第17話「取り乱す心」
「知ってるか? これ、前にサラピと雑談しているときに聞いたんだけど……夜、涼しい時間は、風が洞窟から外へ向かって吹くんだって。外の方が気温が低くなるとそうなるらしい」
広い洞窟の通路内は、はっきり言って真っ暗。
当然何も見えず、アズルはあちこちに体をぶつけまくった挙句、派手に転んだ。苛立った彼は、適当に入った部屋に置いてあったランタンを盗み、移動中に使っていた。
正直彼は、ストレスで取り乱さないでいることに精一杯だった。
心細さを紛らわすため、腕に抱えたライミーと話しながら出口を探す。
「だから、体で風を感じるんだ……こっちかな?」
あまりに雑な判断だが、勘で方向を考えるよりは有力の方法だ。
何となく風向きを感じ、アズルは通路をゆっくりと歩いていく。
途中で何度もチビウサギたちの部屋に侵入しそうになったが、慌てて引っ込むことにより、誰にもバレずに進むことができた。
やがて、通路内が少し明るくなっていることに気づいた。
人工的ではない、何か、青白い光が隙間から壁の差し込まれている。
「これって……月明かりが入ってきてるのか!? ライミー、外が近いかも!」
「ラァ~!」
「さっさとみんなで合流して、グランビットを倒す作戦をもう一度作戦を練り直すんだ」
かすれかけていた希望が見えてきて、明るい声を上げた途端——
「待ちな」
背後の暗闇から低い声が聞こえた。
アズルは体を震わせ、一瞬、振り返ることを躊躇する。振り返らなくても、何がそこにいるのかわかりきっていることだったからだ。
だがそれでも恐る恐る振り返り、闇に向かってランタンを掲げてみる。
そこには、あの巨大なウサギの老婆が立っていた。
「うわあっ!? もう起きたのか!?」
アズルはランタンを投げ捨て、急いで退き距離を取った。
いずれはバレると分かっていたが、ここまで早く気づかれるのは想定外だ。
グランビットは舌なめずりをしながらも、鼻で荒々しく息をする。じりじりとにじり寄る姿は、獲物を追い詰める獣そのものだ。
深い嘆息。明らかに不機嫌なのが伝わってくる。
「もうアタシは怒りを抑えるのに疲れ切ったよ……食材は新鮮なのが一番だけど、仕方ないねぇ」
グランビットは大きな体を揺さぶり、今にも飛び掛かってきそうな姿勢をする。
狭い洞窟の通路で争うのか? と、アズルは周囲を見渡しながら困惑した。
まだ出口は見つかっていないのだから、とても逃げられるような状況ではない。アズルは無意識に、背中の剣を抜いていた。
「チビウサギを……呼ぶのか?」
「いや、呼ばないよ。アタシだけで十分さ。——骨をバキバキに折ってやるよ」
グランビットはそう言い放つと、大口を開けた。唾液と、本性と、欲にまみれた咆哮が吐き出される。地面を蹴り、叫びながら真っ直ぐに突っ込んできた。
ウサギなのにクマのごとく走ってくるグランビットから、アズルは逃げなかった。いや、逃げることができなかったのだ。
ライミーが足元で行動を急かす中、彼は剣を構えた姿勢のまま、混在するいくつもの感情に振り回され、動けなかった。
剣を握る手が震える。ゴブリンとは格の違う相手だ。
人生で感じたことのない恐怖、焦燥感、希望、絶望、屈辱。
感情の信号は制御できなくなり……すべてのストレスは「怒り」という形に凝縮された。
「やっ……」
唇が動く。そして——
「やったらああああ! このっ——デブウサギがぁっ!!」
勢いよく顔を上げて、アズルは本心からの罵声を初めて浴びさせた。
よくも散々な目に遭わせてくれたな。
もう何も頭にない。恐怖が怒りに呑み込まれていく。
確実に怒らせる単純な暴言に、グランビットは興奮したような叫び声を返した。
アズルは右手で剣を構えると、真正面からグランビットに向かって走り出す。
もはや彼を抑制できるものはこの場に存在しておらず、勝算を考えずに剣を振り上げた。
彼が持つ勇気とは異なる感情がはたらいているが、がむしゃらな怒りは彼の力を最大限引き出した。
アズルはあり得ない脚力で飛ぶと、グランビットの頭を越え——
長い左耳を、片手剣で斬り裂いた。
「……! 耳が……あ、あぁぁ、あああああぅああっあっ!」
一閃の斬撃はあまりにも滑らかで、斬られた瞬間と出血に時差が生まれた。
グランビットは血が溢れ出て止まらない耳を押さえ、低い唸り声を洞窟に反響させた。
一方でアズルは、着地の受け身に失敗していた。地面に無様に倒れこむと、一瞬だけ彼を覚醒させたように見えた怒りが吹き飛んでいる。
「はぁっ、ハァッ……? なんか気づいたら全力で飛び込んじまった……」
「アンタ、楽に逝けるって思うんじゃないよ!」
「え? わ、血!」
確かに、グランビットを斬ったという事実は彼の頭に残っていた。だが、巨大な体躯のためか、ゴブリンとは出血量が著しく違う。すぐに血だまりが地面に広がり、アズルは思わず退く。
自分がグランビットを斬ったなど、到底信じられなかった。
「ぶっ殺してやる!」
「は? ちょ、マジで笑えない。あぁもう!」
叫び声を聞きつけたのか、数匹のチビウサギたちがやってきたが、怒り狂ったグランビットは仲間すらも蹴散らす。
アズルだけをターゲットにすると、理性のすべてを捨てて襲い掛かって来た。アズルは再び飛び掛かる勇気が起こらず、慌てて攻撃をかわし続けるだけだ。グランビットは何度も壁に激突し、洞窟が揺れる。
「どうすればっ……! 倒すしかないのかっ!?」
通路をめちゃくちゃに逃げ回りながら、アズルは思考を巡らせる。
前回のゴブリンやさっきの一撃のように、感情が高ぶったから勝てた、という甘い現実はもう来ないだろう。戦略は自分で考えなくてはならない。
アズルは走る速度を上げると、急に洞窟の通路を曲がった。
「面倒な奴だねぇぇっ!!」
グランビットは血反吐をぶちまける勢いで叫ぶと、同じく通路を曲がって入る。
しばらく、曲がって逃げてをアズルは何度も繰り返した。
だが、そろそろ体力の限界も近い。息遣いが荒くなり、足が一気に重くなる。背後を見ると、ネジの外れた怒りでピンピンしているグランビットが見える。
「……ハァッ、ふぅ」
アズルは大きく息を吸い、また洞窟を曲がった。
そして今までで一番加速し、グランビットが来る前に全力で走る。
アズルと同じ角をグランビットが曲がると——
そこには、誰もいなかった。
「……? どこに行ったんだい!?」
視界から消えた標的を、血眼で捜すグランビット。
だがまるっきり音が聞こえない。左耳が斬れてしまっては、もうこの耳も役立たずだ。
位置的に、出口からは離れてしまっている。逃げたとは考えにくい。
「この通路、さっきも通ったような……あっ!」
グランビットは気づいてしまった。
もうすでに通路の壁には、グランビットがぶつかって生じた亀裂がいくつもある。何度もこの通路を通ったはずだ。
……そう、グランビットはアズルを追ったまま、同じ通路を何周も走っていたのだ。
冷や汗が毛並みを伝う。
一周できる通路ということは——
グランビットは背後を振り返った。
そこには、走って息を切らし、剣を構えたアズルがいた。
「うっ……うりゃああああああああああっ!」
そして、片手剣は勢いよく振り下ろされ——
「あった! 洞窟です!」
ノアとサラピは1時間近くもかかりながら、グランビットの巣の入り口へとたどり着いていた。
案内をしてくれたチビウサギは、「もうこれでいいな!?」と言うと、どこかへ逃げてしまった。
洞窟の入り口はわかりにくい場所にあった。そう、谷底だったのだ。険しい道を何度も進み、やっとのことでたどり着いたのだ。
「アズル……無事っぴかね……」
「きっと無事です! 早く入らないと……」
ノアは手首の魔法陣を見つめ、小さく頷く。
まるで吸い込まれそうな感じがする洞窟の入り口に、足を踏み入れようとした途端——
「うえっ。最悪。めっちゃ疲れた」
「アズルさぁぁぁぁぁぁん!!??」
洞窟の中から、やつれた顔をしたアズルが、ライミーを抱えて出てきた。
最初から古い服がさらにボロボロになっているが、大きな怪我は負っていない様子だ。
ライミーは嬉しそうな顔でノアに飛びついた。
彼女は「ライミー!」と叫び、嬉しみのあまり強く抱きしめている。
「アズル……どうやって逃げ出したっぴか?」
サラピが恐る恐る聞いた。
アズルは地面に座り込むと、あくびをしながら呑気に言う。
「いやぁ……こんなことになるとは思っていなかったけど、俺がグランビットを倒しちまった」
「えっ!?」
その言葉に、サラピとノアが同時に驚く。
「おおおお前がグランビットを倒したとか信じられないっぴよ! チビウサギ1匹を倒したとの間違いじゃないっぴか?」
「どうやったのですか!?」
「ちょ、なんでそんなに疑うんだよ。本当だって。適当に通路を走ってたら、利用できそうな通路を見つけてさ。めっちゃ走りまくって、グランビットを混乱させて、背後から剣でズバッ、って……」
語彙力が破滅的な点には誰もツッコまなかった。ただ、サラピが不安そうな声で尋ねる。
「……グランビット、死んだっぴか?」
「わかんねぇよ! だって斬ったあと、慌てて逃げ出したんだから。でもさすがに、頭に切れ込み入れたから死んだと思うけど……ていうかさ、俺の生還にもう少し喜んだらどうなの!?」
「どーせアズルは悪運強いから生きてると思ってましたっぴー」
「それ本当かよ!?」
アズルとサラピは見るに堪えない追いかけっこを始める。ノアは小さく笑いながら、ライミーに微笑みかけた。
「とりあえず、村に帰ろっか。グランビットは倒したって、信じてもらえるかはわからないけど……」
その小さなつぶやきに、ライミーは大きく頷いた。
アズルたちがその場を去ったころ——
洞窟の中から、何かが這いずるような音が聞こえてきていた。
「あんの奴ぁ……! ふざけんじゃないよ……! アタシが死んだとでも思ってんのかい!」
頭部の端が裂け、激しく流血しているにもかかわらず、目を真っ赤にして地面を這うグランビットがいた。彼女は驚異的な生命力で、まだ生きていたのだ。
爪を地面に食い込ませ、憎々しげにつぶやいたが……やがて、ぐったりと目を閉じてしまう。
飢餓は彼女の体力を奪っていく。背後で、白い月と生き残ったチビウサギが、静かに彼女を見つめていた。
クラクラとする意識を何とか取り留めながら、グランビットはぼんやりと前を見た。
「……」
遠くに何かが見える。
海の近くに、木の建物が集まっていて、松明で明るくなっていて……
「村だ!」
グランビットは思わず、大きな声を上げてしまった。今まで殆どを巣の中で過ごしていた彼女は、巣の近くに村があることを知らなかったのだ。
人が集まる場所といえば——彼女にとって、これ以上ないほどの狩場である。
「村の人間を全員ぶち殺してやればいいんだ……! チビどもに運ばせて、大量のご馳走を……うひひっ、大戦争を起こそうじゃないか……!」
血反吐を吐きながら、彼女は発狂した笑みを浮かべる。
不穏な空気は、陸風に乗って海へと飛んでいく。
ノアの住む村へ、少しずつ流れていく——




