第25章:社長のトリアージ(戦場医療) ~聖水と共鳴する祈り~ 25-1:汚染された夜と緊急通報
命からがら、蔵前のポンプ場から脱出した俺たちは、這うようにして実家である和菓子処『浅河』へと戻った。
店の中は静まり返っていた。
だが、その静寂は安らぎではない。死を待つだけの、重く冷たい沈黙だった。
「はぁ……はぁ……っ、ぐぅ……」
客間の畳の上。
俺――浅河愁は、自分のうめき声でかろうじて意識を繋ぎ止めていた。
熱い。
全身の血液が、沸騰した泥に入れ替えられたように熱い。
なのに、骨の髄は氷のように冷たい。
上半身は裸にされ、詩織が必死に治療術を施している。
だが、俺の目にも分かった。
右腕から背中にかけて浮き出た、血管のような「どす黒い紋様」。
それは、詩織の放つ清浄な光をあざ笑うかのように、じわじわと面積を広げ、心臓へと向かって侵攻していた。
「……ダメ、です……」
詩織の声が震えている。
彼女の額からは玉のような汗が流れ落ち、霊力の消耗で顔色は紙のように白い。
「解毒しようとしても……呪いが複雑すぎます。生物学的な猛毒と、霊的な呪詛が二重螺旋のように絡み合って……私の術式をすり抜けていく……!」
(……小僧……)
脳内で、玄さんの声が聞こえた。
だが、それはいつもの雷のような怒声ではない。
嵐の夜のラジオのように、ノイズ混じりで、途切れ途切れの弱々しい声だった。
(すまねえ……ワシが……もっと早く……斬っていれば……)
あの最強の鬼神が、弱音を吐いている。
それほどまでに、この毒は俺の肉体だけでなく、「魂」の領域まで深く食い込んでいるのだ。
「水……水を……」
俺の唇が、渇きでひび割れる。
脱水症状だ。
体内の水分が、毒との戦いで急速に消費されている。
今すぐ大量の水を飲んで、身体を冷やさなければ、毒の熱で脳が焼き切れる。
「今、用意するね!」
亜美が立ち上がり、洗面所へと走った。
キュッ。
蛇口をひねる音が響く。
ボコッ……ゴポッ……ジュルルル……。
しかし、聞こえてきたのは、ヘドロが詰まった下水管が逆流したような、粘着質で不快な音だった。
「……え?」
亜美の、凍りついたような声。
蛇口から吐き出されていたのは、透明な水ではなかった。
あの隅田川で見たのと同じ。腐敗臭を放ち、蛍光色の油膜が浮いた「黒い汚水」が、洗面ボウルにドロリと垂れ落ちていた。
「……嘘。ここにも……届いちゃってる」
毒海の言葉は、ハッタリではなかった。
『数分後には各家庭の蛇口に届く』。
ポンプ場から圧送された高濃度の毒水は、すでに浅草の地下配管網を巡り、この店にまで到達していたのだ。
「そんな……! ライフラインが……全滅……!?」
詩織が愕然として立ち尽くす。
飲み水はない。体を冷やす水もない。傷口を洗うことすらできない。
清潔な水一滴すら手に入らない極限状況。
それは、「籠城戦」すら成立しないことを意味していた。
「……電話を」
詩織が、決意したように顔を上げた。
彼女は、懐からスマートフォンを取り出した。
画面を見た瞬間、彼女は息を呑んだ。
「……着信履歴が……」
通知画面には、数十件もの不在着信の履歴が並んでいた。
発信元はすべて『K』。
サイバー・ガーディアン社社長、霧島京也だ。
「霧島さん……ずっと、連絡をくれていたんだわ」
地下のポンプ場は電波が入らなかった。
私たちが戦っている間、彼は必死に呼びかけていたのだ。
詩織は、震える指でコールバックした。
ピッ。
『――ようやく繋がったか』
コール音すら鳴らなかった。
即座に出た霧島京也の声は、冷徹でありながら、明らかな苛立ちを含んでいた。
『何度かけたと思っている。……GPS反応が消えていたぞ』
「申し訳ありません! 地下の施設に潜入していました。……緊急事態です」
『だろうな』
霧島は短く言った。
電話の向こうからは、多数のキーボードを叩く音と、オペレーターたちの緊迫した報告の声が漏れ聞こえてくる。
彼はすでに、対策本部の只中にいた。
『状況はこちらでも把握している。……隅田川の汚染および、浅草エリアからの多数の異臭通報。バイオハザードの疑いで、すでに一帯の封鎖準備に入っている』
さすがだ。
私たちが報告する前に、彼はすでに「現象」を把握し、手を打っていた。
だが、彼の声には苦渋が滲んでいた。
『だが……“元栓”が見つからん』
「え?」
『川の汚染はあくまで結果だ。……上流の水門、下水処理場、化学工場……すべて洗ったがシロだ。敵はどこから毒を流している?』
情報強者である霧島でさえ、あの古いポンプ場の乗っ取りまでは辿り着けていなかったのだ。
詩織は、声を張り上げた。
「特定しました! ……敵の拠点は『蔵前ポンプ場』です!」
『……蔵前? 水道局のか?』
「はい! 地下の貯水タンクに、呪いの杭と原液が投入されています。……川だけじゃありません。上水道そのものが乗っ取られています!」
『…………なるほど』
一瞬の沈黙の後、霧島の声色が一段階低く、鋭くなった。
パズルのピースが嵌まった音だ。
『道理で、被害範囲が水路と一致しないわけだ。……生活用水を狙ったテロか。でかしたぞ、詩織』
「ですが……もう手遅れかもしれません」
詩織は、愁の方を見た。
苦痛に顔を歪め、浅い呼吸を繰り返す彼の姿。
「愁さんが……敵の特級呪毒に感染しました。意識不明、重体です」
『…………』
「高熱と……右腕から心臓へ向かう壊死反応。私の浄化術でも進行を止められません。……呪術的な呪いと、化学的な猛毒が複合しています」
『……ハイブリッド毒か。ならば、お前の聖気だけでは弾かれる』
霧島の声は、驚くほど冷静だった。
絶望的な報告を聞いてもなお、彼の思考は止まらない。
『詩織。店の水道は?』
「全滅です。……黒い水しか出ません」
『飲料水の備蓄は?』
「ペットボトルが数本。……愁さんの冷却に使うには、全く足りません」
詰みだ。
誰もがそう思う状況で、霧島は淡々と、しかし力強く告げた。
『状況は理解した。……必要なのは「清浄な水」と「高度医療」、そして「物理的な防疫」だ』
「は、はい……!」
『そこを動くな』
霧島が、ガタリと椅子を立つ気配がした。
『愁の心臓を、あと15分動かしておけ。……それだけでいい』
「え……?」
『私が現場へ向かう』
プツン。
通話が切れた。
詩織は呆然とスマホを見つめた。
「霧島さんが……来る?」
あの、安全な高層ビルの最上階から、決して降りてこないはずの「司令塔」が。
毒に満ちたこの汚染地帯へ、直接来るというのか?
だが、その言葉には絶対的な説得力があった。
「15分……」
詩織は、顔を上げた。
その瞳から、迷いが消えていた。
霧島は「動かしておけ」と言った。それは、「15分耐えれば、必ず助ける」という確約だ。
「亜美ちゃん。……愁さんの汗を拭いて。私が霊力で、心臓への侵食を全力で遅らせます」
「う、うん……!」
私たちは、見えない希望の糸に縋りついた。
あの男が動く。
それは、単なる「救援」ではない。
この絶望的な戦場のルールそのものを書き換える、「管理者の介入」を意味していた。




