一
『天啓院』。
天の啓示を受ける院。文字面だけを見れば、神聖で清らかな場所のような印象を受ける。だが、ここで行われている所業は清らかとはほど遠い。天啓院の実態は闘技場だ。ただ戦うのではない。死闘だ。互いの命を賭け、どちらかが死ぬまで戦うのだ。
天啓院の床には血の染みがこびりついている。ここで息をするたび、血と死臭が混じり合った空気を吸い込まねばならない。
幾千の命がこの場所で散っていった。
そして此度も――。
特等席の片隅。俺――幕府筆頭記録官の紫苑は、上質な和紙に筆を下ろす準備をしていた。
観客席は微かな衣擦れの音すら許されない重苦しい沈黙に包まれている。
「――此度の戦いを『誇り高き聖戦』として歴史に刻むこと。よいな、記録官」
特等席の最前列から、若き双子の総帥候補(長男と次男)が俺を一瞥した。
「御意」
俺は深く頭を下げ、内心で自嘲する。
現幕府総帥が病に倒れ、跡目を争う双子のせいで幕府は二つの派閥に割れた。泥沼の権力闘争は日に日に激しくなっていた。暗殺が横行し、重臣にも死人が出ている。この血みどろの内乱を早急に手打ちにするため、用意されたのがこの代理戦争だ。
長男と次男、互いに代理人を立て戦わせ、勝った方が跡目を継ぐ。
だが、ただの代理戦争では敗けた派閥が納得しない。だからこそ、これは『聖戦』でなければならないのだ。
そこで代理人には『聖戦』に相応しい戦士が用意された。日ノ本に住まうふたつの少数部族――天鷹族と地獅子族。
最強と目される部族の代表同士が、神話の如く殺し合う。その「神聖な戦いの結果」であればこそ、敗けた側も鉾を収めざるを得なくなる。
闘技場の中央で相対する二人の若者――天鷹族の翔刃と、地獅子族の獅童。
天鷹族には「雛落としの儀」という秘術が伝わる。生後間もない赤子を、標高三千メートルの断崖から突き落とす。生還した者だけが、天鷹族の戦士として認められる。
翔刃は、その儀を乗り越えた男だ。
彼を知る天鷹族の古老たちは、翔刃の名を口にする際、決まって声を落とすという。理由を問うと、誰もが同じ言葉を返した。
「あの目は、もう人のそれではない」と。
対する、地獅子族には「人機融合」という禁術が伝わる。生きたまま肉体に歯車と魔導回路を縫い込む。その激痛を生き残った者だけが、地獅子族の真の戦士となる。
獅童は、その禁術を乗り越えた男だ。
彼の傍に立った者は、皆、同じことを言う。獅童は笑わない。怒らない。ただ、銀の機械眼帯の単眼で相手を見つめる。その視線を受けた者が感じるのは、敵意でも殺気でもなく、もっと得体の知れない何か――まるで、機械が人間を観察するような、感情のない静けさだと。
かつて両部族は、幕府と対等に渡り合った誇り高き隣人だった。敵国の侵略の際には勇敢に戦い多大な戦果を挙げた。
だが今や彼らは衰退した。
今では彼らは一族の存続を人質に取られ、他人の権力闘争の代理人として闘技場に立たされている。
彼らの部族をここまで落ちぶれさせた原因の半分は、俺にある。
俺を育ててくれた恩師である前筆頭記録官は、彼ら少数部族の気高き戦果をありのまま歴史に残そうとした。結果、幕府に処刑された。
幕府にとってそれは不都合な真実だったのだ。
前任者の血だまりの中で筆を拾った若き日の俺は、己の保身のために幕府に阿り、彼らの歴史を『無謀で愚かな少数部族』へと改竄したのだ。
俺が今の高い地位と安寧を得ているのは、恩師の仕事を穢し、二つの部族のの誇りを貶めた対価だ。
彼らの歴史は、俺の記録によって侮辱され、差別の対象となった。そして今、彼らは一族の存続を脅迫され、この場に引きずり出された。
一族を守るため、彼らは誇り高き伝説の力を幕府の慰み者として振るわねばならないのだ。
観客席の上段で、一人の男がひどく愉しげな笑みを浮かべていた。幕府筆頭戦術顧問、巌陀羅。
巌陀羅は確か双子とは別の第三の跡目候補を推しているはず。その男がなぜ敵対派閥の『聖戦』を止めもせず、あんなに嬉しそうに見下ろしているのか。あのドス黒い瞳の奥に、得体の知れない悪意が渦巻いている気がしてならない。
太陽の光がわずかに差し込む闘技場。伝説の双獣が、互いに牙を剥こうとしている。
俺の眼は、二人の魔人の額に玉のような汗が浮かんでいるのを捉えていた。構えた手は、微かに震えている。
(怯えているのか? まさかな……)
武者震えだ。俺はそう自分を納得させながら、柄にもなく期待していた。
彼らをこの血塗られた舞台へ引きずり下ろした一端は、間違いなく俺にある。彼らが魔人であるなら、いっそ、ぶち壊してくれないものか。
すべてを。
このふざけた盤面も、双子が望む『聖戦』も、そして腐りきった俺の歴史も。
『此度、天啓院にて聖戦開催す。天鷹族が誇り、翔刃。地獅子族が誇り、獅童。両者ともに魔人の異名を持つ、伝説の双獣なり。会場五百、息を呑み開戦を待つ』




