできれば、すぐにやめればいい。ナメ子の治療費なんて、口先だけで払う、と言えばいいだろう。ある程度たまったら、おまえだけで帰省すればいい。帰りの旅費は親に出してもらうとして――)
恵美は園が指定した場所へ、祐二の甕を運び、ござを広げて座り込んだ。昨日雪が降ったこともあり、気温はおせじにも暖かいとは言えなかった。人ではない恵美と祐二は、じっとしていても寒さをそう感じなかったが、三月末とも思えぬ冷たすぎる風に加え、平日、ということもあり、開園しても人はまばらだ。
植え込みの陰に、雪がわずかに残る園内。乗り物は、すべて正常通りに運行されているが、乗車を待つ人の行列ができている場所はない。恵美は、座っている前を、親子連れが通りかかると、笛を吹いて祐二を出して見せたが、なかなかえさ代をくれるところまではいかなかった。
幸い、ナメ子夫婦の襲撃はなく、無事に夕方を迎えた。片づけに入った恵美は、えさ代入れにしている空き缶の中身を確認して愕然とした。
「えっ……五百四十円……これだけ?」
今日の稼ぎは少ないと、予想はついていたが、まさか、これほどとは……原因ははっきりしていた。晴天ではあるが、北風が強く、もともとの入場者数そのものが少ないこと。それにもう一つ。真っ黒な祐二の体が気持ち悪がられたこと。恵美が蛇役だった時は、縁起のいい白蛇だと人だかりも出来たが、大きいだけの黒蛇では、人気がないのはどうしようもないことだった。
「ねえ、祐二、これでは、春休みが終わっても、旅費なんかたまるわけがないよ。明日はもっと少ないかもしれないもん。あたし、決めた! もう北海道へ帰省するのはあきらめるから、今すぐ逃げよう」
「逃げるって、それじゃあ、おまえ、実家へ帰れないじゃないか」
「もういいよ。だってさ、毎日、ナメ子のベロベロと、社長のあれでしょう? それだけで済まずに、祐二が社長に殺されるかもしれない。あたし、そこまでしてまでもういい。ねえ、金稼ぎはやめて、あたしたちの山へ帰ろうよ」
「……いいのか?」
「うん。ザックを取りに行ったら、ここを脱出する。この甕だけ事務所内に捨てて行けばいい」
「ナメ子たちに見つかったらどうするんだよ」
「まだ閉園時間じゃないから、社長もナメ子も忙しいはず。今のうちに……」
恵美は、祐二の入った甕をかかえて、事務所へむかった。事務所の隅に、ザックや卵パックの入った袋などが置かせてもらってある。どうしても事務所へ入らなければならない。
恵美は、建物の中へ入る前に深呼吸すると、事務所の扉を開けた。