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 闘技場の喧騒は、遠雷のように歴史の彼方へと過ぎ去った。

 

 あの日の『聖戦』が幕府の権威をかつてないほど盤石なものとした。次期総帥の座を巡る血みどろの暗闘は嘘のように消え去り、長男が総帥の座を継ぎ、次男がその影として兄を支えるという強固な兄弟体制が築かれた。

 

 そして幕府筆頭戦術顧問・巌陀羅(がんだら)は――。

 

 自らが仕組んだ茶番が、双子に見事に逆利用されて平和をもたらしてしまったことに、酷く狼狽したらしい。己の悪辣な盤外戦術が、己の最も望まぬ結末を招いたのだ。

 

 だが、持ち前の強烈な深読み癖が彼を奈落へと引きずり込んだ。

 

「……いや、待て。あの冷酷な双子が、ただの食あたりや茶番に感動するはずがない。あやつらはあの場で確かに、“何か”を目撃したのだ。大根と牛蒡には秘められた真の力があると言うこと……! 是非とも解明せねば……!」

 

 今では「あの絶対秘術の理を解明する」と息巻き、大根と牛蒡の魔力伝導率の研究に生涯を捧げているという。広大な書庫に籠もり、根菜の断面図を前に唸り、来る日も来る日も「なぜ大根は白く、牛蒡は黒褐色なのか」という問いと格闘しているらしい。

 

 策士、策に溺れる。

 

 それが、俺が心の中で下した巌陀羅への最後の評定であった。


 余談だが、巌陀羅の研究成果は、のちに幕府御用達の農書『大根兵法』として世に残ることになる。 

 

 決闘から数日後の夜。

 

 天啓院のそばにある上等な宿坊で、翔刃(しょうは)獅童(しどう)は幕府からの労いとして二人きりで祝杯を交わしていた。

 

 俺は記録官の務めとして、ふたりの部屋の扉の外に静かに控えていた。もっとも、俺には「俺の推理」の最後の答え合わせをしたいという、個人的な野次馬根性もあったのだが。

 

 部屋には、幕府が国の威信をかけて用意した最高級の膳が並んでいるはずだ。しかし扉の隙間から中の様子を窺うと、二人はそのご馳走には一切手を付けず、青白い顔で向かい合っていた。生の根菜を限界まで詰め込んだトラウマが、未だに彼らの食欲を奪っているのかもしれない。

 

「……終わったな」

 

 翔刃の声は、闘技場で空の王を自称した際の覇気を完全に失っていた。驚くほど平坦で、あどけなかった。獅童もまた、機械の眼帯を外し、ただの疲れ切った少年の顔で頷いた。

 

 翔刃は、ポツリと、静まり返った部屋に問いを落とした。

 

「なあ、獅童。……お前はこれまで、何人殺してきたんだ?」

 

 その問いに、獅童はゆっくりと首を巡らせ、一切の虚勢を捨てて答えた。

 

「……(ゼロ)だ。人を殺めるどころか、誰かと拳を交えたことすらない。あのように泥に塗れ、人と取っ組み合ったのは、生まれて初めてだった」

 

「……そうか」

 

 翔刃は、微かに口角を上げた。

 

「奇遇だな。実は、俺もだ」

 

 重い沈黙が降りた。

 

「……ふっ」

 

 不意に、獅童の口から吹き出すような音が漏れた。

 

「おい、翔刃。では貴様のあの『鷹の型』は、片足で跳ねるだけの踊りか?」

 

「そういう貴様の『獅子の型』こそ、四つん這いで子鹿のように痙攣していただけではないか! だいたい、なんだあの泥まみれの牛蒡は! 硬くて死ぬかと思ったぞ!」

 

「貴様の大根こそ、ひどく泥臭くて辛かったぞ!」

 

 どちらからともなく、爆笑が弾けた。腹を抱え、涙を流して二人は笑い転げた。

 

 扉の外で俺は、その笑い声を聞きながら、ようやく理解した。

 

 あの笑いは、何も知らない馬鹿だった自分たちへの自嘲ではない。馬鹿な振りをして最後まで戦い抜いた、互いの――共犯者だけに許された笑いだ。

 

 俺は最後まで彼らがなぜあのような茶番を大真面目に演じていたのかわからずにいた。彼らは戦いを知らずに育った子供だった。戦えといわれてもどうしたら良いかわからなかったに違いない。ゆえに巌陀羅につけ込まれたのだ。だが彼らはそれでも、懸命だった。一族の誇りと存続のためにわけがわからずも大根を食い、牛蒡を食い、泥の中で限界まで転がり回った。


 二人の懸命さが、俺に嘘をつかせ、その嘘が伝染し、此度の結果を呼び寄せたのだ。

 

 俺の歴史改竄が彼らを傷つけた過去は変わらない。だが、あの二人は俺が思っていたより、ずっと強かった。

 

「あっはっは! ならば俺たちは、これからもあの『威厳ある双獣』のふりをしていればいいのだな!」

 

「ああ! 黙って猛禽の真似事でもしていれば、一生この美味い飯が食い放題というわけだ!」

 

 二人はようやく、部屋の中央に鎮座する温かいご馳走へと向き直った。

 

「……食うか」

「ああ。生の根菜は、もう一生分食ったからな」

 

 二人は貪るように、鴨の肉に喰らいつき、温かい汁を啜った。

 

「美味い……っ! 火を通した肉が、これほど美味いとは……!」

 

 二人は再び涙を流した。今度は生の野菜の辛味や痛みの涙ではなく、純粋な歓喜と、したたかな共犯者としての笑い泣きであった。

 

 扉の外で、俺は微かに漏れ出てくる香ばしい鴨の脂の匂いを嗅ぎながら、そっと和紙と筆を取り出した。

 

 おそらく、英雄の正体などそんなものだ。

 

 だが、それでいい。誰も死なない世界。血みどろの凄惨な真実より、美味い飯を食って笑い合える「平和な嘘」のほうが、よほど価値がある。

 

 俺が彼らから誇りある歴史を奪ってしまった罪は消えない。だが俺は今日、もう一つの罪を知った。俺は彼らを最後まで「哀れな無知の若者」として見ていた。己の罪悪感を満たすためのその上から目線こそが、最も彼らを侮辱していた。

 

 今日から俺が書く嘘は、もう己の保身のためでも、幕府に(おもね)るためでもない。

 

 侮辱に耐え、泥を啜り、それでも誇りを手放さなかったあの眼の静けさを、俺だけは正しく書き残す。そのための、心からの『歴史』だ。

 

 俺は手元の和紙に、流麗な筆致でこう書き記した。

 

『――英雄たち、平和の宴にて静かに落涙す。その気高き魂は、永遠に我らと共にある』

 

 俺はかつてないほどの清々しさを感じながら、満足げに筆を置いた。

 

 見上げた夜空には、見事な満月が浮かんでいた。

 

(了)


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