表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

125/168

第25章:社長のトリアージ(戦場医療) ~聖水と共鳴する祈り~ 25-1:汚染された夜と緊急通報


命からがら、蔵前のポンプ場から脱出した俺たちは、這うようにして実家である和菓子処『浅河』へと戻った。


店の中は静まり返っていた。


だが、その静寂は安らぎではない。死を待つだけの、重く冷たい沈黙だった。


「はぁ……はぁ……っ、ぐぅ……」


客間の畳の上。


俺――浅河愁は、自分のうめき声でかろうじて意識を繋ぎ止めていた。


熱い。


全身の血液が、沸騰した泥に入れ替えられたように熱い。


なのに、骨の髄は氷のように冷たい。


上半身は裸にされ、詩織が必死に治療術を施している。


だが、俺の目にも分かった。


右腕から背中にかけて浮き出た、血管のような「どす黒い紋様」。


それは、詩織の放つ清浄な光をあざ笑うかのように、じわじわと面積を広げ、心臓へと向かって侵攻していた。


「……ダメ、です……」


詩織の声が震えている。


彼女の額からは玉のような汗が流れ落ち、霊力の消耗で顔色は紙のように白い。


解毒クリアしようとしても……呪いが複雑すぎます。生物学的な猛毒と、霊的な呪詛が二重螺旋のように絡み合って……私の術式をすり抜けていく……!」


(……小僧……)


脳内で、げんさんの声が聞こえた。


だが、それはいつもの雷のような怒声ではない。


嵐の夜のラジオのように、ノイズ混じりで、途切れ途切れの弱々しい声だった。


(すまねえ……ワシが……もっと早く……斬っていれば……)


あの最強の鬼神が、弱音を吐いている。


それほどまでに、この毒は俺の肉体だけでなく、「魂」の領域まで深く食い込んでいるのだ。


「水……水を……」


俺の唇が、渇きでひび割れる。


脱水症状だ。


体内の水分が、毒との戦いで急速に消費されている。


今すぐ大量の水を飲んで、身体を冷やさなければ、毒の熱で脳が焼き切れる。


「今、用意するね!」


亜美が立ち上がり、洗面所へと走った。


キュッ。


蛇口をひねる音が響く。


ボコッ……ゴポッ……ジュルルル……。


しかし、聞こえてきたのは、ヘドロが詰まった下水管が逆流したような、粘着質で不快な音だった。


「……え?」


亜美の、凍りついたような声。


蛇口から吐き出されていたのは、透明な水ではなかった。


あの隅田川で見たのと同じ。腐敗臭を放ち、蛍光色の油膜が浮いた「黒い汚水」が、洗面ボウルにドロリと垂れ落ちていた。


「……嘘。ここにも……届いちゃってる」


毒海どっかいの言葉は、ハッタリではなかった。


『数分後には各家庭の蛇口に届く』。


ポンプ場から圧送された高濃度の毒水は、すでに浅草の地下配管網を巡り、この店にまで到達していたのだ。


「そんな……! ライフラインが……全滅……!?」


詩織が愕然として立ち尽くす。


飲み水はない。体を冷やす水もない。傷口を洗うことすらできない。


清潔な水一滴すら手に入らない極限状況。


それは、「籠城戦」すら成立しないことを意味していた。


「……電話を」


詩織が、決意したように顔を上げた。


彼女は、懐からスマートフォンを取り出した。


画面を見た瞬間、彼女は息を呑んだ。


「……着信履歴が……」


通知画面には、数十件もの不在着信の履歴が並んでいた。


発信元はすべて『K』。


サイバー・ガーディアン社社長、霧島京也だ。


「霧島さん……ずっと、連絡をくれていたんだわ」


地下のポンプ場は電波が入らなかった。


私たちが戦っている間、彼は必死に呼びかけていたのだ。


詩織は、震える指でコールバックした。


ピッ。


『――ようやく繋がったか』


コール音すら鳴らなかった。


即座に出た霧島京也の声は、冷徹でありながら、明らかな苛立ちを含んでいた。


『何度かけたと思っている。……GPS反応が消えていたぞ』


「申し訳ありません! 地下の施設に潜入していました。……緊急事態エマージェンシーです」


『だろうな』


霧島は短く言った。


電話の向こうからは、多数のキーボードを叩く音と、オペレーターたちの緊迫した報告の声が漏れ聞こえてくる。


彼はすでに、対策本部の只中にいた。


『状況はこちらでも把握している。……隅田川の汚染および、浅草エリアからの多数の異臭通報。バイオハザードの疑いで、すでに一帯の封鎖準備に入っている』


さすがだ。


私たちが報告する前に、彼はすでに「現象」を把握し、手を打っていた。


だが、彼の声には苦渋が滲んでいた。


『だが……“元栓”が見つからん』


「え?」


『川の汚染はあくまで結果だ。……上流の水門、下水処理場、化学工場……すべて洗ったがシロだ。敵はどこから毒を流している?』


情報強者である霧島でさえ、あの古いポンプ場の乗っ取りまでは辿り着けていなかったのだ。


詩織は、声を張り上げた。


「特定しました! ……敵の拠点は『蔵前ポンプ場』です!」


『……蔵前? 水道局のか?』


「はい! 地下の貯水タンクに、呪いの杭と原液が投入されています。……川だけじゃありません。上水道そのものが乗っ取られています!」


『…………なるほど』


一瞬の沈黙の後、霧島の声色が一段階低く、鋭くなった。


パズルのピースが嵌まった音だ。


『道理で、被害範囲が水路と一致しないわけだ。……生活用水を狙ったテロか。でかしたぞ、詩織』


「ですが……もう手遅れかもしれません」


詩織は、愁の方を見た。


苦痛に顔を歪め、浅い呼吸を繰り返す彼の姿。


「愁さんが……敵の特級呪毒に感染しました。意識不明、重体です」


『…………』


「高熱と……右腕から心臓へ向かう壊死ネクロ反応。私の浄化術でも進行を止められません。……呪術的な呪いと、化学的な猛毒が複合しています」


『……ハイブリッド毒か。ならば、お前の聖気ヒールだけでは弾かれる』


霧島の声は、驚くほど冷静だった。


絶望的な報告を聞いてもなお、彼の思考は止まらない。


『詩織。店の水道は?』


「全滅です。……黒い水しか出ません」


『飲料水の備蓄は?』


「ペットボトルが数本。……愁さんの冷却に使うには、全く足りません」


詰みだ。


誰もがそう思う状況で、霧島は淡々と、しかし力強く告げた。


『状況は理解した。……必要なのは「清浄な水」と「高度医療」、そして「物理的な防疫」だ』


「は、はい……!」


『そこを動くな』


霧島が、ガタリと椅子を立つ気配がした。


『愁の心臓を、あと15分動かしておけ。……それだけでいい』


「え……?」


『私が現場へ向かう』


プツン。


通話が切れた。


詩織は呆然とスマホを見つめた。


「霧島さんが……来る?」


あの、安全な高層ビルの最上階から、決して降りてこないはずの「司令塔」が。


毒に満ちたこの汚染地帯へ、直接来るというのか?


だが、その言葉には絶対的な説得力があった。


「15分……」


詩織は、顔を上げた。


その瞳から、迷いが消えていた。


霧島は「動かしておけ」と言った。それは、「15分耐えれば、必ず助ける」という確約だ。


「亜美ちゃん。……愁さんの汗を拭いて。私が霊力で、心臓への侵食を全力で遅らせます」


「う、うん……!」


私たちは、見えない希望の糸にすがりついた。


あの男が動く。


それは、単なる「救援」ではない。


この絶望的な戦場のルールそのものを書き換える、「管理者の介入」を意味していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ