29 カノン
「ったくよぉ。あんなに急がなくても良いってのに……っててて」
「そうさせたのは誰だか。自業自得でしょう」
盛大に吹っ飛んだのであろう、少し赤くなった額をさするガルシアにそう返した。
僕は階段を下っている。部屋の中からも微かに聞こえていた人々の生活の音が一段ごとに近づいてくるような感覚。いくらか慣れてきたとはいえ、やはり落ち着けない。
扉の向こうに予想外の障害物があったせいで、蹴った脚に妙なダメージが入った気がする。
が、もうこの際どうにでもなれと無視してみることにした。
――――痛いと思えば痛いのは当然だろうが、痛くないと思って本当に痛みを無視できものなのだろうか。
そう思うほどに驚くべきことだった。これまでも似たようなことを思っていたが、実際に「忘れられた」痛みはこれが初めてだ。
「おっ、そうだな」
そんな発見を露知らず、そう答えるガルシアの声色の軽さから、何があろうとこのスタンスを崩す気が無いのが分かる。
「でもまぁ……気は晴れただろ? うじうじしてるのはお前にゃ似合わんし、俺が痛い目を見てスッキリするならそれで俺は満足さ。ぬひひ」
「……それで、イリアの容態は?」
どうも調子を狂わされるのでありきたりな質問をぶつけてみた。どうにかして言い勝てたりしないものだろうか――――柳に風となりそうな確信が少なからずあるのが悔しいところだ。
「ああ、そうだったな……確か、傷が塞がって癒えるのに三日、いつも通り動けるまで一、二週間といったところだったかなぁ。撃たれたのが身体の隅っこだったのは不幸中のなんとやらだ」
「そう…………ですか」
ガルシアは意外と普通に答えた。
彼ならもっと適当に答えてくるだろうと思っていたが――――まぁ何であれ、心配事が一つ消えるのは嬉しい事だった。他人の状態に振り回されることほどに面倒臭いものは無い。
「にしても、似たもの同士だよな。お前とお嬢ちゃん」
「何ですか、藪から棒に」
「いんや。顔よりも女々しいとこあるよなってだけさ。何人も殺したような傷と目付きしてんのに、大切なものにちょっと傷が付いただけで大慌てだ」
前言撤回だ。さっきのは滅多にない理性に則った発言だったのだろう。
「貴方に言われたくないですよ」
「あ、何時の間にかまーた敬語に戻ってら。止めてくれねぇかな……お前に畏まられると背筋がムズムズするんだ」
「知った事じゃありません」
雑談――――周囲からすればガルシアの独り言だろうが――――を交わしながら一階の床に足を付ける。
もう既に日が昇りきった時刻だからか、出入り口周辺は閑散としていた。堅実な作りの入り口から流れ込んでくる湿った風が首筋を撫でてくるが、冷たくも温かくも無い中途半端さが妙に気分を塞ぐような気がした。
外に出れば多少は騒がしくなるが、主な音源は開けた場所での訓練ぐらいでやはり静かなものだった。
昨晩は暗くて気付かなかったが、ここの建築物の周囲はそれなりの高さの城壁で囲まれており、最低限の歩哨が曇天の空に黒く映っている。
ここが何処か聞こうと思ったが、直ぐに碌な結果にならないと取りやめた。
間違いなく騎士団の施設だし、居座るわけでも無い場所などどうでもいい…………はずだ。
そこで初めて僕は将来のことに関心を寄せたかも知れない。ここに来させられた理由は確かにあるはずだが、その後は一体どうなるのだろう。
居場所という訳ではない。僕はどこかに身を落ち着かせたいのだろうか――――。
「まだ眠いのか?」
その声に視線を戻すと、ガルシアは既に昨晩の建物の前まで行ってしまっていた。
病院の匂いというものだろうか。
あの独特の匂いに獣臭さや青臭さ、古臭さや鉄臭さが濃密に混じった空気が充満する診療院の中へと入ると、環境音は自然由来から事務的な作業――――人的由来のものに入れ替わっていった。
沢山の負傷者で圧迫されていたここも広くなっていた。まだ横たわっている人物もいるが、三分の一すらも居ないだろう。
この人数の推移は、怪我の治療が大方済んだからか、あるいは間に合わなかったのか。どちらにしろ僕には関係ない。他人の悲哀を分捕れるほどに僕に余裕はなかった。
「こっちだ」
ガルシアの後に続いていくと、広い空間から一本の廊下の端に入った。左側に扉が五つほど並び、反対側の窓からはさっきまで見ていた外の風景が見える。見えるところが木造であること以外は僕らの寝ていた場所とそう大差の無い作りだ。
「ちゃんと労ってやるんだぞ……ミリィの話じゃ何度も痛くて目を覚ましてたっぽいからな」
一つの扉の前に立ったガルシアが振り向いて言う。
「いくらお嬢ちゃんだってカズの前じゃあ強がるだろうしさ……まぁ、お前がそれを信用するほどに鈍くはねぇと思ってはいるんだが。大丈夫だな?」
「余計な……いや、分かった」
お節介にも程度があるほどに何かしら世話を焼いてくるが、それに反抗することがどれほど馬鹿らしいかに気付いて応答を変えた。まるで――――――――まるで。
――――――――なんだろう。誰に似ているんだ? このうざったいほどに手塩に掛けられているような感覚。
多分知っていても可笑しくないはずなのだが、的確な名詞が思いつかなかった。
「おっし、いくぞ」
上質な木材の小気味いいノックの反響音が響き、僕の思考もそれで一旦終わりにした。
「誰だ?」
中から男の声がくぐもって聞こえてくる。聞き間違いで無ければミリアスだ。
「俺だ、オレオレ」
ふざけた応答の数秒後、近づいてくる足音に続いてノブが回された。
「……勝手に入ってくれば良いだろう。鍵は掛けてない」
「いやさ、やっぱこういうのって大事だと思うんだ。親しき仲にも礼儀ありって言葉が俺の故郷にある」
顔を出した途端に面倒そうな顔になったミリアスの横を通って中に入る。
部屋はイメージしていたものと随分違っていた――――まるで、と形容するのも可笑しいのだが――――完全に療養施設のそれだ。
部屋自体はそう広くない。ベッドに小さめの戸棚、一人分の机と備え付けの椅子、来客用の簡素な椅子も数脚、ベッド脇の小さな丸テーブルの上には花瓶と何かしらの薬と水滴の残るコップが置いてある。
家具においてはそれぐらいだが、これだけで部屋の半分は占められていた。
だが、部屋の狭さを感じた要因はそれだけではない。
「おっ、結構いるじゃねぇか」
ガルシアが軽く驚いたような声を出す。今この部屋には合わせて六人の姿がある。何かしらの縁が働くものなのか、どれも比較的見慣れた顔ぶりだ。
「メイドさんにミリィは居るだろなと思ったんだが、おっさんも来てたのか」
つかつかと部屋に入ったガルシアがその人物に近づく。取り繕っているものの、椅子に座っている彼の顔は確実に疲れていることを主張していた。
「ええ、はい。あの補聴器をイリアさんに貸したままだったもので。あ、いえ、これ自体はまだ作りやすい方で、材料があれば幾らでも用意できるんですがね……」
カロが日本人らしい話し方で答えを返す。板についた愛想笑いもまさにそれと言った感じだ。
「それに…………もう暫くお貸ししていた方が良いと私も思っていますので。聞き間違いじゃないと思うんですが……アサナギさんも一緒に来てますよね?」
「!!」
カロがそう尋ねた瞬間に、ベッドの上に居る人物の耳がぴくりと動く。少なくない人物に囲まれているが、その顔はここからでもちゃんと見えている。
「おっさん、ご名答。ほらカズ、声掛けてやれ。まだお嬢ちゃんの耳に付いてるぞ」
ガルシアがわざとらしく肘で脇腹を突いてくる。完全に「そういった」関係性であることを周囲に錯覚させようと彼は演技し、頼んでもいないのに外堀を容赦なく埋めていく。
どちらにせよ、カロとクラムが脇にどいた時点で逃げ道は無くなっていた。
「…………おはよう」
「うん。おはよう、カズ」
ぎこちなく挨拶をしながら彼女の元にゆっくりと近寄る。カロが要らぬ気を遣って椅子を一つベッドの近くに用意してくれたので、致し方ないとそれに腰掛けた。
「……まだ痛むよね、辛くない?」
「うん、まだ……でも大丈夫だよ、ほんのちょっとだけだから」
笑顔を作ろうとしているが、これ以上無くぎこちない。
「そう……でも、あまり我慢はしないで欲しい。痛いときは言って良いんだから」
「…………うん、ありがとう。でも今は本当に大丈夫、だよ?」
そして、彼女の笑顔以上に会話はぎこちなく、すぐさまどん詰まりに陥った。
弁明の余地がないので白状するが、こういう時にどんな話をすればいいのか分からない。何を問えば良いのか、何を話題にすれば良いのか。
更に言えば――――――――僕に何が出来るのかすらよく分かっていない。
昨晩のガルシアの言葉じゃないが、護ることさえ出来れど、こんな平和なときの寄り添い方を全く知らないのだ。笑える冗談なら良いのだが、生憎そんなことはない。
誰もが会話の糸口を見失って少しした頃、おもむろにカロが立ち上がった。
「それでは、私は失礼します」視線が集まったからか、彼はまた笑顔を浮かべる。
「お、もう行くのか? カロのおっさんよ」
「ハハハ……なんて言いますかね。見知った仲なら兎も角、私はちょっとした邪魔者でしょう。無線機自体もまた作ればいい話ですし、やらなきゃいけないことも多分残ってますし……」
「そっか」ガルシアが全員を代弁するように答える。
「おっさん、今日中にあんたの居る場所に寄ることがあるかもしれねぇ。お嬢ちゃんに預けてくんなら、もう一つ追加で作って待っててくれないか?」
「はい?」
唐突に話の方向が分からないことを言われたからか、立ち去ろうとしたカロが立ち止まる。
「あ、いや。俺はカズの声が聞けるから良いんだが、ミリィとかメイドさんとかが聞こえねぇのは不便だろ。後で貰いに行くから『まずは一個』作ってて欲しいのさ」
「あぁ、そういうことですか。分かりましたが……ボランティアでやってるわけじゃないので、それなりの金額を頂きたいのですが……」
「むむ、確かにそうだよなぁ。見積もりなんて書いてる暇が惜しいし、買うのは決めるから作っておいてくれ。値段交渉はするつもりだが、出来るだけあんたの要望を優先できるようにするよ」
「……分かりました、それで良いでしょう。色々と助けられた恩もありますし、優先して作らせて頂きますよ」
二人の会話を聞きながら、僕は思い出したかのように耳の無線機に触れる。最初に付けたときは違和感がはっきりとあったのに、こうして触れるまでその存在を忘れてしまうほどに馴染んでいた。
耳が塞がっている感覚も、音が遮られる感覚も全くない。耳を動かしてもずれるような感じもしない。触れれば確かに付いているのだが、指が離れた瞬間にそのイメージが掴めなくなる。
「……では、この辺で」
「おう、またなおっさん」
ペコペコと日本人らしく何度か礼をしながら、カロは廊下へと消えていった。
「そういや」
扉が閉まった瞬間にガルシアは新たな話し相手を作ろうとする。
「あんた、そうメイドさん。名前聞いてなかったが……成り行きでこんなことに巻き込んじまった感じだろ? もし行く場所があるんなら行ってくれても大丈夫だぞ?」
クラムのことだ。確かに彼女は単に避難してきた民間人の一人に過ぎない。
僕らと関わりが無かった訳でもないが、だからといって一緒に居て貰う理由もない。
「あ、えと。私は先に家族の元に戻っていてとお姉ちゃ……じゃなくって、お姉様に言われてるだけです。その……こういうことになるって思ってなくって、だから…………」
あたふたと答える。どうにもここには饒舌な輩は一人しか居ないらしい。
「……こんなことになってるのに、何もせずに待つなんて出来ないです。何かお手伝いできるならしたいですし、それで誰かが助かるなら…………あと、その。クラムです」
「はぇ。結構芯があるんだな、メイドさんよ」
一生懸命に答えたのだろうに、ガルシアの声はやはり間延びしていた。
「そんじゃ、各自出来ることをするか。おいミリィ、一緒に来いよ。退散だ」
「何故だ。勝手に退散すればいいだろう」
窓枠に手を突いて外を眺めていた視線が戻ってくる。
「分かってねぇなぁ、これだから朴念仁『その二』は」
「…………ガルシア、どう言う意味だ」
その目付きが更に厳しいものになろうと効果は無い。
「聞きたかったら付いて来いよ。どうせ暇だろ?」
ミリアスにも彼を窘めることは無理なようで、不本意そうに肩をすくめながら扉の方に向かっていく。
「あ、そうそう」
ノブに手を掛けたガルシアが思い出したように僕を指さしてくる。この男はどれだけ言い忘れるのだろうか。
「カズ、これからどうするかは聞かねぇが、あまり遠出はするな。いざという時にお前が居ねぇと面倒くさみがマックスだ」
「………………?」
これから何かあるのだろうか。僕が必要になる事態なんて片手で足りるぐらいにしか思いつかないし、出来るならそれ以外の理由だと思いたい。
「ああ、分かったけど」
詳細を聞くのも怖かったので、そんな答えを返した。
「オーケー。多分正午前には来ると思うから、俺を探せばいいからな」
なんとも不安な約束を交わして、問題児はさっと姿を消した。
彼の居ない部屋はとても静かになった。残ったのは――――会話の苦手な人ばかり。
イリアはまだ痛みが酷いようで呼吸が荒いし、クラムはその心配で会話の余裕もない。
そして僕も――――彼女にどう言葉を掛ければいいのかが分からない。
僕が伝えたものは全て受け売りだった。出来れば思い出したくない記憶、まだ父さんも母さんも居た頃に、自傷の痛みに呻いていた僕に掛けてくれた言葉。
嫌な思い出というわけではない。だからこそ思い出したくない一面があるのだ。
思い返して何になるというのか。空しくて、悲しくて、今の境遇の悪さを再認識するだでだ。幸せだったから不幸になる。思い出さなければ今が一番幸せなのだから。
そう思い込んでいたかった。
何も得ず、何も失わない「今」が一番幸福で居続けられると。
その生き方のせいで、僕はイリアに対する言葉を持ち合わせていなかった。
理由は明白だ。そんな言葉は何かを――――好意とか、信頼とか、つまりはそういったものを得るためにしか使われない。嫌われたくて労いを掛ける人など居るわけが無く、そもそもそんな人物は居ない方が当然なのだ。
僕は爪弾き者だ。あるいはただそう思って現実逃避をしたいのか――――――――。
止めだ。またこの悪循環か。全く学習しない頭だ。
「ねぇ、カズ」
そう思っていると、イリアが口を開いた。
「何?」
言葉を掛けられずとも聞くことは出来る。今はそれに注力しよう。
「今、言うことじゃないのかもしれないけど…………わたし、これからどうなるのかなぁって」
「…………」
息は荒いが、言葉ははっきりとしていた。
それと同じぐらいに込められた気持ちも伝わってくる。僕も抱いた心情だ。
「なんだか、短い間に色々あって……いろんなものがどんどん無くなって……今まで考えたくなかったけど、こうやってじっとしているとこういう事しか考えられなくて」
僕は誰にも話さなかったことだ。親にさえも……もう居なかったからというのもあるが。
それを言ってくるということは、それだけ信用されているのか――――そこまで追い詰められているのか。
「ねぇカズ…………わたし、なんだか怖いの。これからどうすればいいんだろう?」
その不安はよく分かる。分かるのだが……答えが見つからない。
あの頃の僕だったらどんな答えが欲しかったのだろう。自分自身でよく分かっているはずなのに、靄のように掴むことが出来ないのだ。
「……大丈夫、大丈夫だよ」
また受け売りしか出来ない。こうして握ってくれたのは母さんだったか。
「難しいかもしれないけど、今は考えなくていい。休んでいいんだ、今は…………」
「…………」
こういうことを言うのにはかなり勇気が必要だと分かった。
親は偉大というものなのか。僕の親に対する価値観は十歳で止まっている。
「……僕もいるし、ミリアスさんやガルシアさんだっている。僕たちでどうにか出来ないか考えるから…………ゆっくり休んで、早く元気になって欲しい」
「…………うん。そう、だね」
怪我だけじゃない。今の彼女の境遇を考えればあの時の僕よりもずっと辛いはずだ。尚更悲観的な思考に囚われてしまいがちになるだろうし、止めなければこれからずっと癖になってしまいかねない。
今すぐに取り除くのは難しい。痛いのを無視しろというのも無理な話で、これから良くなるなんて言葉も不確定すぎる。
やりかたを何も知らない以上、ただ傍にいることしか出来そうになかった。
「……ねぇ、カズ。お願いしてもいい……?」
何時の間にかイリアの瞳は陰っていて、小さく欠伸をしていた。
「なんだい」
「そのね…………音楽、聴きたいの」
「音楽?」
意外な言葉が出てきた。
「うん……ミリアスさんから聞いたの。カズが音楽を流してたって」
イリアが顔を歪ませながらも少しだけ身体を寄せてくる。
「……駄目?」
断るつもりもなかったが、こうも上手く甘えられてくるとどうしようもない。
「分かったよ。待ってて……」
療養中にクラシック。ますますデジャヴを連想してしまう。
しかし、何を流したものだろう…………。
「……これでいいか」
悩むのも馬鹿らしい。
ごちゃまぜのアルバムの中で一番上のものをタッチすると、静かな弦楽器の音色が端末から流れ出す。音量を少しだけ上げて、飲まれた後の薬の隣に置く。
ヨハン・パッヘルベルの「カノン」。大体の人が聞けばこれかと頷くだろう曲だ。
「わっ」
クラムが驚きの声を漏らし、直ぐにその口を抑えた。
最初こそ静かな旋律だが、カノン形式に則って寄り添うようにその数は増えていく。新しい旋律が加わっても元あったものが埋もれることもなく、耳を傾ければちゃんと聞き取れる。
あの病室にレコードと再生機器を持ち込んだ父さんのいろんな気持ちの混ざったような笑顔がふと思い浮かぶ。どんな気持ちだったのだろうか。今の僕と同じ感覚なのだろうか。
思い出したくないが、それに浸っている間はふんわりと掴み所の無い暖かさに包まれるような気がしてしまう。美化された思い出の中毒性なのだろうか。毒されたくないものだ。
「懐かしい……なぁ……」
サビ――――と言うのも可笑しいだろうが、僕の知識ではそう言うしかない――――に入った旋律の中で、僕ではなく、イリアがそう呟いたのが聞こえた。
「……懐かしい?」
この言葉は僕のものだが、行為はまた受け売りだ。
僕が愚痴れば何度でも付き合ってくれた。それが正しいかは分からないが、親が子にするべきだと思ったのなら、きっと悪い方向には向かわないだろう。
「うん、前に何処かで聞いたような……そんな気がする。いつだろう…………」
「そう……なんだね」
ここは異世界だ。似たような音楽があるのかもしれないが、辺境の村に暮らす少女に聴く機会があるのかと問われると首をかしげる。
何か別の曲と混同しているだけなのだろうと結論付けたのだが、その曲が何なのかは不明で、少しだけ興味が湧いた。
「……カズ、ちょっとだけ…………」
曲に隠すようにそっと口にして、握っていた僕の手が引かれる。腕が伸びきるので腰をベッドの方に移し、手の甲で彼女の頬が触れる感触を味わう。
ひとしきり僕の体温や肌触りを堪能した後、すんすんと匂いを嗅いでくる。その漏れてくる鼻息が少しくすぐったいが、今は自由にさせてやるべきだ。
「…………ありがとう。わがままをさせてくれて」
「いいさ。君のためなら」
ほぼ意識せずに言葉を連ねていた。これは本心か、最適化された機械のような応答か。
儚げに握る左手に力が込められたかと思うと、もう片方の手で僕の手は覆われた。
「……いい曲、だよね」
意識が睡魔に対して負けを認めたのか、イリアの瞼がすっと閉じた。
それから暫くして、カノンも終わった。
時間にすれば僅か数分、それでもその数倍の時間が流れたように感じられた。曲が終わり、次の曲が流れてきてもそれすら聴き入り、ただただ時間が流れていた。
イリアはぐっすりと眠っていた。吐息と体温で掌が湿るのが分かる。アルバムの一つ下、今度は「G線上のアリア」が始まっていたが、それを止めようにもこのままでは手が届かない。
「……その、お尋ねしても……?」
勇気を精一杯絞り出したような声が聞こえた。ベッドを挟んで会話するのはと思ったのか、クラムがこちら側にやってきて囁いたのだ。
僕の所在が椅子の上かベッドの傍か分からない様子で、そのもどかしさが彼女の顔に良く表れている。
答えようにも筆記用具は部屋に置き忘れてきたし、左手はまだイリアのものだ。
クラムに座っていないことを椅子を軽く叩いて知らせ、イリアの眠りを妨げないようそっと耳に付けた無線機を取り外す。
「んっ…………」
ぴくりと反応されるが、瞳が開かれることはなかった。
妙に艶めかしい声に少し動揺してしまったのは否定できないが、それは兎も角と座ったクラムの膝上に無線機を置こうとした――――。
「うひゃっ……!」
――――が、ここまで過剰反応されるとは思わなかった。
「カ、あいや、アサナギ様……! 急に困りま…………あや?」
両手をこちらに出して拒絶の意思を見せるのはまぁいいが、置かれたものに気付くまでこうも手間が掛かるとも思っていなかった。
彼女の頭の中はどんな原理で動いているのだろうかと訝しみたくなるが……それは性悪のすることだ。
「……ご、ごめんなさい。勘違いしてました……」
クラムはしょぼんと謝りながらそれを垂れた耳の付け根に取り付けようとする。長髪に紛れて見分けが付かなかったが、持ち上げられているのを見ると確かに兎の耳だと認識できた。
「っと、これでいいのかな……その、取り付けられたと思います」
「…………聞こえます?」
「えっ、あっ、はい」
僕の声を聞いたからか姿勢をぴんと正す。こういう所はちゃんと教えられたのだろう。
「なら良かった……それで、尋ねたいこととは?」
性懲りも無く堅苦しい言い回しだが、気軽にタメ口など吐けたものじゃない。
「あ、はい。そうでした…………その、アサナギ様の持ってた、それからですよね? とっても綺麗な音楽が聞こえてくるのは……」
「ええ、その通りです」
二人して携帯を見つめる。画面は未だに楽曲を再生し続けていて、その進行に合わせてシークバーはゆっくりと右へ転がっている。
「……なんだか凄いです。これってアサナギ様の世界でも貴重じゃないんですか?」
「まぁ……高価ではありますけど、一握りの人しか持てない代物という訳でも」
「あっ」
偶然か狙ってか、震える指で画面に触れたクラムが音楽を止めた。こちらとしても消そうと思っていたので結果オーライなのだが――――
「あっ、あわわっ。ご、ごごごめんなさい、ごめんなさいぃ……」
――――僕だって理屈を知らないものが急に止まったらこんな反応をするだろう。
彼女は表情豊かな人物だ。その点では一番お調子者に近いのかも知れないが、違うのはとても正直者なところだ。
「大丈夫です…………壊してなんかいませんから」
イリアの拘束からようやく逃げ出せたので、携帯を手に取り電源を切った。
ただでさえ充電が出来ない。無駄に消費などしてられないのが現状だ。
「でででででも、私が触った瞬間に止まって、あんなに凄い演奏だったのに……」
「大丈夫ですから、本当に壊してたらここまで穏便にしてません」
半分は嘘だ。例え壊しても仕方ないと諦めるまでに時間が掛かるだけで事を荒立てたりしない。
こんなところで殺しても厄介ごとが増えるだけだ。
「本当、ですか……? なら良いんですけど……はうぅ」
しかし、こんな見え透いた建前でも、信用する人は信じ切ってくれるらしい。
「…………それで、他に何かありますか?」
僕から問いかけていた。腕時計の針は既に十時を回る寸前だったし、気分的に少しだけでいいから散策がしたかった。歩いてスッキリしたい程でもないが、せっかく未知なる世界の直中にいるのだ、ただ歩くだけでも随分な刺激が得られるだろう。
そうしてさっさと区切りを付けたかった。ここの空間は心地良いが、それがずっと続く訳でもない。まだ切り替えられる間に切り替えないと――――――――これもまたまた面倒なことになりかねない。
「いえ、私が聞きたいのはさっきのことだけです…………けど……」
クラムの目が泳ぎ、毛皮に覆われていようと頬が赤らむ様子はそれとなく分かった。
「…………その、イリア様は、アサナギ様にとってどんなお人なんです?」
予想できた質問だったが、だからといって答えを用意することが出来たかと言われれば…………出来るわけがなかった。
どういう存在か。努めて考えまいとしていた事を訊かれたことに苛立ちに近い何かを覚える。
イリアがどんな存在かだって? 分かるわけが無いじゃないか。
僕の人間関係は「関わる必要があるのか否か」だ。成人して仕事を始めたならまだしも、学生時代の浅い交友関係が何になるというのか。
こちらが覚えていたって相手はきっと忘れているだろうし、頼られはしても頼らせてはくれないだろう。誰だってそんなもんだ。
「………………」
ふと、あの男のにやつきが脳裏に浮かんだ。
どうも気に入らないのはそういう所だったか。
「…………さぁ。どうなんでしょう」
半分言い捨てるように立ちあがった。答えられないものは答えられないのだ。
「どう、なんでしょう、って……?」
「クラムさん」
ただ、しぶとく残っていた良心がそれだけじゃないと口を突いた。
「は、はい」
「…………イリアをお願いします」
一応としての礼儀なのか、彼女に自分自身を投影しているからなのか。
何を考えているのだろう。
それとなく恥ずかしい気分に駆られ、クラムの返事も聞かずに飛び出した。




