35 大緒戦 零
ここは平原だった。木がまばらに生え、人の通った痕跡すら無い、青草の生えた荒野だ。
僕は立ち上がった。
痛みはもう無い――――というよりも「気にする必要がない」と言うべきか。あんな高所から落ちて服に泥が付いただけなのだ、危険シグナルの存在する意味が無い。
痛い痛いともがいたところで、体に不調はまったくない。ならば真面目に付き合う必要など無いに決まっている。
本来なら、ああなるはずなのだろうが。
僕から十数メートル離れた地面に「それ」は転がっている。骨を抜き取られたように四肢はぐにゃぐにゃで、身体もゴムのようにだらしがない。
あれだけ叩いていた軽口は息を潜め、その息すらもすでに消えている。辛うじて形の残っている頭蓋骨は中身を放射状にばらまいていた。あの脳味噌にどれだけのジョークや嘘が詰まっていたのだろう。聞かずに済む安堵と好奇心が同居している。
何が僕のためだ。振り回すだけ振り回して、最期はこれか。
歩み寄りながらなんとも言いがたい感傷に浸るが、側頭部を踏み砕いてけじめを付けた。
今は彼の骸に愚痴を言う時間じゃない。自分の意思で来てないが、だからといって曇り空を眺めながら帰るのも――――面倒くさいことが一番の理由だが――――面白くない。
遠くに何かが響く音が聞こえるが、緩やかな稜線の向こう側からだ。聞き慣れないが、何かは察することの出来るそれが重奏のように大気を震わせている。
手元に視線を落とした。僕と同じように土を被っているが、その異形さは一欠片も散ってはいない。相も変わらず不気味な旧さを感じさせ、不安を煽り、身体の奥まで侵されるような一体感をじわりじわりと肩へ這い上らせている。
カロに言われたとおりに、安全装置を外す。
グリップの先端に、親指が嵌まる程度の窪みがある。その通りに突っ込み、左へ捻るように回す。抵抗はなく、しかし確かな質量を持ってそれは固定された。
「わっ」
手の内が冷たくなった気がしたのと同時に、フラクタルな輪郭が明確になる。
特に起動音らしいものはしなかった。とても静かに、夢から覚めたようにこの装置は動き出したのだ。
人差し指に新しい感触を覚えた。間違いなく引き金だろう。
〈アサナギさん?〉
「わぁっ!!」
情けない声を上げてしまう。唐突に他人の声が耳元ですれば誰でも驚く。
〈あっ、御免なさい。驚かせてしまいましたか〉
カロの声だった。こうして再び無線機の存在を思い出す。
「いえ、大丈夫です」
努めて冷静に戻ろうとするが、深呼吸すら相手に聞こえてしまうだろう。
右手の感覚で操作を推察しつつ、僕は疑問をぶつけてみようと思った。
「僕に何か?」
〈ええ。操作方法と危険性はお話ししましたが、やはりそれを見ず知らずの場所で使われるのも末恐ろしく感じまして。なんとも信頼していないような言い方で申し訳ないのですが…………〉
「いえ、ごもっともだと思います」
〈ええ、はい、そう言って貰えると……〉
久しぶりな日本人同士の会話だった。どちらも相手が不機嫌になるのが恐ろしく、おっかなびっくりな言葉の選びようは民族独特と言っても良いのかもしれない。
〈言うのをすっかり忘れて……悪気は無かったのですが、貴方とその周囲を調べるためのセンサー類と中継装置をそれに追加していたんです。ほら、あのガチャガチャしてた時に〉
「あぁ、その時に」
心当たりはあった。この装置のことを途切れぬ早口で喋り、何処から出したかも分からない芸術性の欠片を取っ替え引っ替えしていた時だ。
一字一句覚えているわけでは無いが、右手のこれがどれだけ恐ろしいものかを数度に渡って念入りに教えられた。
これは欠陥品で、本来の目的以上に危険かつ驚異的なものになっている、と。
〈それはそうと……あの、大丈夫なんですか?〉
話題が変わり、その問いの意味が少しの間分からなかった。
「…………落ちたこと、ですか?」
〈そうです。二人が高度二千三百メートルから自由落下したのはこっちでも確認しました。もう一人は多分ガルシアさんなのでしょうけど……その…………〉
言葉が濁るが、聞きたいことは分かる。
「ええ、死にました」
〈ッ……です、よね。でもアサナギさん、どうして貴方は……生体反応にも映りませんし……〉
「分かりません。理由も何もさっぱり」
随分とお喋りだ、と思った。今の僕は良く喋る。何故だろう。
〈…………まぁ、それがアサナギさんへの贈り物なのでしょう。お話しもここまでにするべきでしょうし、その、後でお話ししましょう〉
皇国軍がすぐそこまで来てますよね、とカロが確認するように言う。
確かにその通りだ。もうすぐ音の源は百数十メートル先の稜線を超えてくるだろう。
〈操作方法は大丈夫ですか、出力は考えてるよりも抑えて下さいね。あと三秒以上照射し続けないで下さい、よしんばアサナギさんが不死だとしても周囲の酸素が…………〉
もう聞く必要は無いと思ったからか、カロの言葉が遠くなっていった。
全部あの時に聞いた内容だ。
『これは一種の加速器です。このタンク内に充填されてる化合物……性質が私達の科学水準では説明しがたいのですが、液体と気体の両方の性質を同時に持つものです。
それを光速の46パーセントに加速、射出し、結果として物体の溶接や溶断を引き起こします。バーナーとも、粒子加速砲とも言えますね』
カロはそう話して「これ」を僕に手渡した。
噛み砕いて説明してくれているのだろうが、それでも理解が及ばない。
まぁ、使えれば理解できなくてもいいだろう。高度に発達した科学は何とやらだ。
〈…………聞いてます? アサナギさん〉
「済みません、操作に集中してました」
そう嘘をつき、改めて操作を確認する。
親指で出力調整、トリガーで照射、一定の発熱で自動停止、冷却は五秒程度。
そして出力の確認なのだが――――妙な感覚で説明し辛いことこの上ない。それらしい表示は全く無いのだが、「このぐらいだ」というレベルの認識が直感のように入ってくるのだ。
エンジンの回転音の高低で出力を確かめるような、調律師が音で度合いを測るような、そういった感覚で認識することが出来る。
見てもいないのに分かるのは実にむず痒いものであるが、それ以外に確認のしようが無いのも事実だ。慣れるほかあるまい。
音の先鋒は稜線を越えてきていた。
ハーフトラック、で良いのかは分からないが、荷台部分がいやに重厚な車両が黒煙と共に姿を現す。歩くような速度なのは、その荷台に大量の「モノ」を載せているからに違いないだろう。
〈まだ認知範囲の端だけなのに、なんだこの人数……本当に大丈夫ですか?〉
「はい」
さっきも聞いたような心配に空返事を返し、もう少しだけ出力を上げる。
間近にある緩やかな地平線は僕を囲うように広がっているが、見えているだけで七台は横に並び、後続がどれほどかは想像することも難しそうだった。
『……なのですが、これは欠陥品です。元々故障していたものを修復したのですが、射出機構の部分は不完全なままで、収束するべき粒子が拡散し、亜光速かつプラズマ化した粒子が――――――――まさに火炎放射の如く。被害はそんな比じゃなくなりますがね』
トリガーに指をかけると、ぼんやりと直線が伸びるのが見える。
どれだけの威力があるのか、反動があるのか――――初めて使うものに関してはどれにでも言えるだろうが――――やはり上手く使いこなしたいという思いが身体を強ばらせる。
〈まだ増える…………何千、いや万……?〉
走っているのはトラックだけじゃない。随伴する歩兵の縦隊、牽引された野砲、空に向けられた銃剣と小銃、素人目に見ても近代の軍隊の行進だ。
人海戦術の本懐か、見えている人数だけでも十分に気圧される。もし見えていたらと考える必要も無く、これだけの数の前に立ちたくない。
腰を落とし、重心を前に倒し、右腕を中央に添え、左手で支える。
一通りの行動を心でなぞりながら深呼吸し、人差し指を一度伸ばしてから力を入れる。
大丈夫だ、ただ引くだけ、それで終わる。
『…………それと、この装置自体は固定して試験したのですが、例の事故の回収時には後方数百メートルまで吹き飛んでいました。運動の第三法則……本来は打ち消すテクノロジーが機能するはずなのですが、恐らくは……運用は慎重にお願いしますよ』
意識が反応するまでに、どれだけのことが起きただろう。
先ずは、熱いのが分かった。
皮膚が焦げ付く感覚というのか、ひび割れて剥がれていくようなペリペリとした痛みと触覚、それに続く空気の対流は奥の筋肉さえも削ぎ取るような鋭さがあった。
視界がぐるぐるしたのも覚えている。右肘から先だけが後ろにまっすぐ飛んでいったように感覚が失せ、物体の輪郭が完全に消失した光景を見た。脳味噌が頭蓋骨にへばりつくような遠心力も、地面を抉る勢いで叩きつけられた腕への衝撃もなんとか覚えている。
〈………………! …………………………〉
耳元でカロが喋っているが、聞き取れない。
静かな世界だった。僕は再び曇天の空を見上げ、じわりと思い出したように浮いてくる痛みを順番に忘れようとしている。
とにかく落ち着いていることが一番重要だ。パニックになると簡単なことさえ理解できなくなる。
――――――だが、左手が地面に埋まっているのだけは理解が及ばなかった。
痛みかも分からない痛みと、何かが纏わり付いたように動かしにくいことしか分からない。つまりは触覚と痛覚だけでは想像が及ばない状態で、視線をそちらに送ることで――――ようやく何がどうなったかの確認が出来るようになった。
僕の左手は地面に埋まっていた。
それだけなら良かったのだが、その部分は深く抉れ、見える面は焦がしたパンのように真っ黒で、亀裂からは血肉のような赤が顔を覗かせている。その焦げた面の中に僕の手が突っ込まれているのだ。
引き抜くと、冷めかけのシチューのようにボタボタと切れ端が垂れ、ただでさえ動かしにくかった手はそうしない内に完全に動かなくなった。垂れたそれが無事な地面に落ちたとき、青草に火が付いたのを見た。
ああ、土が溶けたのか。
僕は焦げて消えていたシャツの袖を見て理解する。
あまりに突拍子も無い事実で、左手の感覚が「熱い」ということが分かるまで、僕はずっとこのことから眼を逸らしていた気がする。
「―――――――ッ!!」
何せ、理解した瞬間に耐えがたい痛みを「思い出して」しまったからだ。
熱い、痛い、そんな幼稚な言葉が不愉快に思えるほどの苦痛に僕はのたうち回った。
左手を地面に叩きつけ、草を燃やし、思考の外で叫び続けたことだろう。
熱い、あつい、焼ける、溶ける、燃える。
狂ったように僕は地面を殴り続けた。ガラス化した土は欠片すら飛び散らない。
最悪なことに、僕の頭はとんでもない解決法を思いついていた。
こんな事になった原因は、すました顔で僕の右手を包んだままだ。土さえ溶かせるのなら、冷めて固まったこれもまた液状化させられる。
僕の身体は壊れない。空から落ちても、千度を超えているだろう土に包まれても。
「あああああああっ!! クソおおおおおおおっ!!」
既に僕は吹っ切れていた。周囲のことも、他人のことも、普段気にする全ては思考から吹き飛び、数時間は帰ってくるまい。
再び右肘を地面に叩きつけ、左手の感覚がまた消失する。
動いていることは見ることでしか確認できないが――――何も無かったかのように綺麗だ。実に腹立たしく、無情さすら感じるほどに心が荒んでいくのが辛うじて認識できる。
深呼吸すらままならない。たった数十秒間の苦痛が未だに幻想となって僕を蝕んでいる。
左手だけの痛みだ。
たった一部分の痛みなのに、ぼんやり感じていた全身打撲のそれとは比にならない。
無視できる痛みだと分かっているはずなのに、僕はまだ喘ぎ悶え続けている。
落ち着け、落ち着け。僕は死にやしないんだ。
痛くても、苦しくても、死なないなら無視すれば良いだけの話じゃないか。
簡単だろう、あの時と同じだ。
ただ強がれば良い、無視し続ければ良い。どれだけ主張してこようと、身体を壊してやると脅してこようと。
あの時のように、死ぬ間際にすら立てないんだ。こんなのに振り回されてたまるか。
ほら、大丈夫だ。
僕は死なないんだ。
〈……って下さい! 聞こえているんでしょう!!〉
他人の言葉に意識が向けるようになった。もう大丈夫だろう。
「なんです、まだ何か」
〈うっ、いえ、もの凄い声が聞こえてきたので……大丈夫ですか?〉
語気が強くなったからだろう、カロの声が尻すぼみになった。気にしていられるか。
「こうして話してます、それ以外に必要ですか?」
〈はっ、はい……〉
何で話なんかしているんだ。こんな目に遭っているのに。
ただただ腹が立つ。苛立たしい。
いいや、そういう捉え方は良くない。
こんな状況、そう滅多に来るものじゃないんだ、考えてみろ。
深呼吸を一度。焦げ臭い空気が肺を満たす。
これだけ簡単に、特別な方法で、沢山の人を殺せるんだ。
こんな体験、きっとこれからも出来やしまい。
無線機を外した。今は誰とも話す必要は無いし、邪魔もされたくない。
切り目の入った地面を歩き始めた。さっきの暴走であちこちを切り裂いたようで、広いところでは一メートルの幅の亀裂が出来ていた。
射線上にあったトラックや人の姿は見えない。吹き飛んだのか、燃え尽きたのか、「蒸発」したのか。どれでもいい、ちゃんと見てみたい。
携帯を取り出し、イヤホンを差し込み、曲を選ぶ。
音楽は良い気分転換になる。人の絶叫よりも心に良いのは当然だろう。
歪んだ地面をぐにゅりと更にいびつにしながら、僕は稜線の上に立った。
我を忘れて楽しもう。
誰も僕を見れないんだ、柄に無く暴れたところで誰も咎められまい。
今は、それでいい。楽しむことに頭を使おう。
僕は曲を流し始めた。




