第15章:呪術師たちの“残業代”と“請求書” 甘い蜜と苦い現実
戦いは終わった。
世界を救った。
……はずだった。
それなのに、どうして俺は今、こんなにも「日常」という名の倦怠感に包まれているのだろうか。
場所は、大手町から数キロ離れた雑居ビルの地下最深部。
表向きは中堅IT企業「サイバー・ガーディアン」のサーバー管理室。
だがその実態は、この国の裏側で蠢く霊的災害を処理する極秘部署――「特殊事案対応室」だ。
あの「大手町テロ事件」から、三日が過ぎていた。
部屋の中には、未だに独特の臭気が漂っている。
物理的に過熱し、焼き付いたサーバーのシリコンが焦げた匂い。
換気扇がフル稼働で唸りを上げているが、染み付いた「戦場の残り香」はそう簡単には消えそうにない。
それは、俺たちが斬り捨てた膨大な怨念の残滓のようにも感じられた。
「……あー、痛ってぇ」
俺――浅河愁は、軋むパイプ椅子に背中を預けながら、情けない声を漏らした。
全身の筋肉が悲鳴を上げている。
打撲、切り傷、そして何より「霊力切れ」による強烈なダルさ。
湿布の匂いが、焦げた機械の匂いと混ざり合って、なんとも言えない生活臭を醸し出している。
(だらしねえぞ、小僧。たかだか三日寝込んだくらいで)
脳内に、呆れたような声が響く。
俺の中に憑いている、江戸の最強処刑人――「玄」だ。
「うるせえよ、玄さん。あんたは霊体だからいいけどな、俺は生身なんだよ。あの無茶なダイブの反動、全部こっちに来てんだからな」
(ケッ。ワシの生前は、合戦の翌日でも朝から道場で汗を流したもんだ。令和の人間はこれだから軟弱でいけねえ)
脳内で胡座をかいている相棒に悪態をつきながら、俺はデスクの上にある冷え切った缶コーヒーを手に取った。
プシュ、と気の抜けた音がする。
視線を横に向けると、そこにはもう一人の「生存者」がいた。
この部署に配属されたばかりの新人巫女――詩織だ。
彼女もまた、デスクに突っ伏すようにして書類の山と格闘していた。
その端正な顔立ちには、隠しきれない疲労の色が濃く滲んでいる。目の下には薄っすらとクマができ、自慢の黒髪も少し乱れていた。
「……詩織ちゃん、大丈夫か? 無理すんなよ」
「……あ、愁さん。いえ、大丈夫です。事後処理の報告書、今日中に上げないといけないので……」
詩織は力なく笑うと、キーボードを叩く手を動かし続けた。
真面目だ。
あの地獄のような決戦の後だというのに、彼女は一度も弱音を吐いていない。
大手町の事件は、表向きには「大規模な太陽フレアによる通信障害と、それに伴う金融システムの誤作動」として処理された。
黒幕が引き起こした霊的パンデミックも、物理サーバーのメルトダウン未遂も、すべては「自然現象」と「システムエラー」という便利な言葉で塗り固められたわけだ。
俺たちが命がけで守った真実は、誰にも知られることはない。
あるのは、山のような始末書と、筋肉痛だけ。
「……割に合わねえよなぁ、ホント」
俺が独りごちた、その時だった。
ウィィィン……ガシュッ。
分厚い防弾仕様の自動ドアが、重々しい音を立てて開いた。
カツ、カツ、カツ。
硬質な革靴の音が、地下室のコンクリート床に響く。
その足音だけで、誰が来たのか分かる。
この部屋の空気温度を、一瞬で氷点下まで下げる男。
「――揃っているな、社畜ども」
現れたのは、サイバー・ガーディアン社のエリート課長にして、この特殊事案対応室の室長――霧島だ。
仕立ての良いダークグレーのスーツに、一切のシワはない。
銀縁メガネの奥にある瞳は、相変わらず冷徹な光を湛えているが、今日の彼はどこか「上機嫌」に見えた。
口元に咥えた高級そうな葉巻から、甘い香りの紫煙をくゆらせている。
「霧島さん……。お疲れ様です」
「ああ。事後処理の流布は完了した。メディアへの根回し、金融庁への言い訳、警察への圧力……。まったく、現場で暴れるだけの能筋共は気楽でいいな」
開口一番、嫌味のジャブだ。
だが、今日の霧島さんは、それ以上深く追求してこなかった。
彼は悠然と部屋の中央にある自分のデスクに歩み寄ると、懐から「二つの封筒」を取り出した。
ペラリ。
無造作に投げられた封筒が、俺と詩織の目の前に滑ってくる。
分厚い。
茶封筒だが、中身が紙幣でないことは質感でわかる。おそらく明細書か、小切手だ。
「……なんですか、これ」
「受け取れ。今回のテロ阻止に対する、会社からの『特別報奨金』だ」
報奨金。
その甘美な響きに、俺と詩織は顔を見合わせた。
「ほ、報奨金って……ボーナスですか!?」
「今回の件は、国家レベルの危機だったからな。スポンサーである財界の重鎮たちが、安堵のあまり財布の紐を緩めたらしい。感謝するんだな」
俺はゴクリと喉を鳴らし、震える手で封筒を手に取った。
恐る恐る、封を切る。
中に入っていたのは、一枚の明細書。
そこに印字された数字を目にした瞬間、俺の思考は停止した。
「い、いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……じゅうまん……ひゃくまん……!?」
俺は思わず椅子から転げ落ちそうになった。
桁がおかしい。
いつもの安月給の、何ヶ月分……いや、何年分だ、これ?
「き、霧島さん! これ、ゼロの数、間違ってません!? インクのシミとかじゃなくて!?」
「チッ、貧乏くさい反応をするな。日本円の信用崩壊を防いだんだぞ? その程度の対価は当然だ」
霧島さんは鼻で笑い、葉巻の灰をトントンと落とす。
マジかよ。
これがあれば、欲しかった最新型のゲーミングPCも、玄さんがうるさいから買おうと思っていた高級日本酒も、全部買ってお釣りが来る。いや、むしろ引越しだってできるぞ!
(おい小僧! なんだその数字は! 蕎麦が何杯食えるんだ!)
(蕎麦どころか、蕎麦屋ごと買えるかもしれねえよ玄さん!)
俺が歓喜に打ち震える一方、隣のデスクでは、詩織もまた、震える手で明細書を見つめていた。
「……!」
彼女の瞳が、大きく見開かれる。
そして、その目尻に、じわりと涙が浮かんだ。
「これなら……! これなら……払えます……!」
詩織の声は、震えていた。
歓喜というよりは、深い安堵。
首の皮一枚で繋がった人間だけが漏らす、切実な吐息だった。
彼女の事情については、詳しくは聞いていない。
だが、以前、休憩中に彼女が電話で話しているのを小耳に挟んだことがある。
「入院費」。「弁護士」。「差し押さえ」。
そんな、二十代前半の女子が口にするにはあまりにも重すぎる単語の数々を。
彼女の実家は、由緒ある神社だったはずだ。だが、何らかのトラブルで多額の借金を背負い、父親は病に倒れ、今は彼女一人の稼ぎで全てを支えている――らしい。
この危険な「特殊事案対応室」のバイトに応募してきたのも、ただ単に「時給が破格だったから」という理由だ。
(よかったな、嬢ちゃん。これで少しは楽にならァな)
玄さんも、詩織の苦労を察しているのか、珍しく優しい声をかける。
「ありがとうございます、霧島さん……! これで、私、今月もなんとか……!」
詩織は席を立ち、霧島さんに向かって深々と頭を下げた。
その姿は、見ていて胸が痛くなるほど健気だった。
ブラックな職場で命を削り、得た金で家族を守る。
まさに現代の聖女だ。
だが。
俺たちは忘れていた。
目の前にいる上司が、聖女の祈りを慈悲深く受け止めるような男ではないことを。
彼は、悪魔よりも数字にシビアな、冷徹な管理者であることを。
「……礼を言うのは、まだ早いぞ」
霧島さんの声の温度が、スッと下がった。
部屋の空気が、一瞬で張り詰める。
「は、はい……?」
頭を上げた詩織の目の前に、霧島さんは懐から「もう一枚の紙」を取り出し、ヒラリと差し出した。
「そっち(ボーナス)は『収入』だ。……そして、こっちが『支出』だ」
「……え?」
詩織がキョトンとした顔で、その紙を受け取る。
俺も横から覗き込んだ。
それは、事務的な罫線で区切られた、一枚の請求書だった。
一番上の項目には、無慈悲なゴシック体で、こう記されている。
『業務用ドローン(カスタム仕様・対霊装備済)×3機 損害賠償請求書』
その下に続く金額欄。
俺は、さっき自分のボーナスを数えた時と同じように、その桁数を数えた。
いち、じゅう、ひゃく……。
「なっ……!?」
その金額は、詩織が手にしたボーナスの、およそ三割を消し飛ばす数字だった。
「き、霧島さん? これは……」
「読めないのか? 損害賠償だ」
霧島さんは、デスクに肘をつき、組んだ両手の上に顎を乗せた。
その目は、獲物を追い詰める蛇のように細められている。
「前回の戦闘記録を確認した。貴様、私の許可なく業務用ドローンを持ち出し、敵の結界を破るために『特攻(自爆)』させただろう?」
「あ……! あれは……!」
詩織の顔が蒼白になる。
確かにあの時、俺たちは地下への侵入経路を確保するため、詩織の判断でドローンをミサイル代わりに突っ込ませた。
あれがなければ、俺たちは黒幕の元へ辿り着くことすらできなかったはずだ。
「あれは……業務上の不可抗力です! あの状況では、そうするしか……!」
「緊急避難措置だった、と言いたいのか?」
「そうです! あれがなければ、作戦は失敗していました!」
詩織が必死に抗議する。
だが、霧島さんは冷たく言い放った。
「結果論だ。……プロセスにおいて、貴様は『備品使用申請書』を提出したか? 『廃棄承認』を得たか? そもそも、あのドローンは偵察用だ。ミサイルとして使う許可など出した覚えはない」
「そ、そんな……! 戦闘中に書類なんて書けるわけないじゃないですか!」
「だからこそ、事前のリスク管理が必要なんだ。プロならばな」
霧島さんは、正論という名の凶器で、詩織の退路を断っていく。
「あれは、ウチの技術部が心血を注いでカスタマイズした特注品だ。一機あたりの単価は、そこらの高級車と変わらん。それを三機も木っ端微塵にしたんだ。……ウチは公私混同はしない主義でね。当然、業務上の重過失として、給与から天引きさせてもらう」
「て、天引き……」
詩織がよろめき、デスクに手をつく。
彼女の手元にある、ボーナスの明細書。そして、突きつけられた請求書。
プラスとマイナス。
計算するまでもない。残る金額では、彼女が支払わなければならない「今月の入院費」や「弁護士費用」には、到底足りない。
「そ、そんな……困ります! このお金は、どうしても必要なんです! お願いします、せめて分割に……!」
詩織の目から、涙がこぼれ落ちる。
プライドも何もかもかなぐり捨てて、彼女は懇願した。
だが、霧島さんは表情一つ変えない。
「嫌なら辞めてもいいぞ?」
悪魔の囁きだった。
「君は正規雇用じゃない。今日付で退職届を出せば、これ以上の危険な任務に関わる必要はない」
「……っ!」
一瞬、詩織の瞳に光が宿る。
辞められるなら、辞めたい。こんな命がけのブラックバイト、普通の女子大生なら一秒だって居たくはないはずだ。
「ただし――」
霧島さんは、逃げようとする獲物の足を、言葉の杭で縫い止めた。
「退職する場合、この損害賠償金は、給与天引きではなくなる。……即ち、退職時に『一括』で弁済してもらうことになるがな」
「……あ……」
絶望。
その二文字が、詩織の顔に張り付いた。
辞めれば、ボーナスは手に入るかもしれないが、それを上回る請求が即座に来る。
払い切れない。
借金取りに追われ、病院を追い出され、路頭に迷う未来が、ありありと想像できた。
逃げ場はない。
この会社に残り、理不尽な天引きに耐えながら、命を削って働き続けるしか、彼女が生き延びる道はないのだ。
「……汚ねえ。相変わらず汚ねえぞ、この眼鏡!」
俺はたまらず叫んだ。
玄さんも脳内で激怒している。
(人の弱みにつけこみやがって! 江戸なら市中引き回しの上、打ち首だ!)
「うるさいぞ、外野。これは会社と彼女の契約の問題だ」
霧島さんは俺を一瞥すると、再び詩織に向き直った。
「どうする? 払うか、辞めるか。選べ」
詩織は、唇を血が滲むほど噛み締めていた。
握りしめた拳が、白く震えている。
彼女の中で、プライドと、現実と、守るべきものが天秤にかけられ、そして――。
「……承知、いたしました」
消え入りそうな声だった。
「……天引きで、お願いします。……これからも、働かせて、ください……」
彼女は深く、深く頭を下げた。
それは、彼女が「契約の鎖」に自ら繋がれた瞬間だった。
「商談成立だな」
霧島さんは満足げに頷くと、請求書を詩織のデスクにパシリと貼り付けた。
「期待しているぞ、アルバイト諸君。……次の任務で、しっかりと稼いで返してくれ」
そう言い残し、霧島さんは上機嫌で去っていった。
残されたのは、呆然とする俺と、デスクに突っ伏して肩を震わせる詩織だけ。
「……うぅ……鬼……悪魔……眼鏡……」
詩織の呪詛のような嗚咽が、地下室に虚しく響き渡る。
手元に残ったボーナスは、もはや「命の輝き」ではなく、「次の戦いへの手付金」へと変わっていた。
甘い蜜には毒がある。
そして、この「特殊事案対応室」という職場には、出口などないのだ。
こうして、俺たちの「第2部」は、世知辛い契約更新と、新たな借金生活から幕を開けたのだった。




