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湘南片想いカフェ

作者: 飛鳥 梨真

 湘南の海を臨む、1軒のカフェ。

 徐々に太陽が水平線に近づきつつある夕刻、今日の取材を全て終わらせた瑞希は、いつものようにそのドアを開いた。

「いらっしゃい、瑞希ちゃん。今日は仕事もう終わりかい?」

 客のいない店内で、顔なじみになったカフェの店長が、そう声をかけてくる。瑞希は、とある出版社のグルメ雑誌担当編集者だ。

「えぇ」

 言いながら彼女は店内を見回して、海岸を見渡せる窓際の席へ行く。2人がけのテーブルの、片方の椅子に愛用のトートバッグを置くと、取材メモとペン、そして携帯電話を取り出して、彼女は向かいの椅子に座った。

 この席は、事実上彼女の指定席だった。湘南の海を眺めながら、おいしい紅茶とケーキを頂く。仕事で疲れた時にはこれが一番とばかりに、この近くのカフェやバーの取材の際には、ここに立ち寄ることが習慣になっていた。

 ――いや、紅茶とケーキだけが目的ではないか。

 店内に流れるボサノヴァの曲を聞きながらぼんやり海を眺めていると、瑞希の席に黒髪の好青年が近づいてきた。エプロンをつけ、手には水の入ったグラスが乗ったトレー。この店のウェイターだ。

「いらっしゃい、瑞希さん。今日はちょっとお疲れみたいですね」

 そう言って、青年は彼女のテーブルにグラスを置く。

「ありがと、良平くん。今日の取材先は、超有名ソムリエが近々開店するワインバーだったからねー。何かと気を使っちゃって」

 言って彼女は微笑んだ。

 このカフェに立ち寄る瑞希の隠れた目的。それはこの好青年ウェイター、良平に会うことだった。

 彼は2年ほど前、取材で初めてこの店を訪れた時からの、瑞希のお気に入りだ。理知的な外見と、最近の若者には珍しい(と言っても、彼女自身まだ29歳だが)穏やかな物腰に一目惚れしたのだ。もちろん本人には内緒だが。

 ちなみに店長に聞いた話では、良平はこの近くの大学に通う学生で、昨年4月に4年生になったらしい。ということは――。

 ふと今日の日付――3月31日――に気付き、瑞希は彼に尋ねた。

「あの……さ、良平くん。卒業式ってもう終わったんだよね? ここのお仕事も今日でおしまい?」

 言ってしまってから、我ながら馬鹿なことをしたものだと、瑞希は自戒した。

 学生でありながらここで働いていたということは、すなわち良平はここでバイトをしていたわけだ。つまり、就職先が決まれば、3月31日でここを辞めるのは当たり前である。それが二度と彼に会えなくなることだと気付いた瞬間、彼女は良平を失うような不安に駆られて、衝動的に尋ねてしまったのだ。

 しかしよく考えれば、付き合ってもいないのに、失うも何もあったものではない。バツの悪い思いを隠すように、瑞希は慌てて言葉を継いだ。

「ってごめんねー、ヘンなこと訊いて。学生さんだもんね、卒業したら就職先で働くのは当然だよね」

「そうですね……」

 そこで言葉を切った良平は、何故か少し迷うような沈黙を置いて、再び口を開いた。

「あのね瑞希さん、僕、第一志望の会社に入れたんですよ。……瑞希さんが勤めてる出版社にね」

「そっかぁ、よかったじゃん――って、え? 良平くん、今なんて……?」

 とても大事なこと――でもとても信じがたいこと――を言われた気がして、瑞希は彼の顔を仰ぎ見る。

 そして彼女は気付いた。良平がいつもとは違う――まるで何か大事なことを言おうと決意したような表情を浮かべていることに。

 彼は小さく息を吐くと、毅然とした態度で言った。

「僕、初めてお店に来た時から、ずっと瑞希さんに憧れてて。でも瑞希さんは社会人で、すごく仕事もできそうで、僕みたいな学生なんか相手にしてもらえないだろうなって思ってました。

 だから僕、だいぶ前から決めてたんです。就職先は瑞希さんの勤めてる出版社にしようって。もちろん、それだけで瑞希さんに男として認めてもらえるなんて思ってません。ただ少しでも長く、瑞希さんの側にいられたらなぁって思って……」

 そこまで言って、今度は良平がバツの悪そうな笑顔を浮かべた。

「って、こんなこと言っちゃった時点で、側にいられるだけでいい、なんてことにはもうなれませんけどね。何だろう、何でこんなこと言っちゃったのかな、僕……」

 そう言いながら、照れたように頭を掻いている良平。瑞希は自分の顔が赤くなっていることを自覚した。まさか想い人から告白されるとは……。

 瑞希は半ば独り言のように呟いた。

「そっか、ずっとあたしの想いが空回ってるだけだと思ってたけど……違ったんだね……」

「え、それじゃあ……」

 驚きの表情をで自分を見つめる青年に対して、彼女は最高の笑顔を向ける。

「うん。あたしも、少しでも長く良平くんの側にいられたらなぁって思ってたんだ」

 そして瑞希は、良平の顔をじっと見つめて言った。

「良平くんから見たら年上のおばさんかもしれないけど……キミの側にいさせてもらってもいい……かな……?」

 その言葉に、良平はひたすらコクコクと頷くばかり。でもそれだけで、今の彼女にとっては充分だった。首肯だけで肯定の意思は伝わっている。

 しばらく首振り人形となっていた良平は、やがて

「あ、す、すみません。ちゃんと仕事しなきゃ」

と言うと、慌ててエプロンのポケットから伝票を取りだす。そして瑞希に先んじてこう言った。

「ロイヤルミルクティー、ミルク多め、ですよね?」

「さすが良平くん。よくわかってる」

 最高のウィンクと共に、瑞希は彼を称賛した。

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