表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
89/215

88 「ノワール映画」作戦 六

 霧に覆われた遙か向こうが騒がしくなってから、もう二時間は経つ。幾ら視界が通らなかろうと、陽の光というのはしっかり地面や窓縁を照らすもので、その色彩から夜が近いことは言わずとも知ることが出来た。


 知る必要(ニード・トゥ・ノウ)の観点から、僕は仲間の行動を知らされていない。果たしてどれほどの悪行を、或いは道楽をしでかしているのかは想像するほかないが、恐らくはその予測を笑って越えてくることだろう。


「……ねぇ、気になるんだけど」


 小鳥――――木の実を食べきって、その体積分大きくなっている――――を愛でていたリヨンが、ふと思い出したように尋ねてくる。


「トウジンって何なのよ? 初めて聞いたわ」


「初めて……?」


「えぇ。それって何? パパが関係するって事は、食べ物?」


 見せる表情も鑑みれば、恐らく本当に知らないのだろう。外見二倍の法則がある以上、自分の判断がどこまで正しいかは分からないものの、この人物は何処か――――何事にも単純さを求めるように、必要のない隠し事は極力避けるように思える。


「トウジンは……一種の薬です」


「薬? 病気を治すための?」


「……どちらかと言えば、病に罹らせるために使われていますがね」


 訳が分からない、と顔に出してくる。


「その言い方だと、パパが街の人達を病気にさせてるみたい」


「どう捉えるかは貴女次第だと思います」


「貴方は? ユーレイさん」


 苦し紛れに出した名前を終ぞ使われることなく、僕は「ユーレイさん」として通されることになりそうだった。そちらの方が随分と気楽だ。個人名――――固有名詞というものがそのただ一人を指し示すのに対して、単純な名詞として大まかに括られるのは凄く有り難いことである。


「ねぇ、答えてってば、ユーレイさん。貴方にとってパパはいい人、それとも悪い人?」


「私は……私にとっては」僕は口ごもる。彼女を我々の味方たらしめるには、どう伝えるのが最も的確で、適当なのだろう。


「そうですね、いい人でもあり、悪い人でもある……と言ったところでしょうか」


「何それ。答えになってないじゃないの」


「その人の行いが善いか悪いか、立場で変わるものですから」僕がいけしゃあしゃあと続けると、「じゃあ、貴方の立場にとっては」と言う形に質問が変えられる。


「そう言うならば、悪でしょうね」


「悪……?」


 僕が答えると、予想通りの沈黙と――――どうにも把握しきれない表情を見せた。

 僕の考える、できる限り誠実な人物を演じているつもりだ。必要な嘘は躊躇わず吐き、しかし最大限の誠実さと真実を口にする。自身の意見は提示するが、決して強要させるものではないように……というのは、些か言い過ぎだろう。僕はそこまで出来た人間じゃない。今言ったことの半分が出来てれば上出来だ。


「待って、確かめたいのだけど、貴方は私を護りに来たのよね?」


 結構な沈黙の後に、生まれた認識のズレを確かめてきた。


「えぇ、貴方がワルモノ達に攫われないように」


「あたしを攫って、パパを脅して……その人達はどうするつもりなの?」


「トバゴ商会が独占しているトウジンを要求するつもり、らしいです」


「えっ、えっ?」


 再び硬直し、絨毯の模様に答えがあるかのように視線を忙しなく動かす。それだけに飽き足らず、わだかまりを解きほぐしたいかのように、わしゃわしゃと羽毛の塊のような小鳥(ミィナ)を揉み込み始めた。結構強く遊ばれているが、当人は気持ちよさげにされるがままだ。


「……お願い、整理させて。ワルモノはトウジンが目的なのね」


「えぇ」


「でも、トウジンは病気になる薬なのよね。どうして欲しがるって分かるの?」


「あぁ……何と言いますか」


 確かに、先程の言い方ではここで矛盾というか、引っ掛かりが生まれてしまう。

 難しい、実に難しい。これを簡単にこなしているガルシアの思考回路はどうなってるんだ。


「先程言った病気の症状が、そのままなんです。トウジンを含むと、より多量の、より質の良いトウジンを求めるようになる……依存する病と言えば分かりますか?」


「依存する……ワルモノ達はもうその、トウジンに依存する病気に罹ってて、いやトウジンがその病気にさせてるから……あれ?」


 三度混乱をきたしてしまったようだ。が、今度はあっさりと調子を取り戻す。


「えっと、要するにワルモノ達がトウジンを欲しがってるのは間違いなくて、だからあたしを狙ってるって事なのよね」


「概ねは」


「そう、分かったわ。分かった……のかしら。いや分からないわね、まだ分からない」


 随分と勢い付いて、かつ内容が薄いような気のする会話が続く。

 リヨンの思考回路は今なおフル稼働しているのだろう。ああでもないこうでもないと独り言が漏れてきているのを見ると、どこかしらカロを思い出させる。


「……ワルモノがトウジンに侵されて、そのトウジンはパパが扱ってる。だからパパを脅すためにワルモノが来る。それをあなたが護りに来た……ねぇ、ユーレイさん」


「はい」


「護りに来たって言ったけど、パパから頼まれたの?」


 口調は変わらないが、どこか鋭く突くものがあった。疑問を解くのでは無く、むしろ確信以外の可能性を潰していくような、そんな鋭さだ。


 どう答えるか。僕の思考回路も全てがスパークを放っているようだった。


「いいえ、貴方の父親からでは」


 その一文のために、僕の判断はかなり疲弊させられた。


「となると、労働街の誰かからかしら。その人達も病気に罹ってるのよね?」


「……えぇ」


「分かったわ。ホントのことかは分からないけど、どうして貴方がここに来たかには納得できたわ、うん」


 既に受動的な会話に徹することになった僕に――――あたしの力がほしいのね、とリヨンは言った。

 図星だろうと笑うでもなく、ただ事実を確認するような、平坦だが有無を言わせないような声だった。


「――――どうして、そう思ったのでしょうか」


「だって、それ以外しか考えられないもの。パパが悪い人なら、むしろワルモノ達に協力するでしょ? それをこうやって護るんだから……トウジンが悪いものなんだってことでもあるみたいだし、どんな形かは分からないけど、あたしの何かが必要だってことじゃないの?」


 的確だった。昼間のお転婆さがどこへ消えたのか、一体どこからそこまで推論を組み立てたのか、何よりも先に知りたいほどだった。

 黙っているのは不味いだろう。だがどう答える。


「……貴女が必要だというのは、その通りです。恐らくは貴女にしか出来ないこと」


「やっぱりね」と誇らしげな顔。ここは子供らしい。


「それで、何をさせたいつも――――何?」


 勝ち誇ったような声は、それよりもひときわ大きな音に打ち消されてしまった。ミィナは手元から飛び立って部屋中を回りに回り、リヨンは飛び上がるような勢いで窓際へと飛びつき、鍵を外して力のままに開いた。部屋に緩やかで湿った空気が忍び込んできて、小鳥は一目散にそこから飛び出していってしまった。


 彼女の上から同じような姿勢で外を見渡す。比較的高地に建つ、開けた二階の窓からは、真実をひた隠しにする街並みと、その先の海原までがよく見えた。霧が薄い分、地平線近くの茜色がよく見える。もう数十分としないうちに夜になる。


 そこから少し目を下げると――――街から館へと続く道に、何やら巨大な影がある。シルエットのみだが、その輪郭はよく見えている……どことない違和感が、焦点を移動させるにつれ理解に到達する。門や鉄格子が強引に破られているから、遮るものなく全体像を見ることが出来ているのだ。


 館側から何人かの人影が躍り出て、手元から何かしらの光が放たれる。シルエットを僅かに照らしたかと思うとそれは弾かれ、後に続く光弾も同じような末路を辿る。


「あれ、アロルドの魔法使いじゃない! あんな人達をパパは雇って――――きゃあっ!」


 視界の直ぐ下でリヨンが叫ぶのとほぼ同時期に、巨大な影が煙を噴いた。

 彼女が魔法使いと呼んだ人々が、まさに叩き付けられた陶器細工のように分解され、その一部が土煙と共に僕らの元へ飛び散ってきた。幸運なことに薄暗く、彼女自身も耳鳴りのする轟音に身を引っ込めたため、僕の頬に当たった小石か人間の一部を眺めることはなかった。


「何っ、何よアレっ! この音はなんなのぉっ!?」


 頭を抱えながら叫ぶリヨンだが、そうしているのならば別段言うことは無い。混乱は当然のことであるし、人体の一部を見つけて半狂乱になるぐらいなら目を瞑って騒いでいてほしいものだった。

 僕は屋外の光景に意識を集中させた。馬鹿みたいなエンジン音を立てて塀を押し壊し、三射目は建物そのものに向けて撃ち込んできた。その背後からわらわらと、数えるのが少し厳しいぐらいの集団が雪崩れ込んできている。


「ワルモノ、でしょうね」


「わわワルモノッ!? ウソよ、ありえないわよ! ホホ、ホントに来たの!?」


 轟音が去り、屋外と扉を挟んだ廊下との両方から、耳障りな誰かの断末魔が聞こえるようになってきてから、ようやく僕は役割を思い出した。


「大丈夫ですよ。一先ずは落ち着いて下さい」


「大丈夫って、何を根拠に言ってるのっ! 貴方はユーレイだから良いわよね、もう死んでるんですもの! あぁどうすれば良いんだろう……!」


「……まぁ兎に角、騒いでいると見つかりかねません。叫んでも良いですが、声帯は使わないように」


「ちょっと――――ちょっと、ホントに大丈夫なの?」


 抑えた口から、抑えている手の平に熱い吐息が吹きかけられる。随分とちぐはぐな人物だ。パニックになりかけていても、妙に物分かりが良かったり、自制心を取り戻すことが出来ていたり。


「えぇ、私が護ります。そう言ってるでしょう」


「でも……でも、どうするっていうのよ? 魔法使いでも敵わない相手なのよ!?」


 魔法使い――――これまで幾度か聞いたことはあったが、目にするのは初めてだ。

 だがしかし、以前の話ではこの街に、この国内に類する人物が居るとは思えない。純粋な技術の発展で育った国家に、それを否定するような人種は歓迎されないだろう。


「……戦う必要はありませんよ。と言うより、戦える物量じゃないです」


 今はそれどころではないと、好奇心を殺す。もう一度外を確認して、屋内の音に耳を立てる。どうやって脱出させるかは決まっているものの、決して違和感の無いよう、やらせ(マッチポンプ)だと気付かれないようにはしないといけない。


「じゃあどうするのよ。逃げ出すにしても……出たら見つかるわよね?」


「まぁ、何の対策もせずに出れば、当然そうなるでしょうね」


 来たのはどっちだ。ガルシアか、ミィナか。

 服数人居るが、それは死体か、それとも沢山のミィナなのだろうか。被発見は気にすることではないが、肝心の逃走経路はどうする。上ってきた階段を通るにしても、彼女の状態だと声が漏れかれないだろうし……。


「……何か策はあるみたいだけど、ホントに大丈夫なの?」


「信じて頂ければ有り難い……と思ってます。まだ静かに、様子を窺いましょう」


 しかし、段々と背中がこそばゆくなってきた。

 きっと僕の紡ぐ言葉はこれ以上なく滑稽であることに違いない。演劇をしてる訳でもあるまいし、もう少しばかり自然体で親しみやすい言い回しや雰囲気を出せないものだろうか。他人に疑われない言動は得意だが、他人の振りをするのは至極難しい。


「…………まだ? 大分静かになったわよ」


 数十秒と口を閉じてはいられないようで、今し方思っていたことを言葉にしてきた。


「なりましたけど……どうでしょうね」


「どうにかなったんじゃない?」と比較的楽観的な意見を提示される。「あのデカブツは家に入れないみたいだし、パパが雇ってくれてる兵隊さんはみんな強いから。きっとそうよ、きっとそろそろ……」


 リヨンが扉の方に目をやる。ノックと共に彼女を呼ぶ声があったのだ。


「お嬢様、ご無事ですか。ここは危険です……早く、此方に、来て下さい」


「ほら、もう大丈夫よ。あの声はウチの人のだし、きっとワルモノはやっつけられたんだわ」


「いや、そんなはずは……って」


 此方が気付いたときには、リヨンは駆けだしていた。


「リヨ……お嬢さん! ちょっと待て、開けるな!」


 こちらの制止させる声に耳も貸さず――――きっと一刻も早く安心したいからこそ――――勢いよく扉を開けた。開けてしまい、その向こう側に居る人の思う通りに事は進んでしまったのだ。


「――――――――えっ?」


 言わんこっちゃないと走り出すが、素人の反応速度などたかが知れている。

 聞き覚えのある噴出音、それに続くように脱力する元ガルシア――――彼女の護衛。


「……みぃつけた。可愛いお嬢さん」


「えっ……あっ、……ひっ」


 その背後から、わざとらしい口調で、蒸気の沸き立つ銃口をちらつかせながら「ワルモノ」がリヨンに顔を寄せる。一歩下がろうとして脚が動かず、分かりやすいほどに彼女は腰を抜かした。


「おっと、大丈夫かい……ごめんねぇ、驚かせるつもりはなかったんだぁ」


 障害物はなくなった。今はどうにでもなれだ。


「ねぇ、リヨンちゃん。お兄さんと一緒に――――」


 薄暗い室内から、蝋燭が灯り始めた廊下へと倒れ込む。

 喉元を抑えこむ。空いた右手で腰元の短剣を引き抜き――――自らの手ごと串刺しにする。そのことに気付いたのは事の終わった後で、燃えるような、焼けるような、しかし冷たい痛みをその時点で知覚する。


 自身が刺された事に気付いているのか、状況を呑み込めていないのか。若い男の視線は天井をあちこちと彷徨っていた。間違いなく気道を塞いでいるというのに、自分の死というのを感じられないように表情は対して変わらない。


 刃を引き抜いて、頸動脈に添える。

 この肌は、流れる血は温かい。使い捨ての駒(ラスティの兵隊)じゃない。考えられるとすれば二人だが、内の一人はこんな反応を示すはずがない――――アイツなら今頃、僕をあれこれと弄って笑顔の一つでも作っているはずだ。


 得体の知れない何かが背筋を冷やす。なんだこの感覚は――――何なんだ。


「――――――――」


 口が動いている。空気を求めるような喘ぎではない。

 意図的に動かしているのは間違いない。一文字ずつ、誰かに伝えようとしているような。


「……ミィナ、ミィナか」


 小声で尋ねる。分かり切ったことで、男は目を見開き、分かりやすいほどに口角を上げて――――実に嬉しそうに、何度も小刻みに頷いた。

 どうしてだろう。どうしてこんな気分になるのだろう。心当たりはあるが、直ぐに言葉にするのは出来そうになかった。


 傷口は塞がっていた。しかし彼は動かなかった。

 再び口を動かす。今度は小さく声も聞こえてきた。


「びっくりした」


 簡潔に、自分の心境だけを語る。


「やられた。すごく痛かった」


 その表情に、口調に、全く恨むような節はなかった。

 まるで物陰から脅かされたときに、一本取られたと言うように。死ぬかもしれない事態に遭ってなお、調子が狂うほどにミィナは平常そのものだった。


 暫く動けなかった。どうして動けないのか、それすら理解しがたかった。

 かざしている短剣に焦点が合った。僕は彼に刃物を向けていたのだ――――仲間に、知人に、僕のことを気に掛けてくれている、見知らなくとも優しい人柄の人に。


 シナ村、老人、イリアの家族。否応なしに思い出してしまう。

 殺さなければいけない――――いや、今は違う。殺す必要はあるのか?


 殺す理由は――――ない。単にミィナは悪役を演じているだけで、殺すべき相手では全くない。殺さなくて良い。殺す必要なんて無い。そうだ、殺さなくて良い。


「動くな。居なくなるまで動くな。死んだままでいろ」


 ミィナは分かっていなさそうな表情をするが、一応は頷いてくれた。

 そうだ、コイツは僕の知人だ。僕にとって価値ある人間に違いはない。殺さずに済むのなら、そちらの方が益は大きいはずだ。死ぬ人間は少ない方が良いに決まっている。


 僕には理由が必要だった。

 殺すための理由(動機)ではなく、殺さずに済むための理由(言い訳)を。


「……クソッ!」


 いい加減にしろ、何時まで職務を放棄しているつもりなんだ。。

 自身に向けて罵声を吐き、頭を振りながら立ち上がる。僕がすることは何だ。背後の女の子を目的地まで逃がすことだろう。今更何に戸惑っているんだ。ミィナは自分を何体でも増やせるし、僕に殺されることも、死ぬことも覚悟の上なんだ――――それなのに。


「クソ、止めだって言ってるだろ。考えることが違う……」


 まだ腰の抜けているリヨンの傍に跪く。掛ける言葉を探しながら見た感じでは、眼前で起きた人死ににショックを受けているだけのようだ。

 手を付いた絨毯が湿っていた。次いで鼻につく匂いに気付く。それが何かは分からなかった。


「……お嬢さん、大丈夫ですか」


「ひっ」


 小さく跳ねて、僕の存在に気付く。視線をこちらに向け、死体に向け直し、そして再び僕の方を見て……それを繰り返しながら後ずさるばかりで、込み入った会話は難しそうに思えた。


「……かっ、カーザ……?」


 ベッドの端に背中が付いたところで、彼女はようやく理性を思い出したようだった。


「えぇ、まずは落ち着いて。お辛いでしょうが……私が居ます」


 顔に手を添えて、軽く上に向ける。先程から入り口の死体に目を奪われっぱなしだ。これ以上乱心されては困るし、自分を強く持ってもらわないといけない。


 こういう場合は何をどう訊くのが最適だろう。

 僕は眼前の問題に集中することにした。先程の出来事を一刻も早く忘れたいか、考えるための余裕がほしかった。


「……歩けそうですか?」


 尋ねると、何度か身動ぎをして、横に首を振った。


「腰、抜けて……」


「分かりました、なら……分かりますか、私の肩です」


 連れて行くには一つしかなかろう。幸いなことに、イリアよりもずっと小柄だ。十歳にも満たない子供なら、疲れるのは腕ぐらいだ。


「腕を回して、しっかりと掴むんです。何があっても……この手だけは離さないように」


「待っ、待ってっ……あたし、その、えとっ」


「大丈夫です。必ず護ります」


 ドレスの裾からしっかりと抱き上げ、足先をローブの内側へ入れる。彼女のドレスもまた何かで濡れていて――――先程の匂いがより強く立ち昇ってくるが、リヨン自身の香りもあって、やはりそれが何かは分からなかった。


 さて、どうする。廊下はもう制圧されきっている。これだけ密着していれば問題はないだろうが、考えられる選択としては最悪だ。選べたとしても選ぶものでは無い。


「じゃなくって、貴方が汚れちゃ――――」


 ここの出入り口は二つ。ドアと、窓。

 ここは二階だ。天井は高いが――――せいぜい三階建てぐらいだろう。


「お嬢さん、目を瞑っていて下さい。私に任せて、しっかりと力を込めて」


「ッ……ど、どうするの。何をする気なの?」


 窓の縁は腰ほどだ。荷物(リヨン)持ちだが、助走を付ければ――――やれる。


 反対側の壁に背を付け、ゆっくりと速度を上げる。たかが数メートルだ。雲の上から落ちるのに比べれば何てこともない。脚から背中に掛けて落ちていけば、リヨンに伝わる衝撃も幾分かは和らぐだろう。


「きゃっ……何、どこ行くのっ……えっ、ひいっ!?」


 首に回る腕に力がぐっと込められる。何かしら思考できるほどの時間すらなく、よく手入れされた芝生の上に着地――――と言うよりも落下という言葉そのまま――――した。

 足は捻るわ、腰は叩き付けられるわ、生身の人間だったら両脚や骨盤あたりの骨折で済めば上々と思えるような苦痛だった。着地の巧さで言えば、散々な結果だったに違いない。


「……ウソ、窓から飛んだの、あたしたち……?」


 僕を下敷きに、リヨンがむくりと起き上がる。

 すぐさまその身体を引き寄せ、ローブで覆う。幾ら出来レースとはいえ、向こうも見つけてしまえば反応せざるを得なくなる。面倒はこれ以上ごめんだった。


「お怪我は」


「ッ……大丈夫よ、大丈夫だから、はっ、離してくれない?」


「そういう訳にも……見つかりたくはないでしょう?」


 屋内に全員が入っているわけではない。歩哨が複数人、その誰もが彼女(ミィナ)なのだろうか。


「いや……いやそれ以前に! 貴方は大丈夫なの!?」と距離を取るための反抗を続けながら尋ねてくる。「あの高さよ!? 脚は……腰は? 歩けるの?」


「いや……幽霊ですから。死にもしませんし、骨も折れません」


 骨の折れる役回りではあるが、と勝手に思って勝手に笑う。


「じゃあ……痛くもないの?」


「痛いっちゃ痛いですがね。まぁ幻肢痛みたいなものです」


「痛いって分かって飛び降りたの? あたしに怪我させないために自分を下にして?」


「怪我をすれば治す必要がありますからね。私は痛みに耐えるだけで済みますから」


 ワケわかんない、と首を振られる。

 こちらもさっぱりだ。死なないから死なないという単純なトートロジーしか分からない。


「ひとまず、ここから離れましょう。しっかりと掴まっていて下さい」


「……分かったわ、頼むわよ。ワケわかんないユーレイ……さん」


 立ち上がり、抱え直し、壊れた塀を越えていく。

 戦車のような車両の傍を通るとき、その乗員に目を向けた。もしかしたら――――という思いは、無反応という答えで打ち消された。


「あたしたちのこと……見えてないの?」


「不思議なものですがね。こうやって密着していれば、貴女も不可視の存在です」


「……だからだったのね、抱き寄せたのは。そういうこと……まぁ、そりゃそうでしょうね、それ以外にあるもんですか……」


 何を納得したのかは分からないが、やはり柔軟な人物だ。


「それで、何処に行くの?」リヨンは尋ねてきた。「アレよ、墓場とかはゴメンよ」


「大丈夫です、人気のあるところですよ」と僕は答える。


「……ただ、墓所より悲惨な場所を通っていきます。貴女には今の街の有様を知って頂かなくてはいけない」


「それがあたしを助けた理由みたいだけど……そんなにヒドいの?」


「見れば分かります」


 そう、見れば分かる。

 目を反らし、描写せず、ないものとして扱ってきた沢山のものが、地を撫でる雲の内に。


「ねぇ、待って。あそこにいるの……」


 リヨンが指さす先は、あの化け物(戦車)が壊してきた瓦礫の一角だった。

 闇夜に溶けそうな色彩の小動物が、何かを探すように鳴き喚きながらあちこちと飛び回っている。僕は直ぐに分からなかったが、それがミィナであることにリヨンは気付いたようだった。


 彼女のルートは、僕が通るはずの道を往復するものだった。

 僕を通り過ぎ、越えてゆき、唄うような鳴き声を寂しく響かせていく。


「ねぇ、あの子にもあたしたちは見えてないのかしら。一緒に連れて行きたいわ……」


「……分かりました」


 精神安定になるのなら、まぁ悪くはないだろう。

 僕は彼女の名前を呼んだ。もうこの場所で僕の声を聞くのは二人――――一人と一羽――――だけだ。伏せる死体は動く気配を見せない。


「きゃっ。突っ込んできたわ、この子」


「見えませんからね。これが一番確実なんでしょう」


 都合良く僕とリヨンの隙間に転がり落ちていったミィナは、足下を不安げに見下ろしながらもそこへ身を落ち着かせた。かなり大きくなっていて、小さめの鳩かと思えるほどだった。


「あたし、貴女と同じ境遇になっちゃったみたいね、可愛い小鳥さん……イデッ!」


 リヨンがミィナに触れると、威力の増した嘴が彼女を襲った。

 先の惨状をなんとやらという感じの緩み具合に、僕は溜息を吐くほかなかった。


 嫌と言うわけではないし、それが彼女たちの強みでもあるのだろうが、どうにも現状を見据えられていないように思えてしまう。その苛立ちだけが僕を苛んでいるのだ。


 ものの考え方、生き方というのが真逆なのだろう。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ