25-3:トップ・プライオリティ
ウィィィィン……プシュッ。
創業百年を誇る老舗和菓子屋『浅河』の客間は、わずか数分で異様な空間へと変貌していた。
畳の上には防汚シートが敷き詰められ、折りたたみ式の「無菌テント(クリーン・ブース)」が展開されている。
運び込まれた最新鋭の生体モニターが、不規則な電子音を刻み、愁の危険な状態を数値化して警告を発し続けていた。
ピッ、ピッ、ピーッ……!
「心拍数160、血圧低下。……体温、41度を超えました!」
防護服を着た医療スタッフが叫ぶ。
テントの中央、簡易手術台に寝かされた愁の姿は、見るも無惨だった。
右腕から胸部にかけて、墨汁を流し込んだようなドス黒い紋様が脈打ち、皮膚の下で何かが蠢いている。
傷口からは、腐った果実のような甘い腐臭が漂っていた。
「ひどいな」
霧島京也は、愁の爛れた右腕を一瞥し、感情のない声で呟いた。
彼は上着を脱ぎ、ワイシャツの袖を捲り上げながら、慣れた手つきで医療用ゴム手袋を装着した。
「内臓まで腐りかけている。……毒海の奴、随分とたちの悪い『種』を植え付けたものだ」
「き、霧島さん……」
詩織が、ふらつく足取りで霧島の横に立った。
彼女の手は震え、瞳には絶望の涙が溜まっている。
「私の浄化術では……もう……。毒の進行が早すぎて、追いつきません……っ」
「愁さんが……死んじゃう……」
亜美も、テントの隅で顔を覆って泣いている。
無理もない。
目の前で、頼れるエースが内側から崩壊していくのだ。心が折れそうになるのも当然だ。
だが。
「――泣き言を言うな」
霧島の一喝が、湿っぽい空気を切り裂いた。
「え……?」
「泣いて治るなら、私が代わって朝まで泣いてやる。……だが、現実はそうではない」
霧島は、冷徹な視線を詩織に向けた。
「お前の涙で、患者の容体が安定するのか? 違うだろう。……必要なのは『処置』だ」
彼は部下から銀色のアタッシュケースを受け取ると、ダイヤルロックを解除して開いた。
プシュッ、と冷気が漏れ出す。
ウレタンのクッションの中には、一本の注射器が鎮座していた。
シリンダーの中には、七色に揺らめき、自ら発光する不思議な液体が満たされている。
「これは……?」
「サイバー・ガーディアン社医療部門の極秘試作品。『霊的ナノマシン(スピリチュアル・ナノボット)』だ」
霧島は、注射器を光にかざして確認した。
「極小の機械に、浄化の術式をコーティングしてある。血管に直接投与することで、物理的な細胞修復と、霊的な呪詛中和を同時に行う」
科学とオカルトの融合。
まさに、霧島の会社でなければ作れない、禁断の秘薬だ。
「一本、原価で数百万は下らん。……愁の借金に追加しておけ」
「……っ! 霧島さん……!」
詩織の瞳から、絶望の色が消えた。
冗談めかして「借金」の話をするということは、霧島は「愁が生き残って金を返す」未来を確信しているということだ。
その傲慢なまでの自信が、詩織の折れかけた心を支えた。
「ですが、これだけでは足りん」
霧島は、注射器を構えながら、険しい顔でモニターを見た。
「ナノマシンはあくまで『兵隊』だ。敵の数が多すぎる場合、殲滅する前に愁の体が持たん。……効率よく勝つためには、敵の司令塔――ウイルスの“核”を叩く必要がある」
「核……?」
「ああ。この呪毒は、意思を持っている。体内のどこかに、増殖を命令している親玉が潜んでいるはずだ」
霧島は、テントの隅にいた亜美の方を向いた。
「君の出番だ。……高円寺亜美」
「えっ……? わ、私……?」
亜美がびくりと肩を震わせる。
霧島は、有無を言わせぬ圧力で彼女を見据えた。
「君の“耳”なら、聞こえるはずだ。……愁の体内で暴れまわっている、異物の音がな」
「体の中の……音……」
「そうだ。聴診器などというアナログな道具では拾えない、呪いの駆動音を聞き分けろ」
霧島は、亜美の手を取り、愁の胸元へと導いた。
「ウイルスの位置を特定しろ。……座標さえ分かれば、詩織がそこを霊的に焼き切る」
「私はその隙に、ナノマシンを投入し、こいつ(愁)の命を強制的に繋ぎ止める」
3人による、連携手術。
失敗すれば、愁は死ぬ。
「で、でも……私、怖くて……」
「怖いか。当然だ」
霧島は、淡々と言った。
「だが、今ここで彼を救えるのは、世界中で君たちだけだ」
霧島は、愁のドス黒く変色した顔を見下ろした。
「毒海を倒すことなど、二の次だ。……まずは、我々の最強の戦力を回復させること」
「それが、この負け戦をひっくり返すための、最優先事項だ」
その言葉に、亜美が唇を噛み締め、大きく頷いた。
「……分かった。私、聞く。……愁さんの身体の声、全部聞く!」
亜美がヘッドホンを外し、耳を愁の胸に押し当てる。
詩織が、両手に浄化の炎を灯して構える。
霧島が、注射器の針先を愁の静脈に当てる。
「よし。……オペを開始する」
霧島の号令と共に、愁の命運を賭けた、一世一代の緊急手術が始まった。




