66 概念の物差し
この場所そのものに来るのは二度目で、この部屋に来たのは三度目になる。
驚いたのは、彼の私室が独立していること――――物理的な通路がどこにもないことだった。以前から薄々気付いていたことではあるが、ここは完全に隔離された空間だ。
「いやはや、ご足労様でした。アサナギさんに……クラムさん、大丈夫です?」
「あっ、はははいっ、大丈夫でしきえぇっ!」
やはり誰もが生理的嫌悪を覚えるらしく、クラムはカロの「友達」の多さと容姿の奇抜さに目を白黒とさせていた。座っている奇妙な椅子もその友人が組み合わさったものだと今の彼女に伝えたら、どれほど愉快で厄介な状態になることか。
「クラム、危害は無いから落ち着きなさい」
「でもお姉ちゃんっ、いやお姉ちゃんはなんで平気なのおっ!?」
彼女が呼ばれた理由は、相対するように座っているその女性が教えてくれた。
ナスタシア。クラムの姉であり、物静かさと好奇心の強さの二面性が特徴的な――――カロとの共通点がそれなりにある人物。
「私はほら、前から好きだったし……」
そう言って、小さな機械の一匹を指先に停まらせる。彼等に疲労という概念があるのかは分からないが、どこかリラックスしたように翼端を垂れ下げていた。
「お久しぶりですね、アサナギ様。妹がお世話になっています」
「いえ、こちらこそ大きく助けて頂いています。ナスタシアさん」
「助けて頂いてるって、もうアサナギ様ったら……えへへ」
社交辞令を素直に受けられるのはクラムぐらいだ、とこの場の全員が覚えたことだろう……一応は事実ではあるのだが。
確かに問題製造器のような一面はあるが、純粋さと意思の真っ直ぐさには頭が下がる。どちらの意味でも、僕にはないものを持っているのが彼女だ。
「ご迷惑をお掛けしてはいませんか? ご存じの通り、お転婆な子ですから」
「ちょっとお姉ちゃん、あたしはちゃんとやれてるって……」
「えぇ、色々と頼りにさせて貰っています」
「そうですか……それなら一安心と言いますか。またしでかしてるんじゃないかと心配で」
「もう! あたしだってわざとしでかしてるんじゃないんだから!」
「ははは……まぁ、力になってくれていることは本当ですよ、ナスタシアさん」
僕の言葉はどこまでがうわべだけで、どこからが本音なんだか。
物差しが曖昧すぎて、僕自身でもよく分かっていない。
「……さて、アサナギさん、お渡しするものがあるんです」
会話の切れ口を見つけられたのか、カロが会話に切り込んでくると共に――――友人の一体を机の上に乗せた。ずんぐりとしたフォルムで、直方体の亀というか、寸胴な百足というか……そんな子が僕の前まで来ると、胴を下ろして中身を上方へ曝け出した。
「今付けているものの純粋な改良版です。アサナギさんのものだけは特別製になりますが……」
指を揃えた手ほどの面積がある内部には、少しばかり大型化した無線機があった。それひとつを収納するには隙間が広すぎるのが少々気になりはしたが、特に意味は無いだろうと手に取った。
「特別製、と言いますと?」
「大層な言い方をしましたけど、改良版に機能をひとつ追加しただけなんです」
付けてみて下さい、と催促され、早速付け替える。
大型化してもなお、付け心地は無に等しかった。
「さて、探知範囲の調整が上手くいっているかどうか……」
カロは言いながら無線機を外した。
「アサナギさん、『声を出して話すこと』を強く意識しながら喋って頂けますか?」
「声を出すことを意識して……?」
何をさせたいのかはさっぱりだが、装置のテストベッドにされていることは理解できた。
声を出して話すこと……当然のことだし、意識するまでもなく行えることだが。
「……もしもし」
「おっ、上手くいってるみたいですね」
「えっ?」
無線機を外しているカロがさも当然かのように応答して、再び耳に戻した。
「『音声出力』を出来るようにしたんです。単に出力するのなら思考操作は必要ないんですが、誤作動を抑えるためにトリガーを取り付けてみました」
「は、はぁ」
何はともあれ、機械を通さずに話が出来るようにはなったということか。
「そうですね。ただ、探知範囲そのものは修正したマッピングを応用しただけなので、まだまだ誤作動が多いかも知れません」
「……え?」
「ん? アサナギさん?」
喋ってないぞ。いや、無意識に口にしてた?
「……あぁ、まだ説明してませんでしたね。クラムさんもどうぞ」
「えっ? あたしも良いんですか?」
「無論です。それで、アサナギさんが疑問に思ったことが、新機能として改めて追加したものです。以前にも似たことをしましたでしょう?」
「以前……テレパスのことですか」
僕の付けている無線機しか入っていなかったはずの子の背から、クラムも似たものを――――僕のより形状が僅かに違うものを取り出しているのを見た。
「えぇ、今一度言語野のモジュールを再解析、再マッピングと探知範囲の縮小を施しましたので、前のような『ダダ漏れ』は起こらないようになったと思います」
使用方法は、先程の音声出力と似通って――――ほぼ同一と言って差し支えなかった。
脳内の電気信号がどうとか、その時点における言語の変換、翻訳の精度など、よく分からないことを楽しげに話すのはいつも通りだったが、要点は簡潔だ。
「テレパスで相手と意思疎通をすること」を考える。それがトリガーとなる。
「声に出して相手と意思疎通をすること」がトリガーとなる音声出力と真逆のスイッチだ。
本当に先駆物万々歳だ。カロさん。
〈そうですね、本当に。まだ精度が低いので個対個、面と向かってのテレパスしか行えないようになってます。この会話もお二人には聞こえてませんし――――〉
「えっ!? 何、お姉ちゃん!?」
カロが二人を一瞥するのに倣うと、彼女らも似たようなことをしているらしいと分かった。
〈――――ナスタシアさんが何を話しているのか、知る由もありません〉
「えっ? テレパスって何? なんで喋ってないのに聞こえ……あたしにも出来る?」
あたふたと理解が及ばない自分の妹を見て、ナスタシアはとても楽しそうに見えた。
どこか僕とガルシアの関係が重なって見えてしまう――――悔しい話だが、こういう事態への対応力はクラムとどっこいかもしれない。
「そう言えば、みなさんエネストラに?」
新しい会話の選択を全員が一通り経験した後、話題は取るに足らない雑談へと変わっていった。ありきたりではあるが、当事者になるのは何時振りのことだろうか。
「そうなんです、アサナギ様がすっごい一軒家をお借りになってきて、これからは一つ屋根の下で、みんな一緒です」
「ひっ、一つ屋根……?」
「えっ……あっいやいや! やらしい意味はないです! ないですぅ!」
クラムの単語に反応したのはカロだったが、ナスタシアも彼女で妙に俯き気味だ。こういう話題の耐性の低さは姉妹揃って共通なのだろうか。
「……でも、あと数日もしたら居なくなっちゃうんですよね、アサナギ様とガルシアさん」
「それはこちらも把握してます。折角ご近所になれたというのに、世知辛いものですね」
カロが両手を組んで机に置いた。
「アサナギさん、伝えるのが遅れましたが、正式に協力の命が届きました」
「協力?」
「はい、教団そのものに騎士団への協力要請がありましたが、アサナギさん達への技術的、情報的なサポートを私が担当することになりました。と言っても……何が出来るやら、という状態ですが」
「となると、この無線機も」
「はい、供与品ということになりますね……」
先程までの調子から一転、どこか重苦しそうな雰囲気になる。
「……戦争がどんなものか、分かっていたつもりではいました」
カロは視線を上げ、部屋の隅を見ていた。
「塹壕で戦火に晒されたとき――――いや、あれを体験した今だからこそ思えるんです。撃たれたイリアさんや、アサナギさんが倒したあの兵士を見て、気が抜けるほどに呆気なく思えました。人の命の脆さ、と言えば良いんですかね。
誰だろうと等しく死ぬ危険があり、生き残るためには相手を殺さなければならないこともある。誰にでもある生存権を得るために、誰かのそれを奪わなければいけない……そんな場所、私はもうまっぴらです」
でも、そんなところに向かわなければならない知り合いに、自分は何をしてやれるのでしょう。カロはそう言って、誤魔化すように笑った。
「済みませんね、こんな空気にしちゃいまして」
「いえ、僕は……僕は気にしていません」
「あたしもです。今こそこうやって平和にお話しできますけど……」
「戦争は悪だ、なんてもう言えませんよ。そうなる状況に陥ったが最後、そこに立つ皆が被害者なんです。敵も味方も……」
彼の言うことに間違いは無いだろう――――正しくもないかもしれないが。
戦争の罪は誰にあるのか。たかが十数年しか生きていない子供には、いや、たかが数十年の寿命しかない生き物が決定できる事なのだろうか。
自分自身が戦場に居ることを自覚しなかったのは、危険意識の喪失だろうか。
命の危険が傍にあることは認識していたが、そこが戦場だと、それが戦争だとは考えていなかった。この世界はそんなものなのだ、とだけ。
正直に言えば、今の状況すら本来の僕の日常とは程遠い。
ずっと側に誰かが居る。誰かと話している。誰かから心配される。
しかし、どうしてだろう。
妙な懐かしさが、そこからくる安堵が僕の中にはある。
「戦争の終わらせ方なんて私には分かりませんが……早く終われば良いですね」
ナスタシアが真剣味のある声で呟いた。
「そう言えば、アサナギ様。あの子は元気ですか?」
「あの子……?」
「えぇ、ずっと側に居た、赤頭巾の『人の子』」
「ッ!?」
その単語に、僕とクラムの顔は間違いなく引きつっただろう。
事情を知らないのだから仕方のないことなのだが、その話題は僕らにとっては未だ針のように鋭く突き刺さってくる。
「……えぇ、色々ありましたけれど」
「そうですか、本当に良かった…………クラム?」
「んひゃいっ!?」
その異常に勘付かれると、クラムはいつもよりも大ぶりに反応した。
「……何か、あるのね」
「…………」
姉妹だからか――――単にクラムが分かりやすいだけか――――ナスタシアは察したような視線を変えずに見据えている。
〈アサナギさん、イリアさんに何かあったんですか?〉
カロがテレパスを使って訊いてくる。察知されない会話というのは至極便利だと痛感し――――逃げることも出来なくなった事実を突きつけられた。
「……お姉ちゃん、あたしが凄く弱ってたとき、色々言ってくれたよね」
――――何かがあったというよりも、僕が気付けなかっただけと言いますか。
〈と言いますと……いや、入り込みすぎですよね、済みません〉
良いんです。気になって当然のことですから。
「もし、お姉ちゃんの言ってくれたことを聞き入れなくて、もっと壊れかけたら、どうするつもりだった?」
「クラム、貴女がそこまで言うって……」
単純な話です。彼女を支えてきてしまったから、離れられなくなっただけのこと。
こんな話をするのも恥ずかしいものですけど……嬉しい悲鳴に捕らえられてしまいそうで。他人の不幸を喜ぶなんて、人として終わってますよ、本当に。
〈……イリアさん、精神的に弱ってるんですか。そりゃそうですよね、近くで人が死ぬって……私だって暫くは引きずりましたし、それ以上の苦しい目に遭ってきたはずですし〉
分かっていたつもりだったんです。似たような目には遭ってきているんで。
あの時の僕に必要だったことを、僕自身が彼女にしてやれるんじゃないかと。
「あたしね、あんなことがあったから……分かってあげたいの。自分に何が出来るかなんて分からないけど……イリアちゃんや、アサナギ様の力になってあげたくて。でもその方法が分からないから……」
「私に訊きたくなったのね。そうねぇ……」
結局は自己満足ですよ。イリアのことを何も知らないのに、分かったような気になって。正直言って……自分には何もできないんじゃないかと。
ここまで考えておいて、ふと僕は思い至る。どうしてこんなことを話している?
今の話し相手が信用できないという事ではない。これは僕自身の問題で、誰かに答えを求めるものではない、ということだ。
〈何も出来ないというのは違う気がします〉
カロが思い詰めた顔で言う。誰も彼もが真剣な顔で、何かしらの問題を話し合っている。こんなコミュニケーションに自分自身が混じっていることに、改めて異常さを覚えた。
〈言いましたけど、アサナギさんには何度か助けて頂いてます。移動中のあの件も、アーラキアでの戦闘でも……間接的にでも何万という人間が救われているはずですから〉
そうかもしれませんが、したのは単なる人殺しです。人助けじゃない。
僕がやれるのはそんなことです。と自分自身を再認識するように言う。誰かを助けるために殺すのでなく、殺したがために助かる人が居る。動機と結果が逆なのだ。
変な話だ、と話していて自然と思った。
元の世界で三人、こっちにきて何十人と手に掛けておいて、その行為に後悔と罪の意識を覚えたのはたったの一人。それさえ知るまでは他の殺人と何ら変わらない意識でいたのだ。殺さなければならなかった、殺す必要があった、と、それだけしか。
馬鹿らしい。大切な人の関係者なら、殺すべき相手でも生かそうというのか。
そうやって罪なのかも分からないことに向き合おうとして、僕はどうしたいんだか。
〈……それでも、助けられた人は居るんです。アサナギさんが行動してくれたからこそ……私やナスタシアさん、クラムさんや……イリアさんもこうやって暮らせているんです。誰にでも出来る事じゃありません……何もしてない私が言うのも尊大ですが……〉
アサナギさんも救われるべきなんです、とカロは妙なことを言った。
救われる? 何からですか。
〈何からって……報われるべきでしょう? どんな人だって幸せになるべきなんです〉
どんな人でも……幸せに。幸せとは?
僕は明確な答えを持っていなかった。不幸についてはあれこれと考える機会があったが、幸せというものについてはついぞ考えたことがない。自分が不幸だと思わないためには、幸福度という指標、ものさしが曖昧な方が楽だったからだ。今の自分が幸福なのか、それとも不幸なのか……知らなければ、悩むことすらない。
幸せ……僕にとっての幸せとは何だろう?
僕は問いかけていた。話し相手に、自分自身に。どちらも口を開きそうになかった――――カロに至っては絶句したような表情を浮かべている。その通りだ。僕はそんなことも知らない、無知な人間なんだ。それで構わない。
知りたくも無い。不幸になるための幸福など。喪うために得る喜びなど……。
〈……その、何と言えば良いんでしょうか……〉
別に良いんですよ。僕自身の問題ですから。カロさんが悩む必要はありません。
〈いや、そうじゃないんです……〉
その反応で僕は一つの可能性を思い浮かべた。難しい問題なのは僕にも分かるが、それにしても困惑の具合が酷い。僕が抱える問題にでなく、僕自身に対してのような……。
余計なことも聞こえてましたか?
〈よっ、余計ってなな何のことです、ですかね?〉
驚くが、怯える様子は無い。僕の思考が幾らか彼に漏れているのは確からしいが、それ以上のことは分からないか。
「……僕の場合、こうした方が確実かもしれませんね」
僕は会話方法を変えた。どちらにせよ何かしらを中継しなければ声は届かないのだ。「声に出す」という思考プロセスよりも、実際に行動した方が間違いがない。
「アサナギ様?」
ところが、今度は予想外の人物が反応を返してきた。クラムに……声こそ出していないが、姉の方も。カロにだけ話そうと思ったら、音声出力に切り替わってしまったようだった。
「……まだまだ切替と検知範囲の精度には改良の余地あり、ですね。済みません、アサナギさん」
カロも口を開いて、彼自身の声帯で発声する。静かだった空間が唐突に震え始めた。
「アサナギ様、どうかされたんですか?」
「いや、カロさんの言った通り……機器の誤作動で、貴女に言った訳では」
そうですか、とクラムの食いつきは収まった。この姉妹も随分と対話に熱中していたが、一体どんな内容を話していたのだろう。
まだ聞こえていた段階でも、彼女が大変な障害を乗り越えてきた人物だと分かる。やれることの有無に関わらず、その点では僕よりも遙かにまともで、気高い女性だ。
〈その、アサナギさん……アサナギさんも、かなり苦労されているんですね〉
再びテレパスで、後頭部を掻きながらカロが僕に伝えてきた。
〈力不足かも知れませんが、愚痴とか、駄弁りぐらいなら出来ますから。お一人で抱え込みすぎないで下さいね〉
「……えぇ、分かりました」
今後こうした会話をすることもないだろう相手に、僕は嘘を答えた。
他人を頼ると言うことが、いまいちよく分からないでいる。
玄関に入ると、香ばしさと深い風味が鼻をくすぐった。今日の昼間にほぼ何も食べていなかったことを思い出すと、唐突に食欲が湧いてきた。
「お帰り……あぁ、有難う」
帰った僕とクラムに台所の方から声が掛かる。連れて帰ってきたカロの友人を適当なところに放してから向かうと、ミリアスが鍋の中の液体をかき混ぜているところだった。
イリアがその近くに人数分の深皿を持ってきているところを見るに、もう出来上がるのだろう。たくさんの具材と香辛料の匂いは、空っぽの胃袋には魅力的すぎた。
「ミリアス様っ、お料理できたんですか?」
クラムが慌てて手伝いに入ろうとして、またスカートの裾に足を取られかけた。
「ん、まぁ……一通りは出来るが。本当に一通りだが……」
器用に片手で彼女を受け止めると、ミリアスは火を止めた。
「ガルシアが戻ってきてないが、どうせ遊んでるだろう。食事にしようと思うんだが」
「あ、そうですね……手伝いますよ」
明らかに僕へ向けられた言葉に、僕は近寄ろうとしたのだが……止める人がいた。どうやって居場所を悟ったのかは分からないが、僕とミリアスの直線上に、小さな影が立ち塞がったのだ。
「…………イリア?」
その人に声を掛ける。服をよく見れば、何かが跳ねた小さな染みが付いている。
「その…………大丈夫だから、ね?」
「?」
言いたいところを把握できなかったが、後で訊けば良いかとイリアの脇を通り過ぎようとしたら、今度は完全に押し留められた。
「……私が運ぶから、カズは……待ってて良いから」
「いや、大丈夫だよ。自分の分ぐらい……」
「いいのっ!」
ますます動機が分からなくなったところで、彼女に回れ右させられ、ほぼほぼ強引に座らされて待たされることになった。理由を訊こうにも、今の様子じゃ珍ちくりんな答えしか得られなさげで、事を荒立てない選択肢は一つしかなさそうだった。
自分以外が動いていて、一人だけ待ちぼうけをしているのは酷く落ち着けなかった。
上げ膳据え膳というものは僕には贅沢すぎるもので、自分の用意や準備をするのが当然である身には苦痛と言っても差し支えないほどに息苦しく思えた。
どうしてイリアはこんなことをするのだろう、と彼女を見ながら考える。ミリアスがなみなみとよそった皿を慎重に支えて、クラムと一緒に食卓へ並べていく。皿から放した両手を熱そうに振っているのを見ると、なんとも言えない不安と心配が頭をもたげてくる。
クラムとの会話がフラッシュバックのように僕を苛む。
必要とされたい。足手まといだと思われたくない。イリアが純粋に手伝いたいだけならそれで構わないのだろうけど、もしも僕が原因だとしたら――――それはただただ彼女を苦しませているだけではないのだろうか。無理をさせているのではないか?
僕の事なんてどうだっていいんだ。僕のために何かをする必要なんてないのに。
色んな思念が僕を啄んでいく。申し訳なさ、不甲斐なさ、有り難み、不安、恐怖。
この場に居る全員分の皿が並び、それぞれの皿の前にみんな座った。僕の位置から右手にイリアが、向かい合う位置にミリアス、その左隣にクラムがいる。
「冷めない内に頂こう……龍の御霊に」
ミリアスが号令を掛けると、食事が始まるはずだった。
が、真っ先に手を付けたのはクラムだけであり、調理した本人とイリアは……ぎこちなく僕の皿を見ているのに集中していた。匙を取ってはいるものの、自分の皿に沈める気は更々無いように見える。
「…………」
訊ける雰囲気ではないので、気にしないことにした。
食事全体としては実にシンプルだ。スープか、それともシチューと言うべきなのか。赤褐色の反射が強い液体に、煮込まれた数種類の肉、野菜、米に近い何か。
二人に観察されながら口を付ける。十分に美味いのだが、味に集中できそうになかった。
「……どうだ、味は」
見計らったようにミリアスが尋ねてきた。作った本人としては当然気になることだが……どうして僕なのか。隣で無我夢中にがっついてる人がいるだろうに。
「……美味しいですよ。味も、色味も良い」
味としてはビーフシチューに近い。それをもっと香ばしく、濃くしたようなものだ。
程よく煮込まれた崩れた肉と野菜の食感もたまらなく、溶け出した旨みを十二分に繊維の中へ溜め込んでいる。噛むのが楽しい食事というのは実に素晴らしいものだ。
影響されたら負けだと思って、食事を進めた。匙を沈めて、具材と共に掬って、しっかりと味わってから飲み込む。パフォーマンスという訳ではないが、お世辞などには捉えて欲しくなかった。
「そうか……そうか、なら良かった」
どう見えたのか、ミリアスの声はどことなく他人行儀だった。
自分自身が褒められているような調子ではない。言葉の矛先は……視線と共にイリアへ向けられていた。
「……イリア?」
彼女のスプーンは綺麗なままだった。固く握り締めて……まったく対照的に、その表情には光がある。緊張から解き放たれたような、安堵の見える笑顔だった。
「……カズ、美味しい?」
ミリアスが尋ねたことを、彼女はもう一度僕に問いかけてきた。
なんとも妙に感じた。自分がまだ食べていないのに、どうして訊いてくるのだろう……苦手な食材でも入っているのだろうか。それなら分かるが。
「あぁ、美味しい。すごく美味しいよ」
イリアも食べてみたら良い、と勧めてみる。風味からして冷めると脂が固まる……そうなったら味も落ちるし、食べられるものも食べられなくなってしまう。
「そう、そう……ふふふっ」
笑みを溢して、随分と嬉しそうに食べ始めた。進みようからして、苦手なものがあるようには見えない……さっきの質問にはどんな意味があったんだ?
窓の外が皿の中身より赤黒く、そして青ざめるまで、僕にとっては温かすぎる食事と雰囲気を味わうことになった。クラムが連れてきた友人をミリアスに見せて、数時間前の出来事を絡めながら新しい会話についてを語り、昨日から付きまとう影はどこにも見当たらなかった。
「ミリアス、これはまだ残ってる?」
会話の区切りを狙って、僕は尋ねた。昼食を抜いたからか、まだ腹に余裕があった。
「あぁ、明日の分にと余計に作ってはある」
「それじゃあ……」
立ち上がろうとすると、またイリアに止められそうになった。
「私が持ってくるよ……カズ、お皿借りるね」
「いや、大丈夫だよ。これぐらいなら……」
流石に自分のお代わりぐらいは自分で動かなければ。自分のことに誰かを使うことは大の嫌いだ。
「いいって……カズは座っていてってば」
「いや、だから大丈夫だって……」
やはり、どこか不安定な振る舞いであるような気がする。ここまで動くような人物ではなかったはずだ。どことなく必死にも見えるし、イリアらしくないような……。
〈カズマサ、おい〉
ミリアスの声が聞こえたと思ったが、彼の口は開いていなかった。
〈……やらせてやれ〉
もう使いこなしたようで、自分の内面を隠すような目付きで僕の方を見ている。僕はどうにも理解しきれていないようだった。イリアがこうなっているのも、ミリアスがそれを良しとすることも。
ただ……僕の知らない彼女が、本来の彼女なのだとしたら、これが正しい「イリア」なのかもしれない。僕は本当に何も知らないのだから。
「……その、それじゃあ」
取り合いの標的となっていた皿から力を抜いて、彼女にしっかりと持たせる。
「半分ぐらいで、ええっと……お願い、できるかな」
「半分ね、待ってて」
幾分か軽い足取りで向かって、慣れた手つきでよそって――――見えないようにしてはいたが、恐らくは指でひとすくい分のつまみ食いをして――――僕の元へ戻ってきた。
「はい、どうぞ」
僕の前に置いて、イリアはどことなく嬉しそうだった。
誰かのために動くことは悪い気にはならないが、される側はこんな気分になるものなのだろうか。僕はずっと「する側」にいて、イリアは今の僕がいる立場だった。
「……イリア、有難う」
感謝という言葉を伝えるだけではまだ不釣り合いなように思えたが、何をすれば釣り合いが取れるのかは分からずじまいだ。僕が出来るのは言葉を伝えることと……触れることぐらいで、果たしてそれが正しいことなのかという迷いが僕の行動を抑止しているのだ。
そう、迷っているのだ。
イリアが喜んでくれるのかではない。触れたいという欲求から僕は動こうとしている。なんとも自己中心的で、情けないというか……みっともない。
そして、触れる理由を見つけてしまった。
「……ごめん、ちょっと触れるよ」
努めて平静に断ってから、彼女の頬を拭った。これまでだったら何も思わずに行えたであろう行為が、今ではあれこれと余計な感情に裏打ちされてしまっている。
「……?」
拭った後の手を戻そうとすると、彼女の手が僕を捕らえた。
少しばかりの沈黙が過ぎた後、拘束はさっと解けた。
その時のイリアの表情の変化が、何かしらを物語っているように思えた。
が、今の僕には到底理解できるものではない、とも思った。




