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69 互いの違いと思いやり 後編

 久しぶりによそ者、厄介者であることを痛感させられたなぁ、とぼんやり思っていた。

 元から奇人変人の目で見られることには慣れてるが、あれほどに「あからさま」なのは久しぶりだった。ここが治安の良い街じゃなければ……もうちょい楽な方に逃げれたんだが、まぁ今となっちゃどうでもいいことだ。


「気にしねぇでいいからな、お嬢ちゃん」


 さっきからずっと俯いて、必死に顔や肌を隠そうとしているイリアにそう言ってやる。カズが言ってやって、側に居てやる方が断然効果は違うだろうが――――生憎のこと、アイツは隠し持てる刃物みたいな存在意義が強すぎて、抑止力にはなり得ないのだ。


「お嬢ちゃんは何も悪くねぇし、根本的な罪はアイツにもねぇ。運が悪かっただけさ」


「……でも…………」


「怖いか、怖いよな」


 通り過ぎる人々へ怯えた目を向けていく彼女を庇うよう、自分は胸を張って歩く。

 せめて隠れ蓑になれるよう、視線を俺の方に向けてくれるよう。目立つことは俺にしか出来ないことだ。


「大丈夫だ、何のための俺ちゃんだ?」


 明るく振る舞うことも、無条件に信用させることも。

 アイツのやりたがらない全てのことを、俺が代わる。


「カズ程にゃあ頼りないかも知れんが、お嬢ちゃんを守り通す自信はある。もしも何かあったら……何されたもんか分からんし、な?」


 努めて笑いかける。釣られて、少しだけだが口角が上がった……それでいい。


「難しいかもしれんが、周りを気にするな。悪い奴ってのは弱っちいのを見つけるのが得意だからな……」


「……見えてなかったら、凄く楽なんですけどね」


 イリアが冗談のように漏らして、視線を足下の方へ下げた。彼女なりに奮闘していることに違いは無い。


 他人をどうこうするのは本当に難しい。

 自分のことでさえ手間が掛かるのだから、出来る人間というのは化け物に近いんじゃなかろうか。


〈ガルシア、何処だ〉


「んぉ……カズか?」


 唐突に声を掛けてきた相手の名前を口にすると、イリアの顔がぐいと上がった。


〈何処に居る、まだ帰ってはいないか?〉


「あぁ……んだな。どうしたよ、何かあったか?」


 少しばかり難しい局面だ。イリアに勘付かれずに、カズの意図を汲んで、ぼかした表現で的確に会話をしなきゃあいけない。

 と思ったが、そんな手間も科学が解決してくれていたことを思い出した。


〈そっちに連れて行く……本人の手で返したいそうだ〉


「ほぉ、そうか……うーむ」


 多少遅れて、カズが答えを返してくる。


 だとすりゃ、何処かで待った方が良いな。喫茶店は覚えてるか?

 しかしまぁ回りくどいことを。もう済ませてしまったもんだと思ってたが……。


〈僕を何だと……クソ。喫茶店ってのは、前に呑んでた場所か〉


「あぁ、今行くから……お嬢ちゃんは大丈夫だ、心配しなくて良いからな」


〈イリアが……? まぁ、分かった〉


「そんじゃな」


 通信が切れる感覚というのは、ひとりぽつんと取り残されたときの心情に近い。

 すぐにかき消えるとは言え、寂しさを感じるのは辛いものだった。


「ガルシアさん、カズから……?」


 会話の切り口から、イリアが食いついてきた――――今のお嬢ちゃんが積極的になれるのは、恐らくこの話題だけだろう。そう思うのは俺の願望だからか。


「あぁ……お嬢ちゃんがちゃんと買い物できてるか、心配だってよ」


 おどけて伝える。俺がふざけて言っているのだと一応は伝わったようだ。


「見えねぇから判りづらいこと甚だしいが、アイツは極度の心配性で、恐がりだ」


 もしもイリアの身に何かがあれば、どんな手すらも正当化出来るぐらいには。

 随分と歪んだ成長をしてきたもので、人並みに幸せになることすら茨の道だ。


「ちょっとばかし、寄り道してこう」


「えっ?」


 約束したとおり、アイツのすることなら協力する。


「良い店を見つけたんだ。一息吐くのに丁度よさげな……ほら、そんな顔で帰ったら、絶対勘付いちまうから。カズのためにも、いい顔で帰らなくちゃいけない、な?」




 正直に告白してしまえば、僕はかなり迷っていた。

 と言うのも、まだ判断出来るほどの情報を持ち合わせていなかったからだ。


「はぁ……クソ、なんだアイツ……」


 カウンターに持たれこんで、未だ平静を取り戻せていないこの人物。僕が殺人に手を出さないのは――――対するリスクが不透明なのもあるが――――ここ数日の間、僕を悩まし続けている事実からだった。


 店の質はかなり良く、慎重にさえなれば背後に立つことは容易かった。

 獣人は未だに動く様子が無く、手に余りそうな金貨を所在なさげに弄ぶばかりだ。


「……もしもし」


「ッ! ……?」


 消え入るような声で囁くと、しっかりと立った耳が――――続いて顔が――――僕の立つ空間に勢いよく回ってきた。会話は出来る、なら決行できる。やるしかあるまい。



 射的の後にミリアスから教えて貰ったことを思い返す。

 身につけておいて損はしないと、強張った身体をほぐす目的で行われたリンチ――――もとい、近接時の無力化の手順。無抵抗の相手になら、今の僕でも……恐らくは。


「……騒ぐな、動くな」


 両腕を拘束して、マズルを塞いで、刃を押し当てる。

 重要なのはこちらに主導権を明け渡させることで、対応させる暇を与えないこと。


「落ち着いて下さい……無理だとは思いますけど、死にたくはない……でしょう?」


 ふくらはぎを踏み倒し、拘束を確実なものにする。

 ミリアスと組み合ったから分かったことだが、アニマリアの馬鹿力は本当に油断ならない。対抗できなくはないが、勝てる気はさらさらしなかった。


「落ち着いて……こちらだって殺すつもりは無いんです……『まだ』」


 どうなるかは貴方次第だ、僕はどちらでも構わない……と言った具合に言い聞かせていくと、緊張は残りながらも力が抜けるのが分かった。上手くはいった……のだろうか。


「こちらからの問いにのみ答えること……助けを求めないこと、あと……暴れないこと。良いですか?」


 必死に頷く姿を見てから、口を塞いでいた手を顎下に移し――――頭を後ろへと反らす。強引に背後へ向けられたこの男の瞳は、当然、僕を捉えていない。


「なっ、だ、誰だ」


「誰でも無い、どうして二人にあんな態度を?」


 問いをねじ伏せるのは心苦しかったが、ある意味で時間の勝負だ。あまり繁盛していない店ではあるが……現場を誰かに見られることは避けたかった。


 僕は尋ねた。背負う問いに対する礎石を、この獣臭い男に求めて。


「どうして? それは……」


「どんな答えでも良い。どうして蔑んだ、その理由だけを知りたい」


 恐れか――――僕に対するもの、或いは遠くない将来の暗さに対しての恐怖が、男の口を閉ざしているのは分かった。が、どうすれば割らせることが出来るか……。


「……お前、さっきのヤツの連れか?」とようやく喋った。


「さっきの……騎士のことか。人間の」


「あぁ、なぁ。頼む、頼むから聞いてくれ……そんな気じゃ無かったんだ……」


 ガルシアの――――意図したかどうかは不明だが――――助け船だった。

 偶然か意図的か、それで彼に対する評価がかなり変わってしまうが……今はいい。


「悪いけど、ありふれた光景でしかなかったと思う。世界から消すべき光景だ」


 彼の真似事をしていることを否定はしない。人を騙すには自分自身にも仮面を被らなければならないのだ。手慣れていることではあるが、能動的な使い方は数えるほどだ。


「違う、違うんだ!」


 大声を上げそうになったので、再び口を掴む。これがヒトの顔だったらこうはいかない。掴みやすい鼻面であることに感謝しないといけないだろう。


「……出来心だったんだ、信じてくれよぉ」


「出来心で、ヒトを傷つけようと」


「み、みんなやってる! 誰だってやってることだろ?」


 良く聞く文句だ。誰もがやっているからという同調意識、帰属意識か。

 これを責めることは出来ない。僕だってその観念の奴隷に違いは無いし……言葉には続きがある。判断は全てを聞いてからだ。


「でも、でもよ……冷やかしだと思ったんだよ。ニンゲンがまともな金を持ってる訳がねぇんだ。野郎の方はそこそこ綺麗だったけどよ……金の出所はあのチビガキだろ? あんな汚れた頭巾を大事に被ってるようなガキが持ってるように……いぃっ!?」


「っと……ごめん」


 力んでしまったらしい、刃先に微かだが肉の手応えを感じていた。

 刃を外して確認すると、歪んだ赤い波紋が装飾されていた。戯れ言だと聞き流そうとしていたけど……知ってる相手で、しかも大切な人だ。


 動機が出来てしまったが、リスクに対してはまだ小さいし、質疑は終わってもいない。

 まさに怪我の功名と言うべきか、彼の態度がより従順になった気もする。


「なぁ、頼むよ。返してきてくれ……大人しく連れてかれるからさ、あのガ……あの子にさ、な?」


「あの子に、何を?」


 分かり切った質問に、男は鼻先で答えを示した。


「これだけの金、冗談だろうと払えるもんじゃあない……こんなのを受け取っちまったら、どうなるか分かったもんじゃない。なぁ、返してきてくれよ」


 目元の毛並みが濡れて乱れている。何に対して泣くのかは与り知らぬが、個人としては素直な……ありふれた「一市民」なのだろうと思った。


 提案を受け入れても良かったが、まだ疑念はあった。

 これがこの男の仮面であったら。最高の役者を身近に抱えているからこそ、それが本人そのものを表しているかの確証を持てなかった。


「……いや、僕は持っていかない。自分で持っていけばいい」


「……えっ?」


 もしここで手放しにしたら、何をするか、してくるかが分からない。


 随分と回りくどい、面倒くさい方法を取ったことは分かっている。もしもこの人物が信用ならないのであれば、今の時点で始末してしまえば良いことなのだ。


 ガルシア、何処だ。僕は彼に呼びかけた。


〈んぉ……カズか?〉


 少し驚いたような返答が帰ってきた。何処に居る、まだ帰ってはいないか?


〈あぁ……んだな。どうしたよ、何かあったか?〉


 どこか迷いのある言い方だった。こちらとしてもどう伝えれば良いものか。


「なぁ、自分で返せって……やっぱ仲間なのか?」


 腕の中の男が尋ねてくる。二つの会話を同時進行するのはかなり骨が折れる。


「だったら何だ。嫌なら嫌で構わない」


「いや……いいや、持ってく。持ってくよ」


「そうか」


 ガルシア、そっちに連れて行く。本人の手で返したいそうだ。


〈ほぉ、そうか……うーむ。だとすりゃ、何処かで待ってた方がいいな〉


 待つ、と言っても……こんな調子の街中にイリアを待たせるのもどうだろう。

 誰もがこの男のような性格でもないだろう。公共の場でやらかす奴が居ないのを祈るしか出来ないか……?


〈喫茶店は覚えてるか? しかしまぁ、回りくどいことを……もう済ませてしまったモンだと思ってたが〉


「僕を何だと……クソ」


 思わず口に漏れてしまっていたが、幸い男には聞こえていないようだった。

 喫茶店というのは、前に呑んでた場所か。ガルシアが呑み潰れたあの店。


〈あぁ、今行くから……お嬢ちゃんは大丈夫だ、心配しなくて良いからな〉


 イリアが? 唐突に何のことだ。

 確かに心配ではあるが、ガルシアに伝えた覚えはない。僕の気持ちは分かってる……とでも言いたかったのだろうか。どちらにしろ有り難い方のお節介に違いない。


 まぁ、分かった。


〈そんじゃな〉


 通信が切れる。再び僕はこの男と二人きりになる。


「案内する……逃げようとは思わない方が良い。殺さなきゃいけなくなる」


「あぁ、分かってるよ……!」


 顎を拘束していた腕を外し、丸まっていた尾の付け根を引っ掴む。


「んあっ!?」


「保険だ……『尾無し』になりたくはない、だろう?」


 変な声を上げるあたり、弱い部分ではあるのだろうか。


「ほ、他の所にしてくれねぇか……ほら、歩き辛ぇだろ?」


「悪いけど僕に尻尾はない。共感できないな」


 刃先を背中に軽く押しつけて、歩かせ始める。












 家の側にある程度の店が揃っているのは有り難いことだった。

 歩調を合わせなければならないのもあって、ただ通り過ぎていた街並みを見渡す余裕があった。規模としては大きいものでは無いが、どこも一定以上の質と量が揃っている。


 この男が営む画材店や目的地である喫茶店の他にも、看板を掲げる建物が多い。連なるウィンドウから覗ける雰囲気からして、この街路に無いジャンルは無いように思える。



「ガルシア、そろそろ着くけど……」


〈結構のんびりしてたな。お陰でお嬢ちゃんも落ち着いたぞ〉


 そんな冗談か本意か分からない言葉に返す言葉を探す間に、店を後にする二人が見えた。


〈おっ、いたいた。マジで連れてきたのか〉


「……嫌がらせはされなかったのか?」


〈あぁ、人前じゃみんな善人を気取りたがるものさ〉


 金さえ払ってりゃ店と客の関係で押し通せる。とガルシアは目だけをこっちにやった。口を使わない会話はいったん区切られて、きわめて自然な演技が始まる。海外のドッキリ番組の構図に似ているな、と他人事のように思った。


「ん? おっ、さっきのじゃねぇか。店は良いのか、ん?」


「あっ、あぁ。なぁ、その……」


「……邪魔か、変な気は起こすなよ」



 男の縋るような視線を受けて、拘束位置を付け根から先端に移し、僕は彼の背に隠れた――――ガルシアの背後にいるイリアと同じように。平静さは装っているが、無意識に避けているのが見て取れる。


「なんだ、アンタも買い物か……まさか、言い忘れたことでもあるか?」


「いや、そうじゃねぇ、そうじゃなくてな……」


 男の葛藤は何と相対したものなのだろう。謝罪に対する羞恥か、罪悪感からの萎縮か、不合理に対する憤怒か。言葉を紡ぐのに相応の時間が流れるが、僕には判断つかなかった。


「……これだよ。ほら」


 ぶっきらぼうに拳を突き出す。居たたまれないように動く手の内から金属音が零れてきているのを聞いて、ガルシアは手を伸ばしてきた。


「ヘイ、ブラザー」


「は?」


 そして、自分の拳を軽くぶつけると、その手を引っ込めてしまった。


「悪いな、それは『俺の金』じゃあないんだ。渡す相手を間違ってる」


「え……え?」


 困惑する男――――と僕にイリア――――を差し置いて、ガルシアは入れ替わるように背後の人影を押し出してきた。


「言っただろ、『この子が頑張って稼いできた金だ』って……聞いてなかったか?」


「がっ、ガルシア……さん?」


「ほら、大丈夫だって……」


 イリアの反応を見るまでもなく――――ガルシアの狂言だ。もう何枚残っているかも分からない、前の仕事の分け前……どこまでも金遣いが大胆で、不可解な男だ。


 その危うい足場を渡ることを、この男は存分に楽しんでいるようだった。

 持つ全ては自分のものではない。だからこそ、やりたい放題に出来るのだと。



 暫く沈黙が挟まったが、二人のアイコンタクトを見るにまた内緒話があったのだろう。ほんの僅か決意が籠もった眼差しになって、イリアがおそるおそる手を差し出してきた。


「……ほら、その、悪かったよ」


 目的のものを渡すと、互いの腕は逃げ出すように引っ込められてしまった。イリアの方は数歩後ずさって、隠れまではせずともガルシアを盾にしようとしている。


「イイとこもあんだな、お前」と代わるようにガルシアが一歩出た。


「非を認められる奴は良い奴だ。俺はそう思ってるぞ」


「ヒッ」


 善意の笑みを寄せるが、正直言って嫌味でしかない。


「そんじゃ、俺達は寄るとこがあるからさ。みんながお前みたいな奴になれりゃあいいんだが」


 そう言い残して、ガルシアは去ろうとした――――家路とは逆の方向に。

 言葉にも引っ掛かりがあったが、それで僕は確信を得た。


「ガルシア、どこに?」


〈寄り道だよ。ちょいとした時間稼ぎだ〉


 どっちにしろお前が帰るまで時間がたっぷりあるだろ、とガルシアは言った。

 僕のことをほぼ分かっている、と言いたげな口調が気に入らず――――不安でもあった。


〈カズ、匂いにゃあ気を付けろよ。お嬢ちゃんも一応はアニマリアだからな。俺達よりもちょっとばかし鼻が利く〉


「……どういう意味だ、それ」


〈ちょっと散歩して、匂いを誤魔化してこいってこった。変な匂いしたら多分妬くぞ?〉


 いつも通りにからかって、会話は終わった。

 僕らは言葉通りに取り残されて、道行く人に怪訝な視線を掛けられていた。


「……お疲れ様。帰るぞ」


「んぎっ!?」


 彼の時間稼ぎを無駄にも出来まい。

 再び付け根を鷲掴んで、来た道を戻ることにした。













 店に戻り、男を解放すると、拘束から解かれた尻尾が大きく振られ、力が抜けるように垂れ下がった。まだ僕は残っているのだが、逃げもせず、襲いもせず。相当に疲労が溜まっているのだろう。


「……恨んでるか?」


 僕は尋ねた。念を押すように、ちゃんとした答えを出せるように。


「何を……あんたをか」


 男はカウンター側のスツールに座り込んで、脱力の段階を次へ移行した。


「分かんねぇ。もう何もする気が起きねぇし……考えられるか」


「……もうしないと誓えるか?」


「あぁ……誓うさ。もうこんな目に遭いたくねぇ。散々だ……」


「そうかい」


 これなら問題ないと踏ん切りを付けて、最後の行動を起こすことにした。

 解消したい悩みのためには、その元凶に今一度向き合わなければいけない。何が僕に後悔を受け付けているのか、それが分かれば受け入れることも出来る。


「……あんた、人間なのか?」


 いや、もう殆ど答えは出ているようなものだ。

 とても非合理的で、愚かなことは自覚している。もっと別の解決法だってあるはずだ。


「……だったら?」


 それでも。やはり僕はやらなければならなかった。

 今の僕にこれ以上の解決法は見つからない。これ以上に問題と向き合える方法を知らない。


「…………」


 男は答えず、足音を捉えきれなかった視線はただ天井に向けられた。


「一つ訊きたいんだ。貴方に家族は?」


「なんだよ。それがどうした……」


「気になったから……単に、それだけ」


 音を立てないよう、慎重に。


「……親父がいる。もうくたばりかけのな。もう店にも出てこれねぇ……」


 男はぽつりと語り始めた。行動に気付かれている様子は無い。


「分かってんだよ。客にあんなことしちゃいけねぇって……どうして言ったか分からないんだ。いや、不安なんだな、きっと……この店をちゃんと残さねぇとって、ずっと迷惑掛けてきたから……」


「親思いだな」


「あんたの親はどうなんだ。まだ元気なのか?」


 脳裏に焼き付けるよう、何度も何度も行動を確認する。

 自信はないが、勢いを削げば間違いなくやり損なう。上手くいくかは祈るだけにしておこう。


「……なぁ、まだいるんだろ?」


「あぁ、親は……もう居ないよ」


 右腕で頭部を固定して、背後から頸椎へ突き立てるように刃を滑り込ませる。

 唐突の出来事に叫ぼうとする口を腕で塞いで、先端で接続部を探った。


「悪い、済まない、もう少しだ……!」


 引っ掛かった感覚を得て、僕はあらん限りの力でねじ込んだ。毛と肉の奥で、くぐもったなんとも言えない擦れる音が響いて、苦痛に暴れる両腕は僕の皮膚や衣服を切り裂こうと躍起になっていた。


「……!!」


 ぱくっ、というような奇妙な音が刃越しに伝わると、途端に抵抗が止んだ。

 まるで気絶するかのように男の力が抜けて、重力に身を任せるように倒れた。拘束も外れたが、表情は驚きと恐怖、混乱で滅茶苦茶になっていた。


 どうして。口はそう動いていた。

 脊髄がやられると本当に動きが鈍くなるんだなぁ、と僕は見下ろしながら思う。


「……ごめんなさい。どちらにしろ、殺さなきゃいけなかった」


 僕はそう言った。事実だ。

 彼が誠実な善人であろうと環境が要因の悪人であろうと、僕はその人柄を信じることが出来なかった。どんな人だろうと、動機が出来てしまえば殺人を行使するのだ。


 目に見えているリスクを見過ごせるほどに、僕は強くない。

 思い返してみれば、いつもそうだ。最初も、これまでも、あの時も、今も。



「恨んでくれて良い。貴方は何も悪くない」


 この人を殺すのは、完全かつ純粋な僕のエゴからだ。イリアや見知らぬ他人を守るため、などという回りくどい利己主義ではない――――祖父にしたことと同じだ。



 あの時、僕は僕のために殺していた。

 自分自身が責められているように感じて、哀れに思えてしまったから。



 あの事実を知らされて、それが僕に牙を剥いたのだ。

 認識できなかった後悔に、大切な相手の価値ある存在を奪ったという事実が光を当てただけに過ぎなかったのだ。


「……無駄にはしない。貴方のような人が増えないためにも」


 僕は漏らしていた。これは儀式に他ならなかった。

 答えは自ずと提示されていて、単にそれを受け入れ、納得するためだけの儀式でしかない。その為だけにこの人の人生は奪われて、こんな屈辱的な死を贈られなければならなくなった。


「運が悪かったんだ。こうする相手は君じゃなかったかもしれない……」


 罪悪感が湧いて出てきた。本来ならば、あの人を手に掛けた時に感じねばならなかったことだ。

 彼は虐殺者ではない。あの三人組や、盗賊紛いの奴等と同じにしてはならなかった。ただひたすらに力を尽くし、家族のために身を捧げた被害者だったのだ――――回りくどい利己主義に蝕まれた、同じ穴の狢であったと。


 それが、僕の主観によるエゴだと分かっている。他の誰もが、そのほとんどがこの男と同じなのだ。分かっていても、こうして受け入れなければ。それが僕の出来る、彼への贖罪だ。

 そして、目の前で死にゆく人へも向けた意思表明でもある――――正しいなどとは口が裂けても言えることではないが、僕にはこれ以外に行動方針が見つからない。



 身悶えも出来ない彼の瞳は僕を見抜いているようだった。影の深まるばかりの光彩に、確かな人の輪郭が浮かび上がっているように見えた。


 微かに身体が蠢いていたが、何時の間にか止まっていた。

 非常に静かだった。空間に舞う埃が擦れ、短剣に付着した血液がほんの一滴落ちる音すらも聞こえてきそうな程に。扉の向こうには人々の活気づいた音があるはずなのに、別世界のように彼方から響いている気がした。



 死体を暫く眺めていると、カウンター上の粗雑な執筆用具一式を思い出した。

 この世界の捜査技術はどれほどのものなのだろうと思いながら、僕は男の頸動脈に傷を付ける。心臓は緩やかに鼓動しているようで、死にかけの蛇のように血流が揺れ動いていた。



 理由不明の殺人事件では、この人の死が無駄になる。

 反差別を書き残せば、自ずとヒトに憎悪が向いてしまうだろう。


 幸い、この世界ではもう一つの区分けがある。示すための下地もある。

 綺麗にしたばっかりの短剣の先を赤く湿らせると、質の様々な紙束の一番上に、滲んでも読み取れるように大きくメッセージを残した。


彼は人種差別(He was)主義者だった( a racist)』と。



 この世界において逆さまのアルファベットがどこまで認知されているのかは分からないが……意味があることを推理してくれることを祈るしかない。

 犯行が他でもないギフテッドであれば、そちらに焦点が向けられるはずだ。罪もない人間に恨み辛みが向くことがないのを、これもまた祈るほか無かった。







 人目を避けて店を出た後、「助言」に従って街中をほっつき歩いた。僕を避けようとしない人混みを進むのは非常に骨が折れたが、複数人の匂いで誤魔化すことは出来ただろう。

 殺人をした直後に、すました顔で道を歩くというのも奇妙な心境だった。

 油断は出来ないが、ここまで気に留められないと生きているのかすらも危うく思えてくる。僕は亡霊か何かで、あの人を物理的に呪い殺したのでは、なんて冗談も思いついた。



 散策がてらの隠蔽工作を終えて家に戻ると、玄関先にイリアがいた。壁にもたれて視線を落としている姿は、確かに僕の胸を締め付けた。


「……イリア」


 躊躇いはあったが、責任は取らなければならない。

 声を掛けた瞬間に、彼女は様々な衝動の籠もった表情を作りだした。その全てを理解は出来ないが、ひどく不安がらせてしまったことだけは分かった。


「……カズ、カズ?」


 僕を求めて彷徨う腕を取ると、そのまま僕の手を探り、握ってきた。

 表情がまた変わる。初めて見る表情で……彼女からは初めて受け取る感情だった。


「何処、行ってたの?」


 小さかったが、力強く震え、憤りが伝わってくる。

 彼女の力一杯なのだろうか、握られた手が締め付けられる。


「…………ごめん。不安だったんだ」


 だから後を付けて、嫌がらせをした人を殺しました。なんて事は言えないし、つもりもない。イリアが知らなくて良いことだし――――白状するが――――自分の株も下げたくなかった。罪悪感に僕なりの結論を出せても、護りたい人を傷つけて裏切るような告白は出来ない……大したエゴだと思う。


「途中までは追えたんだけど、見失って……それからずっと探してた」


「……言ったよね、勝手に居なくならないでって」


「あぁ、でも……いや、その通りだ」


 弁明は出来るが、したところで意味がない。

 イリアのことが心配だったことはもう伝えた。これ以上は余計だ。


「……何も無かった?」


 それでも、僕は言わざるを得なかった。

 画材店でのやりとりを知っている身としては、イリアが心配でならなかった。


「…………何も、ないよ。わたしは大丈夫」


 それなりの躊躇いを置いてから、イリアは断言した。


「もう子供じゃないんだから。わたし……そんなに頼りないかな?」


 僕は経緯を知っているが、イリアは語りたがらない。

 彼女なりにもう割り切ったのか、単に心配されたくないからか。答えを詮索するものでは無いだろうし、彼女の判断ならば尊重しなくてはならない。


「…………単に、僕が心配性なだけだよ」


 何かあったら、僕は確かな動機を持ってあの男を殺していただろう。

 自分のことだからよく分かる。僕は人並み以上に自己中心的な男だ。


「……もう、あとちょっとしかないのに」


 イリアが囁くと、重心を掛けてきた。

 確かにそうだ。一週間という期間も半分が過ぎる。僕が此方側に来た時点からの相対的な期間で言えばまだ三か四分の一という具合だが、イリアからすればあっという間の時間だったに違いない。


 十歳、全てが変わる直前の、何も喪うと思っていなかった入院期間――――短くとも、長く思えた時間の終わりはなんとも重いことをおぼろげに覚えている。


「イリア。なら、どうして急に出掛けたんだ?」


 僕はあることに気付いた。僕が離れることが嫌だったはずなのに、どうして買い物に僕を連れて行かなかったのか……矛盾がある。

 気恥ずかしかったのかもしれないし、見えない僕じゃガルシアのような抑止力足り得ないが……何故だろう。


「えっ……と、それは、その……」


 訊かれると思っていなかったのか、驚いて距離を取った。

 随分としどろもどろになっている。相応の事情か心情があることに違いはない。


 ふと最近の会話を思い出す。頼らなければならない状態は、己の無力を突きつけられているのと同義であると。そういうことなのかもしれない。


「……ほっ、ほら! お家に入ろ、ね?」


 茶を濁されたので、踏み込むのはそこまでにすることにした。

 僕にも言いたくないことがザラにあるし、イリアにだってあった。無理に傷口を開くような真似をすることもないだろう。


「……ミリアスさん?」


 僕を家の中に連れ込もうとしたイリアが、僕の向こう側にその人を見て足を止めた。

 彼女に倣って振り向くと、少しばかり焦燥とした彼がそこに居た。


「イリア、カズとガルシアは」


「えっ? カズはここに、ガルシアさんは中に……」


 普段よりも僅かに真剣味のある口調に、イリアの身体が強張るのが伝わった。


「そうか……まぁいい、話は中に入ってからだ」


 その口調が努めて平静を保っているように聞こえるのは、期限という不安があるからだろうか。ミリアスという人物が誠実ながらも威圧感のある存在だからだろうか。


「おぅ、お揃いでお帰りかい」


 その不穏さから逃れるように家に入ると、幾らか生活感の出てきた空間で寛いでいるガルシアが向かえてくれた。

 彼の溌剌さにどうにかしてもらいたい気持ちがあったが……向いた視線の変化具合からして、どうにも頼りには出来なさそうだった。



「全員に口頭で伝えるのが最適だと思った」とミリアスはガルシアの占領していたソファーに座る。全員が沈黙し、言葉を待っていた。




「――――出発が早まる。出来るだけの交渉はしてきた」




 深い溜息の後に吐き出された言葉は、漠然とした意味ながらも的を得ていた。

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