26-3:毒龍(ヒドラ)の顕現
「ぐ……ぬ、ぅぅぅぅ……ッ!!」
白く石化したヘドロの巨人。
その胸部に拘束された毒海は、屈辱と激痛に顔を歪めていた。
動かない。指一本動かせない。
霧島の「聖水」による化学反応と、詩織の霊力による浄化が、彼の流動体ボディを完全に「個体」へと固定してしまっていた。
「バカな……ありえない……! この私が……選ばれし四天王である私が、こんな猿知恵のトリックに敗れるなど……!」
プライドが引き裂かれる音が聞こえるようだった。
眼下では、破壊の鬼神――浅河愁が、とどめを刺そうと跳躍の構えに入っている。
このままでは砕かれる。
彼の最高傑作であるウイルスと共に、無様な残骸となって散る。
「許さん……許さんぞ、下等生物どもォッ!!」
毒海の瞳から、理性の光が消えた。
代わりに宿ったのは、自らの肉体すら顧みない、狂気じみた執念だった。
「ならば……見るがいい! 私の理論の最終到達点を!」
毒海は、動かない喉を震わせ、呪詛の咆哮を上げた。
「来いッ! 『第3の杭』!!」
ズドオォォォォォォンッ!!
その瞬間、背後の隅田川が爆発した。
水柱が天高く突き上がる。
川底に沈められていた、あの禍々しい「呪いの杭」が、主の呼びかけに応じて浮上し、砲弾のような勢いで飛来したのだ。
「なっ……!?」
跳躍しようとしていた愁が、動きを止める。
杭は、白く固まった巨人の背中から突き刺さり、毒海の本体がいる胸部を貫通した。
グシャァッ!!
「が、はッ……!」
自らの身体を貫く漆黒の杭。
鮮血の代わりに、ドス黒い原液が噴き出す。
だが、毒海は笑っていた。
口から黒い泡を吐きながら、狂喜の笑みを浮かべていた。
「融合……完了……!」
ドクンッ!!
杭が、まるで心臓のように脈動を開始した。
地下深くから吸い上げられた膨大な瘴気とエネルギーが、毒海の肉体を媒介にして爆発的に膨れ上がる。
バリバリバリバリッ!!
聖水によって白く固められていた巨人の表面に、無数の亀裂が走った。
その隙間から、眩いばかりの毒々しい紫光が漏れ出す。
「おのれ……小賢しい真似を! 浄化だと? 聖水だと? 笑わせるな!」
毒海の絶叫と共に、白い殻が内側から粉砕された。
ドッパァァァァァァンッ!!
中から溢れ出したのは、先ほどまでとは桁違いの質量を持った「超高密度汚泥」だった。
それは、ただのヘドロではない。
杭の力によって、周囲の土壌、廃棄物、そして川の水すべてを強制的に吸収し、際限なく増殖していく「黒い癌細胞」だ。
「質量で……押し潰すのみ!!」
ズズズズズズ……!
大地が悲鳴を上げる。
下水処理場の建物が、膨張する黒い肉塊に飲み込まれ、飴細工のようにひしゃげていく。
愁たちの乗る大型トラックが、小さなおもちゃに見えるほどのサイズ差。
「な、なんだあれ……!」
亜美が絶望の声を漏らす。
不定形に膨れ上がった汚泥の塊は、やがて鎌首をもたげ、その姿を変貌させていった。
一本ではない。
二本、三本、五本……。
太い円筒状の首が、次々と生え、それぞれの先端に、裂けたような巨大な顎が形成されていく。
多頭の蛇。
ギリシャ神話に伝わる不死身の怪物。
「……毒龍かよ」
愁が呆然と呟く。
顕現したのは、8つの首を持つ、巨大なヘドロの龍だった。
その全長は優に50メートルを超え、処理場の管理棟を見下ろすほどの威容を誇っている。
それぞれの口からは、強酸性のよだれが滝のように垂れ落ち、触れた地面を激しく溶かしていた。
『キシャアアアアアアアアッ!!』
8つの首が、一斉に咆哮した。
その音圧だけで、トラックの窓ガラスにヒビが入る。
『見るがいい! これぞ生命の進化! 究極の汚染生命体だ!』
中央の首――その額に埋め込まれた毒海(本体)が、勝ち誇ったように叫ぶ。
もはや人間の形を留めていない。杭と一体化した彼は、この巨大な怪物の脳髄そのものになっていた。
「来るぞ! 詩織、防御だ!」
霧島が叫び、トラックを急発進させる。
『消えろ、塵芥ども!』
毒龍の口が開かれた。
8方向からの同時攻撃。
ブシュウウウウウウウウウッ!!
吐き出されたのは、高圧のブレスではない。
ドロリとした粘液状の「超濃縮酸」だ。
それは、詩織が放った聖水の浄化力を遥かに上回る「穢れ」の密度を持っていた。
ジュワワワワワッ!!
トラックの周囲に、酸の雨が降り注ぐ。
タンクに残っていた聖水が反応するが、量が違いすぎる。
「浄化」が追いつかず、聖水そのものが「中和」され、毒に飲み込まれていく!
「くっ……! 結界が、溶かされます!」
詩織が悲鳴を上げる。
彼女が展開した防御結界が、酸を浴びてシュワシュワと音を立てて溶解していく。
「質量が違いすぎる……!」
俺(愁)は、荷台の上で歯噛みした。
さっきまでの「泥人形」とは次元が違う。
あれは、隅田川そのものを武器にした、歩く災害だ。
凍らせようにもデカすぎるし、斬ろうにも首が多すぎる。
『ハハハハハ! どうしました? 洗濯の時間ではなかったのですか?』
毒海の哄笑が響く中、毒龍の巨大な尾が、薙ぎ払いの一撃を放とうと唸りを上げた。
絶体絶命。
科学と呪術のハイブリッド兵器すら通じない怪物を前に、俺たちは再び窮地に立たされた。




