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71 触れ合い

「そんじゃ、武運と平穏を祈って……龍の御霊に!」


 ガルシアのそんな音頭で、晩餐が始まった。

 この男が画策した顛末から戻った時には下準備が始まっていたのだが、ミリアスにクラム――――そしてイリアが忙しなく作業する光景を僕はただ「見ているだけ」しか許されなかった。

 主役の手を煩わせる訳にはいかない。そう言われてはどうにも無視しがたく、どうしようもなく青臭い、悶々とした心境を弄ぶには十二分すぎる暇を持て余すことになった。


「……僕らのだけ、豪華すぎないか?」


「お前が――――まぁ俺もだが――――主役なんだ。当たり前だよなぁ?」


 まさに据え膳で用意された皿の上には、目にも鮮やかな料理が鎮座している。全員が自由に取るオードブルもあるが、個人個人に用意された更には明確な差があった――――ガルシアが言ったとおり、僕のと彼の皿、更に言えば僕の目の前にあるものが最上のものだ。


「レシピはクラムが教えてくれた。よくある験担ぎの料理には変わりないが……バルト家のものだそうだ」


「あたしが作ったんじゃあないんですけどね……作り方は分かってるんですけど、アハハ……使用人としてどうなの、って感じですよねぇ」


「でもよぉ、見てた限りじゃドジしてる感じはしなかったぞ? 落ち着いてりゃ人並みにゃあなるんじゃないんか、メイドさんよ」


「へっ? そうですかねぇ?」


 他愛もないやり取りだが、平常通りにいるのはクラムだけかも知れない。

 仕掛けられたことであって、仕方ないことなのではあるのだが――――イリアの挙動に不審さが時々見られた。


 以前のように僕の料理は彼女が持ってきてくれたのだが――――あの話の後で、疑わないでいる方が難しい。そんな雰囲気が伝わってしまうものなのか、或いはした行為に対する罪悪感か、発覚への不安からか……そわそわと落ち着きがなく、自分の食事すら覚束ない様子があった。


「…………」


 なまじ知っているからこそ、安易に訊くことが出来なかった。

 知らない体を装うのは難しい。今の僕に騙せるほどの余裕が残ってるとも言い難い。


「短くても三ヶ月、長けりゃ何年になるか……ミリィ、その間のこと、頼んだぞ?」


 そんな僕の状態を真っ向から無視するように、ガルシアは片っ端から皿を空にしていく。僕の視線に気付くと、「美味いぞ?」と唆してくる。


「分かっている。留守の間は任された。安心してくれ……」


 ミリアスが口ごもり、僕の席を――――視線が合わないように下げて見る。


〈……イリアのことも。お前が戻るまでは何があろうと守り通す〉


 どういう訳か、口を使わずに伝えてきた。


〈必ず戻ってこい、カズ。誰もお前の代わりにはなれない〉


「……はい、分かりました」


 僕の言葉はしっかりと本人にだけ伝わったようで、何も無かったように食事へ戻った。

 毒を食らわばなんとやらだ。ガルシアの常識とイリアの思いやりを信じるとしよう。




 不穏な影は残るものの、ありふれているのであろうささやかなやり取りを眺めていた。

 まだ互いに遠慮があるが、こういうものが食卓というのだろうか。小さかった頃に家族で食べていた光景というのは、これほどに暖かく感じるものだっただろうか?


 もう七年も昔の話で、そもそもの記憶が危うい。

 これも僕が求めていたものだろうか。ないものであることが当たり前になっていた時期が長かったからか、分かりやすい感覚が湧いてくる感じは微塵もなかった。



 ただ、漠然とした不安があった。

 この幸福は僕の身に余るんじゃないか、これほどに幸せだと感じやすい環境にいても良いのか、という不安。喪った後が怖いぞ、と他でもない自分自身が囁いてくる。


 何度区切りを付けて、結論を出しても、思い出したように問いが帰ってくる。

 崖を登るほどに落ちたときの痛みは強くなると警鐘を鳴らし、逃げる道を用意しておけ、耐えられる高さで止めておけと耳元に寄る僕がいる。他でもない僕自身だ。


 ガルシアの言ったとおりに、僕は逃げだそうとしていた。

 恐らくはする必要もないこと、周りからすれば不可解な行動に思考回路であるに違いない、そんな捻れたあれこれ。分かっていても、直せる気は全くしない。


〈カズ、手ェ止まってる。バレるぞ〉


 ガルシアが声を掛けるまで、自分の内世界に居ることに気付けなかった。

 イリアの方を慌てて確認するが、彼女も彼女で先程と変わらず――――気にしない方が良いだろうと思った。僕は何も知らないし、イリアだって何も知らない……ということに「なっている」のだから。


〈いつものネガティブな発作か? 別にそこまで気張ることねぇよ……ただ、ヤる前に隠し事は全部言っとけ?〉


 ――――励ましたいのか、からかいたいのか?


〈今回ばかりはおふざけ無しだ〉


 ガルシアに視線を戻すと、素っ気ない顔で肉に齧り付いていた。


〈聞かれたことは馬鹿正直に全部言っとけ。そうすりゃ後腐れもないし、お嬢ちゃんの方も気楽に吐き出せるようになる〉


 そういうもんか?


〈そういうモンだ。お前だってお嬢ちゃんに隠されるのは嫌だろ?〉


 それはそうだが、と食事と並行しながら喋る。

 口の中を気にせずに喋れるのは便利なものだった。誰にも盗聴されないことも。


〈何も全部話せってことじゃあない。隠さなくて良いこと……自分の気持ちだとか、どう思ってるかだとか、どう思われるかを考える前に言っちまえってことさ〉


 ……それ、イリアにも同じ事言ってないか?


〈似たもの同士だからな、アドバイスが似通うのも多少はね?〉


 そうか、と会話を区切った。僕が食べる分も半分を切っている。コイツが仕組んだことも、こうなってしまっては無駄だと言えなくなった。



 何度も浮かんでくる不安なら、これからも付き合っていくしかない。

 信用はともかく、あれこれと世話を焼いてくれる奴も居る。問題解決に関して言えば、これ以上の環境を望めまい。




 本当に過ぎたお節介だが、この男になら。

 他者に対してここまで寛大になれるとは想いもしなかったが。


「……有難う」


「んぶっ!?」


 ガルシアが盛大に咽せ、全員が彼に注目した。


〈カッ、カズッ!? お前今なんて!?〉


「……先ずは落ち着いた方が良いんじゃ?」


 肺の中の空気を全て押し出す勢いの咳き込みに遮られることも無く、しかし感情に乗った声でガルシアが僕に聞き返してくる。


「だから……ほら、ここまでしてもらっておいて、礼の一つも言ってなかっただろ」


 最初は警戒して、次に距離感に当惑して、変わっていく状況に翻弄されて。

 散々僕のために行動していた相手に対して、僕らしくもない対応ばかりだった。


〈……そうか、そうか〉


 咳が落ち着いてくると、満更でも無い声が戻ってきた。


〈まぁ、あれだ。俺は素直なお前の方が好きだぞ〉


 お嬢ちゃんもきっとな、とガルシアは言った――――話題を自分自身から逸らしたのだと確信が持てたが、滅多に無い反応に免じて忘れることにした。



 彼の行動を無駄にしないために――――何より、自分自身のために。

 ここまで想ってくれる人が居ることに、間違えようのない、確かな幸福感を覚えた。










 ミリアスにクラム、ガルシアの居る一階は、いつも通りの雰囲気であり続けるだろう。




「…………」


 緊張と静寂が張り詰めた、灯り一つも無い部屋の中。二階の個室に割り当てられた僕の空間は、最初から最後まで、生活感らしいものを出すことがないまま、部屋の主が居なくなろうとしていた。ただ月明かりが、窓の枠から抜け出すことも無く床とベッドの一部を照らしている。


 あれから何分、何時間が経ったのだろう。確かめる気は起きなかった。

 食事が終わって、先に抜け出したのは僕の方だ。その時の前に考える時間が欲しかったから、というのが僕の動機だが、それが全てでないのは薄々分かっている。



 僕から行くのも間違いでは無いのだろうが、そうするだけの勇気は無かった。

 話の流れからして、僕が動くのはイリアの予測の内にない気がする。いかに僕を「その気」にさせるかに焦点が絞られているようで、その後は野となれ山となれ、という様子でもあった。


 イリアが何かしらを準備して、決行しようというのであれば、僕はそれを待つ義務があるのでは――――という自己正当化に近いことを考えて、僕はひたすらに静寂を保とうとしていた。



 営みそのものに関しては、どういう訳か不安らしい不安が無かった。

 自信があるということではない。「なるようになる」という開き直りがあるだけだ。


 僕の懸念はそれ以前――――恐らくは、イリアとのやり取りにある。

 今日が面と向かって、何も隠すことなく話せる最後の機会になる。その事実こそが僕を不安にさせ、じらさせているのだ。


 ガルシアの言うとおり、全ては経験なのだ。特別なのは、行動に意義や意味を見いだす心そのものなのだろう。

 だからきっと、僕は不安なのだ。




 音楽を聴くことにした。いつもならばすぐに思いつく選択が、今夜ばかりは身を潜めていた――――いや、違う気がする……。




 僕の脚を照らす光を見て、ドビュッシーの「月の光」を選んだ。




 ……聴く必要性が薄れてきているのだ。

 まだ喪って間もない頃、父さんが遺してくれた曲を聴いて、僕は寂しさを紛らわそうとしていた。一人であっても、集団の中で孤独になっていても、いつも聴いていた父さんが側に居てくれるような、そんな子供じみた空想に縋り付いていたのは覚えている。


 いつしか、曲そのものに意義を見出さなくなっていた。

 必要も無い会話や接触を避けるため、そのためだけに使うようになった。その時に諦めたのかもしれなかった。なくなったものはもう返ってこないのだと、手に入れれば喪う未来が待っていて、それは容赦のないものなのだと……。




 僕は窓の前に立ち、外の空気を取り入れた。

 形の変わらない月は、晴れた夜にはいつも僕らを見ていた――――見守っているのか、監視しているのかはさておいて。




 ……そして今の僕へと至るのだ。

 僕にとって、イリアとの会話は必要なものだった。僕と同じような道を辿って欲しくないと、僕なりの行動をした。曲を聴くのは、自分と周囲を断ち切るときか、彼女と一緒に居るときになった。

 次第に聴く必要がなくなったのだ。音楽があった場所に、イリアの声と姿が入り込んで……。




 月は人々を魅入らせてきた。そこに何を感じるかは、その人によって違った。

 それを見て悲哀を感じた者がいて、愛情の深さを見た者がいて、無情な冷たさに触れた者がいる。月光を題材にした創作のどれほど多く、知られていることか。

 最も身近な天体、孤独な宇宙における、小さな同伴者。




 ……僕はイリアに何を求めているのだろうか。

 喪うこと、手に入れること……手段の意義に固執して、本来の目的を見失っているようだった。何のために欲しがるのかを考えることは、すなわち今の自分にそれがないことを認めるようなもので、僕を成す根底からして忌避される行為だったことに違いはない。


 これから話せば分かるのだろうか。

 今の僕に出来るのは――――やはり待つことだけだった。水面に揺れるような月の光に聴き入って、その光の冷たさと、手元で弄ぶ端末の冷たさに意識を浸すほかなかった。




 ノイズが走る。木製のものが叩かれる音で、リズムは不均等だ。


「イリア?」


 その音をまともに受け、緊張が込み上がってくるのを感じながら、僕は答えた。


「……入ってもいい?」


 ドア越しに聞こえる声は、か細くも決意はあることが感じ取れた。

 緊張しながらも、彼女の声に安堵も覚えていた。今の僕――――記憶の定かでない僕が最も知る人物で、知りたいと思える人物だからだろうか。


 僕の許諾を得ると、その人影は僕の部屋に入り込んできた。

 月光に慣れた瞳では、直ぐにその姿を確かめることは出来なかったが――――その人が固くなっている理由がそうしないうちに理解できた。


「……似合ってる、かな」


 下半身が窓からの月光に晒されると、身に纏う生地の薄さと繊細さが一段と映える。その内に護られている、控えめで柔らかな輪郭がはっきりと確認できた。


 ネグリジェ、と言ってしまえば邪さは幾らか晴れるだろうか。

 それでも――――これまでのものに比べるまでもなく過激で、挑発的な装いであることに違いはないのだ。


「……あ、あぁ。凄く」


「そ、そうかな。カズが気に入ってくれたなら……良かった」


 携帯を窓の縁に置いた音が聞こえたのか、この時点でイリアは僕の位置を悟ったようだった。全身が光に包まれると、彼女のほぼ全てが――――腹を覆う痛々しい包帯の巻き方までが見えるようになった。


「…………手、繋いで良い?」


 一緒に窓辺へ寄り掛かって、暫くの沈黙を挟んだ後に、イリアがそんな欲求を伝えてくる。縁の上に開かれた左手に僕の手を乗せると、遠慮することもなく、向こうからしっかりと握ってきた。


「ごめんね、やっぱり……こうして触れてないと、分からなくて、不安で」


「それは仕方ないさ。見えてないんだ」


 手を繋いだ後、腕を絡めるように組み替えてくる。

 じんわりと伝わる熱が心地よく、それとは関係ない熱さが僕を汗ばませる。


「……カズ、まずは……ありがとう」


 もじもじと僕の右手を握ったり揉んだりしながら、イリアが切り出した。


「ずっと一緒に居てくれて、ありがとう」


 助けたあの日から今までのことに、彼女は感謝の言葉を述べた。

 何があろうと、離れないでいてくれて、ありがとうと。


「嫌なこと、辛いことが沢山ありすぎて……捕まってたとき、このまま終わってしまえばとも思ってたの。こんなに生きているのが辛くて、自殺するのも怖くて、それなら……って。

 わたしの時間は……また独りぼっちになった時から、ずっと止まったままだったから。ずっとずっと、あの夜の日が頭に浮かんで、その度に苦しくなって、嫌になって、思い出したくなくて、それでも忘れたくもなくて……」


 一生懸命に、途切れさせまいと必死になっているのが分かった。

 ひとたび止まってしまえばもう口に出来ないと頑なに信じているかのように、彼女の言葉が止まるのは荒く大きな呼吸の最中だけだった。


「……もう一人が嫌だったの。あの時のわたしは、縋り付けるものだったら何だって良かったのかも。見えない誰かでも、それこそ……死でも。救われるのならって」


 カズが助けてくれたから、まだ私は生きているんだ、とイリアは頭を肩にすり寄せてくる。そのまま、あの時に辿々しい筆談を交わしたときに、もう自分の全てを任せてしまおうと思っていたことを語ってくれた。


 これ以上の不幸を知りたくもない。どうせもう幾ばくもない人生なら、いっそのこと全てに身を委ねて、墜ちるとこまで墜ちたって構わない。

 切羽詰まった状況だったとはいえ、それほどまでに追い詰められていたことに僕は気付けていなかった――――事情もこの世界のことも知らない内に理解しろというのも酷ではあるだろうが、それでもその事実は僕を苛むことが出来た。


「でもね、別に信じてなかった訳じゃないの」


「……どういうこと?」


 話の先が見えずに訊き返すと、くっつけていた頭を離した。


「最初に書いてくれた言葉、覚えてる?」


「書いてくれた……あの手帳に書いた奴のこと?」


 逆さまのアルファベットだろうと予測を付けて書いた「こんにちは(HELLO)」の文字だったか。今でこそ違和感もなく読めるが、当時は半信半疑だった。


「カズの文字……というか、書き方かな」


「書き方?」


「『この世界の書き方』と違ったから。カズの世界とこの世界の文字が逆向きになっていることは知ってたし……それだけじゃなくて、癖もそっくりだったの」


「癖……」


 彼女曰く、今でも確信までには行かないものの、大文字の「H」を一筆で書いた際の筆跡の丸まり、終端の払いがとても見慣れたものだった、ということらしい。


「『ギフテッド』の書き方は近くで見てたし、ちょっとだけど、わたしが教えたりもしたから……曖昧な記憶だったし、ほぼ直感みたいな感じだけど」


「その人の筆跡に似ていたから……信用した?」


「その時のわたしは、ね。きっとあの人の幽霊なんだって思って、だから助けに来てくれたんだって。そう信じたの……何の根拠も無かったけど、信じたかった」


 今でも信じてる、とイリアは言い切った。

 その言葉に少し驚く。僕にその人を幻視していることを否定しないのか、と。


「わたしにとっては……その人も、カズも、一緒の人なの」とイリアは言った。


「だって、確かめようがないでしょ? 顔も分からない、声も自然そのままじゃなくて……だけど、同じように助けて、護ってくれた……わたしにとって、どっちも同じぐらいに大切な人なの」


「……そうか」


 今の彼女なりの、精一杯の理解なのだ。

 故郷や見知った人々を目の前で喪ったに等しく、それから半月すら経たない状況であることを鑑みれば、必死に向き合って、それで出した結論に違いない。


 それに、嬉しくも思った。

 僕とその人を等価に見ていること、確かに彼女の支えになれていたこと。それを本人の口から確かめることが出来たのだ。僕を見てくれなくても、十分すぎるほどに嬉しいことだった。



 言いたいことを言い切れたのか、単純に区切りが来たからか、曲も終わった二人きりの部屋は静かになった。微かに雲のある夜空は、月光がありながらもそれなりの星が見えた。


「…………やっと、同じ場所に立てたかな」


「イリア?」


 ぽつりと呟いた言葉は、自分自身に向けたもののように感じた。

 それでも、疑問の声を上げた僕に対して、イリアは口を開いてくれた。


「わたし、ずっと助けて貰ってばかりで……カズに甘えるばかりだったでしょ。でも今は……今この時だけは、カズの隣に立っていられてるのかなって。一緒の場所に立って、同じ景色を見られてるのかな、って」


 支えられるばかりでなく、支えられる場所に。

 助ける者と助けられる者という上下関係でなく、助け合える対等な関係。もしもイリアが、ようやくその場に立てたのだと思っているなら……間違っている。


「……今だけじゃない」


「えっ……?」


 完全に予想外の答えだったのだろう、イリアが虚を突かれた顔をする。


「これまで、ずっとだ。イリアを助けて、僕の傍で眠ってくれた夜から……これからだって、きっと」


「えっ、えっ?」


 理解が追いついていない様子のイリアに構う余裕はなかった。僕も彼女と同じく、言葉が滞ればそこで終わってしまうような危機感に煽られているのだ。


「あの日に……本当に久しぶりに他人の体温を感じたんだ。ずっと忘れてて、思い出すことすらも出来なかった温かさを……君に触れる度に、何度も、何度も」


 それが僕の、この世界で生きる目的になった。

 彼女の存在は確かに僕を縛る枷ではあるが、確かな道標にもなったのだ。何も知らない世界に放り込まれた身で、誰よりも傍にいてくれたのはイリアなのだ。


「見えていない、最初はこんな会話すらも出来ない、得体の知れなかった僕を……イリアは信じてくれていた。そうするしか無かったのかもしれないけど……そうそう出来ることじゃないし、してもらえることでもない」


 全てが仕方のない、どうしようもないものだったとしても。

 それでも……僕が忘れてしまったこと、置いてきてしまったものを思い出させてくれたことには違いない。


 この世界に来て、過剰すぎるほどに人との関わりがあった。

 変わらざるを得なかったとも言えるし、変わる良いチャンスだったとも言える。


「目を覚ましたとき、まず、ここが何処なのかを考えたんだ」


 イリアは静かに聞いてくれている。目は合わずとも、見ているものは同じだと信じたかった。


「その次に、どう生きるかを考えた。何も持たず、何も知らず……イリアが居た場所に行ったのも、何かしらの手がかりが欲しかったからだ。人は居るのか、どんな生き方があるのか……僕が君を助けた日は、そんな状態だった」


 その後も、世界の成り行くままに進んで、逃げたり、戦ったり。

 色んな人の手助けはあったが、自分で選んで進んでいたという自意識はない。あったのは――――喪うことの恐怖と、不透明な未来を進む漫然とした不安だ。


「多分、イリアが支えだったんだ」


「…………」


 喪いたくないから、僕は動けた。不安だったから、僕は進むことが出来た。

 どうにかして、平穏が欲しかったから――――そこに、助けた君もいて欲しかったから。

「だから――――礼を言うのは僕の方だ。ずっと傍にいてくれたこと、本当に……有難う」


 随分と甘くなった。弱くなった。それでもいいと思えるぐらい、愚かにもなった。

 それは僕の価値観だ。それが正しい根拠は何も無い。たかが一人の人間が全てを理解できるはずもあるまい。結局人は全ての要因で変わるし、どう変わりたいかが良く語られるのにも理由はあるのだ。



「……そっか」


 沈黙が僕の代わりに独白の終わりをイリアへ知らせて、安堵の息を漏らすように呟かせた。


 全てを伝えられた気はしなかったが、不思議と悔いは覚えない。

 ひたすらに静かな夜だった。今ばかりは黙っておこうと配慮されているかのように、街の喧騒は息を潜めている――――思い過ごしではあるだろう。


「……ねぇ、カズ?」


「なんだい」


 少しばかり緊張の戻った声が、忘れかけた状況を再認識させてくる。

 別に僕はこれ以上を望んじゃいなかった。もしも抵抗があるのであれば、このまま眠るだけでも十分だったし――――決意を決めた緊張であるのであれば、相手する覚悟も出来ている。


「その……先に謝っておきたいことがあるの」


 口調からして、言おうとしていたこととは違うようだった――――そう簡単に口に出来ることでもない。待つことしかしない身にとっては、言えることは何も無かった。


「カズ、お昼前に……ガルシアさんの所に行ったよね?」


「……それが?」


「実は……その、わたしね、実は――――」


 僕の予想していた方向と違うベクトルの緊張が、彼女を強張らせているようだった。

 ガルシアがいたら笑い堪えるか、僕の方にちょっかいを掛けてくることだろう。


「――――聞いてたの、ガルシアさんとのお話。えっと、ガルシアさんが提案してきたことなの。カズの本心を聞きたくないか、知りたくないかって。でも、あんな風にするとは思ってなくて……卑怯、だよね?」


 やはりと言うべきか、自明だと言うべきか。本当に世話好きな奴で、僕ら自身のことを本人以上に知っているようにも思えた。


 月明かりの青さでも、伏せた彼女の頬の血色は塗りつぶせなかった。


「ごめん、なさい……でも、黙ってる方が……辛くて、嫌だったから」


「…………」


 本当に気付かれていなかったのか、という感想がまず出てきた。

 どこまで行こうとも、間違いなくあの男の策略通りに進んでいるのだろう。今頃階下でにやつきながら事の行く末に想像を膨らませているのではないだろうか。


「イリア、一つ言っていいかな」


「っ、う、うん……」


 縮こまり、身構えるのを見るに、相当に覚悟をした発言であったことが窺えた。その仕草は否応なしに庇護欲を掻き立てられるし、自分自身が単純な男だというのも実感させられる。


「……僕とガルシアの話を聞いた後、壁から出てきたよね」


 どう伝えるかで迷ったあげく、単純な方法を採った。

 イリアはこちらを見て固まっているので、言うところまで言ってしまおうと思った。


「それで、ガルシアと話をした。覚悟は出来てるのか、あそこまで僕にけしかけても良かったのかって」


「…………」


「ガルシアに訊いただろう、アイツにとっても僕は大切な人なんじゃないかって」


「…………どう、して」


「どうしてもこうしてもない」と僕は頭を振った。


「――――残ってたんだ。どうしてあんな話題をする羽目になったのか、ここに残れば分かる……そう言われてさ」


 彼女が告白するのであれば、僕にも義務感が生まれてくる。

 隠し通したいものも、嘘で固めておきたいこともあるが、今だけは――――イリアへの気持ちにだけは、正直でありたかった。



「だから、その。おあいこだ」


「おあいこ……」


 僕もイリアも、互いの本心を知りたかった。その上でなければ行動できないほどに臆病で、そうなるほどに不幸や不条理を経験してきてしまったから。

 ガルシアがしたお節介は、いわば仕組んだ「偶然」だ。たまたま僕とガルシアが惚れた腫れたの話題をしていて、それがイリアの耳に入った。その逆もまた然り。


 あの茶番があったからこそ、変な気遣いも余計な強張りもなく、こうして手を繋いでいられるのだ。安心して腹を割り、自分の全てを打ち明けることが出来ているのだ。


「……じゃあ、わたしが盛ったことも……」


「…………やっぱり?」


 僕がそんな言い方をすると、すぐさまさっと顔を背けた。発した言葉の意味するところに気付いたようで、僕の予期していたとおりでもあった。


「――――おあいこ、おあいこ――――」


 静寂を破らない、小さな声が漏れている。

 俯いたイリアの、その視線の先には握られた右手があった。


「――――――――ッ!!」


 口を一文字に結ぶと、ずっと握っていた左手の拘束が解けた。

 それと同時に、右手の内に握られていた物が月光に曝される。何の細工もない、イリアの手の平にすらすっぽり収まってしまう、小さくて透明な容器の蓋を勢い任せに外したかと思うと、取り押さえる隙もなく……一気に全てを飲み下していた。



「…………イ、イリア?」



 中身の詳細は無論知らないが、容易に予測が出来る状況下だ。


「……これで、おあいこ、だよね?」


 小瓶に蓋をして、静かに窓辺へ置いた。到底聞き出せる状態では無く……しかし大きくも変化していない様子だ。今の所は……という言葉がついてくるが。



「カズと一緒に居られるのは、もう今しかない。から……我が儘、言って良いかな」


 そう言いながら、イリアの両腕が僕の居る空間をゆっくり抱いて、見えない僕の身体をそっとなぞり始める。筋肉の張り詰め具合から、部位の熱を一つ一つ感じるように撫で上げていき、両手が僕の頬を覆うように添えられたところで終わった。


「――――日が昇るまでで良いの。それまで……全部、わたしに任せてくれる?」


「……その、それは、どういう――――――――」


 聞き返す前に、光をたたえた深緑の瞳が眼前に迫っていた。



 近い。温かい。柔らかい。

 情報は途切れることもなく僕に届くのだが、それらを統合し、状況を理解するのに少々の遅れがあった。


 少し見下ろす位置に、イリアの顔がある。両目は閉じられ、こめかみを伝う汗の反射が、その奥の肌の透き通るほのかな紅さまでもが見える距離だった。


 彼女の鼻息が僕の肌を湿らせる。静かで、しかし荒かった。

 口が塞がれている。僕の上唇に、生温かく柔らかなものが吸い付いてきている。


 そっと、恐る恐るという風に、僕の口腔へ熱を帯びたものが差し込まれた。

 それは僕の唇の裏を軽く擦っていくと、直ぐに出て行ってしまった。




 呼吸は出来た。それ以外は何もできなかった。

 イリアが僕に何をしたのかは理解できても、状況としては呑み込めずにいた。


「――――何を」


 口元が自由になっても、それしか漏れ出してこなかった。

 離れるイリアを見て、先程の行為が、僕の顔を引き寄せ、背伸びをしてようやく行えるものだったのだと気付く。眼前に彼女を見たからか、一段と小さく、可愛げに見えていた。


「わたしも……わたしも、もう、子供じゃない、から……」


 吹っ切れたように、イリアはまっすぐこちらを見ていた。色白の頬が薄紅色を揺蕩わせ、触れ合っていた唇が僅かに月光を反射している。


 青緑に輝く彼女の瞳には、やはり誰も映っていない。

 にも関わらず、偶然か、それとも僕の頬にまだ触れているからか――――視線は僕の両眼を真っ直ぐに射貫いていた。


「カズのこと、わたしが……今度こそ、幸せにしてあげたい」


 これまでの分も、これから会えなくなる日の分も、全部纏めて。

 イリアがどんな意思を持ってその言葉を選んだのか、僕には分からない。


 分からなくとも――――彼女は行動したのだ。僕に、その行動によって伝えようとしてきたのだ。その事実は揺らぎようがなく、だからこそ僕を揺らぎに揺らがせた。


「――――んぅっ!?」


 半ば、本能にも近い行動だったようにも思える。

 どれほど理屈で固めていても、彼女の真っ直ぐな想いには手の打ちようがなかった。僕が抱いていた自制心などこの程度の物で、これほど簡単にたがが外れてしまうのだ。


 僕は先程の感触を探った。イリアが僕にしてきたように、彼女の唇を自らのそれで覆い尽くし、少しばかり躊躇して――――途中から遠慮すらも忘れて、彼女の奥深くにそれを求めた。


 甲高い、小さな悲鳴と呻きを上げられるが、僕の求めるものは負けじと絡みついてきた。僕の舌を押し留め、かいくぐり、対抗するように僕の奥へとねじ込もうとしてくる。


 聞いたこともない艶めかしい音が、自分の口元から聞こえてくる。

 共に漏れ出してくるさまざまな彼女の匂いが、間隔の狭まった呼吸に混ざる。



 何秒、何十秒、それとも分単位だろうか。

 呼吸の限界が僕とイリアを弾くように離れさせようとして――――互いの上体が動かないほどに腕を回し、力が籠もっていたことに気付かされる。


「……分かった。もう……全部、任せる」


 深い深呼吸を挟んでも、興奮からの乱れはそうそう収まらない。

 イリアの方はもっと深刻そうで、大きく口を開き、身体全体で呼吸して、薄らと目尻に光が溜まっていた。軽く脱力してはいるが、その口角は緩やかに上がっている。



「――――好きなように、していい?」



 回していた腕を肩に掛け、僕をゆっくりベッドの上へ押し込む。彼女にしては強い力で、それでも乱暴ではなかった。



「……ご自由に」



 彼女の望むまま、僕は横たわった。その僕の上へ、息も服装も荒げて乗り上がってきた。


 悩むことも、心配することも、とにかく僕の頭を使う様々な思考を一旦放棄することにした。もう余計なことを考える必要はないし、回す余裕すらも惜しく感じた。


 相手を求められること、僕を求めてくれること。

 今だけは、この幸福が今だけでも構わないと思えた。

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