10.山田ナメ子の家(3)
「聞いてくれよ、おまえが倒れてからさ――」
祐二は、恵美がすっかり酔ってしまってからのことを話し始めた。
恵美がへたりこんでしまうと、ナメ子は、すぐに手をたたいて、メイドを呼んだ。
「矢内さんが酔っていらっしゃるようだから、お部屋までお送りして」
うろっ、とした顔の恵美が、メイドの肩にすがりながら、引きずられるように退室すると、ナメ子と社長はにっこりと顔を見合わせた。
「うまくいったな。酒に弱い人で助かった。あの人が酒豪だったら、こう簡単にはいかなかったな」
「さすがね。あなた、これで今夜はユウちゃんと遊べるわ。見てよ、本当にかわいい子でしょう?」
ナメ子は祐二の口をつかむと、ブチュウ! と口づけた。
(ブヘッ! くさっ!)
くちづけで、祐二の鼻先につけられたガーリックの香り。肉料理に使われていたガーリックは、食べていない者にとって悪臭。祐二は顔をそむけようとしたが、ぐっとつかまれているので逃げられなかった。社長は、ナメ子の幸せそうな様子に目を細めていた。
「セーラ、寝室へ連れて行こう。今夜はたっぷりこの子で遊べそうだ。久しぶりに心がはずむよ」
油汗を流す祐二には構わず、ナメ子は上機嫌だった。ナメ子は、祐二を首にかけて頭部をつかんだまま、社長とともに二階にある寝室へ向かった。
(遊ぶって……どんな遊びだよ。こいつら、何をする気だ……)
一歩進むごとに、言い知れぬ恐怖が祐二を襲う。
やがて二階の寝室へ到着した。赤くふかふかしたじゅうたんが敷き詰められた寝室は、ダブルベッドが置かれていたが、それでも室内は狭く見えない。寝室のはきだしになっている窓からは、まだやまない雪の闇が見える。ベランダには数センチだが、ベタベタの雪が積もっていた。寝室の奥には、大きなクローゼットルームと、さらにその隣には本棚に囲まれた書斎。室内は、ほどよい温度に暖められ、かすかなエアコンの音がしている。
「この温度では寒いだろう。もっと暖房を強くしよう。この子が凍えてしまう」
社長は、暖房をリモコンを使って強めると、ナメ子に、先に風呂に入るように言って、追い出した。
祐二は、広いダブルベッドの上に下ろされ、ほっと一息ついた。ベッドには気持ちのいい肌触りの下毛布が入っている。ナメ子が出て行ったこともあり、祐二の緊張がほどけた。
ここは夫婦の寝室だが、屋上の蛇の楽園よりは何倍もましな気がしてきた。ナメ子さえがまんすれば、危険な蛇地獄よりは――どんなに長くても、一晩こらえればいいだけだ。祐二はやわらかなベッドの上で、安心して丸くなった。
社長は、祐二がベッドの中でおとなしくしているのを確認すると、夜着に着替えるのか、照明を落として服を脱ぎ始めた。人の着替えなど見たくもない。祐二はベッドの中で目を閉じた――すると。
(なっ! うぁ! なんだこいつは!)
突然つかみかかられ、祐二は悲鳴をあげた。服を脱いで、グレーのブリーフ一枚になった社長が、ベッドに入って来て、裸の体に祐二を抱き寄せたのだ。
「おお、大きいと重いな。ローズよりこの子はかなり体重がありそうだ。よしよし、ユウちゃんや……おじさんのお家の子になるかい?」
(誰がなるかよ! いきなりなんだよ、このおやじは!)
心の中でそう叫んだが、当然声は届いていない。社長はうっとりとした表情で祐二の頭をなでた。祐二は、それぐらいならまだナメ子よりましだと思い、こらえて好きにさせてやった。
(このおやじ、外面がよすぎる。さっき恵美の前で見せていた顔とは別人じゃないか。気持ち悪いやつめ)
社長は、あおむけになると、祐二の体全体を、自分の素肌の腹や胸の上に乗せた。
「うひゅひゅ! ああっ、たまらない。このザラつき……この大きさ……このほどよい冷たさが、あぁ……あっ、こらっ、動くな」
祐二が腹の上から逃げようとすると、社長はぎゅっと抱き込んで放さない。
「ユウちゃんや。おじさんを抱いておくれ。この子はよく慣れている。セーラが欲しいと言うわけだな。ひゃー! あぁっ! ユウちゃん……最高だ。これ、どこへ行く。だめだぞ、逃がしはしない」
社長はにこにことして、またベッドから逃げようとした祐二の頭をつかむと、軽く首を絞めた。
(ぐっ! このおやじ、何しやがる……うぅ……)
「ほら、おとなしくしないと、痛い目に遭うぞ。そうだ、じっとしていろ」
社長のとろんとしたにこやかな顔に、やさしい声音。それに似合わない脅し文句。祐二はまた社長の腹の上に戻された。
社長の腹は肥満ではないが、適度にたるんだ脂肪が付き、ぼよぼよしている。気持ちはいいが、祐二には男の腹に甘えるような趣味はない。社長は祐二が動くたびに、奇声を発した。おやじ臭がほんのり漂い、嫌がった祐二が再び逃げようとすると、容赦なく首を絞めた。
「ユウちゃん、おじさんもそろそろがまんの限界だ。あんまり横着するといじめちゃうぞ。ユウちゃんはおりこうだから、おじさんを怒らせるような悪い子じゃないだろう?」
(あんたの臭いが嫌なんだ! もうかんべんしてくれよ。俺はおとなしくしていたじゃないか)
それでも祐二が、必死で社長の体から降りようとすると、社長はつかんで軽く首を絞め、また腹の上に乗せる。そんなことを何度も繰り返した。
(ナメ子も嫌だが、この変態おやじも嫌だ。こいつら似たもの夫婦だな。キモイところだけでなく、しつこいところまで似ている。ナメ子のだんながまともなはずはないよなぁ……この部屋が屋上の楽園よりましだと思った俺は間違っていた)
何度も首を絞められたので、祐二の目は潤んできていた。
「ひょおぉ、気持ちいい! ユウちゃんは本当にいい子だな。ユウちゃんの奥さんの、白ちゃんも今度はぜひ一緒に愛でたいものだ」
(そんなことはさせない。俺の恵美をこんな目に遭わせることなんかできるかよ。それにしても……苦しい……まさか、こいつ、一晩中こんなことを続けるつもりかよ)
社長は、祐二が徐々に弱ってきているのには、気にもとめない様子で、腹の上の祐二の体をなでまわした。
「ユウちゃんや……白ちゃんといっしょにおじさんの家で暮らそうな。ローズにはおしおきしておくから、それでいいだろう? ああ、楽しみだ。ここへ白ちゃんも加わるかと思うと……おじさん、もうイッちゃいそうだな……」
社長は気持ちよさそうに目を閉じた。
そこへ、風呂を終えたナメ子が戻ってきた。細かい花柄のパジャマに、腰までの黄土色のチェックのハンテンをはおっている。濡れた髪にはターバンのようにタオルを巻いていた。
「お風呂、お先でした。あら、あなた、ユウちゃんと仲よくしているの? よかったわねぇ、懐いているじゃないの」
ナメ子は、動く気力をなくしている祐二に近づいた。祐二はナメ子をぎろりと睨んだが、飛びかかる力などない。
(ぐえぇ、ナメ子が戻って来ちまった。ナメ子め、何にこにこしてるんだよ。俺は懐いてなどいない、弱っているんだ! あんたのだんなに首を絞められて! この社長、鬼だ。自分の思い通りにならないなら、何でもやりやがる。くそう……恵美……恵美……おまえの元へ行きたい……やっぱり今夜はおまえと寝たい。こんなやつらとじゃなくて)
寄って来たナメ子が、社長の腹の上にいる祐二に手を伸ばそうとすると、社長がそれを軽く押しとどめた。
「触るな。やっとおとなしくなったところだ。おまえは先に髪をかわかせばいい」
「わかったわ。髪をかわかしたら、次はあたしの番よ」
ナメ子が離れると、社長はまた満足そうに祐二をなでまわした。祐二はあきらめてなされるままになっていた。
ナメ子は、鼻歌交じりに、寝室の隅に置かれた鏡台のコンセントにドライヤーを差し込んで、大急ぎで髪をかわかした。ロングヘアではなく、くるくるのパーマのかかった大仏のような髪は、数分でかわいた。
「お待たせ。あなた、交代よ」
「何だ、ドライヤーはもう終わったのか」
社長は、ここちよげに閉じていた目を、少し開いたがまた閉じてしまった。
「もう少しだけ、こうしていたい。最高にいい気持ちだ。ンヒャァ……この感触……たまらない……」
「ダメよ! あなたばかりでずるいじゃないの。今度はあたしの番だって言ったでしょう? あなたはお風呂へ入って」
「苦労して懐かせたんだぞ。さっきまで逃げようとして大変だった。やっと静かにしてくれるようになった時に、おまえが取り上げようとするとは、おまえこそずるい。私が矢内さんにせっせと酒を勧めたから、ここで遊べることになったんじゃないか。私は矢内さんが酔っ払って腰をぬかすまでがんばったんだぞ」
「何を言っても今からはあたしの番なのっ。さあ、ユウちゃんを渡して。ユウちゃん、ユウちゃん、いらっしゃーい」
ナメ子は、社長の寝ているベッドに、ドスンと大きな尻を落とした。その反動で、社長と祐二がグラリと揺れ、社長の丸い腹から、祐二が毛布の上にツルッと滑り落ちた。社長があわてて、祐二を腹の上に戻そうとする。ナメ子はそれっ、とばかりに祐二を自分の方へひっぱった。
「セーラ、放しなさい」
「いやあよ。あたしの番だもの。ねえ、ユウちゃん」
「後で譲るから、もう少しだけ貸してくれ。やっといいところだ。至福の時を邪魔するな」
「順番は順番よ。あなたが放さないなら力ずくよ」
社長は祐二の胴体をつかんでいる。ナメ子は頭部を。ナメ子は社長から無理やり取り上げようと、祐二の頭を持ったままベッドから立ち上がった。
「ユウちゃん、おじさんよりもあたしがいいでちゅよね?」
ナメ子がベッドから離れようとすると、必然的に祐二の体は引っ張られた。
(ぎゃあぁぁぁぁ!)
二人に引っ張られ、丸くなっていた祐二の体は長く引き伸ばされた。
――数分後。
「あなた、どうしましょう。ユウちゃん、死んじゃったかしら……」
泣きそうなナメ子。自分の手首を押さえている。じゅうたんの上には、ひきのばされて置かれている祐二。動いていない。それを見おろす社長は、チッ、と舌打ちした。
「ちょっとやりすぎたか。残念だが、死なないうちに矢内さんに返した方がいいな。今ここで死なれるとまずいから、すぐに持って行け」
「わかったわ、あなた……」
ナメ子は、ぐったりとした祐二を首にかけると、寝室の戸口へ向かって行った。出る寸前に社長が呼び止めた。
「くれぐれも、私たちが原因だとは言うな。黙って返して来ればいい」
「わかっているわよ。こんなこと、ずいぶん前にもあったものね。うまくやるわ、まかせて」
ナメ子は、瀕死の祐二を、恵美の泊まっている部屋へ持っていった。
「――というわけだ。怖い夫婦だろう?」
祐二は、ベッドの中で恵美にすり寄りながら、夫婦の寝室であったすべてのことを教えた。
「あの社長め、思いっきり俺を引っ張りやがった。俺は玩具で、生き物だとはかけらほども思っていない。まだナメ子の方が人間的で、俺がかわいそうだと思って、手を放してくれたんだぜ」
「じゃあ何よ、あの社長さんが、私をわざと酔っ払わせて、祐二を手にしたってわけ? しかも何度も祐二の首を絞めたって言うの?」
「そうさ。あいつめ、俺が綱引きにされて、苦し紛れにナメ子の手に噛みついた時、社長はどうしたと思う?」
「どうって?」
「あいつは、つかんでいた俺の体を急に放り出して、血相変えて俺に飛びかかってさ、加減なしで俺の首を――」
「えーっ、信じられない。あのロマンスグレイの素敵な社長さんが……」
恵美はもう一度社長の姿を思い浮かべた。上品そうな物言いだった。ローズの話が出た時は怒った表情も見せたが、それもすぐに消え、相手に気を遣う落ち着いた紳士に戻った。あれなら社長として、部下からの信頼も厚いだろうと思った。強引ではなく、穏やかに酒を勧めてくれたが、まさか、それは計画的だったとは……
「本当にあの社長さんがねえ……」
「とんでもない鬼。あれは悪鬼の顔だった。俺、本当に殺されそうだったから、死んだふりをした。マジで苦しくて、死ぬかと思った。あわや首をへし折られるところだったんだ」
壮絶な場面を想像し、恵美は涙ぐんだ。必死で抵抗した祐二が目に浮かぶ。
「祐二……ごめん……」
「いいって。これでも何とか生きている。俺が泊まろうなんて言ったから、こんなことになったんだ。それよりさあ、この部屋、風呂あるだろう? 体を洗いたいから用意してくれ。あのくそ夫婦の臭いがしみついて気持ち悪い。水でも湯でも何でもいいぞ。どうせ普段は水ばかりだから」
「水風呂でもいいけど、今日は久し振りに温かいお風呂にしようか。まともなお風呂なんて、古家を追い出されて以来だし、もう次はないだろうから。普段は滝の行水ばかりだもんね。あたし、体が変化してからは一度もお風呂に入ったことないの。きっとこの体だと熱く感じるよね? ぬるく入れるよ」
恵美はベッドからゆっくりと起き上がった。
「ねえ、祐二」
「ん?」
「久しぶりだから、いっしょに入ろう。あたしがナメ子の口紅の跡、きれいにとってあげる。まだ少し残っているよ」
「確かにあちこちに……そうだな、一緒に入ってとってくれ。気持ち悪すぎる」