第16話「ウサギ小屋の脱出」
「……なに、これ」
目の前に用意されているのは、ちょうど風呂のような形をした大きな木の箱。
その中は、得体の知れない茶色の液体で満たされている。さっきから鼻をつんと障る塩辛い匂いは、あまりに充満しすぎていて吐き気を催す。
「なんか嗅いだことある匂いな気がするけど……ていうか、マジでなにこれ」
謎の液体を目前にして、アズルとライミーは思考が固まっていた。
今、彼らがいるのは広々とした洞窟の一部、グランビットの厨房だ。
アリの巣のように広がるグランビットの巣に運ばれた彼らは、人間が扱うには大きすぎる調理器具が並ぶ部屋に連れてこられた。
アズルの背後に立つグランビットが、下品に牙をむいた。
穏やかな様子でしゃべる彼女だが、口から出ている言葉がろくなものではない。
「さぁ、やるよ」
「やるよって何を?」
「アンタのことは今日は食べない。こんな上手そうな坊主、滅多に手に入らないからねぇ。明日はアタシの誕生日なのさ。アンタをこの醤油に浸しておいて、ゆっくり味を染み込ませるんだよ。そして明日の夜に調理するのさぁ」
「この風呂って醤油!?」
どうりで嗅いだことのあるような匂いがしたわけだ。
醤油に浸かる? 味が染み込む? 体に? 明日の誕生日? ディナー?
考えただけでも悪寒が体に走った。
グランビットは目を伏せ、顎に手を当てて不敵に笑う。
「アタシ特製、人間の調理法だよ。一日中漬け込むと、良い感じに肌の内側まで滲みるのさ。醤油特有のせっかくの香ばしさを活かした——」
「ライミー、走って逃げろ!」
「ラアアアアアアアアアアアアッ!」
グランビットが顔を上げた時には、アズルとライミーが厨房の外へ飛び出していた。
「出口までの道はそんなに複雑じゃないから、危うく逃げられちまったと思ったけどねぇ」
「……」
——僅か5分かからずに、アズルとライミーは引きずり戻された。
すべての要因はアズルである。入り組んだ洞窟の通路を適当に走り、とりあえず外への出口を探した。
だが世界一の方向音痴の彼に、神は一切容赦をしない。通路を抜けてたどり着いた先は……チビウサギたちの寝床だった。
速攻でアズルとライミーは、その場で押さえられたわけだ。
「さて、アタシはそろそろ寝ようかねぇ。でもとりあえずアンタらを……」
アズルの片手剣は没収。壁に調理器具をかける金具に引っ掛けられた。
グランビットは、天井からぶら下がった鳥かごのような檻に、アズルとライミーを閉じ込めた。中は狭く、座った姿勢から動かせない。
鍵をかけると、その鍵をエプロンのポケットに入れる。大人しくしている1人と1匹に向かって、グランビットは低いため息をついた。
「そんなに反抗心があると、風呂に入れたところで醬油がうまいこと染み込まないねぇ……。アタシゃ料理の質が最優先だ。不服だけど、アンタは違うメニューにしよう。仕込みは明日だね」
するとグランビットは大きくあくびをする。鳥かごの真下で余裕そうに大口を開ける彼女を見て、アズルは段々と苛立ちが増した。剣を持ってたら檻の隙間からグランビットの頭を刺しているところだ。
それでもアズルは不機嫌そうな顔で沈黙し続けた。グランビットは厨房の端にある巨大なベッドまで歩いていくと、転がるように寝そべる。ベッドの木材が軋むような音がするが、彼女は何も気にしない。
「明日が楽しみだね! グフフッ! ……すぅ……ぐごー……zzZ」
言うなり、グランビットは秒で寝落ちしてしまった。
(寝たな……? 寝たよな……? うるせぇいびき……よし、寝たな)
アズルは慎重にグランビットの様子を観察し、1人で頷いた。
そう、アズルが何も反抗しなかったのは、グランビットがさっさと眠るのを待つためだった。
サラピとの出会いを得てから、少しずつ冷静に、賢く判断することを学び始めたアズル。真正面から挑んでも叶わぬ勝負はしない。相手が寝ていて無防備な状態を狙い、行動を始めるのだ。
アズルは小声で、膝に乗せたライミーに声をかけた。
(なぁ、ライミー。俺の言葉伝わってるかわかんないけど……)
「ラッ!」
(静かにしてくれっ! ……お前さ、めっちゃ小さな隙間を抜けられるだろ? 岩の隙間をくぐった時みたいにさ)
ライミーはしばらくキョトンとした様子だったが、やがて瞳を輝かせて頷いた。
(ライムー!)
(おぉ、わかってる? じゃあ、この檻から出て、グランビットが持ってる鍵を取ってきてくれないか? いいか、絶対に起こすなよ)
するとライミーは、音もなく檻の格子をすり抜けた。
地面に落ちると、ぴちゃりという音が響く。思わず肩をすくめたアズルだが、グランビットは無反応。酷いいびきを立てながら寝ているだけである。
ひとまずセーフ。ライミーはゆっくりと忍び寄る形で、徐々にグランビットのベッドへと近づく。
(そうそうそう、ナイス。そのおっきなポケットに確か、鍵を入れてたのを見た気がする)
……鳥かごの男と小さなスライムが小声で話すというシュールな光景が爆誕しているが、これぞアズルなりの大作戦である。
頭を使うことが得意ではない彼だが、受動的に助けを待つだけでなく、何とか思いついた方法で自ら脱出しようとしていた。
(ラミッ!)
ライミーはついに、グランビットのベッドの上まで到達できた。しかし突起のような短い手は殆ど機能せず、ポケットの奥まで届かない。
埒が明かないと判断したライミーは——ポケットの中に、勢いよく飛び込んでしまった。
案の定、腹をくすぐるような感覚を覚えたグランビットは、勢いよく飛び起きてしまった。
「ぎゃははっ! うわははっ! ……って、誰だい! アタシに触れたのは! アンタかい!?」
グランビットは凄まじい形相でアズルの檻を見つめたが、彼は少しも動かずに大人しく座っているだけだ。
「……気のせいか」
ホッとしたように、グランビットは再び目を閉じた。
腹のポケットが少しだけ膨れていることを、よく確認せずに。
(危ねぇ……ライミーのこと、気づいてなくてよかった……)
アズルも安堵の息を吐く。
一応ライミーも捕まえてきたグランビットだったが、所詮、主食は人間。ほとんど眼中に入っていなかった。なので、スライムがどんな隙間も抜けられるという特性も、すっかり忘れていたのだ。
やがて、ライミーがそっとポケットから出てきた。
非力な手の先が、小さな鍵を懸命に握っている。
(スラァーッ!)
「それだっ! あ、大声出しちゃ駄目だった」
アズルは喜びのあまり感嘆の声が漏れそうになるのを抑え、代わりに大きく頷いた。
ライミーは戻ってくると、勢いよく飛び跳ねて檻の中へと戻ってくる。鍵を手に入れたアズルはさっそく扉を開け、外に出ようとするが——
檻は、天井から鎖で吊り下げられた鳥かごである。
重心が傾き、アズルは洞窟の固い地面へと背中から落下してしまった。
「痛あっ!!」
たった2メートルほど落下しただけなので、幸い怪我はしていない。ただその衝撃で、アズルは出してはならない叫び声を上げてしまった。
慌てて口を強く押さえ、冷や汗を顔に浮かべるアズル。
グランビットが「んぅ……」と呻き、目をこすり、寝返りを打った。
起きるか、起きないか、目覚めてしまうのか——
幸運なことに、グランビットはそのまま目覚めなかった。
安らかな寝顔を浮かべて眠ったままだ。
(起きてない……? おっしゃ来たあ! ライミー、今度こそ逃げるぞ!)
(ラッ!)
アズルは素早く壁にかかっている片手剣を取り、ボロいマントの下に背負った。
ライミーがついてきていることを確認すると、音を立てないように注意を払いながら、厨房を出て行く。
「ふぅ……空気が悪い。あんな醤油の匂いまみれのところにいたら、気が狂っちまう。どうせなら、サラピとかが来ちまう前に脱出しようぜ!」
「ラッ!」
ライミーは元気よく返事をし、洞窟の通路を走り出した。
しーんと、静まり返る厨房の部屋。
脱出するのに必死だったアズルたちは、あろうことか、異変に気づかず出て行ってしまっていた。
——グランビットの盛大ないびきは、いつから止まっていたのだろうか。
「あの坊主とスライムっ……! ちょっと泳がせてやったら、逃げやがって。アタシゃ、スライムが鍵を取っていったところからはずっと起きてた。あいつら、アタシを騙せると思ったね……?」
ベッドからむくりと起き上がったグランビットの顔には、明確な殺意と、残酷な嘲笑が込められている。
もともと濃い赤の瞳は、赤黒い血で充血し、魔物としての残忍性を見せていた。
「決めた。明日はあいつらみんな、生きたまま体をぐっちゃぐちゃに切ってやる。せいぜい、一瞬の優越感を楽しんだだろう? 今から地獄を見せてやるからね……」
牙を剥き出しにして笑うと、太った体を大きく揺らし、彼女も厨房から飛び出た。




