11 夢と過去、化け物
電車に乗っていた。
外には見慣れた景色が滑り、そこには僕だけしかいないように思えた。
確かにこれは、僕の住んでいる世界のいつもの風景だった。
あの日だ。
自分の服装を見て思い至り、耳に付いているイヤホンに気付く。何も流れていないイヤホンは、代わりに周囲の雑音を抑えてくれていた。
「文明の利器だ、無いよかマシだろ」
にもかかわらず、背後から明瞭な声が聞こえた。僕に向けての言葉と無意識に理解して、振り向く必要は無いと窓の外を眺める。
「教科っつうよりも、セン公が合わねぇだけだろ」
声が僕によく似ていることに気付く。背中合わせの誰かは、決して僕に触れることは無かった。
「家に帰れば一人だろ、学校でも一人で居られるだろうが」
君がいるじゃないか、と思った。
相手が誰なのか、それは考える必要の無いことだと夢の中の僕は割り切っていた。
「俺が居るんだ、いつもなんとかなってるだろ?」
あの日の僕と対話しているように感じるが、一方的なやりとりのようにも思える。
僕と会話など誰もしたがらなかったって言うのに、こいつはしつこく話しかけているようだった。
「そうだ、いつも通りだ。お前と俺ならなんとかなるさ」
電車が止まった。ドアが開いた。後は落ちるだけだ。
そう薄らと思った瞬間、それが見当違いだと思い知らされた。
連続した破裂音。こみ上げてくる生暖かいものを漏らしても何が起きたか理解を拒んでいた。
仰向けに体が倒れて、車内の風景がゆっくり回転していく。
そのまま反対側の座席が見えた瞬間に、僕の体が落ちていくのに気がついた。
胸が熱い。吐いても吐いても赤い吐瀉物は無くならない。苦しい。
熱い、痛い、力が入らない。鉄臭い。
イヤホンは耳から外れていて、誰かの声が頭に響いている。暗い穴の壁に人型の闇が映り込み、落ちていく僕にしがみついてくる。
底が見えた。
「……ぅぁああっ!」
全身に電流が走ったような痙攣で星の綺麗な世界に戻ってくる。
反射的に口に手を当て、その手をシャツの内側に滑り込ませた。鼓動ははち切れんばかりの雄大さで、どちらも膜のような寝汗で濡れていたが変な臭いはしなかった。
夢だ。意識して深呼吸を繰り返し、最期に大きく吐ききってようやく落ち着くことができた。
まだ夢の続きのような気がする。それほどに痛く苦しく、胸を貫いた感触と喉の妙な湿り気が残っていた。唾を吐けば赤いのではと、そう確信できそうなほどに。
見上げていた空からは、月が退場する間際まで退いていた。時計と併せ夜明け前だと確認する。
暫く空を見上げ、火照っていた体が夜風で冷えるのを待った。空いていたはずのイリアとの隙間は姿を消していて、体と左腕の中で丸くなった彼女が眠っている。寝息のせいで脇腹が生暖かいのに気づき、変な気分になる前にブレザーから抜け出した。
こんな状況でも邪な欲求というものは顔を出してしまうようで、しかしお陰で夢を夢だと切り捨てることができたのも事実だった。あの生々しい感覚はさっさと忘れたかったし、あの時まで思い出しそうな痛みはもう御免だ。
あれは必要な傷だったとはいえ、痛いのは嫌に決まっている。
「ん?」
少し体を動かしがてらミリアスと変わろうと膝を立てたとき、何かの音が聞こえた。彼の足音かと最初は思ったが、もっと重量のある音だった。
ここに居るのは僕ら三人だけで、それ以外が居る可能性というのは予想以上に恐ろしく感じるものだった。とにかくミリアスを探そうと立ち上がり、しかし足音を立てまいと慎重に靴の元まで進む。後悔先に立たずだが、脱ぐべきじゃ無かったなぁと思考を平静に保たせる。
また足音が聞こえた。重いものと、もっと軽い音。
歩きながらホルスターに収められたものを引き抜き、音の発生源に近づく。
窪みから抜け出し、木立の陰に隠れるように外側を覗いた。
横に差す月光に、鋭く反射する二つの影。一つはミリアスで、もう一つには目も当てたくなかった。
語弊があるが、外観は短毛の大型犬を更に大きくしたようなもので、前足の付け根辺りから毛の生えていない腕が上向きに付いているのがまず分かる。次にそれが反射するのに気付き、獲物を殺す道具だと気付いたのが一番最後だった。
――――腕と言うよりも槍に近いそれは、優に三メートルは届きそうな長さだった。
ミリアスはその直ぐ外側、剣を片手に低く構えていた。もう片手には刃渡りが彼の腕ほどの長さの短剣—―――脇差しに近いのだろうか――――が逆手に持たれている。双剣と言うには長さがアンバランスで、二本目はどこに隠し持っていたのかと微か脳裏をよぎっていった。
双方が距離を測っていた。どちらかが一歩動けば、相手は自らに有利な距離に移動する。その応酬がとてもゆっくり進められ、僕にも分かるほどに読み合っている最中であった。
それがミリアスに不利だというのも分かり切ったことだった。後ろに向かわせないことが条件に組み込まれれば、取れる間合いの選択肢が限られてくる。
もうすでに、こちら側に二歩分下がっていた。
やるしかない。
力の限りスライドを引き、手応えと共に指を離す。二つの影が止まるのが見えた。
そうだ、こっちを見ろ。
曙の淡い陽に照準の目星を見通す。互いに睨む彼らは大して変わった様子が無い。
ミリアスの背中越しに化け物の胴を狙う。的は大きく動かない――ミリアスのお陰で動けない。
装弾数は薬室含め十発、マガジンは計二本。足りる。
膝を曲げて、僅かに前傾する。あの時の手の感覚を思い出しながら引き金に指を掛ける。風に汗が蒸発し、背筋に悪寒が走る。
その冷たさに反するように、脳裏に夢の内容がちらついた。胸に空いた穴。熱さ。肺に液体が溜まる感覚。
それをかき消すがために数回撃った。撃ちながら既視感を覚えた。夢じゃ無い、別の、ぼくの記憶。
前にも同じように、きっと人間を殺した記憶。この場所じゃ無い見慣れた風景――山の中の寂れた公園に、どす黒い土と肉。手元の鉄臭さ。自らつけた傷。
あそこに銃は無かった。あの時は包丁だったはずだ。どうして今。
「もういい! 止めろ!」
ミリアスの声に気付いたときには、スライドが引ききっていた。もう九発を撃ちきっていたのか。見ていたはずなのに気付かなかった。
熱された銃身の先からの煙の向こうに、化け物が横たわっている。痙攣して、それでも諦めの付かないように腕をこちらに何度も突き出していた。
「……もういい、火薬弩を無駄にするな」
脇差しを服の下、腰から背中にかけてあるらしい鞘に収めながらそう言われる。その声にどことない裏があるように思えたのは、言葉の前の沈黙のせいか。
「イリアを起こして荷を纏めてくれ、持てない分は埋めていく」
そう言いつつ止めを刺したミリアスは、その屍にかがみ込んだ。
「……何はともあれ助かった。礼は言っておく、カズ」
こちらを見ずに言う。
「もう暫く手を貸してくれ。今の借りも必ず耳を揃えて返す」
皮を割いて関節を外すような音に必要性を感じながら、僕は寝床に戻った。イリアが眠っていた場所に変わらずブレザーがあって、その下に彼女の頭巾の端が見えている。
「うわっ」
起こそうと触れた瞬間に大きく跳ね上がった。驚かしてしまったのかと今度はゆっくり触れてみるが、やはり体を震わせてくる。
イリアに触れないようゆっくりとブレザーを持ち上げ、中を確認してみる。朝焼けの直前でも中は暗く、彼女の顔は見えなかった。
「うぐおっ!」
起きてはいるのだろうけれども、と思った瞬間にこれでもかという強さで飛び込んできた。彼女の頭突きが鳩尾の下に入り息が乱れる。
そうしてようやく、彼女が震えているのに気がついた。呼吸は過剰に速く抱きつく腕は力なく、相当に怯えているのが分かった。盗賊の一騒動の後よりもずっと酷い状態だ。
最初はさっきの銃声のせいだと思ったが、背を撫でて落ち着かせる内に忘れていたことを思い出す。どうしてこんな状態になっているか、昨日の出来事だというのにすぐに思い至らなかった。僕がこの世界の、あの村の住人じゃ無いからだろう。
関係性の有無は記憶に直結する。無関係の人の死などテレビの向こう側の話だ。
親戚に故郷にと次々に失って、冷たい不衛生な食事に、固い地面の上で良くない夢でも見て、銃声で目覚める。
僕は男だ。性差がある以上、こうなっても仕方ないのだろう。
何も思わず、考えなければ良い。人としては完全に間違っているが、僕はそうした。
でも、これが正しいのだろう。傷ついたときはこれで良いのだろう。出来るなら。
変な話だったが、こうして誰かを頼れることが少し羨ましくも思えた。
あれがフラッシュバックなのだろうか。あれのせいでこんなことを考えている。
周囲に頼れる人も巻き込める人も居なかった、あの時の僕が彼女を見たらどう思うだろう。
時間が経つにつれて空はどんどん明度を増し、過呼吸はすすり泣きに変わった。
ミリアスが二本の鋭い槍腕を抱えて戻ってきた後、残った物を殆ど埋めて出発した。
幾度かの死の体験の後、男の手には木と鉄で出来た何かが握られていた。
男はそれが何かを知っていた。ようやく「こちら側」に入ることが出来た。
「おい向けんな、危ねぇ」
撃鉄が落ち、隣の兵士の頭が半分はじけ飛んだ。
「お返しだ、この野郎」
男は憎々しい声で答えた。
こちら側に乗り込むまで何度撃ち殺されたかを彼は良く覚えていた。
「何をしている!」
小隊長かそれ以上か、武官が男に拳銃を向ける。
「戦争ですよ、お判りでしょ」
男が小銃の引き金を引く前に、彼の胴体に熱さと圧迫感が広がった。
兵士が倒れる。何が起きたのかを理解しない瞳は土に汚れた。
「仲間を撃つとは、非道いことをなさる」
武官の背後で誰かが言った直後に、彼の喉から銃剣の白刃が飛び出す。
発言と行動が真逆の兵士は、さらに二人を殺した後に仲間から撃ち殺された。
「なんなんだ……どうして、こんな」
撃ち殺した人物が、他の仲間に手あたり次第に銃弾を叩きこむ。
恐れた誰かが反撃して殺すと、今度はその者が発狂したかのように同士討ちを誘発させる。
隣で呆然とした友人に、他人となった男が答える。
「報いじゃねぇの」
「……え?」
男の精神は麻痺しつつあり、それでも乗り移る誰もの感覚が嫌に明瞭だった。
男は、痛いのも楽しもうと思い始めた。
死なないのならば痛みは警告ではない。壊れるまでの目安になるだけだ。
にわかに自殺した友人を見つめる目を見て、男はこれからのことに胸を膨らませ始めた。
やらなきゃいけないなら、楽しんでやるべきだ。
あいつだってそうやってきた。俺もそうすべきだ、と。
彼にとって死は終わりでは無くなった。賢者の言葉は真であった。
彼の死はただ、器の死としかならなかった。
枷は外された。




