72 そして旅立ち、そして待つ
「――――カズ、カズ?」
誰かが柔らかい暗闇から、沈黙を破ることを恐れるような微かさで僕を呼んでいた。
意識が覚醒するのに合わせるように、その声は僕へ呼びかけてくる。ぼんやりとした気怠さと暑苦しさが外界のあらゆるものを僕から遠ざけていて、暫くはこの静けさを味わいたいと思わせた。
〈――――おい、カズ、起きてるか?〉
だが、その声色と口調、囁きの違和感に気付いた瞬間――――意識を覚醒せざるを得なくなった。
――――ガルシア?
〈お、起きたか。悪いな〉
答えを返すと、彼らしくもない真摯さを感じる言葉が返ってきた。
〈起床時間だ。余計な心配をさせちゃいかんと言わなかったんだが……日が昇る前に出なきゃいけねぇんだ〉
ようやく目蓋を開けると、部屋の輪郭が消え入りそうなほど微かに見える。
漫然としていた間隔が少しずつ鋭敏になっていくにつれ、僕がどんな状況で眠りに就いていたのかがはっきりとしてくる。
今は何時だ。
〈安心しろ。迎えまで二時間半はあるし、風呂も着替えもメイドさんがちゃあんと用意してる――――お前のも、お嬢ちゃんのもな〉
えらく準備が良い。よくやるよ。
〈勘違いしてるみてぇだが、「お二人のためだ」っつってクラムが自発的にやったことだ。俺は関わってないから……アレだ、先に湯加減は確かめとけ?〉
ギリギリまでベッドの上でイチャついててもいいが、日の出前の出発には遅れるな。そう言ってガルシアは会話を終わらせてきた。
最後の止めとばかりに冷風が頬を撫でてくる。あれからずっと窓を開けっ放しにしていたからか、撫で上げているイリアの背中は乾ききっている――――一寸の隙間もなく抱き締められている状態の、僕らの密着点とはかなり対照的だ。
「――――イリア、イリア」
「うぅ…………カズぅ?」
「おはよう、そろそろ起きないと」
耳元に掛かる彼女の寝息に少し聴き入ったあと、静かに揺り起こす。睡眠時間を考えればまだまだ眠いはずで、微かに身動ぎはしても、それだけだった。
「まだ暗いよ……もっと寝てよう……?」
「そういう訳にもいかない。日の出前には出なきゃいけないんだ」
外していた腕時計へ腕を伸ばすと、追いすがるようにイリアの腕も付いてきた。
「……三時か。準備が終わった後なら、なんでも付き合うから……ダメか?」
「…………」
何も答えずに彼女は頭をもたげると、その両手が僕の顔をまた捕らえる。
僕の口を食らうように覆うと、腹癒せ混じりかと思えるほどに舌を吸われる。
「……仕方ない、よね。わかった……ッ!」
僕の上から退けようとするが、一瞬硬直したかと思った直ぐ後にはまた僕へ張り付いてきた。暗がりではあるが、少し荒くなった呼吸と表情から苦悶は伝わる。
「傷が?」
「ううん、そっちも少しあるけど……ごめんね、脚の方に変に力が入らなくて」
再び――――今度は慎重に、ゆっくりと僕から離れていく。
互いに支えつつ体勢を変えて、僕の太腿の上に彼女が横向きに座るところまでは進んだ。
「クラムさんが風呂を入れてくれたらしいんだけど……先に入る?」
「……歩けそうにもないかも」
イリアがそう言うと、首元へ腕を回してきた。
以心伝心と言えるほどに僕は鋭くもないし気も利きやしないが、それはそれなりに理解する努力をしていけばいい話ではある。
「前も、こうやって……運んで貰ったよね」
「……麻袋の時のこと? もっと雑なやり方だったけれども……」
過去のあれこれを話すことに抵抗はなくなったようだった。
これまでのイリアとは大きく違っていて、しかしきっと本来の彼女に近いのだろう。
「――――温かい」
僕に背を預け、ぼんやりと天井を見つめながら彼女が言った。
ガルシアの懸念は杞憂で終わって――――クラムが「何時」風呂を沸かしたかに依るが――――浸かるのに丁度良い、人肌よりは少し高い程度のものだった。
それでも、人肌そのものの温かさは感じられる。
「カズ、耳掃除って出来る?」
「耳掃除?」
暫くその温もりと静けさに意識を傾けていると、変なことをイリアは言ってきた。
「指で拭うだけでいいからさ、ほら」
自分の耳を器用に動かして、上目遣いに僕の方を見てくる。
それで掃除になるのかも分からないが……拒否する理由は何も無い。
意外と奥まで指が入る。身体をよじらせてくすぐったそうにはするが、イリアは特に何も言ってこない。僅かに見える表情は――――少なくとも、これまで見てきたどの彼女よりも安らかで、幸せそうに見えた。
「全部終われば、ずっと一緒に居られるんだよね」
「……きっとね」
僕の肩へ頭を乗せてくると、脚まで伸びる曲線を眺められるようになる。
水面の波紋が歪ませようとも、僕に覆われようとするように収まる彼女の体躯は隅々まで観察することが出来て、脇腹の銃創がしっかり塞がっていることまで分かった。
数時間後には触れることすら出来なくなることに、口惜しさはあれど後悔は無かった。イリアの言ったとおり、全てが終わればまた戻ることが出来るのだ。
恐らくではあるが、僕の欲しかった物が分かった気がする。
「当たり前」は無くしてから存在に気付く、というのは使い古された表現ではあるが、それだけ的を得た言い方だということでもある。
「カズ、幸せ?」とイリアが唐突に尋ねてくる。
「わたしね、今が一番幸せ。色んな事があって、何度も死にたいって思ったけれど……それすらもわたしの人生だったんだって受け入れられそうなぐらい、幸せなんだなって思えてる」
耳を弄っている僕の両腕を潜って、イリアの腕が僕の顔を引き寄せてくる。
「一人になるのは怖いけれど、今のカズなら絶対に帰って来てくれるって信じてる。信じてるから……きっと待てるの」
「…………」
僕は口下手だ。イリアのように気の利いた文面は思いつけない。
それでも彼女は構わないのだろうか。その様子はひたすら今の幸福を味わおうとしているように見えた。
「頑張ってきてね、カズ」
「……あぁ、僕も早く帰ってきたい」
イリアの為すがままにされるのも悪くなかった。
彼女の幸福が僕の幸福と同義とは言わないが、僕のその中に彼女の笑顔や喜びがあることに違いは無いのだ。
電気の恩恵ではなく、原始的な火が屋内を照らしていた。
蝋燭やランタンの灯火ですら十二分に思えるほど暗いのだが、ガルシア、ミリアス、クラム――――つまりはこの家の住人が揃って起きていることには驚いた。少し考えれば当然ではあるのだが、なにせ日の昇る一時間は前で、それとない非日常がここに存在していた。
「悪ぃな、こんな朝っぱらから」とガルシアが一番に挨拶してきた。
「アレだと思って荷造りはしといた。足りないモンや余計なモンがあるかもしれねぇから、ちゃんと確認しとけよ」
そう言いながら僕に大きめのサンドイッチを手渡し、自分は余計だと言わんばかりに出て行ってしまった。気を利かせてるのは分かるが、これまでの所行を考えると薄ら寒く感じてくる。
ミリアスとクラムの方も、何かしら自分の仕事を見つけようと模索しているように見えた。僕とイリアの時間を邪魔しまいと思ってくれているのだろう。
ただ、どこかその優しさが空回りしている気もした。貰った朝食を頬張ったときに気付いたのだが、イリアの姿がふっと消えていたのだ。
流石に出発までベタベタとしているつもりはないのだろうか、彼女が構わないのならばそれで良いと思い、ガルシアの提言どおり、荷物を確認することにした。
元から愛用していたリュックサックも、この十数日の内にかなり消耗しているように見えた。まるで何年も酷使されたように――――というのは言い過ぎだろうか。
三日サイクルで着回せる衣服、個人用の水筒と非常食らしい一式。傍に置かれた短剣と拳銃、そのホルスター、数個のマガジンの傍には「私物の武器はこれだけで良い」という日本語のメモが添えられていた。
これは別だと言わんばかりに離れた場所に、祖父の二挺の小銃が立て掛けられている。とても恣意的な……自己中心的な言い方をしてしまえば、これを通じて祖父の遺志を僕が継いだのかも知れない。大切な家族を護ること……そう、家族を。
僕が求めていたのは、そんなものなのかもしれなかった。
「カズ、準備の方はだいじょうぶ?」
誰かが戻ってきた足音の後に、声が正体を名乗り出る。
振り返った彼女は両手を背に回し、僕を待つ体勢だった。
「まぁ、一応は。ガルシアが九割方済ませてくれたみたいだ」
「そっか、それでね……」
見えないことはそれなりに不便ではあるが、こうして触れる理由にもなってくれる。
自分の存在を知らせるときには大抵肩に触れるのだが、頬や頭の方が嬉しそうにしてくれる時がある。それなりに迷う要素だった。
「…………はい、これ」
触れてきた僕の手を掴むと、背後に隠していたものを渡してきた。一面が手の平に収まる程度の立方体で、ご丁寧にリボンの装飾までされている。
「プレゼント?」
「うん。後で開けてね、その……色々入ってるから。向こうに着いて、時間が取れたときでいいから、ね?」
「……中身は今確認しない方がいい、ってこと?」
尋ねると、少し申し訳なさそうに首を縦に振った。
「……目の前でやられると、ちょっと恥ずかしくて。ごめんね?」
「あぁ、なるほど。分かった」
贈り物を誰かにする、ということは僕の経験し得ないことだ。今のイリアの心情を推し量ることは出来ないだろう。
降りてきたときは真っ暗だったが、荷物を纏めて外に出たときには、空と建造物とを仕切る輪郭が生まれ始めていた。春ももうすぐ初夏に変わるのか、最初の夜ほどに冷え込むような風は吹いていなかった。
「忘れ物は無かったか?」と待っていたガルシアが――――と言うより全員のうち彼が――――僕に声を掛けた。
「移動は?」
「迎えが来る」と彼は空の方を見て、「夜が明ける前に出なきゃならん理由さ」
「理由……どう言う意味だ?」
「来りゃ分かるさ……おっと、待て待て」
会話を切ると、ガルシアは無線機の向こう側へ意識を集中させた。
この時間帯に迎えが来ると言うことは――――タイムリミット的な意味も含まれるだろうが――――人目に付いてはいけない、何かしらの理由があるということだろうか。
「……あとちょいで来るってよ、全員少し下がっとけ」
「下がれって……敷地内だろ」
僕が疑問を呈するが、答えらしい答えは返らなかった。彼の手にあるランタンが照らすにやけ顔からして、やってくる何かを秘密にしたいことが窺えた。
二分ほどか、全員が沈黙を持て余した。
「……何だ」
ミリアスがその静けさを破ると、全員が彼に――――そして視線の先へと注目する。
「あれ、何か飛んでますね」とクラムが漏らす。青空と雲の色に僅かな差が出てきた空模様の中を何かが飛んでいるようだ。僕にはまだ見えない。イリアも同様のようだ。
「鳥……じゃないですよね、運び屋さんかな?」
「……いや、違う。何だ……?」
空の一欠片が急に動いて見えた。再び動いたとき、それが羽ばたきであることが分かった。
それは確かにこちらへ来ていた。点のような大きさだった影が、距離感が狂ったとしか思えない拡大率で迫ってきている。
「……ヤバい、これヤバくないですか?」
「平気だメイドさん、ただ踏ん張っといた方が良いかもな」
怯えが出始めたクラムの声に冗談のような返しをするが、それも仕方の無いことではあるだろう―――――大きすぎる。
イリアが僕を探り出し、さっとしがみついて支えにしてきた。僕も彼女を抱えつつ、迫り来るその影を凝視していた。
まだ降りてくる。まだ大きくなる。
冗談じゃない――――あの時見た鳥より二回りは大きい。
最後に見えた光景から推測すると、広げられていた翼は街路の幅を容易く超えていた。
日本の見慣れた一般的な道路とほぼ同じ幅の上に、輪郭もまともに分からない何かが降り立てば――――その威圧感と風圧は尋常じゃない。
「うわわっ、わひぇえええっ!!?」
耳を覆い尽くさんばかりの風圧に負けないクラムの悲鳴が聞こえる。ガルシアが言っていた通り、前屈みに踏ん張っていないと押し倒されそうだ。
「……ごめんごめーん、だいじょーぶー?」
暴風からなる一騒ぎが収まると、いやに間延びした声が聞こえてきた。
「ナイスランディングだ、街のなーんにも壊しちゃいねぇよ」
それに応えられるのはガルシアだけだった――――少なくとも、やって来た「それ」に対して、会話をしようなどと考えられるのは彼だけだろう。
まだ太陽は地平線から顔を出してはいないが、それの大きさと体格はおおよそ見える。見えるからこそ――――敵意がないと分かっていてさえ、気圧されてしまう。
「ちょっと翼の先が何かにぶつかっちゃった気がしてるんだけど……まぁイイよね」
その声は、確かにその生物から発せられていた。
何を例えに挙げれば良いのだろうか。それは鳥であり、四足歩行の獣であり、しかしそのどちらとも似付かない。失礼を承知で言ってしまえば、「化け物」以外の何でもなかった。
全体的に骨張った、巨大ではあるが鈍重な雰囲気は全くない身体をしていた。前腕にはそれより後ろの身体を覆い尽くしても足りないほどに広い面積の翼があり、軽く動くだけで撫でるほどの風がこちらに吹いた。
「デカいな、お前。どれだけ食ったんだ?」とガルシアが近寄っていく。
「結構な時間が掛かったよ。こんなに大きいのをそこそこ創らないといけなかったから」
彼の傍にゆっくりと顔が近づいていくと、ランタンが相貌をぼんやりと映し出した。大鷲に近いが、どこか爬虫類のような雰囲気も感じられる。どちらにせよ、睨まれたときに生きた心地はしないような顔だ――――聞こえてくる声の可愛さに依らず。
この時点で、この化け物の正体は把握できていた。
「そんなことより、急がなきゃ。早く乗って、ガルシア君に『カズくん』!」
「……ミィナ?」
あの時に会った、僕のことを妙に知っている二人目のギフテッド。
それが目の前の化け物? 本来なら自分の正気を疑うところだろう。
「知ってるの?」とイリアが尋ねてくる。怖がっているものの幾らか肝が据わったようで、過剰に怯えている様子は全くなかった。
「まぁ、顔は合わせてたから……大丈夫だと思うん、だけど……」
言い出すのが躊躇われたが、これ以上待たせるわけにも、引きずる訳にもいかない。
「……行かないと」
「あっ!!」
何を言いたいのかを直ぐに察してくれて、僕を留めていた拘束が解けた。
これ以上傍に居たらいけないと、自分自身でもなんとなく察しが付いていた。
吹っ切れた今のうちに行かないと、後ろ髪を引かれることにもなりそうだと。
「ねぇ、カズ。最後に……ううん、最後じゃないけど」
そんな僕の心境を察したのか、イリアも僕に触れようとしてこない。
「待ってるからね。これまでみたいに、これからも」
「……うん、分かってる……」
答えて数歩進む。空が白んできて、ミィナの毛並みが黒いことも分かってきた。
〈……行ってらっしゃい〉
「ッ!」
耳元で囁くような、静かな彼女の声に足を止められる。
その言葉を向けられるのは何時振りだろう。今耳にするまで、ずっと忘れていた言葉だ。
そんな言葉をかける人は、もう遙か昔に居なくなっていた。
そんな人が居るはずの場所は、その時からもぬけの殻だった。
胸を締め付けるような痛みが来るかと思ったが――――どういう訳だか、根拠の分からない安堵が僕の背中を押してきた。
「――――行って、きます」
この言葉を口にするのも何時振りだろうか、情けなく声が震えてしまった。何年かは口癖のように言っていた挨拶も、一人であることを受け入れたあたりから存在を忘れ去っていたのだ。
ミィナの背に昇る際、ガルシアが手を貸してくれた。
その時に腹にかなりの荷物を抱えていることとその大きさを再認識して、彼女の化け物具合を実感することになった。外見は違うが、グリフォンや龍のキメラと例えれば伝わりやすいかもしれない。
「カズ、腕をコイツの身体に押し込め」
「ん? あぁ……あ、なぁっ!?」
ガルシアの言葉に疑問を持たずに実行すると、予想を超えて手が奥へと吸い込まれていった――――と思ったときには、巨躯に抱きつくような体勢で腕を固定されていた。
「びっくりした? 『シートベルト代わり』だよ」とミィナが言う。
「さっさか終わらせてこよう、善は急げだ」
「オッケー、そんじゃ朝日へ向けて出発だ―い」
僕の混乱を良いことに、二人だけで行程を進めていく。
後腐れを残す余地すら与えない点では有り難みもあるが……こういう人間にどう言っても無駄なことに違いない。
僅かに後退して、ミィナが加速を始める。指数関数的に速度が上がり、比例した風圧と慣性が僕を置いていこうとする。
上下の揺れが一段と深くなった直後、地に足が付いている時の安定感が完全に消失した。
「あぁッ! 絶対路面ぶっ壊したぁッ! さっきの感じだと絶対壊れたァ!!」
「ヒャハハッフゥーッ! 良い上昇力だァ!」
ミィナが悲痛な悲鳴を上げ、嘲笑うようなガルシアの高笑い。僕には声を上げるほどの余裕も何も無く、先日の運び屋が飛び立ったときの感覚を想起するぐらいしかなかった。
上昇も、二人のテンションも落ち着いてくる頃に、目の前が急に明るくなった。
目を背けた先の地上はまだ暗い。朝日が見える高度にまで昇ったと言うことだ。
〈カズ、ねぇ、カズ!!〉
「うわっ!? ……イ、イリア?」
耳元の嬉しそうな大声に、僕の同様と混乱は暫く続きそうだった。
〈カズ達が見えた、凄く綺麗! 朝日の反射がね、凄く綺麗なの!〉
「あ、あぁ……そうか。それは……」
そんなことを伝えようとしたのか、という思いが過ぎる。
が、その点は僕も同じだ。眼が明るさに慣れると、眼前の光景に目を奪われた。
「……こっちも綺麗だ。朝日が見えてる。空の色も……見て分かる速度で変わってる」
どうでもいいことだ。伝えずとも世界は変わらないし、共有する必要性も全くない。
そんなことを、どうして伝えたくなるのだろうか。
今の所、その問いに答えが必要だとは思えなかった。




