00 他愛も無い転移前
われわれが広々とした自然の中にこれほどいたがるのは、
自然がわれわれに関してなんら意見をもっていないからである。
人を殺したことがある。そう聞いて何を思うだろう。
何も思わないはずだ。へぇ、そうか、とだけ思ったことだろう。
その程度じゃ誰も驚きはしない。せいぜいその場の空気を悪くして、変な奴だという認識を植え込む程度にしか力を持たない。今日はパンを食べてきた、いつもの散歩道に犬の糞が落ちていたというぐらいにありふれた出来事で、興味を惹かれる要素はない。
と言うよりも、他人のあれこれに関心を持つほど、誰も彼もが暇でもなかろう。
表面上は綺麗な秩序で溢れた世界だろうと、そこらじゅうで物騒な事件が起きている。国外に目を向ければ、それ以上に悲惨な事実で溢れ返っている。だとしても、自分に関係の無い場所で起きているのならだれも関心を寄せようとしない。
僕はそれで構わないと思う。他人に首を突っ込んで良いことは何一つない。見ず知らずの他人に心を痛める余裕は誰にもないし、世界だってお人好しな訳じゃない。
だから、僕が人を殺したことなんて誰にも言うつもりは無いし、勿論誰だって知りたいと思わない。何が言いたいかというと、君の隣に殺人鬼が佇んていようと君は気づかないし気にしようともしないという事だ。別段気にすることでもない。この現代社会、相当な後ろ盾や計画でもない限り、殺人を隠匿することなど無理に近しいものだから。
平らに均された世界で、誰が化け物か見分けるすべはない。
だって、誰もがそうだろう?
僕も、見ず知らずの君も、善人も悪人も、誰もが同じ人間だ。
目が覚めたら、ベッドから体を起こす。
顔を洗って、歯を磨く。
食事を終えたら、登校の準備をする。
家を出て、駅まで歩き、電車を待つ。
いつも通りの日常、いつも通りの風景。変わらない町、変わらない生活。
ずっと変化することのないサイクル。これまでも、これからも――――――誰も。
僕は、学校へ向かう電車を待ちながら、どうでもいいことを考えていた。イヤホンから流れているのは、いつも聞いている、僕を包み護ってくれるBGMたち。今はペールギュントの旋律だ。柔らかい旋律にこの刺すような冷気は不釣り合いだが、これもこれで趣があるものだろう。
朝のホームには学生服の人物の合間に、私服を着た人々も見える。土曜日ということもあるだろう、ホームはいつもより少し騒がしかった。
近くに多少有名な観光地が佇むとはいえ、田舎の駅だから混んでいるということは無い。いつもより人が多いと感じる程度で、都会のそれのような狭苦しさはない。待合室すらない田舎駅と都会を比べるものでもないだろう。屋根があるからまだ良い方である。
冷たい風が肌と参考書をくすぐる。視線を参考書から風の来た方へ移すと、古びた時計が目に入った。もうほとんどその役目を果たす必要がなくなってきたそれが、そろそろ電車が来る頃だと知らせている。
目をそのまま時計の向こう、屋根の隙間にやると、灰がかっているが、それでも真っ白な空が見えた。
今日は雪が降るのだろうか。どうせならば降ってほしいものだと思いながら、自分の体温で温かくなった椅子から立ち上がる。アナウンスが電車の到着を知らせ、人を乗せる箱が冷たい風を纏いながらホームに停車する。手動の扉をこじ開け、たった三両の寂しいそれに乗り込んだ。
電車の中は、当たり前ではあるが温かかった。少し暑苦しいと感じるほどである。
寒さに慣れてきたと思えば、今度は暑さに慣れなければならない。しかも数分したらまた寒さだ。いつものことなのではあるが、少なくない嫌気がさした。今日の授業のことも関係しているのかもしれない。苦手な科目があるということはとても辛いものだ。
すでに参考書はバッグの中で、僕の目は流れる外の世界を眺めていた。イヤホンからは相変わらずペールギュントが流れ、僕の心を撫でている。静かで雄大な旋律は、町と村の中間にあるようなこんな場所には不釣り合いだが、だとしても大切な故郷には変わりない。
どうして自然に心惹かれるのか。そんなことを考えて気を紛らわせた。嫌なことは直前まで忘れるに限る。腹の立つ寒暖差も、面倒な人付き合いや課題も、鬱陶しいクラスメートのことも考えたくない。
生まれたときから離れたことのないこの田舎の風景は、個人的にとても好きなのだが、高校生でこんな風に思っているのは少数派なのだろうか……と考えるのはきっと年頃の子供だからだろう。思った時点で負けだ。誰に言ってるわけでもなし、どうでも良いことで優越感に浸れるわけでもない。
しかし、一面に広がる水田も、ぽつぽつと建っている古びた家も、夏にはツタが張り巡らされ、姿を隠す塗装の禿げたフェンスも、少し霧がかった山も、僕の心を優しく温めてくれるものだった。
見慣れた世界は、自然に溶け込んだ世界は平穏を与えてくれる。そう思っている。だからこそ、この寂れた田舎が好きだった。理由も義務もなく、ただ僕を受け入れてくれる、唯一の居場所だからだ。
だからだろう。もう少しだけ一人の世界に引きこもりたいな、と外を眺めながらなんとなく思う。
誰からも干渉されず、誰にも干渉する必要がなく、一人のままでいられる世界。しかし、相互協力が大前提の社会という枠組みにそんな理想郷はあるはずもなく、ただ現実逃避じみた空想をするほかなかった。
電車に乗る前から続いていた朝が霜の残る線路に置いていかれるように消え、次の曲に移行する。
突如響くティンパニの音と良く通るコーラスで何の曲かはすぐに分かる。カルミラ・ブラーナ。朝の雰囲気に全く似合わない曲だと少し気が緩んだ。
電車は変わらず走り続けている。これからもこの電車は走り続けるだろう。その役目を終えるまで。あるいは次の担い手が来るまで走らされ続ける、と言った方が正しいのだろうか。どちらであれ、意味のない問答に変わりはない。
人間も、いつから電車のようになってしまったのだろうか。ある程度決められたレール、決められた役割、変えるには多大な浪費が必要な決められた道筋。いつから選択肢というものが減ってしまったのだろうか。いや違う、そもそもといえば選択の幅というものは所得によってほとんどが決まってしまうことが問題なのであって……。
止めだ。
青臭い考えが澱みなく続きそうになったので、この話題を考えるのを止めにした。こんなこと考えたって仕方がない。答えの出ないことを考えてどうする。どうしようもないことで悩んでどうする。
あと少しで学校前の駅というところで、空から白いものが降ってきたのが見えるようになった。久しぶりに見るそれに心が少し高揚する。
まぁ、今日もなんとかなるさ。いつも通りの毎日だ、と頭を振る。代り映えのしない、平坦で、穏やかで、何も喪うことのない、繰り返される一日だ。
運命の女神への激しい旋律に少し勇気づけられながら、早く降りようと真っ先に寒気が流れ込んでくるドアを開け、屋根すらない田舎らしいホームに足を付けた。
はずだった。
瞬間、視界が暗くなった。音が一瞬消えた。
その間に何があったのか、認識は出来なかった。
耳を震わせる大音量のコーラスに意識を取り戻した時には、既に事が過ぎていた。僕は電車とホームの隙間に体を躍らせていたのだ。
どうしてあんな狭い隙間から落ちたのかと考える暇もなく、重力に従って下に落ちてゆく。スローモーションを見ているかのように時間がゆっくりと流れていく。いや、遅くなっているのは僕の体だけだ。音楽はいつもの速さで続いている。
隙間から見える世界、僕の後に続いていた人たちは、その誰も僕が落ちていることに気が付いていないように見えた。まるで僕が落ちたのを知らないように。僕が見えていなかったように。
そして、直ぐに地面に叩きつけられるはずの僕の背中は、まだ空中にいる事実を伝え続けている。追い風のような空気の流れを感じる。隙間から漏れる光が小さくなる。地面があるはずの場所を超えて、どんどん下に落ちてゆく。
曲が終盤に差し掛かり、最後のファンファーレが鳴り響く。ああ、運命の女神よ。そう激しく歌い上げる。情熱的に、皮肉にも聞こえるような壮大さで。
ああ、意識って、こう無くなるんだ。
最期に思ったのは、そんなしょうもないことだった。