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14.売る? 売らない?

 社長は、数分間、そのまま扉に張り付いていた。どんな『ラッパ音』が聞こえて来るかと、息をする音もおさえ、期待のあまり、瞳を震わせて瞬きを頻繁に繰り返している。恵美は、その横に立って、それを無言で見ているだけだ。

「静かだ。何の音もしない。矢内さん、合鍵でここを開けてみましょう」

「いえ、その必要はないと思います。音がしないなら、すでに事が終わって、中で憩っていますよ。祐二はトイレの中が好きで、長い間出て来ない時があるんです」

 汗をかいている恵美は、愛想笑いを混ぜながらデタラメを言うと、社長はぴしゃりと言い返した。

「あなたはユウちゃんが心配ではないのですか。便器の中で溺れているかもしれない。あるいは、下水管に詰まってしまっているかもしれない。外国でトイレに蛇が詰まって大騒動になった話が、実際にありましたよね。ここでそれが起きないとは断言できません」

「祐二に限ってそんなことはありません」

「いや、心配だ。合鍵を持ってきますから、待っていてください」

 社長は恵美の返事を待たずに、スタスタと出て行った。恵美はすぐに祐二に声をかけた。

「祐二、社長が出て行った。今なら開けてもいいよ」


 ガチャリとロックがはずれ、トイレの扉が開いた。蛇姿の祐二は、恵美に飛びつくように巻きついた。

「恵美、だめだ。この家には逃げ場はない。今はあきらめて、おとなしく社長に抱かれてやる。少し我慢すれば、じきに仕事時間になるだろう。そう長くは続かないはずだ」

「でも、祐二が」

「いいか、恵美。俺、さっきトイレの中で考えたことだが、とりあえず、俺を売ることにしておいて――」

 祐二は、早口で『作戦』を恵美に告げた。

「えーっ! それ、危なくない?」

「他に方法を思いつかない。ゲッ、もうあいつが戻ってきた」

 廊下の奥からスリッパの音が近づいてくる。恵美の泊まっている部屋の扉は、先ほど社長が出て行った時に、開けっ放しになっていたので、社長はノックなしで入ってきた。その後ろには、ナメ子を連れている。


(うわー、ナメ子まで来た!)


 恵美は、眉がピクピクするのを、必死でおさえて、ナメ子に朝の挨拶をした。ナメ子は、パジャマではなく、普通の服に着替えていたが、頭はカーラーだらけだった。

「奥さま、おはようございます。夕べはすみませんでした」

「矢内さん、おはよう。ユウちゃんがおもしろいことになっているって、今、主人から聞いて、私も見に来たのよぉ。あら、もう終わったみたいね。どうやって出てきたの?」

「ふ……普通にです……」

「それが見たかったな」 

 社長もナメ子も、なんだ、もう終わったのか、と、もろに失望を顔に出していた。

「ねえ、矢内さん、うちの子たちにもトイレを教えたいわ。どうやってしつけたの?」

「なんとなく……その……えっと……祐二はトイレが好きですからっ……」

 言葉が濁り、祐二を抱く手に力が入る。祐二は、恵美の肩から胴にしっかり巻きついている。

「ユウちゃん、本当にいい子でちゅねぇ」

 ナメ子が祐二を触ろうと、恵美に数歩近づいた。


(ひぇー!)


 祐二の恐怖心が恵美に伝わる。恵美は思わず後ろに数歩下がった。

「矢内さん、ユウちゃんをかわいがらせて。ユウちゃんいらっしゃーい!」

 ナメ子は、祐二に手を伸ばしたが、恵美はさらに下がった。

「あの、奥様、またかみつくといけませんので」

「あらあ、そんなの気にしていないわよぉ。こんなにかわいい子だから、多少のことはねぇ……」

 ナメ子が、ずいずいと前進して来るので、恵美は横からすり抜けようとしたが、逃げ道をふさぐように、社長がその横にぴたりとついた。恵美と祐二が、心の中で悲鳴をあげかけた時、メイドが食事の支度ができたと呼びにきて、ナメ子は伸ばしかかった手を止めた。


(ああ、助かった……)


 恵美にはメイドが天使に思えた。ほっとして、祐二をケージに入れていると、社長がメイドを呼び止めた。

「火葬屋へ電話を入れておいてくれ」

「かしこまりました。いつものところでよろしいですね?」

 恵美はぎくりと顔をあげた。


(へ? 火葬?)


 祐二もケージの中に収まりながら、なんだ? と首をもたげた。恵美は疑問を隠せず、思わず質問してしまった。

「社長、あの、どなたか亡くなられたのですか?」

「ああ、人ではありませんよ。ローズが今朝、死にましてね、ペット専門の火葬屋へ引き取ってもらおうと思っているのです」

「ローズって、もしかして、きのう……」

 驚く恵美に、ナメ子が口をはさんだ。

「あらぁ、矢内さん、ローズちゃんの名前、憶えていてくれたのね。ユウちゃんのお嫁さんになりそびれて、きっと絶望して死んだのよ。残念だけど、お別れね」

 ナメ子は明るくそう言った。悲しんでいる様子はない。

「え、でもきのうは、あんなに元気に祐二にかみついて――」

 恵美は、途中で口を閉じ、うつむいた。また汗が首筋に噴き出す。


(祐二、聞こえてる? きのうのあの凶暴な蛇、死んだってさ。祐二の嫁になりそびれて絶望死したなんて、いきなりかみついてきたくせに、そんなはずはないよね。そもそも蛇が絶望して死ぬ、なんてあるわけないじゃないのよ。考えられるのは、社長が――)

(俺もそう思う。どうせ、社長が今朝、ローズを手にかけて殺したんだ。ローズはせっかん死。そうに決まっている)

(う……マジで怖い! 早く逃げたい……)


 うつむいた恵美を気遣うように、社長は、にこやかに言った。それは愛想のいいビジネスマンスマイルだ。

「矢内さん、ローズが死んだことを悲しんでくださるのですね。ローズはユウちゃんにかみついたそうですからね、少し叱ったのですが、ひねくれてしまいましてね、急に力が抜けたと思ったら、もう死んでいました。それだけの運命だっただけです。今日、早速、新しい子を注文します。いい子が来たら、矢内さんにも貸しますよ」

「そ、そ、そうですか……」

 恵美も祐二も、社長がローズを殺した様子を想像し、鳥肌をたてていた。社長が、その後に「“あの趣味”には大きい子の方がおもしろいですからね、ローズと同じ種類を注文するつもりです」と付け加えたことは、全く耳に入っていなかった。


 その後、恵美たちは、食堂へ移り、恵美が酔っ払った部屋で、ナメ子たちと食事になった。祐二はケージに入れられて、恵美の足元に置かれている。恵美は、何事もなかったかのような社長の様子をちらりと見た。


(この男のその手が、あの蛇を――うえぇ……)


 ローズの哀れな最期を思うと、恵美は全く食欲が出なかった。

「あらぁ、矢内さん、食べないの? 二日酔い? 」

「いえ、大丈夫です」

 社長もナメ子も、大切なペットが死んだばかりなのに、モリモリと元気よく食べている。社長がレタスをほおばりながら、上機嫌で言った。

「矢内さん、先ほどお話したこと、考えてくださいますね?」

「それは……」

 足元の祐二が、恵美に思念を送ってきている。


(恵美、『作戦』通りに言え)

(でもさぁ、この人たち、蛇殺しなんか、なんとも思っていないよ。ちょっと気に触ると、この社長が殺してしまうみたい。祐二が殺されるなんてあたし、我慢できない)

(おとなしくしていれば、そんなことにはならないよ。いいから、俺を売ってもいいと言ってみろ)

(でも……)

(そうしないと金がもらえない。北海道へ帰りたいんだろう? 金を受け取るまでなら、俺は辛抱するから気にするな)

(うん……でも、なんか……)

(売るって言え)


 ナメ子と社長は、少し顔を見合わせて、今度はナメ子が恵美を説得にかかった。

「ユウちゃんを売ってくださいな。この子ならローズちゃんの代わりになるわ。ユウちゃんがここにずっといてくれるなら、あたしもこの傷のことは忘れてやるわよ」

 恵美は、カチンと来たが、顔に出さずにこらえた。

「お怪我をさせてしまい、申し訳ありませんでした」

 再び謝ることになるが、こんなことでネチネチと言われていてはたまらない。

「祐二を売るかどうか、少し考えさせてください」

 気分はすっかりグレーに染まり、そう言うのが精一杯だった。


 地獄の食事タイムが終わり、恵美が悶々としているうちに、ナメ子夫婦と一緒に出勤する時間になってしまった。恵美は、ナメ子に送ってもらうつもりなどなかったのに、すっかりペースにはまり、結局、遊園地まで運転手付きの立派な車に乗せてもらった。

 園の事務所に着き、ようやくナメ子たちから解放されると、一気に緊張がほどける。祐二はケージからするりと出て、恵美の肩に巻きついてきた。


(おい、恵美。なんで、作戦通りに売るって言わなかったんだよ。そう言った方が、早くあいつらから別れられるのに)

(ごめん、だって……)

(現金で先払いを条件にして、金さえ手に入れば、すぐに逃げればいい。俺だけで、二十万ももらえるなら、スネークショーなんかやらなくても北海道まで行ける。俺の交通費まで出るじゃないか)

(お金をもらうにしても、その後、どうやって逃げるの?)

(なんとかなるだろう。金を受け取ったら、すぐに逃走しよう。あいつらは忙しいはずだ。俺たちが勝手にいなくなっても、すぐには気がつかないだろう。金があれば、電車でもバスでも乗れるぞ)

(そっか、そうだよね、なんとかなるような気がしてきた。よし、売る、って言ってみる)


 少し元気が出た恵美は、事務所の隅に置かせてもらっていた、商売用のかめに祐二を入れて、外へ運ぼうとした。よいしょ、と甕を抱きかかえていると、突然、後ろからナメ子に呼び止められた。先ほど別れたばかりなので、まだその辺りにいるとは思ったが、思わず、ヒッ、と肩がすくむ。

「矢内さん、お待たせ。用意が出来たわよぉ」

 振り返れば、すぐ後ろにあるナメ子の『太陽の微笑み』。恵美も祐二も身が凍った。甕の奥におさまっていた祐二は、少しだけ首をのぞかせた。まだ制服に着替えていないナメ子が、つきだした手の平の上には、複数の万札が包まれもせずに乗っていた。

「はいどうぞ、矢内さん。約束通り、二十万円よ。確認してちょうだい。白蛇ちゃんの分は、また今度、白ちゃんが来た時払うからね。それでいいでしょう? ぬふふ……」

 ナメ子は、恵美に札束を突き付けた。

「これでユウちゃんは私の家の子になったわ。山田ユウジ……んん〜……いい名前よねぇ。さあ、ユウちゃん、お母さんにお別れしなさい。ユウちゃんは今日からスネークショーなんかしなくてもいいでちゅよ。こんなに寒いのにお外なんてかわいそう。今から楽園で暮らしましょうね」

「ええー!」

(うわぁぁぁぁ!)

 恵美も祐二も、絶叫した。

「あたし、まだ、売るとは言っていません!」

 ナメ子は、ひきつる恵美の目の先で、ピラピラと万札をひらつかせた。

「矢内さん、これであなたも楽になれるわよぉ。苦労していたんでしょう? 無理しないで受け取ってくださいな」


(祐二……これじゃあ、今、売るって言ったら、祐二すぐに連れて行かれちゃうよ。作戦なんかこの女相手では無意味だよ)

(最悪だー!)

 

 ふと視線を感じ、事務所の奥の方を見ると、社長がほほ笑みながら、こちらをじっと見ていた。





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