第8話「囁き」
アズルとサラピは、湯気が漂う温泉で大戦争をしていた。
赤い屋根の宿場は夜でも目立ち、すぐに見つけることができた。
案の定、宿屋に入った瞬間、宿主に酷く驚かれたアズル。汚れて泥だらけの彼の格好を見れば、警戒するのも当然だろう。
「そんな身なりで金を持ってんのかい?」と怪訝な顔をされ、もちろん金は一切持っておらず、最初は宿泊を拒否されそうになった。
しかしロリーゼに渡された紙を出した途端、宿主の表情が打って変わり、手厚い接待をもてなしてくれたのだ。彼によるとロリーゼの名は、ライトシティ一番の名医として街中で広く知れ渡っているらしい。さすが天才医師。口先だけではない才能と名声に、アズルは感心していた。
そして貸切温泉に浸かったアズルは、サラピと大騒ぎをしていたのだ。
「おらぁ! 水ぶっかけたる! ざまぁみろ!」
「やめろっぴ! オイラは水が苦手なんだっぴよ! ……そうだ、お湯に炎を当てまくるっぴ!」
「はぁ!?」
「極上の炎で湯の温度を爆上げしたるっぴ!」
「熱っ! あちちちちぃっ!」
カランカランと、桶の吹っ飛ぶ音。
――小学生にも満たない幼稚な行為だが、彼らだからこそ許される茶番である(世間的に許されるとは誰も言っていない)。
その後すぐに清掃員の男性から「うっさいな!」とまさかの叱責を受け、情けなく肩をすくめる1人と1匹であった。
宿屋の3階に用意された小さな個室に入ると、すぐにフカフカな二段ベッドが目に入った。
「わ、すげぇ! 二段ベッド、憧れてたんだよなー」
わざわざ二段目を選び、はしごを登る労力を使うアズル。童顔だが、一応成人男性であるがゆえに、目立つ幼稚さが酷く見苦しい。
マントを壁に干し、ブーツを脱ぎ、髪を結う紐を手首につける。アズルはさっそくベッドに寝転がった。彼の肩まである青髪が、清潔な布団の上で滑らかに広がる。草原での迷子といい、ゴブリンといい、今日一日は彼の人生の中でもずば抜けて大変なものだった。
「疲れたぁ〜! やっと休めるぜ……」
「フムフム……魔法とは、魔力を使った際に起こる現象のことである……この世で三原色以外の魔法を使えるのは、ピクシーのみ。じゃあロリーゼは何だったんだっぴかぁ? ……まぁいっか。考えても仕方ないし」
「おいサラピー。難しい本読んでないで寝ろよ」
サラピは個室の戸棚にあった「魔法概念」とかいう論文を読んでいた。ロリーゼの血の魔法について、いつまで経っても気になっているようだ。
やがて本を閉じると、サラピはアズルの方へと飛んできた。
「オイラも疲れたっぴ」
「お前はポケットに入ってただけじゃねぇか……ていうか、せっかくベッドが二段あるんだから下を使えよ」
不満そうなアズルの声を無視し、サラピはアズルの胸の上に堂々と座った。
やがて、窓から入ってくる微かな月明かりを見つめながら、アズルがぼそりとつぶやく。
「明日で、すべて終わるよ」
「え?」
「だってロリーゼさん、すごかったもん。多分俺のこんな症状だなんて、一瞬で治しちまう。明日に終わらなくたって、ちょっとあの人のところに通い続ければ終わりだ。……俺の悪夢が消えたら、お前は……どうするんだ? 俺についてくるんだとしたら……俺の田舎での生活は、何も面白くないぞ。ただただ、作物でも育てて、ちょっと剣の素振りをして、のんびり過ごして……」
アズルはサラピを見つめる。
サラピは——少しも考えることなく、まっすぐに答えた。
「オイラはアズルと一緒にいるだけでいいっぴよ」
「マジかよ、本当か?」
「うん、だってお前は何をしていても見飽きないっぴ」
「……っさいな」
そう吐き捨てるように言いつつも、アズルは、今日という一日を思い返してみる。
簡潔に言ってしまえば、散々だったと思う。昨日まで、キャベツやトマトを育てていただけの青年が、今日になると、魔物に襲われて金を盗られて水をかけられるという、あまりに非現実的で、悲惨な一日となった。
ただ、良いことだってあった。初めて田舎の外に出てみて、初めてサラピと出会い、初めて自分の勇気と力を存分に発揮した。初めて都会に来て、初めてサラミを食った。
全部、初めての経験だったのだ。それを素直に、「楽しかった」と言うのは、まだちょっと恥ずかしい。
この巡り合わせは、今日という日が存在したからあったのだろう。今日がなければ明日もなくて、初めてだらけの経験も明日で終わり、キャベツとトマトを育てる普通の青年に戻る——いや、サラピがついてくると言っているので、いつもよりかは騒がしくなるかもしれないが。
アズルは何もない天井を見上げ、気が付けば口が勝手につぶやいていた。
「……案外……今日みたいな日も良かったよな……」
「なに?」
「いや、なんでもない」
首を振り、少しの微笑を浮かべた後に、アズルは目を閉じる。
少しずつ、眠気が彼らを包み込み始めた。
壮大な一日に終止符を打とうと、運命が告げているのだ。
今日もきっと、あの夢を見ることになるのだろう。
「ふわぁ……眠い。おやすみ、アズル」
「うん……おやすみ……」
まどろみの中、一匹の小鳥が笑いかけてきたのを、最後に見た気がした。
——
瞼で閉じられた瞳の周りを、暗黒より暗い闇が覆う。
——
これが夢であることは、今の状態では気づくことはできない。
思考することは許されない。ただ、虚無の意識だけがそこにある。
なんだ、これは。
純粋な疑問だけが浮かぶが、答えは永遠に与えられない。
——
あぁ、何かが聞こえる。
それは、甲高い悲鳴。何かを切実に訴える、命を懸けた叫び。
しかしそれは形を成さず、意味を成さず、意識に届くことは叶わない。
ここまでは、毎日のことだった。
普段ならここで、この暗黒は途切れるはずだ。
——
しかしそれは、昨日までのこと。
潜在していた勇気を発揮し、新たな仲間を得て、多彩な刺激を受けた今の「心」になら、伝わるかもしれない。
悲鳴に隠された「囁き」が。
——さがして——
それは、純粋な頼み。そして、願いだ。
——‘’翠勇‘’を捜して——
そして、それは途切れた。
使命を受け、意識が覚醒する。
「——!」
反射的に、アズルは上半身を勢いよく起こしてしまった。
ぴよぴよと、窓の外からさえずりが聞こえる。
陽光が差している。もう朝なのだ。
「……」
アズルは冷や汗を肌にびっしりと感じたまま、自分の手を見つめる。
——今日の夢で、はっきりと聞こえた。
今までは曖昧な悲鳴だった女性の声が、今日の夜、言葉となった。
はっきりと、「翠勇を捜して」と囁いていたのだ。
「‘’すいゆう‘’って何だ?」
独り言をつぶやく。
聞いたことのない言葉だった。何の意味を指すのかがわからない。
ただ、この夢で聞こえたことは、夢の原因を探る大きなヒントとなるだろう。今頃ロリーゼにも、採取したアズルの血を通じて夢を共有されているはずだ。
早くロリーゼに会いに行こうと、アズルは二段ベットから飛び降りた。
するとサラピが怒った顔でアズルの頬をくちばしでつねった。
「いたたたたたたたたっ!」
「急に体を起こすなっぴ! おかげで落っこちたっぴよ!」
「なぁ、翠勇って知ってるか!?」
「はぁ……? すいゆう?」
サラピが目を細め、ため息を出した。
「お前、寝ぼけてるっぴか? そんなの知らないっぴよ」
「お前も知らないのか……」
サラピに関しても、情報不足らしい。
「じゃあやっぱり、早いことロリーゼさんの場所に行かねぇと……」
アズルが一人でうなずき、荷物をまとめていると——
外が、急に騒がしくなり始めていることに気づいた。
最初は小さかった声が、徐々に大きく聞こえてきているようだ。
「なんか、外がうるさいっぴよ?」
「なんだ?」
怒声のような叫び声が、けたたましく聞こえてくる。
アズルは疑問符を浮かべながら、窓のカーテンを開けて外を見下ろした。
そして……
「盗賊め、姿を見せたな! すでにお前は包囲されている! 降伏して下へ来い!」
武装した甲冑姿の兵士たちが大勢来て、窓から顔を出すアズルを指さして声を荒げた。
「え、なになになに!? は?」
急に盗賊だと言われても、ピンとこない。
盗賊? 俺が? まさかまさかまさか。
サラピも戦慄し、焦燥感を顔に出しているが、アズルを疑う様子はない。方向音痴であるアズルが、盗賊なんて大層なことを働けたわけがないと思ったのだろう。
それよりも。
なぜ兵士たちは、アズルがこの宿の三階に泊まっていることがわかったのか。
「なんで俺を盗賊だと——」
「この方が、お前が盗賊だと言い切っている!」
その方の姿を見て、アズルは表情を失う。
「はっ——?」
嘘だと思いたかった。あり得てはならない現実だ。
「ライトシティ配属の兵士たち、よく聞きたまえ。彼こそが、城下町から宝を盗み出した盗賊だ」
道路を埋め尽くすように立つ兵士たちの後ろから現れ、まっすぐにアズルを見つめて言い放ったのは——間違いない。昨日、アズルが心から信頼したはずの、朱色の髪を持った医者だった。




