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13.水音とラッパ音

 恵美は、ヒッ、と息を吸い込んだ。『法的手段』という言葉に、祐二も卵をごくりと飲みこんだ。

「法的手段って……あの……」

「矢内さん、私たちは仲間じゃないですか。法的手段は本当に最終手段です。そこへ辿り着くまでに選択肢はいろいろありますよ。たとえば、ユウちゃんを私たちに売る。もしくは、ユウちゃんを売らずに私たちといっしょにここへ住む、とかね。それはあなた次第です。私どもに嫌な手段を選ばせないでください」

 社長の上品な微笑みが、冷たい薄笑いに思えてきた。

「矢内さん、ユウちゃんを売ってくださるなら、それですべては終わります。家内が傷害罪で矢内さんを訴えることはしないでしょう」

「傷害罪……」

「罪名がそれでいいかどうかは、私はよくわかりませんが、そういうことにならない為にも、ユウちゃんをわたくしどもに売っていただきたい」

「祐二は売り物じゃないです。それは奥様にも申し上げたはずです」

「それでしたら、あなたもここに住んでいただけば、いいではありませんか。ユウちゃんの奥さんの白蛇も一緒に。ここで暮らせば、“あの趣味”で自分を満たすのには都合がいいです。あなたも毎晩別の子と楽しい夜を過ごせますよ」

 さりげなく強引。恵美は自分の唇がぴくぴくとひきつりたがるのを必死で押さえた。

「“あの趣味”なんて、あ、あたしは、そんな趣味なんか――」

「矢内さん!」

 社長は、少し言葉をきつくした。

「そういえば、ユウちゃんは日本の山中で拾った子、ということでしたね?」

「……そうです」

「どこで拾ったとは言えないでしょう。正々堂々と言えるわけがない。あなたが外国から密輸した。そうでしょう?」

「ええ?」

 恵美は本当に息が止まった。祐二もびくりと身を震わせ、驚きを示した。


(ちょっとぉ! この人、何が言いたいのよ)

(恵美、負けるな。こんなやつに言いくるめられて俺を売るなよ)

(わかってるわよ。もうやだ、この人。怖い……なんだか本格的な脅しにはいった)


「矢内さんは、私と共通の趣味を持つ貴重なお友達です。私も警察に情報を漏らすようなことはしたくありません」

「売らなければ……警察を呼ぶと、脅す気ですか」

「そのようなつもりはありません。ユウちゃんは、密輸しないと手に入らないような貴重な蛇。私が知っている限りでは、このように模様が全くない大きな蛇は、国内にはいません。そんなすばらしいこの子を、ここに置きたいと思っているだけですよ。すんなり売っていただけたら一番いいですが、売る気がないならここでずっと暮らしてください。先ほど私は、スネークショーをやる春休みの間だけ、というようなことを言いましたが、もちろん、春休みが終わってもずっといてください」

「そんな! 私はそんなの嫌です。祐二は普通の蛇ではないんです」

「普通にいないからどうしても欲しいと思ってしまうのが、正常な人間の心理でしょう。家内も同じ意見です」

「せ、正常な人間の心理、ですか……」


(祐二、この人、自分は正常だと思っているみたい。どう見たって、誰よりも正常じゃないよね)

(このくそおやじ……とりあえず、密輸ではないと言いはって、ナメ子のことはきちんと治療費を払うと言ってみろ)

(うん、がんばる)


「社長、奥様にお怪我をさせてしまったことは、本当に申し訳ありませんでした。噛み傷の治療費は後ほどお払いしますので、請求してください。それから、祐二は本当に山で拾った蛇です。私が密輸したんじゃないです」

 社長はふっと笑った。

「ほう……密輸ではないと? それならそれで私はかまいませんよ。専門家に見せれば、正規に輸入されたものではないし、国内産でもないことはすぐにわかってしまうでしょうけどね。それはいいとして、矢内さん、家内の治療費を払ってくださるのですか? そのようなご無理なことを申し出なくてもいいでしょう」

「無理じゃないです。春休み中、スネークショーで稼いだお金で、必ず支払いますから」

 もう勘弁してよ、と頭の中で続きを言った。

「矢内さん、密輸された蛇を使って、スネークショーをやっていたと世間に知れたら、あなたは、今後蛇を変えても、どこの遊園地でもショーをやらせてもらえないでしょう。ユウちゃんは、正規のルートで入手した蛇ではないとわかっていても、うちの園でショーを許可するのは、私が蛇好きだからです。私が通報すれば、ユウちゃんは警察の手に渡ることになります。あなたは、人の信用も、大切な商売道具も失い、無収入になる。家内の治療費を払うどころか、その日の暮らしにもお困りになること間違いなしです。そんなことを私はしたくありません」

 恵美は、ソファの下の祐二に、「どうしよう……」と視線を送った。恵美が下ばかり見ていたので、社長は、祐二がソファの下にいることにとうとう気がついてしまった。

「おお! ユウちゃんはこんなところにいたのか。元気になったんだね。おいでおいで……」

 社長は、はいつくばってソファの下へ手を伸ばしたが、祐二がおびえて奥へ逃げたので、あと少しのところで手が届かなかった。

「ユウちゃんや……怖がっているな。おじさんが今かわいがってあげるよ。待っていなさい」

 社長は恵美にかまわずに、さっさと部屋を出て行った。

「祐二、社長が出て行ったわよ。別のところに隠れて。早く!」


 すぐに戻ってきた社長の手には、長い棒が握られていた。

「これさえあれば、どこに逃げて行っても大丈夫。この棒はね、家内が考案したものでね、市販のマジックハンドを細工して、この長さの棒に取り付けたものです。これがなかなか蛇をつかむのに適しておりましてね、高い所へ逃げ込んでいてもすぐに捕まえることができます」

「そうですか……」

 社長はソファの下を覗き込んだが、そこにはすでに祐二の姿はなかった。

「おや? ユウちゃんがいないぞ。どこへ行ったかな?」

 恵美は黙っていた。祐二はトイレに逃げ込み、内側から鍵をかけている。

「矢内さん、ユウちゃんはどうしましたか?」

「ど、どうって……あの……自分の好きな場所へ行っただけでしょう。知らないうちにソファの下から出てしまったんですね。あは、は、あは、は……」

 恵美は無理に頬を引き揚げて笑って見せた。社長は立ち上がり、棒を片手に室内を探し始めた。

「ユウちゃんやーい! 出ておいでー」


(うわー寒! かわいい声出して、この人、子どもとかくれんぼしているつもりみたいだね。ロマンスグレイがはいつくばって蛇を探している……)


 ベッドの下まで探し終えても祐二が見つからないので、社長はとうとう、祐二が隠れているトイレの扉を開けようとした。

「ん? 鍵がかかっているぞ。おかしい」


 ガチャガチャとひっぱられる扉。開かない。中にいる祐二は、大汗をかきながら、口で鍵の部分をくわえて押さえていた。社長は扉を壊さんばかりに、取っ手を動かしている。

 

 ガタガタ、ガタガタ。取っ手が揺らされ壊れそうだ。


「開かないな。壊れてしまったか」

 扉に取り付けられているロック式の鍵は、簡単に開いてしまいそうだ。

「矢内さん、この扉はいつからこうなっていましたか?」

「えっ、その……さっきまでは……」

「鍵が内側で引っかかっているのかもしれない。合鍵を持ってきましょう」

 社長はだめおしに、さらに取っ手をガタガタやった。恵美はとうとう白状してしまった。

「あの、社長、祐二が中にいると思うので、もうやめてやってください」

「ユウちゃんは、この中にいるのですか?」

「はい……たぶんですが、部屋の中にいなかったので、この中だと思います。排出中かもしれませんので、静かにお願いします」

「おお! ユウちゃんは自分でトイレへ行って、鍵をかけることまでできるのか」

「は、はい。そういうふうにしつけましたので……えへへ……」


(この言い訳、苦しー! そんな蛇いるわけないでしょう!)


 恵美のこめかみから、大粒の汗が流れ落ちた。社長はそれには気が付いていない。

「なんてすばらしい子だろう。さわいで悪かった。失敗するといけないから、静かにここで待っていよう」

 社長は、トイレの扉に、ぴたりと片耳を当てている。

「社長? 何をしていらっしゃるんですか?」

「音だよ。ユウちゃんの音が聴きたい」

「どんな……音ですか?」

「決まっているじゃないですか。あの水音に、そういうラッパ音なんかが聴こえたらもう最高ですねえ……」

「あの水音……そういうラッパ音ですか……それって――」

「ええそうですよ。人が最もリラックスできるこの個室でなら、どんな大音量でも許される音です。ユウちゃんはどうやって便座にまたがるのですか? 見てみたいですよ。今、ユウちゃんはこの中で――おお、想像するだけで鳥肌が……ユウちゃんは、終わったら自分で出てくるのでしょう? この扉を開ける様子も、もちろん楽しみです」

 恵美には、ラッパ音ではなく、祐二のわめき声が聞こえたような気がした。


(うえぇぇー! そこに社長が張り付いているのか。こんなの、出ていけるわけがないだろう!)


 中の祐二は、泣き声に近い悲鳴をあげていた。





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