17 闇と内に潜む 前編
何かが聞こえた気がして目を覚ました。
「……カズ……?」
隣にあったはずの暖かさに問いかけても、もうそこには何も残っていなかった。
「あっ、お目覚めになりました?」
代わりに、ベッドの直ぐ脇に立つ女の人――――――――たしか、クラムさん。
「アサナギ様はアストラリア様らと共にほんの少し外出されております。時間は掛かるかも知れませんが……大丈夫です、ちゃんと帰ってきますよ」
その言葉の意味はそれとなく分かっていた。上体を起こそうとしたときに、あの人の置き手紙に気付いた。ずっと握りしめていたそれは、わたしの熱で温まっている。
「あの、お隣に座っても、いいですか?」
「あ……はい。どうぞ」
遠慮しがちに座ったクラムさんは、どこか居心地が悪そうにも見えた。
でも、わたしに出来ることなんてない。
「……イリア様の気持ち、私も分かる気がします」
わたしが何も言わないからか、クラムさんが話し始めた。
「一人で待つのって寂しいですし、戻ってこなかったらって変な想像して不安になったり、心細かったりしますよね」
ただこくりと頷き、クラムさんの隣に座り直った。
「私も一人は苦手なんです。自分だけで何かすれば絶対に失敗するし、誰かといないと不安でしょうがない。誰かから必要とされたいって思ったから使用人さんのお仕事を貰っているんですが、それも失敗ばかりで……なんだか愚痴みたいになってきちゃいましたね」
少し寂しそうに笑うクラムさんは、わたしよりもずっと立派だった。
年も、ふるまいも、きっと脆さもわたしも大体同じ。
なのにわたしは何もできないでいる。なにもせずに、ただ生きている。
「……イリア様は、アサナギ様から好かれてらっしゃるんですね」
「え?」
思いもしていなかった言葉に声が漏れた。
「あの方がどんな人なのかはイリア様が一番知っていると思いますけど、とても優しい方だと私も思っているんです。少しだけここまでの経緯をお聞きして、イリア様をずっと守ってきてくれたんですよね」
ちょっぴり、羨ましいです。と少し距離を詰めてくる。
「失礼な話ですけど、必要とされることって難しいんです。足を引っ張れば切り捨てられて当然ですし、気分を害すればお側に居ることもできません。いっぱい頑張ってこの程度なのに、イリア様はとても必要とされていて……もしかしたら嫉妬しているのかもですね」
本当だろうか。カズが私を必要としている?
「……逆、ですよ。わたしなんて必要となんか」
「分かりませんよ、アサナギ様に聞かないと知り得ないことですもん」
すっぱりと否定されたが、嫌な気分はしなかった。
「それに…………その、イリア様に付いているようにって頼んできたのは、アサナギ様ですから」
少し視線をわたしから外してそう言った。その目はすぐに戻ってくる。
「何もできないおっちょこちょいの私でも、誰かの傍にいてあげることぐらいはできると思うんです。頼りないかもしれませんが、私にできることがあったらどんなことでも言ってください」
必要とされたい、クラムさんが言っていたことが頭の中に反響する。
クラムさんは私から必要とされたいのかな。私はカズから必要とされたい?
「…………ありが」
言葉を遮るように、小さくお腹の虫が鳴った。
どんなに小さくても、静かな部屋には大きく響いた気がした。
「……お食事にします?」
きっとわたしの顔は紅くなっているだろう。
でも、見られたくないとは思わなかった。
わたしが思っているよりも、誰かを信じて良いのかもしれない。
「………………聞いているのか、アサナギ」
ひときわ大きい揺れで意識が現実に戻ってくる。柔らかい夜風もこうも速く走れば切るように冷たく感じられる。
龍馬を駆るミリアスの肩を三回叩く。
一回は肯定、二回は否定、三回はもう一度。街を出る前に決めたボディランゲージ。
「……まぁいい。何があろうと電話線を切るまで知覚されなければいいさ」
頭上の月は半分ほど隠れているが、それでも十分に周囲の騒がしさは知れた。
およそ百の馬と騎士が一直線に走っているのだ。幾らか分散はしているがそれでも足音は耳障りなほどに大きい。
「だが気になる事がある…………そこがどうしても引っ掛かってな。独り言だと思って聞いててくれ」
僕とミリアスは隊の最先端を担っていて、背中越しに青い大地と夜の帳とが一望できた。
「犠牲も視野に入れた偵察が全て帰投し、それに見合わない情報量が集まった。ただ上手くやれたのならそれでいいんだが……わざわざこちらに情報が渡るように意図したようにも思える」
僕が装備を持ってくる間に確認したらしいが、偵察隊には戦死者どころか負傷者ひとりも居なかったらしい。馬に乗った兵士など見つかって当然なのは僕にも分かるし、散兵の存在も分かっているなら向こうも攻撃のしようがあったはずだ。
攻撃できなかったわけでも上手く躱せたというわけでも無い。「わざと攻撃せず見逃した」と言いたいらしい。
「何か裏があると俺は踏んでる。部隊長なら何か情報を握っているかもしれない」
それを取ってこいと言うことか。
問いかけられる前に一度叩くと、ミリアスは前に視線を向けた。
「見えた」
そう言って右腕を横に振った後に前に突き出すと、右翼の騎馬の速度が上がったと同時に陣形が変わっていった。綺麗な転換だと見とれながら行方を見守ると、大きく迂回するように転進し、進行方向と平行に消えていった。
その暫く後に、乗っていた龍馬の足が止まった。
僕の目にも何が見えたのかが分かった。
「移動に十五分の猶予を取る。リミットは二十五分後」
馬上から降りると、これまで揺られてきたツケが回ってきた。装備の重さもあるが、半分腰が抜けたような状態で走るのは無謀そうだ。
時計のストップウォッチを始め、龍馬の後ろ足を軽く叩く。
「……最悪、電話線を切れれば良い。頼むぞ」
ミリアスの掛け声を最後に、久しぶりに孤独になった。
どうして僕を信用できたのだろうと、そんなことを歩きながら考える。馬の速度に慣れた後だと徒歩がとても遅く感じて、時計の針の進みも妙に遅く見えた。
そもそも僕を信頼しているのだろうか。表情すら知れない存在のたった三文字の口約束がそれほどに頼れるものなのか、或いは僕自身が裏切ることを考えていないのだろうか。
そんなことはあり得ないだろう。きっと僕が裏切った場合のことも考えているはずだ。対策なしに僕みたいな不確定要素を放任するわけが無いし、例え縋るほかないとしても首輪も付けず放るわけがない。
それとも、これまでの行動から信頼を勝ち取れていたとでも言うのだろうか。
単に一、二度助けただけで命を預けられるのだろうか。とてもそうとは思えない。
「…………そうとは思えないけど」
助けただけで信用される事実が現にある。そういうものなのだろうか。
僕にはどうも理解しづらい。他人はそれほどに信用できるものなのだろうか。
助けて欲しいときには目もくれず、手遅れになってから助けたかったと漏らし、二ヶ月もすればすっかり忘れて日常に戻って。自分に害がなければ放置して、危害が加わりそうになれば必死に言い訳やら逃げ口やらを並べ立てて。
基本的にみんな同じだ。自分さえよければ良いし、僕だってそうだ。
というより僕がそう嫌悪しているからだ。僕自身がそうなのだから、きっと誰もがその通りのはずなんだ。
誰かを助けるのも、情けは人のためならずの言葉通りに利己的な理由によって。
誰かを傷つけても、自分は関係ない、嫌な思いはしていないからと正当化する。
だとしても僕は批判できない。僕もそうだからだ。
だから僕は批判されない。みんなそうなんだから。
でも世間はそうはいかない。綺麗事が大好きな大人達は、自分が絶対正義だと信じたいようだったし、正義に酔いたいがために犯罪者や「虐めて良いと決めた人物」を過剰に痛めつけているように感じた。
そんなのは育てる子供を見ていれば言わずとも理解できたから、わざわざ回りくどい方法をするほかなかった。大人は加害者になった子供には容赦ないが、被害者になった子供には偽善じみたよそよそしい優しさを向けてくれるから。利用しない手はない。
助けたいという子供らしい利己的な欲求、見てみたいという好奇心。嫌な思いはしていないが、せめて痛みはと思って受け入れた傷。
もう五年経つが、体のあちこちに付けた傷跡はしっかり残っている。
痛いけど、死ぬほどじゃない。そう言い聞かせて歩いた道を今に重ねてみる。
あの時とは違うのはこれから殺しに行くことで、合わせて四人の血で彩ったあの道を戻っているような錯覚を覚えた。あの時の経験を生かせる場面などあるはずがないと思っていたけど、こういうところで役立つとは思わなかった。
五年。もう五年。
一人になって、そんなに経つのか。
林に着いた。陣地があった。
それでも僕は気付かれなかった。
厳密に言えば音でバレかけたのだが、風が出ていたお陰で変に疑われることはなかった。警戒自体もうん十人と居るわけじゃなく、一カ所に二人、それが一定の距離に置かれているだけで、まぁ視界が通る立地ならこれでも十分なのだろう。
ここまでに早足でおよそ十分、することを考えれば遅くとも十分の間に電話線を見つけたい。
「………気が…………じゃないよな………………いいかね………」
僕から一番近い見張りの会話が聞こえてくる。何か情報がないかと耳をそばだてた。
「いいや、報告……じゃねぇさ。見えたのはたった……だろ? ここに来るまでにもう一度…………」
「そんなもん……じゃあいいか」
一人が陣地の奥に行こうとしたが、結局は据え置かれた機関銃らしい影の傍で歩哨を続けることになったらしい。上手くいけば後を追って指揮官の下に行けるかと思ったが、そうは上手く運べないようだ。
そう思ったのだが、木の葉の隙間に揺らめく月光にある物が照らされた。色が影に同化して気づけなかったが、地面とは違う色と質感は、光に当たりさえすれば容易に区別することができる。
おそらくはケーブル。二人の影を見やると、その傍の箱のようなものまで伸びている。
「……追っていくか」
内部の情報はあくまで地理的なものだけで、何処に何があるかは分からない。このケーブルが目的地に続く蜘蛛の糸と信じて進むほかない。
少なくとも伸びているのだ。末端があるなら中枢もある。巣の中心にはそれを作った主もいるだろう。どちらも見つけられれば御の字だ。
辿っていくうちに、見慣れない人工物が目立ち始めた。まだ壁まで到達していないというのに、簡易的なテントなりたき火なりが隠れる様子も無く乱立しはじめる。その密度は進むほどに増していき、次第に酔っ払いの騒ぎ声やら罵声やら、どうも楽しげな環境音が置くから響いてくるようだった。
この辺りから人影も見かけるようになる。ずっと異世界そのもののような風貌に環境を見せつけられてきたからか、どこかその顔立ちや雰囲気に――――たとえアジア顔じゃなくとも――――懐かしさと安堵とが混ざったような心境に陥る。
馬鹿らしい。これから殺す相手に親近感を覚えてどうするんだ。
ケーブルは簡易的な電柱の上に這い上がり、目を足下と人影とを経由しつつ後を追う。周囲が騒がしくなってきたので足音を気にする心配もなくなり、その分足が自然と速まっていく。のんべんだらりと歩いている暇はない。
背後から足音が続いて警戒するが、競歩に近い歩き方の僕にぶつかることもなく追い抜いていった。何を急いでいるのか、少し見れたその顔はどこか高揚する気持ちを押し込めたようなものに見えた気がする。
残り七分ぐらいの頃、ようやく見慣れた場所に来た。
村の裏口、僕たちが出て行った場所。そこに倒れていた人々は既に運ばれた後で、どう扱われているかは考えたよりもずっと非道であろうと想像を巡らせる。
特に入り口と出口という役割は果たしていないようで、脇に寄りかかっている兵士は喧噪から逃げ延びてきたように静かに煙草をくゆらせている。壁一枚を隔てた先は思ったよりも騒がしいようで、外側に漏れない程度に、それでも十分異常に明るかった。スラム街のようなテント群の燻るような明かりと違って、文明開化の兆しが漏れてきている。
一歩くぐれば、おおよそ想像通りの光景が広がる。
最前線の戦場の空気など知ったことじゃないが、少なくともここまで緩んではいないだろうと察しは付くぐらいに気楽そうだ。物資は潤沢にあるのか、設営されたテントの中はどこもかしこも楽しげに飲み交わす声がこもり、しかし暗がりに捨てられた獣臭は確かに平時ではないことを声高に叫ぼうとしている。
犠牲なき勝利、或いは憎き相手を討ち取った喜びだろうか。羽目を外す人物は流石にいないが、見る人誰もが愉悦そうに純粋さの残る正義感に酔った笑顔をしていた。見た目さえ違えばここまで他人事にできるらしい。力の差はそのまま権力に、生存権や人権の有無や生殺与奪の権利までもに繋がる。
時たま嬌声のような悲鳴のような女性の声が聞こえてきたような気もした。戦場とはそういうものだろう。こういう話はつきものだし、嘘でも真であろうとその存在はあり得ないものではないということだ。
まぁ出来るならと思えば気持ちも分からなくはない。他人を好き勝手出来るのは実に楽しいことだし、その責任を問われないのなら尚更に愉快だ。僕も経験があるので無為に悪だと言い放てはしない。やることは違えど、本質は同じだ。
娯楽に使い潰されたアニマリアや現在進行形で楽しまれている誰かを横目に物色しながらケーブルを辿ると、結果的にお世話になった建物の前に到着した。あちらこちらの窓やら扉やらから蛇の如くケーブルが侵入し、ただでさえまだ見慣れない場にすら違和感を覚えるほどの有様となっていた。
周囲を見渡す。村のほぼ中央とも言える場所だ。少なからず人の目はあるし扉の前には警備も突っ立っている。殴るなり殺すなりで入ることは出来るが本末転倒になるし、かといって他に侵入口があるかといえば、無い。出入り口は記憶の限りこの入り口だけだし、空かない窓は破られることもしていない。二階によじ登るか、強行突破かの二択しかないことに少し焦燥を感じた。
行き来のある道の脇に避け、どうするかを思案する。誰でも良いからこの中に入ろうとする輩がいれば万々歳なのだが。
時計に目を落とす。あと四分。
「あの、部隊長さんに言いたいことが」
その声のあまりの近さに驚いて顔を上げると、扉の傍の警備に誰かが話しかけていた。
一人はそこらと似た欧米顔だが、もう一人は見慣れたアジア顔。同年代の、少なくとも同類と言えるぐらいには似ている。
「少尉ですか、用件は」
彼の体の何処かを見て、警備が返す。誰もが似たり寄ったりの制服だが、この青年のものだけは少し違いがあった。腕章があるのだ。単なる階級というものには見えない。
「今回の作戦の詳細をもう一度聞きたいなって」
話し方からして包括的に上下関係というものを気にしないらしい。比較的嫌いなタイプだ。
「……部隊長は今取り込み中です。確認を取りますので少しお待ちを……」
「いいや待てない。悪いが緊急かつ機密の話題だ」
欧米顔が前に出る。その顔には焦りが見えているが、どこか嘘くささも感じる。
「異邦者が合いたいって言ってるんだ。別に通さなくても良いが、それでここに居る奴らが皆殺しにあっても良いって事になるぞ?」
脅しなのか事実なのか。後者なら色々と不味そうだ。
何処から情報が渡ったのか。もしも僕の事に関してのものだったら非常に厄介だ。
「…………そうであったとしても、確認は必要です。急ぎなのであればご同行を」
「いいや、俺とあんたはここで留守番だ。俺も詳細は聞いちゃいけないらしいんでな」
折れた警備を男が抑える。寄せることで出来た死角の中で青年に何かしらのジェスチャーをして、ごめんと謝りつつ扉を開いた。
これに便乗するしか道はないだろう。どうか背後を気にしませんように。
足を忍ばせて青年の後に立つ。続こうとする警備と遮る男のやりとりがすぐ隣で起きている。
「…………?」
押し問答を繰り返す男とたまたま目が合った。その瞬間に男がウインクを返した。
偶然か何かの意味かを確かめる前に、扉が閉められてしまった。
それと入れ替わるように感じたのは、とにかく一式ごちゃごちゃに掻き集めたような悪臭。流れがないからか、臭いが粘度を増して体中に纏わり付く。
「うえっ……」
青年が戻しかける。それは嗅覚だけが異常さを知らせていたからではなかった。
一昨日の清浄さは見事なまでに「生き物だった」もののかけらやかたまりに塗りつぶされ、かろうじて「生き物」でいるものがその上で虫の息になっていたり、そうなる前の比較的マシな村人が何も身につけずに脇に縛り付けられていたりしている。おおよそ女性だが、中には男や子供も含まれている。合わせれば二十人は超えそうだ。
生きて捕まるよりは死んだ方が浮かばれる。
その事実をこれでもかと叩き込まれる光景だった。
「おやおや、非道い顔をされてますね」
その犠牲の前、唯一この空間で無傷の人物が立ち上がった。振り向いたその顔は皺が目立ちつつある年頃であり、付けている手袋や袖の部分はどす黒さが塗り重ねられているようだ。服も汚れているものの、争いで付着したものではなさそうだ。
「な、何をして……うぐっ」
「別に遊んでいるだけですよ。吐くなら外でしてください」
どこか小馬鹿にしたような口ぶりに、正直に言えば狂気さは感じられなかった。正確に言い表せないが、どこか共感を覚える立ち振る舞い。それが本意ではない話し方。「そうしたい」ではなく、「そうするべき」として動いているような。
しかし、今はこんな男に構っている暇はない。先ずは通信設備を壊さないと。
「今の私は気分が良い。君もご一緒してくれたら嬉しかったのですガ……まァ良いでしょう。こんな娯楽を楽しめないというのもとても残念ですねぇ。たまに具合の良い雌も居るし、君の年頃なら興味津々だとおもったのですが……。
面白いものですよ? 殺さないなら幾らでもと縋る雌も居れば、犯されるぐらいなら殺してと懇願する雌も居る。たまには子供とか、雄も意外性があって面白いのですけど、成体は四肢を切らないと危なっかしくて……切ったとしても暴れまわるものだから結局壊してしまうことが殆どでしてねぇ……」
足下で少し動いた死にかけを、部隊長はにこやかに見下した。
助けを求める瞳を見つめ、力なく開いた口を裂くように軍靴を置き、そのまま力の限り踏みつけ――――――――十数秒掛けて踏み砕いた。
耳障りにきしむ音だが、僕にとっては懐かしさも感じる音だった。
恐らく目的のものはここにある。階段や廊下や窓から侵入したケーブルは全てこの部屋の脇、サージャスの書斎の中に続いていた。
「狩りというものは生きる上で必要な行為ですが、しかし同時に楽しめる娯楽でもあるのですよ。それに……」
肉の線維を強引に引きちぎる音が聞こえたかと思うと、縛られた生け贄の方、忍び足で進む僕の足下すぐに何かが放り投げられてきた。
砕かれた骨がちょこちょこ見える、眼球がおまけで付いた顔の欠片。何度も恐れおののく姿を見て楽しんでいたのだろう、泣き疲れたのか諦めきったのか、もう彼を喜ばせるような反応を返せていない。僕も僕で投げつけられたのには驚いたが、もう見慣れたものに驚く箇所など無いに決まっている。
「…………こうやっておおっぴらに形だけ我々によく似た獣を弄べるのは、こういう戦争の時だけなんですから。君の世界の言葉だと……そう、『勝てばカングン』でしたっけ?」
「げほっ、げほっ……でも、だからって!」
裏返りかけた大声で反論する青年だが、顔周りをそこまで酸っぱい臭いで充満させては格好が付かないというものだ。外でしろと言われても従う気は毛頭無いらしい。
「だからでしょうが! 私だって君だって、いつかは殺されるんです! 殺されるのであれば、それまでに精一杯楽しまなければ罪だ! 死ぬ楽しみがどれだけのものか見ないと損だ! いつか私を憎らしく殺してくれることも楽しみにもしてるのです、その時までに沢山楽しまないと勿体ないじゃないでしょう! 私を惨たらしく殺してくれる誰かがこの中に居るのかもしれないのですよ!? それをもっと惨たらしく殺すのが至福の瞬間ではありませんか!!」
張り裂けんばかりの大声を上げた部隊長だったが、何か思い出したように口角を吊り上げた。憎らしさと優越感とがざっくらばんに混ぜ合わされたような、嫌悪と憧憬のまなざしで。
「……失敬、そうでしたそうでした。君は殺されても大丈夫でしたね。羨ましい限り……クフフ、本当に羨ましいですよ。便利で、有用で、『どちら側もこなせる』んですから」
一人だけ笑いながら、新しい玩具に手を掛ける。たまには雄と言う通り、次に選ばれたのはまだ年も一桁であろう男の子だった。目は泣き腫らして真っ赤で、耳は片方切り落とされている。喉元が血で赤黒く、猿轡をされた口からは掠れた唸り声すら出てこない。
助けたいが、通信線を切った後でないと全員が死ぬ。
時間も無いし、今の僕にはどうかいたぶられ続けて殺されませんようにと畜生並みの事を祈るほか無かった。
「それデ…………用件はなんですか? 別に何であろうと私は拒みませんよ。一夜にこれだけ楽しめば中だるみもしてきますし、他人のやり方というのも見てみたいですしねぇ……」
「……ってられない。やってられねぇよ!」
扉を挟んで聞こえる青年の激高する声にも、部隊長はせせら笑うばかりだ。
設備自体は見つけた。大型のラジオのような外観、複数のダイヤル、繋がっている箱に刺された十数本のケーブル。これを壊すなり燃やすなりすれば良い。はずだったのだが。
「まァまァ、若気の至りって言い訳は立ちますよ?」
「だ、だから殺せっていうのか! こいつらが何をしたって言うんだ!」
その機械の前に一人の男性が暇そうに頬杖をついている。壊れた花瓶を見つめるような目つきで、大切なカップを落として割ったときのような溜息と共に、目の前の通信設備に繋がったヘッドセットの位置を億劫そうに直している。
「戦争はそういうものですヨ! 殺すか殺されるか! その過程が違うだけだ! その凄惨さが違うだけだ! 大体異邦者はいつもこうだ! ……どいつもこいつも腑抜けばかり、我関せずと助けもせず、奪いもせず! ただ第三者でいるばかりで、自分は悪くないとご託だけは一丁前に並べ立て! 誰もがそうだ! みんなみんな責任逃ればかりだ!
何故認めない! 何故自分だけは違うと言い切れる! 君は誰かを痛めつけたことなど無いと言い張るつもりなのか!
その目つき、その態度! 君の人生は清らかだと胸を張って言えるのか! 誰もが加害者だ! 被害者になりたくないのならそうするしかあるまいに!」
僕が扉を開けたときには、もう壊れているように見えた。
正確に言えば、わざわざ分解してから壊されているようだった。
「…………隊長さんじゃねぇな?」
独り言の声の大きさで、おそらくは僕に尋ねている。
一種の危機感というものだろうか、右手は拳銃を、左手は腰の短剣を抜いて構えていた。
「殺すなら殺せば良いさ。そんだけの罪はここに居る誰もが重ねてる」
明らかに僕という存在を知覚している。
背後から言い合う声が聞こえる。正義感だけが先走った青年の言葉を、部隊長の成熟しきった悲壮さが容易く打ち壊す。何かを蹴り飛ばすような音、何かが床を跳ねるような音も聞こえた。
「だが、どうせなら贖罪をしてからにしたい。目の前のこいつが俺の意思さ」
右手をヘッドセットから外し、指先でトントンと叩く。
「…………誰なんだ」
僕はそう漏らしていた。ゲームの真似事のように拳銃と短剣を構えて、その照準を頭に据えて。
「……とはいえ、真っ先に贖罪して貰いたいのは、いろんな意味であのドの付く変態部隊長だろうな」
聞こえているのかいないのか。通信士はそうぼやいた。
照準を動かさないよう、右腕の時計を見やる。時間は過ぎて、もう一分が経過していた。
「ふざけんなよ! あんたなんかと一緒にすんなよ! この変態が! 殺人鬼が!」
「何とでも言うがいいでしょう! 私も久々だ、こんなにも無理解で偽善ぶる青二才に当たり散らしたくなったのは! 実に腹立たしい! 自らも君も、あいつらも、自己正当化する誰もが腹立たしく憎らしい!」
目の前の男はヘッドセットを外し、両手を頭の後ろで組んだ。
「……早くしないと不味いような気がすんなぁ」
結論を付ける。今はこんなのに構ってる暇はない。
感情も何もかもを切り替える。さっきから言い合っているあの男を――――――そう扉に手を掛けたときだ。
三回の発砲音、一瞬遅れて青年の断末魔。
「…………まったく、興醒めもいいところですよ。また死に損なってしまった」
ゆっくりと開けた視界の向こうでは、部隊長が拳銃を構えていた。正対していた青年は顔に二発食らっていて、傍には硝煙が微かに立つ拳銃がもう一丁転がっている。
「シャール少佐! お怪我は!?」
警備がすっ飛んで入ってくるが、僕らと同じように顔をしかめた。奥に広がる惨状に対してか、仲間が撃たれていることに対してか。
「いいえ、大丈夫ですよ……そいつをそこらに放って来てください。半刻もすれば消えますからね」
「えっ?」
「責任は私が持ちますよ。君はただ棄ててくるだけで良い……人目の付かないところにね。頼みますよ」
「……はい、了解しました。暫く警備を開けます」
言いたいことを飲み込んだ調子でそう言うと、重たそうに動かなくなった青年を背負い、のたのたと家から出て行った。
「…………さてさて。なんだか全てが空虚に感じてきてしまった。元から何もないようなものだが」
開きっぱなしの扉を閉め、部隊長が、シャール少佐が嘆く。
「あの出来事すらもう一昔前を超えているというのに、こうもずるずる生き延びているのはもう堪らない。まったく、いっそ全てを無に帰してあの子達の元へ逝ければ……」
まだ生きていた少年がずるずるとシャールの元から逃れようとするが、もう彼の興味は失せているようだった。そのまま死体の上にどかりと座り込む。
「……私は自分の命すら始末の出来ない弱虫だ。誰でも良いから、こんな惨めな私の人生を締めくくってくれはしないか。これでもかと惨たらしく、憎しみを込めて殺してはくれまいか。私の抵抗できない力で、痛みに包まれながら私は死ななければならない。そうでなければ……示しが付かない。
ずっとそのために殺してきたのだ。もしかしたら、この辛い感情を抑えられるのではと縋って。何もかも忘れ、真の悪となって、いつか死ねるのではと。でもそうはいかないらしい……生きることが贖罪となるのか? こんな不格好な、ただただ小悪党にしかなれない人生が!」
そう話す彼は、僕が最初に聞いた時の調子のそれと全く変わっていない。
「アニマリアさえなければ、彼らの差別さえなければ! 我々が君たちを恨むことは無かったのだ! 君たちを恨む心が無ければ、私の家族は不条理に殺されずに済んだのに! ……ああ、何故私はあの時に共に死ななかったのだろうか。たった一人のうのうと、あの子達の無念さに立つこともせず、孫娘のために手を貸すこともせず……守ることもせず!
何故言葉が止まってくれない! 何故私はこうも懺悔などしている! 私は決して救われてはならない! あの子らよりも非道く凄惨な罰を受けねばらならぬと言うのに!」
次々と紡がれる言葉にわざとらしさは無い。純粋な心境の告白のようだった。
この男の吐く姿は、向こうの世界の僕に重なるところが多い。立場は逆だが、思うところはきっと一緒だ。
「もう嫌だ……いつになれば死ねる。殺してくれる? どれだけの悪事を働けば私は満たされるのだ、どれだけの無実の命を奪えば悪となって天罰が下るのだ?
私は誰にも懺悔することは出来ない……誰に向けて? 馬鹿馬鹿しい。誰も私など救おうとしない。私はいつまでも殺し続ける。殺されるときまで、狂った人形のように、ただそれだけしか出来なくなったから……いつまで振りをし続けるつもりだ」
拳銃を仕舞い、短剣だけを逆手に持つ。これ以上聞いていると気が滅入ってくる。あの時の自分に似過ぎていて、もうどうすることも出来ない過去の思い出に締め付けられそうだった。
「……済まない、済まない。こんな父親で、祖父で、本当に済まない……」
シャールが軍服の下から何かを取り出す。首から下がっているそれはロケットのようで、中を開いて静かに微笑んでいる。その笑みすら罪の痛みに苛まれているように思えて、それでようやく決意が付いた。彼の思い通り。願い通りにと。
偽善かと言われれば頷くほかない。僕がすることは単に殺すことに他ならないからだ。
「…………?」
歩ける者は自分だけの部屋に、誰かの足音が響く。きっとそれは右手からやってきて、自分の目の前で止まったように思えただろう。
出来るだけ惨たらしく、痛みに包まれて。
だとしても、もう泣き言は聞きたくなかった。
「グギぃッ!」
顎を押し上げ、短剣を横に突き刺し、そのまま左右に動かして肉を切る。気道をほぼ残して刃が抜けると同時に腹の真ん中に深く突き刺しながら死体の山に押し倒す。一端で繋がっている声帯を鷲掴み、潰すつもりで強く引きちぎろうとした。
「ギッ! ィイイイィィィッ…………!」
手の中で僅かに震える感覚に気色悪さを覚え、なかなか千切れないことに苛立ちも覚えてくる。片腕はシャールを押さえるのに使っている。ものごとはやってなんぼだ。
「………………!」
口の中が鉄臭い。妙に伸びる皮膚の食感はまるで生ゴムか鳥の皮でも噛んでいるように錯覚する。ぶちぶちと繊維を切っていくのが直に分かり、最後の一カ所が切れた瞬間に勢いづいた頭が反り返った。擬音語にしにくい音が口元でこだまする。
口の中に溜まった血や肉片を吐き出しながら、刺した短剣を衣服ごと力任せに縦に掻っ捌く。腰のベルトに阻まれるまでの切り傷が出来上がったら、内部から刃を突き立てて死体に固定してから小腸を引っ張り出す。刃で傷が付いていない場所をおおざっぱに探り、両手に二度巻き付けて滑らないようにする。
「……! ……………!」
声なき声を上げ自らの腹の内を探るシャールの首に腸を巻き付ける。試したことがないぶっつけ本番だが、千切れないことを祈りながら思いっきり縛り上げた。
彼の腕が腹からよじ登るように僕へと近づいてくる。彼の深い緑の瞳は何も捉えていない。年の瀬か白く濁りつつあるが、それでも元の美しさは損なわれていなかった。
僕は更に締め上げる。滑る小腸をこれでもかと握りつぶし、みちみちと限界の声を上げるそれを更に痛めつける。
彼の苦悶する顔が記憶に重なる。例え方法が違えど、死ぬまでの苦しみというものの恐ろしさと絶望感は同一になるのだろうか。子供でも、大人でも。死ぬのは怖いのだろうか。本当に怖いのは、死ぬまでの痛み、苦しみ、何もできない無力感ではないのだろうか。
「ッ! クソッ!」
伸びきった彼の小腸はほぼ真ん中から弾け飛んだ。偶然そこに残っていた排泄物もどきがピタピタと床や壁に張り付く音が響き、次にびたりと腸が床を叩く音が聞こえた。
シャールはまだ生きていた。窒息の苦しみから解放され、不規則で浅い息が露出した気道を通って彼の命をつなぎ止めている。
「………………!」
彼の口が動く。何かを必死に伝えようとしている。
僕の耳にこの世界の発音は日本語に聞こえる。だが必ずしも日本語を話しているわけではない。そんなどうでもいい事実に今更気付く。僕は彼の意思を理解できない。
より残酷に、より苦しみを。
腹の中の短剣を引き抜き、彼の顔が作業のしやすい場所に来るように体の位置を調整する。面倒なので柔らかい彼の内臓の上に腰掛けると、力の無い腕が僕の輪郭をなぞり始めた。まさぐられるのは趣味じゃない。先ずは二の腕を動かす筋肉を健から断った。
今一度、シャールの顔面を観察した。まだ致命傷というものは与えていないので、元気のなさとは裏腹にまだ死にそうにない。彼の口はまだパクパクと意思疎通を図っていて、その必死さに腹立たしく、むなしく――――――――よく分からない感情を引き起こさせられる。
彼の頬を裂き、顎の下の筋肉を骨から外す。下顎を握れるように切れ込みを入れ、舌の接続部を切り、最後に関節部に刃を通して外したら、あとは残った皮を剥ぐ勢いで力一杯引けば下顎は取り外すことが出来る。残るのはだらりと垂れる舌と、もはや息しか出来なくなった口腔内だけ。こうすれば最後の仕上げがやりやすくなる。
下あごを放り投げ、見えるかどうか知らないが、シャールの目の前に刃先をちらつかせてから、片目はそのまま潰し、もう片方はくりぬこうとしてみた。半分ほど潰れてしまったが上手く取り出せた。
鼻を削ぐ。付け根の軟骨の部分にコツがいるけど、取れれば頭蓋骨の鼻の部分の空洞が心なしか分かるようになる。
そして耳を切り落とす。これ自体は簡単で、鈍り始めた刃先でも簡単にやり遂げられた。
おおよそ遊べる部分で遊んだ後でも、まだショック死していなかった。痙攣はしているが、肘から先はまだ顔に向けて必死に伸ばしている。ついでなので右手の中指も拝借した。関節に上手く入れられれば切り取るのはさほど難しいことではない。
先ずは鼻を突っ込んだ。最後の綱が塞がれたためか、僕を持ち上げる勢いで痙攣が強くなる。順に耳や、柔らかい眼球や、それらを押し込むように中指を詰め込んでいく。気道がその形に広がるのは押し込む実感というものを僕に与えてくれて、やりがいというものを生み出してくれた。
最後に舌で蓋をして、終わり。
立ち上がると、抑えられていた藻掻きが水を得た魚のように激しくなった。どう足掻いても届かない手を必死に伸ばし、呼吸を遮る自分の顔パーツを吐き出そうと躍起だ。
ふと思い出して、暴れるヒト擬きから部屋に視線を戻した。殆ど変わっちゃいなかったが、あの通信士がここに来ていて、何時の間にか村人達の拘束を解いていた。
誰もがシャールを見下ろしていた。そこに憎悪や侮蔑の感情は微塵もなくて、ただただ疲労が溜まったような目つきと、何も残っていないと言いたげに開いたままの口とで彼を眺めるばかりだった。追撃を加えようとも、助けようともしない。
見覚えのある顔があった。今になって気付いたが、確か村長やイリアの世話をしてくれた女性、確かプシラムだったか。彼女もまた、何もすることなく呆然としているだけだ。
元の穏やかな顔を知っていると、こうも無情さを掻き立てられるものなのだろうか。
それとも単に、見たことがある相手だから無条件に同情をしてしまうのか。
きっと知らなければ、可哀想な犠牲者達とひとくくりにされたのだろう。しかし僕は彼女を知っていて、元気だった頃、少しだけだが彼女の性格も覚えている。
たったそれだけで赤の他人にかけるよりもずっと多い情けを掛けたくなるのだ。
やっぱり、そんなものはあるべきじゃない。
喪いたくないなら手に入れなければいい話。そんな屁理屈じみた持論だ。
死体の上の死にかけが最後に大きく反り返ったかと思うと、全ての力が溶け出した。
時計を見る。死ぬまでに五分。
この壮年の男性が報われたのかは知らないが、酷く苦しんでいる顔にも安らぎを見いだせたようにも思えた。
あの時の経験を基にして言えば、本当に死にたくない人というものは最後まで馬鹿正直に苦しみを撥ね除けようとするもので、苦しみはこの人のそれよりずっと小さいのに、無様で不格好な死に顔になったりする。元の覚悟当たりから違うのだろうか。
久しぶりだ。ここまで手を掛けて殺したのは。
いいや、あれは殺した後だったか。




