15-4 “戦費”としての契約
重苦しい沈黙が、店内を支配していた。
詩織の嗚咽だけが、静かに、けれど鋭く俺の胸を突き刺す。
俺は、自分の浅はかさを呪った。
何が「再建、だいぶ近づいたんじゃないか」だ。
何が「よかったな」だ。
何も知らなかったとはいえ、俺の言葉は、彼女の傷口に塩を塗るような残酷な響きを持っていたはずだ。
(……馬鹿野郎だな、俺は)
目の前で震える彼女の肩を見つめる。
黒髪がハラリと顔にかかり、華奢な背中がさらに小さく見えた。
普段は、エリート巫女として凛と振る舞っている彼女。
俺なんかよりずっとしっかりしていて、強くて、頼りになる相棒。
でも、今の彼女は、ただの二十歳の女の子だった。
親を殺され、家を奪われ、母親の命をたった一人で背負い込んでいる、壊れそうな女の子だ。
――守りたい。
不意に、そんな感情が胸の奥から突き上げてきた。
それは、「仕事のパートナーとして」とか、「正義感から」とか、そんな理屈めいたものじゃない。
もっと根源的で、熱っぽい衝動。
俺は、彼女のことが好きなんだ。
初めて会った時から、どこか惹かれていた。
凛とした横顔も、たまに見せるドジなところも、俺を助けるために無茶をする危うさも。
その全てが、俺の中でいつの間にか「特別な感情」に変わっていた。
だからこそ、見ていられない。
彼女が一人で泣いているのを。
巨大な敵と理不尽な現実に押しつぶされそうになっているのを、ただ指をくわえて見ているなんて、男じゃねえ。
俺は、手元にあった自分の「給与明細が入った封筒」を手に取った。
中には、俺の人生で見たこともないような大金が入っている。
欲しかったゲーミングPC。新しいバイク。玄さんへの高級酒。
そんな、「俺のささやかな欲望」が詰まった封筒だ。
俺は迷わず、それをテーブルの向こう側へ差し出し――
詩織の前に置かれた封筒の上に、無造作に重ねた。
パサリ。
乾いた音が、沈黙を破った。
「……え?」
詩織が、涙で濡れた瞳を上げ、キョトンとした顔で俺を見る。
その瞳の縁が赤くなっているのが、俺の胸を締め付けた。
「……愁、さん? 何を……」
「ごめん。俺、勘違いしてた」
俺は、できるだけ平静を装って、しかし力強く告げた。
「“再建”なんて、そんな綺麗な話じゃなかったんだな」
「……」
「相手は、お父さんを殺した連中だ。お母さんをあんな目にあわせた外道どもだ。……そんな奴らに奪われたものを、金で買い戻す? 大人しく借金を返す?」
俺は首を横に振った。
「違うだろ。そんなの、俺たちの“仕事”じゃねえ」
俺は、重ねた封筒を、トントンと指で叩いた。
「これは、“再建費用”じゃない。……“戦費”だ」
「せん、ぴ……?」
詩織が、その言葉を反芻する。
「ああ。奪われた土地も、お母さんの意識も、全部、敵から力ずくで取り返すための軍資金だ」
俺は、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
逸らさない。逸らしてはいけないと思った。
ここで目を逸らせば、俺は一生、彼女の隣に立つ資格を失う気がしたからだ。
「詩織ちゃん。君が背負ってる借金も、グラン・アーバンとかいうクソ業者も、全部ひっくるめて……俺も、背負うよ」
「え……?」
「俺も手伝う。霧島さんの会社の権力も、情報網も、そして……俺の中の、玄さんの力も。使えるもんは全部、徹底的に利用してやろうぜ」
詩織の瞳が揺れた。
彼女は、信じられないものを見るように首を横に振った。
「だ、ダメです……! 迷惑です……!」
彼女は、俺の封筒を押し返そうとした。
「これは、私の家の問題です。愁さんには関係ない……! それに、相手は巨大な組織なんです。これ以上関われば、愁さんまで殺されるかもしれない……!」
「もう、“巻き込まれた”だけじゃないさ」
俺は、彼女の手を――封筒を押し返そうとするその白く冷たい手を、自分の手で上から包み込んだ。
「あっ……」
彼女の体温が、俺の掌に伝わる。
震えている。
怖がっている。
でも、突き放そうとはしなかった。
「俺たちは、もう“相棒”だろ? 大手町で、背中を預け合った仲じゃないか」
俺は、少しだけ照れ隠しの笑みを浮かべた。
「それに、俺は……君が一人で泣いてるのを、放っておけるほど大人じゃないんだ」
それは、遠回しな告白だったかもしれない。
鈍感な俺が精一杯絞り出した、不器用な言葉。
でも、詩織には伝わったようだった。
彼女の頬が、涙に濡れたまま、ほんのりと朱に染まる。
「愁、さん……」
(ケッ)
その時、脳内で聞き慣れた悪態が聞こえた。
(言うようになったじゃねえか、小僧。……女一人守れねえで、何が『現代の鬼神』だってな)
玄さんの声は、呆れているようでいて、どこか嬉しそうだった。
(安心しな、嬢ちゃん。この小僧の身体には、天下無双の処刑人がついてるんだ。たかが地上げ屋風情、ワシがまとめて地獄へ送ってやるよ)
玄さんの頼もしい言葉が、俺の口を通して紡がれることはないが、その意思は俺の「手」を通して詩織に伝わったはずだ。
俺たちの手が、熱を帯びて重なり合う。
詩織の中で、張り詰めていた最後の糸が切れたようだった。
彼女の大きな瞳から、再び涙が溢れ出す。
でもそれは、さっきまでの絶望の涙とは違う。
安堵と、信頼と、そして微かな希望の涙だった。
「……貴方は、本当にお人好しすぎます。……ただのバイトなのに」
「ああ。世界一割に合わないバイトだよ」
俺は笑った。
詩織も、泣き笑いのような顔で、俺の手を――今度は強く、握り返してきた。
「……はい。戦いましょう、愁さん」
彼女の声に、力が戻る。
「全てを取り戻すために。……私の、いえ、私たちの『戦費』で」
二人の契約は、ここで結ばれた。
紙切れの契約書じゃない。
互いの体温と、覚悟を交わした、魂の契約だ。
俺はこの時、心に誓った。
この理不尽な世界で、彼女がもう二度と一人で泣かなくていいように。
俺が、彼女の剣となり、盾となろう。
たとえ相手が、どんなに巨大な闇であろうとも。
……だが。
俺たちのこの決意をあざ笑うかのように、世界の裏側では、すでに次なる歯車が回り始めていた。
(場所:東京拘置所・独房)
コンクリートの壁に囲まれた、冷たい独房。
そこに収容されていたのは、あの大手町テロの実行犯――黒幕の男だった。
彼は、ベッドの隅で蹲り、ブツブツと何かを呟き続けていた。
「……江戸は……終わらん……」
「……あの方の……シナリオは……ここからだ……」
監視カメラの死角。
男は、自身の指を噛み切り、滴る鮮血で、壁に奇妙な「印」を描き始めた。
それは、古来より呪術に使われる梵字にも似ていたが、どこか歪で、現代的な幾何学模様も混じっている。
「……『供物』は……捧げられた……」
男が、ニヤリと笑う。
その瞳から、正気の色が完全に消え失せる。
ドサリ。
男の身体が、糸が切れた人形のように崩れ落ちた。
心臓麻痺。
外傷はない。
だが、その顔には、恍惚とした笑みが張り付いたままだった。
壁に残された、赤黒い血文字の印。
それは、俺たちがこれから挑むことになる、巨大な組織の背後に潜む、真の闇の紋章だった。
日常への帰還は、束の間の休息に過ぎない。
“組織”の闇は、俺たちが思っているよりもずっと深く、そして俺たちのすぐ足元まで迫っていたのだ。




