60 賢人の物見台
思考を止めていたことに気付いたときには、周囲の景観が変わっていた。
何分、いや何時間も立ち続けていたような感覚がある。立ち疲れたような浮遊感――――気を抜けば、身体が浮かび上がってしまいそうな不安定さ。
自分がいる空間を見渡す。転移装置もない、辛うじて建材の接合部が薄く見える小部屋の中。僕の目の前に広がる光景は無機質そのものだった。
背後を見ようとしたとき、バランスを崩してよろめいた。
妙な感覚だ。しっかりと立っているはずなのに、水の中にいるように上手く動けない。
身体に残る不安は、振り返った先の色彩に追い払われた。
「…………襖?」
鈍いクリーム色の下地に、くすんでもなお鮮やかな紅色。
間違っても、真っ白なプラスチックの小部屋に付いてて良い代物じゃない。時代の経過すら感じられないこの空間で、懐かしくも感じるその襖だけが時の流れを見せている。
その不可解さ、不気味さにもかかわらず、僕はそこに一歩進んだ。
思考そのものを嘲笑うような出来事ばかりだが、そこが出入り口であることに違いは無いだろう――――どこかで見た覚えがある、その模様の先に何があるか。
空間の異質さにやられて、その先に誰かが待っていること、それに追随する緊張や不安はさらさらなかった。そこまで僕の懸念が回らなかった。
人間は適応するものだと良く言われる。僕もそうだ。
入り口がどこまで異世界だろうと、襖の先に和室があるのは当然だ。
そう考えるぐらいには、僕も可笑しくなっているのだろう。
そして、既視感、懐かしさの正体にも思い当たった。
八畳の室内に、丸ちゃぶ台、箪笥、上にある小物、開ききった障子の向こうにある寂しい庭。全てに見覚えがある。
僕の家だ。
「……よぅ来てくれたな」
待ちかねたような少女の声。その人物はちゃぶ台を挟んで座っていて、僕の記憶に唯一存在しないものだった。
白糸のような銀髪、赤目。あまりに白すぎる肌に、フラクタルな群青色の着物。
同年代か、少し年下か。顔立ちは年端もいかない、声色通りの顔だったが、どこか垢抜けたような、印象に沿わない不可解さもある。
「何時まで突っ立っておるつもりじゃ? ここは主の家じゃろうて」
軽く首を傾げ、からかうように催促する。
この子が件の人物なのか――――とてもそうは思えない姿だが、今の状況に常識なんてあったものじゃない。気は抜けないが、開き直りたい心境もある。
僕の家、か。ここが地球だとでも?
そうだ、革靴。
一歩踏み出す寸前で思い出し、足下に目をやる。
「……どうかしたか?」
履いてなかった。見やった瞬間、気付いたように靴下越しの畳の感触がやってくる。
少女の声色は全てを分かっているように楽しげだった。そういうことだろう。
彼女と相対するように座り、見据える。未だ身体にかかる重力が妙な気がして、数ミリ浮かんでいるような不安感が残る。
僕を呼んだ理由も、意図するところも不明だ。僕が出来ることは何も無い。
「そう固くなるな。寛いで構わぬし……むしろ楽にしてくれると助かる」
言いながら、少女は片手を虚空に伸ばした。
そこに何があるでもないのに――――唐突に、何かが手元に収まった。
「ちぃと待っとれ……済まぬな、浮かれすぎて忘れておったわ」
それは急須だった。
もう混乱することも無かった。「そういうものだ」と受け入れるようになったのは、果たして適応なのか、思考停止なのか。
同じように湯飲みや木製の盆、その上に包装された茶菓子を出し、ちゃぶ台の上が賑やかになった。
「さて、我が誰かを伝えねばな」
随分と慣れた様子で彼女と僕の湯飲みに中身を注ぎ終えてから、仕切り直すように姿勢を正した。
僅かに波紋が残る薄緑色の液体は――――懐かしい香りがした。
「名をウィズネア。賢人、龍の御霊などとも呼ばれておるな」
少女――――ウィズネアはにこりと微笑んだ。
彼女が口にした名詞はどれも聞き覚えがある。教団の固有名詞でもあり、ガルシアが言っていた地名にもあり、おおよそ神に類する意味で使われる単語だ。
この世界にそんな存在が居るのかは甚だ疑問だが、現に僕はここに居る。
「分かりやすく言えば、主らを連れてきた張本人じゃな」
本人から答え合わせがされる。僕を異世界に連れてきた本人であると。それが出来る存在だと。
だがそれが何だろうか。その事実が何になる?
「…………」
ウィズネアが笑顔のまま、どこか期待するように黙った。
何を待っているのだろうか。自己紹介か、僕をこの世界に連れてきた理由を尋ねて欲しいのか、それとも別のこと――――僕が思いつかないことだろうか。
変に口は開けない。望まれる言葉が何か、僕はまだ分かっていないからだ。
「……喋らぬ男じゃなぁ。聴きたいことも、話したいことも無いのか?」
呆れられるまでに三十秒ほどだろうか。特に沈黙が気まずいようには思っていないようだ。
しかし、何を喋るというのか。僕は彼女を知らないし、訊く必要があることも思いつかない。そもそもここまで来た理由すらも不明なままなのだ。
――――思い返せば、ずっと受動的に動いてきた。
この世界に来てから、能動的に動いた覚えが殆どない。イリアを助け出してから、シナ村に向かうのも、襲われて逃げるのも、戦うのも、移動するのも。
僕がここに座っているのも、僕の意思じゃない。
「おーい」
「ッ!?」
ウィズネアの顔が直ぐ傍にあった。
「まったく、確かに我が呼んだ訳じゃし、望んでいないことかもしれぬ。しかしここまで無視を決め込まれるのは傷つくぞ……むぅ」
乗り出した身を戻しながら、彼女は緑茶を啜った。
「済みません」
初めて彼女に向けた言葉だった。普通ならあれこれと話せるものなのだろうが、純粋なコミュニケーションというものを殆ど取らずに過ごしてきたのだ。僕にまともな会話を求めないでほしい。
「そう言われてものぅ、主の声は魅力的じゃて。たんと聴きたいのを分かってくれんか?」
…………え?
「おっと、やってしまった」
そう口走るが、ウィズネアの顔は「してやったり」と言っていた。
彼女がさっき話した内容、まさか。
「ま、その通りじゃ。別に気にすることでもなかろう?」
茶菓子を一つ手にとって、包装を破りながら、なんでもないことのように喋る。
確かに、この前にカロと似たようなやり取りもしたし、そこまで抵抗がある訳でもない。思ったことが全て筒抜けなのは問題以外の何者でもないが……何だろう。
開き直った方が楽なことに違いない。
「じゃーかーらー、口を使っとくれ、口を!」
頬を膨らませ、ウィズネアが感情的に言うものの、そことなく演技臭さが抜けない。
ガルシアの話しぶりと似ているが、彼女は完全に僕を弄ぶためだけに努力をしているように思えた。
ただ、その口の軽さ、砕けた雰囲気に喋りやすいとは感じた。
僕のためにそうしてくれているのなら、有り難いことである。
「…………強情すぎぬか?」
「なら、どうしてここに?」
何も隠し立て出来ないのなら、僕は服従するしかないだろう。
あれこれする前に僕の全てが曝されているのだ。理解されているかは別として。
「何のために、僕を連れてきたんですか」
初対面の赤の他人に――――ガルシアは特殊すぎるから別として――――ここまで強く話すのは何時振りだろうか。初めてかも知れない。
そんな僕の反応に、彼女は心底嬉しそうな顔を作った。
「お話しするためじゃ」
「は?」
「そのままの意味じゃな。主とお喋りして、仲良くなるというか……心を許して欲しいというか、な?」
そのために呼んだと? 余計に訳が分からない。
本当に話すだけ? 何の意図もないのか?
「……そこまで混乱することか? 我が主と仲良くなりたいと思ってはならぬのか?」
それが不可解すぎるのを分かって言っているだろう。
異世界に攫ってきた張本人が、僕と仲良くなりたいから話したいと?
何が目的なんだ? 僕をどうしたいんだ?
というよりも、やることが大がかりすぎないか?
「あぁあ、落ち着きたもれ! 混乱させるつもりはないのじゃ!」
多少慌てた様子で、ウィズネアが僕の思考を遮ろうとしてきた。
「……コホン。済まぬ、我もこういう会話に慣れてなくてなぁ」
「慣れてない?」
「そうじゃ、何せ面と向かって、目的もなく話そうとするのは初めてじゃて――――いや、主に信頼されて、仲良くなりたいという目的そのものはあるんじゃ。が、そういう対話をしたことが無くて、経験不足という奴じゃな……」
話している今現在も、どこか試行錯誤するようにあたふたとしている。初対面に使う表現ではないが――――完全そうな存在の不完全な一面を垣間見たような気分になった。
共感というものだろうか。
彼女が――――真偽は置いておいて――――僕と同じように、コミュニケーションを苦手としていること。そう思うと、多少なり気が軽くなった。
手遅れだが、こんなことを思って大丈夫だろうか。
ちらと見やった彼女の瞳には、申し訳なさげな僕の顔が映っていたことだろう。
口を湿らそうと、湯飲みの中身を半分ほど啜る。
甘さと苦み、間違いなく日本茶のそれだった。
「……好きじゃろ? その飲み物も、この部屋も」
話題に出来ると踏んだらしく、ウィズネアが尋ねてくる。
「ええ、まぁ。その……」
会話を膨らませたいが、どう広げればいいのだろう。
僕自身のことを話せば良いのだろうが、興味を持たれるようなことなど何もない。
「平気じゃ、主のことは『そこそこ』知っているつもりじゃからな」
中央に置かれた盆から一個、僕の方に滑らせてきた。
既視感のある包装、確かに知っているようだ。
「自転車で一時間半、よくもまぁ苦にならないものじゃなぁ」
六角形の、細かな粒子が素朴な色彩を作る和菓子。
彼女の言うとおり、片道数十分の道のりを通って、常食していたものだ。
かなり堅いが唾液で容易く溶け、全体に甘味が残る。
これも間違いようがなく、いつも食べていた茶の供、麦落雁だった。
「にしても……我から言うのも何じゃが。この姿、気に入ったかの?」
互いに落雁を数個噛み砕いた後、思い出したようにウィズネアが尋ねた。
「嫌いじゃないです」
ひらりと見せびらかしているその装いを言っているのなら、僕は嫌いじゃない。
西洋顔に着物というのも変ではあるが、合わない訳ではない。結局顔が整っていれば何でも似合うものなのだ。
「やっぱり、この顔はちと変か……」
顔? 顔も変えられるのか。髪色や光彩からアルビノの類と思っていたけど……。
何だ、何かが引っ掛かる。
別にその事実が可笑しいわけではない。言い様からして、出来て当たり前のことなのだ。
そこに疑念の余地はない。何が引っ掛かるんだ?
「……主が好むと思ったんじゃがなぁ。分からぬ」
頭の中に虫が入り込んだように、むずむずとして歯がゆい。
「――――――クラム」
言葉にしたときには、何故言っていたのか分からなかった。
が、あることを思い出した。一度だけあった、不可解な行動。何も付けずに僕の声を聴いて、何もせずに消えていったあの時のクラム。
ぴたりと型にはまった時のように、不快感は消えた。
記憶は定かじゃないが、彼女に面と向かったときの感覚と似ていたかもしれない――――何故そんなことを今この時に思い出しているのか、という疑問が残るが。
「そうそう、我慢していようと思ったのじゃがな」
僕の言葉か思考にウィズネアが答えた。
まさかとは思うが……いや、あってたまるか。
「貴女だったと?」
「そ。驚かせたかったのと、ちと事前に練習しておこうかなと。誰かの振りをするのは楽で、ああして会話もそれなりに出来たんじゃ。今と違ってな……」
少し恥ずかしがるように俯いた後、見せたいものがあると立ち上がった。
「ほれ、来い」
僕に向けて手を伸ばしてくるが、別に一人で立ち上がれる。
彼女は何故か不満そうな表情を一瞬見せて、先に縁側の方へと歩いていった。
「何を見せるって言うんですか」
声を出すのに躊躇はなくなっていた。向こうが勝手に思考を読んでくれるのは有り難いが、一方的に喋ってもらうというのも申し訳なく思えてきたのだ。
「主、星が好きじゃったろう?」
「……好きって程でも」
趣味の野宿で夜空を見上げていたぐらいだ。澄んでいるときの星々は本当に美しかった。
僕がウィズネアの隣に並ぶように立つと、彼女は指を鳴らした。
変化は一瞬だった。
「……別に指を鳴らす必要は全く無いんじゃがな」
そう言ってあざとく笑う彼女に目もくれず、僕はただ目の前の景色に全てを惹き付けられていた。
完全な黒、虚空。
どこまでも単色で、どこまでも深く吸い込まれそうだった。
その広く、恐ろしい空虚の中に、両手で持てるほどの球体と、それよりも小さい――――だが月よりもずっと大きい球体とが浮かんでいる。記憶に似たものはあれど、詳細は全くと言って良いほどに違う。
表面に見える――――青くない図形は、いつか見た「大陸」の形に似ていた。
月にも雲のような大気が見えた。
「静止軌道上じゃ。主が数分前までいた施設の真上、ざっと四万キロじゃな」
彼女の声が予想よりずれた位置から聞こえた。
視線をようやく動かすと、ウィズネアの足が床に付いていないことが分かった。
「ずっと妙に思っていたようじゃな、ちょいと重力の調整が甘かったのかの?」
ゆっくりと回転しながら彼女は喋り続ける。天井に足が付くと、軽く押して戻ってくる。
僕自身の状態も――――今更という感じであるが――――確かめると、つま先が床を蹴った。やってしまったというのは直ぐに分かった。
「ほれ、捕まえた」
上方後ろへ進み始めた僕の身体を、ウィズネアが掴んで戻してくれた。同時に重力も戻ったようで、内臓が浮く感覚もなくなった。
その手は――――温かいとは思ったが、生き物のそれとは違うように思えた。
「本物の『賢人の物見台』。どうじゃ、気に入ってくれたか?」
「……えぇ、まぁ」
突拍子もない出来事――――贈りものか――――が多すぎて、嬉しく思っているのか自分自身でも怪しい。常識から外れすぎていて、喜ばしいと分かっていても、僕の脳味噌が理解に及んでいないようだった。
「そうか、気に入ってくれたか……嬉しや、嬉しや」
多少乱れた着物を直しながら、本当に嬉しそうにしていた。
悪い気はしない。される義理というものがさっぱり思い当たらないのが怖いが。
特に彼女は答えない。気にしていないのだろうか?
「――――ひとつ、訊きたいのじゃが」
直し終えると、多少改めるように声色が落ち着く。
「戻りたいと思うか?」
故郷に、ということだろう。本来なら悩むところなのだろう――――あの四人組のように。
「…………いえ、特には」
向こうに良い思い出など残っていない――――住み慣れたあの家が唯一恋しい。
「……そうか、ちゃんと上手くいっておるな……」
「ん?」
上手く、何が?
そう疑問に思うが、彼女は特に慌てることもなかった。
「――――説明は面倒じゃ。主はあれこれと特殊じゃから」
「特殊?」
ガルシアも似たようなことを言っていた。与えられるのではなく、奪われたのだとか。
「その通り、見方によってということもなく、主は『奪われた』ギフテッドじゃ」
「え?」
どういうことだ。奪われたギフテッド?
僕が見えないのも、「姿を消した」のでなく「姿を奪われた」からだと?
「そうやって混乱しているのが、何よりの証拠じゃろうて。嘘偽りなく、主は特殊なのじゃ」
そこで口を閉じ、数秒間じっと遙か先の惑星を見つめていた。
何かを伝えたいようにも……迷っているのだろうか。だとすれば――――どちらにせよ、まだ話していない事実があることになる。
そう僕に思わせたいと考えてしまうのは、疑り深いだけか。
「――――聡明じゃな。免じて話すとしよう」
根負けしたような素振りで、自嘲気味に笑った。
その笑い方は――――僕が言うのも変なことだが、子供に言い負かされた親のようにも見えた。絶対に間違った見方であろうが、僕はそう思った。
「……奪ったのは、姿や声だけではない」
口調が変わった。
大きく変化した訳では無い。ただ少し、わざとらしいとも思えた語尾や口調が薄まった。
彼女自身も、この部屋と同義なのだろうか。
いくらでも変えられる、望むようになれる。
「朝凪、それが何か思い当たるか?」
悪戯っ子のような薄ら笑いを作って、僕の顔をまじまじと見つめてくる。
分かるまい、と言いたいのだろう。確かに思いつくことはない。
二十秒ほど考えてみたが、思い当たるものは無かった。
「なら、助言してやろう」
僕が答えを導くことが重要であるかのように、ウィズネアは回りくどかった。
「主に尽くすものが居るじゃろう。ずっと気になっていることが有るのではないか?」
「ガルシア……」
彼女の言うのが彼であるなら、気になることはある――――と言うより、存在そのものが疑問や疑念で固まったような存在だ。元の姿すら知らない、人格のみの存在。
彼の何が、彼女の言う対象なのだろう。
彼自身……ではない。その顔は違う。なら……僕を知っているような素振りを見せ続けていることか?
彼女は語らない。先程の表情とは違うあたり、当たらずとも遠からずと言うことか。
僕をよく知っているような素振り。誰にも言った覚えのないことも知っていて、決して人当たりの良くない僕にあそこまで付きまとってきて、気を回して。
知っている「ような」ではない。彼は「知っている」と信じて良いだろう。
そうだ、ずっと言っていたことだ。
最近は気にも留めなくなった、あの戯れ言のようなもの。
「――――『言えないことリスト』」
望んだ答えであるように、ウィズネアは頷いた。
忘れていたのは、此方側に来てからの忙しさからだろうか。
彼が話せなかった内容は、何かしら僕に関連するもののようであったし、その制限が出来るのは彼女以外に存在し得ないだろう。
それが答えであるのだから、つまり。
「記憶、ですか」
「と言うより『思い出』じゃな。どうでもいいことは思い出せるじゃろう?」
口調が戻った。真剣味が幾らか薄まり、今の彼女を構成する人格が濃くなる。
「何が違うんです」
記憶、思い出。大体同じものを指すだろう。
「価値じゃ、価値。情報の価値が違うであろう」
「価値?」
「四日前の昼飯を思い出せるか? 殺してきた雑兵を思い出せるか?」
「……思い出せるのは、それだけの価値があると思っているから、ですか」
「もうちょい詳細な区分けじゃ。記憶そのものには須く価値がある。我の言う『思い出』は、その価値が相対的に高いものを言っているのじゃ」
高価値な記憶、それが思い出。確かに言えている。
だが、僕にそれがあるのだろうか――――そこまで考えて、慌てて止めた。
そう思っている時点で、「思い出」というものを覚えていないことに違いないのだ。
あったとしても覚えていないのだから、残る事実としては「そんなものはなかった」ことに変わりない。
それは逆説的に――――僕にも「良い思い出」というものがあったことになるが。
「確かにあったからのう。じゃなきゃ喪いもしまい」
答えに辿り着いた褒美じゃと言って、僕へ完全に向き直った。
「一つだけ、その思い出に関する質問を許そう。奪ったものが何かは言えぬがな」
「何故?」
「詰まらぬじゃろう。教えることも出来るが、それでは奪った意味がない」
「僕の思い出を奪う意味があるんですか」
「うむ、ある。これもまた特殊な理由じゃがなぁ」
そこまで言って、一つ懸念が生まれた。
――――さっきの質問が、彼女の「ひとつ」に入ってしまうのではと。
その笑顔は、クソ、そういうことだ。
「……主がそうなった原因は言えぬが、彼奴が関わっていることは言えるな」
「ガルシアが」
「そう。別に彼奴が何かをした訳では無いからな。嫌うでないぞ?」
あいつが僕に関わるのには、ちゃんとした理由があるらしい、ということだ。
訊ければ早いのだが、そういうわけにもいかない事情がある。覚えていない奴に対して結構な仕打ちだと思うが、僕にどうにか出来るものじゃない。
「……おまけで教えておくが、ざっと六年から七年じゃ。それ以上前の記憶は弄っておらぬし、林の中で目を覚ましてからはノータッチじゃからな」
「六、七年……?」
と言うと、あいつらを殺す前か直後から、僕がこの世界に連れてこられるまで、か?
情けなのだろうが、それだけではさっぱりだ。
「…………全て教えたとして、信じぬだろうしな」
まぁ、「知らないことを知っている」状態だけマシにはなった。
そう願いたい。
「さて、向こうの話し合いも済んだようじゃな。本当に口の上手い奴じゃ」
「……彼が僕にここまでするのは、僕の過去に関係があるんですか」
見えるものなのか、遠くの異世界を見据えるウィズネアに尋ねる。
「うーむ、過去というよりも…………主が主たり得るから、と言うべきじゃろうか」
誤魔化す様子は無い。嘘かは分からないが。
「僕が僕だから?」
「主が分からぬだけじゃ。忘れてるだけでな」
「つまり、僕にとって『価値ある』存在だったと」
「じゃな。主に誰よりも近しいものじゃった……主そのものであるように」
含意があるように、彼女は笑った。
「こうして直に話せて実に楽しかった。これが会話というもの……実に奥ゆかしい」
「会話というには、余りに一方的な開示ですけれども」
僕の方は筒抜けで、彼女は秘密のベールが幾層にも。
「我にも知れぬものはあるのじゃぞ?」とウィズネアは反論する。
「主が考えていることは分かるが、何を目的にしているかまでは分からぬ。口にすること、しないこと――――何がそれを分けているのか、我には確かめられぬことじゃて」
あくまで思考を読めるだけ、そこにある意味や目的は自ら推測するほかない、と言いたいのだろうか。
「考えていまいと、起こる事象も数多いものであるしな」
一瞬目を離した隙に、僕の首筋に彼女が触れてきた。
その無機質さ――――熱くも冷たくもないその感触に、僕の身体は咄嗟の判断を下していた。
「……こんな風に、な?」
ウィズネアは冷静だった。
僕の思考はここまで意識していなかった。手を振り払うだけでなく――――彼女の首元を握り締めようとなど、考えていない。
「そこに触れられると弱いのは知っていたが、ここまでするとは我も予測できぬ」
首に掛けられたその手を取ると、自らの頬へと寄せた。
「本当に可愛い、愛くるしいものじゃなぁ」
瞬時に感覚が消えた。これには覚えがあった。
五感だけが奈落へ落ちるような感覚。
この世界へ来たときの、あの時の。




