1-4:初めての“仕事”
……。
……。
……寒い。
次に俺が目を開けた時、視界は俺のものでありながら、俺のものではなかった。
(あれ? 俺、生きてる?)
体は動く。手足の感覚もある。
だが、まるで分厚いガラス越しに自分の体を操作しているみたいに、妙な違和感がある。
「――小僧。聞こえてるか?」
頭の中で、さっきの声が響く。
(だ、誰だ! 俺の頭ん中で喋ってんのは!)
「フン。俺は玄。テメェの言うところの、さっきの“黒い影”だ。ちぃと、その体を借りた」
(はぁ!? 借りた、じゃねぇよ! 出てけ! 返せ!)
俺は叫ぶ。もちろん、心の中で。
口も喉も、俺の意思では動かない。
「うむ。久方ぶりの“シャバ”は、どうにも空気が淀んでいやがる」
俺の体が、勝手に立ち上がる。
俺の手が、勝手に首をゴキリと鳴らす。
「貴様……浅河愁さんから離れなさい!」
目の前で、さっきの巫女服少女が、お札みたいなものを構えて叫んでいる。
「神楽坂の小娘か。相変わらず、堅苦しいこって。まぁ待て。ちと、野暮用ができたようだぜ」
俺(の体を乗っ取った玄)は、少女を無視して、ゆっくりと路地の暗闇を向いた。
そこから、ガラの悪そうな男たちが三人、ゲラゲラ笑いながら歩いてくるところだった。
「よぉ、ガキども。こんな夜更けにデートか?」
「ちょうどいい。そこの工事現場の備品、ちょっと拝借しようと思ってたんだよ」
「なんだぁ? その女、イイ顔してんじゃねぇか」
下品な視線が、少女に向かう。
こいつら、テレビで見た『ガイアフロント』の……いや、下請けの地上げ屋か。
近所の老舗に嫌がらせをして、無理やり立ち退きを迫ってた連中だ。
(やべぇ、面倒事に……!)
俺は逃げたい。全力で避けたい。
だが、俺の体は――玄は、一歩も引かなかった。
「おっと。早速、悪党のお出ましとはな。ツイてるぜ」
「あ? なんだテメェ、やんのか?」
一番デカい男が、こっちに掴みかかってきた。
デカい手が、俺の胸ぐらを掴もうとする。
(うわ、終わった……!)
俺が目を閉じた、次の瞬間。
『――小僧。その懐にある、光る板きれは何だ?』
(は? スマホのことか!?)
『ソイツを目に向けろ!』
言われるがまま(というか、勝手に体が動いた)、俺はポケットからスマホを取り出し、咄嗟にライト機能をオンにした。
「うおっ!?」
ゼロ距離で点灯した強烈なLEDライトが、男の目を直撃する。
「
目が、目がぁ!」
男がひるんだ、その一瞬。
バキィッ!!
俺の右手が、見えない速さで動いていた。
いや、手じゃない。指だ。
人差し指と中指を揃えた「指先」が、男の鳩尾に突き刺さっていた。
「が……ふ……」
デカい男が、白目を剥いて崩れ落ちる。
「なっ! 貴様!」
「コイツ、やりやがった!」
残りの二人が、同時に殴りかかってくる。
右からパンチ。左からドス(!?)。
(うわ、刃物! 無理無理無理!)
俺がパニックに陥る中、玄は冷静だった。
『チッ。鉄の棒きれとは、風情がねぇ』
俺の体は、最小限の動きで右のパンチをいなす。
そのまま流れるように、左の男の懐へ。
ドンッ!
今度は、掌底。
刃物を持った男の顎を、真下からカチ上げた。
ゴシャッ、と嫌な音がして、男はコマみたいに回転しながら吹っ飛んでいく。
「ひ……」
残った最後の一人が、腰を抜かして逃げ出そうとする。
「逃がすかよ」
ドスッ。
俺(玄)は、落ちていた工事用の小石を拾うと、それを指で弾いた。
石つぶてが、男の膝の裏に正確にヒットする。
「ぎゃん!」
男は無様に転んだ。
俺(玄)はゆっくりと近づき、その首根っこを掴み上げる。
「……もう一人はどうした? テメェ……」
「おっと、そいつは俺のセリフじゃねぇな」
玄は、俺の口を使って、冷たく笑った。
「……一つ、晴らさせてもらった」
ドカッ。
最後の男も、後頭部への手刀で沈められた。
ほんの数十秒の出来事だった。
「……」
シーンと静まり返った神社の跡地。
目の前には、気絶した地上げ屋の男たちが転がっている。
さっきまで巫女服少女がいたはずだが、いつの間にか姿を消していた。
俺は、自分の手を見る。
ついさっきまで、PCのキーボードを叩いて「お祈りメール」を受け取っていた、俺の手だ。
その手が、今、三人の大人を叩きのめした。
(俺が……やったのか……?)
『フン。小僧、テメェじゃねぇ。俺だ』
玄が、不機嫌そうに言った。
『だが、まぁ……礼は言うぜ。おかげで、ちぃとスッキリした』
(冗談じゃねぇ! スッキリしたのはテメェだけだ!)
(俺の体、どうしてくれるんだよ! 返せよ!)
俺が内心で絶叫したのと、パトカーのサイレンが遠くから聞こえてきたのは、ほぼ同時だった。
『チッ。面倒な「鉄の駕籠」が来やがったか。――小僧、ひとまずずらかるぞ!』
「って、俺が動けねぇんだよ!」
俺の体は、信じられないほどの跳躍力でフェンスを飛び越え、浅草の闇夜へと消えていった。
俺の意思とは、まったく関係なく。
これが、就活全滅の俺と、江戸の暗殺神「鬼神」玄との、最悪の出会いだった。




