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青二才のアズル  作者: 紫煌 みこと
第1章「青年と小鳥の旅立ち」
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第8話「囁き」

 アズルとサラピは、湯気が漂う温泉で大戦争をしていた。



 赤い屋根の宿場は夜でも目立ち、すぐに見つけることができた。

 案の定、宿屋に入った瞬間、宿主に酷く驚かれたアズル。汚れて泥だらけの彼の格好を見れば、警戒するのも当然だろう。

 「そんな身なりで金を持ってんのかい?」と怪訝な顔をされ、もちろん金は一切持っておらず、最初は宿泊を拒否されそうになった。

 しかしロリーゼに渡された紙を出した途端、宿主の表情が打って変わり、手厚い接待をもてなしてくれたのだ。彼によるとロリーゼの名は、ライトシティ一番の名医として街中で広く知れ渡っているらしい。さすが天才医師。口先だけではない才能と名声に、アズルは感心していた。


 そして貸切温泉に浸かったアズルは、サラピと大騒ぎをしていたのだ。


「おらぁ! 水ぶっかけたる! ざまぁみろ!」

「やめろっぴ! オイラは水が苦手なんだっぴよ! ……そうだ、お湯に炎を当てまくるっぴ!」

「はぁ!?」

「極上の炎で湯の温度を爆上げしたるっぴ!」

「熱っ! あちちちちぃっ!」


 カランカランと、桶の吹っ飛ぶ音。

 ――小学生にも満たない幼稚な行為だが、彼らだからこそ許される茶番である(世間的に許されるとは誰も言っていない)。

 その後すぐに清掃員の男性から「うっさいな!」とまさかの叱責を受け、情けなく肩をすくめる1人と1匹であった。




 宿屋の3階に用意された小さな個室に入ると、すぐにフカフカな二段ベッドが目に入った。


「わ、すげぇ! 二段ベッド、憧れてたんだよなー」


 わざわざ二段目を選び、はしごを登る労力を使うアズル。童顔だが、一応成人男性であるがゆえに、目立つ幼稚さが酷く見苦しい。

 マントを壁に干し、ブーツを脱ぎ、髪を結う紐を手首につける。アズルはさっそくベッドに寝転がった。彼の肩まである青髪が、清潔な布団の上で滑らかに広がる。草原での迷子といい、ゴブリンといい、今日一日は彼の人生の中でもずば抜けて大変なものだった。


「疲れたぁ〜! やっと休めるぜ……」

「フムフム……魔法とは、魔力を使った際に起こる現象のことである……この世で三原色以外の魔法を使えるのは、ピクシーのみ。じゃあロリーゼは何だったんだっぴかぁ? ……まぁいっか。考えても仕方ないし」

「おいサラピー。難しい本読んでないで寝ろよ」


 サラピは個室の戸棚にあった「魔法概念」とかいう論文を読んでいた。ロリーゼの血の魔法について、いつまで経っても気になっているようだ。

 やがて本を閉じると、サラピはアズルの方へと飛んできた。


「オイラも疲れたっぴ」

「お前はポケットに入ってただけじゃねぇか……ていうか、せっかくベッドが二段あるんだから下を使えよ」


 不満そうなアズルの声を無視し、サラピはアズルの胸の上に堂々と座った。


 やがて、窓から入ってくる微かな月明かりを見つめながら、アズルがぼそりとつぶやく。


「明日で、すべて終わるよ」

「え?」

「だってロリーゼさん、すごかったもん。多分俺のこんな症状だなんて、一瞬で治しちまう。明日に終わらなくたって、ちょっとあの人のところに通い続ければ終わりだ。……俺の悪夢が消えたら、お前は……どうするんだ? 俺についてくるんだとしたら……俺の田舎での生活は、何も面白くないぞ。ただただ、作物でも育てて、ちょっと剣の素振りをして、のんびり過ごして……」


 アズルはサラピを見つめる。

 サラピは——少しも考えることなく、まっすぐに答えた。


「オイラはアズルと一緒にいるだけでいいっぴよ」

「マジかよ、本当か?」

「うん、だってお前は何をしていても見飽きないっぴ」

「……っさいな」


 そう吐き捨てるように言いつつも、アズルは、今日という一日を思い返してみる。

 簡潔に言ってしまえば、散々だったと思う。昨日まで、キャベツやトマトを育てていただけの青年が、今日になると、魔物に襲われて金を盗られて水をかけられるという、あまりに非現実的で、悲惨な一日となった。

 ただ、良いことだってあった。初めて田舎の外に出てみて、初めてサラピと出会い、初めて自分の勇気と力を存分に発揮した。初めて都会に来て、初めてサラミを食った。

 全部、初めての経験だったのだ。それを素直に、「楽しかった」と言うのは、まだちょっと恥ずかしい。

 この巡り合わせは、今日という日が存在したからあったのだろう。今日がなければ明日もなくて、初めてだらけの経験も明日で終わり、キャベツとトマトを育てる普通の青年に戻る——いや、サラピがついてくると言っているので、いつもよりかは騒がしくなるかもしれないが。


 アズルは何もない天井を見上げ、気が付けば口が勝手につぶやいていた。


「……案外……今日みたいな日も良かったよな……」

「なに?」

「いや、なんでもない」


 首を振り、少しの微笑を浮かべた後に、アズルは目を閉じる。


 少しずつ、眠気が彼らを包み込み始めた。

 壮大な一日に終止符を打とうと、運命が告げているのだ。


 今日もきっと、あの夢を見ることになるのだろう。


「ふわぁ……眠い。おやすみ、アズル」

「うん……おやすみ……」


 まどろみの中、一匹の小鳥が笑いかけてきたのを、最後に見た気がした。





 ——


 瞼で閉じられた瞳の周りを、暗黒より暗い闇が覆う。


 ——


 これが夢であることは、今の状態では気づくことはできない。

 思考することは許されない。ただ、虚無の意識だけがそこにある。


 なんだ、これは。


 純粋な疑問だけが浮かぶが、答えは永遠に与えられない。


 ——


 あぁ、何かが聞こえる。

 それは、甲高い悲鳴。何かを切実に訴える、命を懸けた叫び。

 しかしそれは形を成さず、意味を成さず、意識に届くことは叶わない。

 ここまでは、毎日のことだった。

 普段ならここで、この暗黒は途切れるはずだ。


 ——



 しかしそれは、昨日までのこと。

 潜在していた勇気を発揮し、新たな仲間を得て、多彩な刺激を受けた今の「心」になら、伝わるかもしれない。

 悲鳴に隠された「囁き」が。



 ——さがして——


 それは、純粋な頼み。そして、願いだ。


 ——‘’翠勇‘’を捜して——



 そして、それは途切れた。

 使命を受け、意識が覚醒する。





「——!」


 反射的に、アズルは上半身を勢いよく起こしてしまった。


 ぴよぴよと、窓の外からさえずりが聞こえる。

 陽光が差している。もう朝なのだ。


「……」


 アズルは冷や汗を肌にびっしりと感じたまま、自分の手を見つめる。

 ——今日の夢で、はっきりと聞こえた。

 今までは曖昧な悲鳴だった女性の声が、今日の夜、言葉となった。

 はっきりと、「翠勇を捜して」と囁いていたのだ。


 「‘’すいゆう‘’って何だ?」


 独り言をつぶやく。

 聞いたことのない言葉だった。何の意味を指すのかがわからない。

 ただ、この夢で聞こえたことは、夢の原因を探る大きなヒントとなるだろう。今頃ロリーゼにも、採取したアズルの血を通じて夢を共有されているはずだ。

 早くロリーゼに会いに行こうと、アズルは二段ベットから飛び降りた。


 するとサラピが怒った顔でアズルの頬をくちばしでつねった。


「いたたたたたたたたっ!」

「急に体を起こすなっぴ! おかげで落っこちたっぴよ!」

「なぁ、翠勇って知ってるか!?」

「はぁ……? すいゆう?」


 サラピが目を細め、ため息を出した。


「お前、寝ぼけてるっぴか? そんなの知らないっぴよ」

「お前も知らないのか……」


 サラピに関しても、情報不足らしい。


「じゃあやっぱり、早いことロリーゼさんの場所に行かねぇと……」


 アズルが一人でうなずき、荷物をまとめていると——



 外が、急に騒がしくなり始めていることに気づいた。

 最初は小さかった声が、徐々に大きく聞こえてきているようだ。


「なんか、外がうるさいっぴよ?」

「なんだ?」


 怒声のような叫び声が、けたたましく聞こえてくる。

 アズルは疑問符を浮かべながら、窓のカーテンを開けて外を見下ろした。

 そして……





「盗賊め、姿を見せたな! すでにお前は包囲されている! 降伏して下へ来い!」


 武装した甲冑姿の兵士たちが大勢来て、窓から顔を出すアズルを指さして声を荒げた。





「え、なになになに!? は?」


 急に盗賊だと言われても、ピンとこない。

 盗賊? 俺が? まさかまさかまさか。

 サラピも戦慄し、焦燥感を顔に出しているが、アズルを疑う様子はない。方向音痴であるアズルが、盗賊なんて大層なことを働けたわけがないと思ったのだろう。


 それよりも。

 なぜ兵士たちは、アズルがこの宿の三階に泊まっていることがわかったのか。


「なんで俺を盗賊だと——」

「この方が、お前が盗賊だと言い切っている!」


 その方の姿を見て、アズルは表情を失う。


「はっ——?」





 嘘だと思いたかった。あり得てはならない現実だ。


「ライトシティ配属の兵士たち、よく聞きたまえ。彼こそが、城下町から宝を盗み出した盗賊だ」


 道路を埋め尽くすように立つ兵士たちの後ろから現れ、まっすぐにアズルを見つめて言い放ったのは——間違いない。昨日、アズルが心から信頼したはずの、朱色の髪を持った医者だった。

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